第8話「ぬくもり」
朝になっても、街の騒ぎは収まらなかった。
当然だった。
祭りの夜に、たくさんの人が死んだ。
灯りが落ち、屋台が壊れ、笑い声が悲鳴に変わった。
誰かの父が死んだ。
誰かの母が死んだ。
誰かの子が死んだ。
誰かの友が死んだ。
それを、たった一晩で受け入れられるわけがなかった。
外からは、ずっと人の声が聞こえていた。
怒号。
泣き声。
誰かを探す声。
荷車の音。
治療を求める声。
そして時折、あの言葉も混じる。
「忌子だ」
「死の英雄の呪いだ」
「水色の髪の少女がいたらしい」
「見つけろ」
「逃がすな」
そのたびに、ツカサの肩が小さく震えた。
エーレは椅子に座ったまま、その様子を見ていた。
結局、一睡もしていない。
眠れなかったのもある。
眠ったら、ツカサがどうなるか分からなかったからだ。
ツカサは部屋の隅に座っていた。
毛布をかぶり、膝を抱えている。
手の中には、ずっと髪飾りがある。
水色の髪は乱れていて、顔色は悪い。
けれど、体調が悪いわけではなさそうだった。
むしろ体だけは健康そのものに見える。
それが、少し嫌だった。
こんなに壊れそうな顔をしているのに、体だけは生きることに迷いがない。
ひどくちぐはぐだった。
「腹、減ってるか」
エーレが聞くと、ツカサは首を横に振った。
「そうか」
エーレは立ち上がり、台所へ向かった。
鍋の中を覗く。
昨日作りかけで放置していた野菜の煮込みが、少しだけ残っていた。
見た目は悪くない。
匂いも、まあ、ぎりぎり食べ物だった。
エーレは火を入れ直し、木の器によそった。
それから固くなったパンを少し割って添える。
ツカサの前に置いた。
「食え」
「……いらない」
「腹が減ってなくても食え。倒れられたら困る」
「倒れない」
「そういう問題じゃない」
ツカサは器を見た。
湯気が立っている。
温かい匂いがした。
野菜と塩と、少し焦げた鍋の匂い。
ツカサは動かなかった。
「毒は入ってない」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何だ」
ツカサは答えなかった。
ただ器を見つめている。
エーレは少し考え、床に座った。
ツカサの正面ではなく、少し斜め。
圧をかけすぎない距離。
「食えない理由があるなら、言え」
ツカサは長い沈黙のあと、小さく言った。
「……私が、食べていいのか分からない」
エーレは何も言わなかった。
「たくさん、人が死んだのに」
ツカサの指が髪飾りを握る。
「私がやったのに」
「だから食べないのか」
「……分からない」
「食べなかったら、死んだ人が戻るのか」
ツカサの顔が歪んだ。
エーレはしまった、と思った。
だが、言葉はもう戻らない。
言い方が強すぎた。
でも、嘘を言うつもりもなかった。
「戻らない」
ツカサは震える声で答えた。
「じゃあ食え」
「そんな簡単に」
「簡単じゃない。でも食え」
エーレは器を少しだけ押した。
「罪悪感で飯が喉を通らないのは勝手だ。でも、食べないで弱って、それでまた力を抑えられなくなったらどうする」
ツカサは息を詰めた。
「俺はお前が何なのか知らない。何を背負ってるのかも知らない。でも、今分かってることはある」
「……何」
「お前が壊れたら、周りが死ぬ」
ツカサの目に涙が浮かぶ。
「だから食え。寝ろ。息をしろ。まずはそれだ」
「……怒らないの」
「怒ってる」
エーレは即答した。
ツカサが顔を上げる。
「俺は怒ってるよ。知ってる人も死んだ。祭りもめちゃくちゃだ。街も壊れた。腹が立ってないわけないだろ」
「じゃあ、なんで」
「怒ってることと、目の前で震えてる子どもに飯を食わせることは別だ」
ツカサは何も言えなくなった。
エーレは器を指さした。
「冷める」
しばらくして、ツカサはぎこちなく器を持った。
匙を取る。
手が震えて、少しこぼれた。
エーレは何も言わなかった。
ツカサは一口食べた。
その瞬間、顔を歪めた。
「……しょっぱい」
「文句言える元気があるなら上出来だ」
「焦げてる」
「それは鍋のせいだ」
「鍋のせいじゃないと思う」
「うるさいな。食え」
ツカサは、少しだけ目を伏せた。
それからまた一口食べた。
ゆっくり。
慎重に。
まるで食べることを許してもらうように。
エーレはその姿を見ないふりをして、窓の外に目を向けた。
外ではまだ、人が走っている。
誰かの一日は、昨日で終わった。
でも、ここにいる少女の一日は、まだ終わっていない。
終わらせていいのかどうか、エーレには分からなかった。
分からないまま、食べさせるしかなかった。
◇
昼近くになって、戸を叩く音がした。
ツカサの体が跳ねた。
エーレは指を口元に立てる。
静かに、という合図。
ツカサは毛布を握りしめたまま、息を殺した。
エーレは戸口へ向かう。
「誰だ」
「俺だ。開けろ、エーレ」
近所の男の声だった。
エーレは戸を少しだけ開ける。
隙間から外を見ると、数人の大人が立っていた。
顔に疲れと怒りがにじんでいる。
「昨夜、お前が水色の髪の子どもを連れていったって聞いた」
男が低く言った。
「知らないな」
「嘘つけ」
「嘘をつく顔に見えるか」
「いつも嘘をつく時ほど堂々としてるだろ、お前は」
地味に信用がない。
エーレは肩をすくめた。
「で、何の用だ」
「もしその子どもがいるなら、引き渡せ」
「いないって言ってる」
「エーレ」
別の女が口を挟んだ。
目元が赤い。
誰かを亡くしたのだろう。
「お願い。あれは危険よ。あの子が何をしたか、あなたも見たでしょう」
「見た」
「なら」
「でも、まだ何も分かってない」
「分かってるわよ!」
女が声を荒らげる。
「人が死んだの! たくさん! 私の弟も死んだ! あの子が歩いた後に倒れてた!」
エーレは黙った。
何も返せなかった。
女の怒りは正しい。
悲しみも正しい。
ツカサを渡せという言葉だって、この街の人間からすれば間違っていない。
「……悪い」
エーレは短く言った。
「でも、今は渡せない」
「なんでよ!」
「渡したら殺すだろ」
誰も否定しなかった。
その沈黙が、答えだった。
「殺すなとは言わない」
エーレは続けた。
「そんなことを言える立場じゃない。でも、何も分からないまま殺したら、また同じことが起きるかもしれない」
「同じこと?」
「似たような子がまた現れたらどうする。あれが何なのか、どう止めるのか、誰が知ってる」
男たちが顔を見合わせた。
エーレはさらに言った。
「王都に連絡しろ。英雄でも、学者でも、力のことを知ってる奴を呼べ。俺はそれまで預かる」
「預かるって、お前に何ができる」
「飯を食わせるくらいはできる」
「ふざけてるのか」
「割と真面目だ」
男が拳を握った。
殴られるかもしれない。
エーレは覚悟した。
だが、男は殴らなかった。
代わりに、吐き捨てるように言った。
「お前は本当に、いつも面倒な方を選ぶな」
「よく言われる」
「褒めてない」
「知ってる」
戸の向こうで、女が泣き出した。
その泣き声を聞いて、エーレの胸が痛んだ。
守っているのはツカサだけではない。
同時に、誰かの怒りを踏みにじっている。
それも分かっていた。
「すぐに王都へ知らせる」
男が言った。
「その間に何かあったら、お前の責任だぞ」
「分かってる」
「分かってないからこんなことしてるんだろうが」
戸が乱暴に押された。
エーレはそれを手で押さえる。
少しの間、戸越しに力がぶつかった。
やがて外の男が引いた。
「逃がすなよ」
「逃がさない」
「死ぬなよ」
その言葉だけ、少し小さかった。
エーレは目を伏せる。
「努力する」
足音が遠ざかる。
人の気配が薄れる。
エーレはしばらく戸にもたれていた。
それから、ゆっくり振り返る。
ツカサは部屋の隅で、真っ青な顔をしていた。
「聞こえたか」
ツカサは頷いた。
「私を、渡した方がいい」
「却下」
「エーレも、責められる」
「もう責められてる」
「死ぬかもしれない」
「可能性はあるな」
「だったら」
「だったら何だ」
エーレは少し強めに言った。
ツカサが口を閉じる。
「お前、すぐ自分を捨てる方に行くな」
「……捨てる?」
「私がいなければいい、私を渡せばいい、私が死ねばいい。そういう顔してる」
ツカサは目を逸らした。
「違う」
「違わない」
「だって、私が」
「お前が何をしたかは、後で考える」
「後で?」
「今考えたら潰れるだろ」
エーレは近くの椅子に腰を下ろした。
「俺も後で考える。今は考えすぎると動けなくなる」
「そんなの、逃げてるだけ」
「そうだな」
エーレはあっさり認めた。
「逃げるのも必要だ。ずっと正面から受け止めてたら、人間なんてすぐ壊れる」
ツカサは黙った。
「お前はたぶん、もうだいぶ壊れてる」
エーレは続けた。
「だから、今は逃げろ。飯食って、寝て、泣いて、何も考えない時間を作れ」
「……そんなこと、していいの」
「知らん」
「知らんって」
「いいかどうかなんて、俺が決めることじゃない。でも、やらないとお前はもっと壊れる」
ツカサは毛布に顔を埋めた。
小さな声が漏れる。
「……怖い」
「何が」
「全部」
エーレは何も言わなかった。
「私が怖い。人が怖い。外が怖い。寝るのも怖い。起きるのも怖い。生きてるのも怖い」
震える声だった。
「ツバサがいないのに、私だけ食べて、寝て、朝になって、体が動いて……それが怖い」
エーレはゆっくり息を吐いた。
「ツバサって、髪飾りの子か」
ツカサは頷いた。
「妹」
「そうか」
「私のせいで、死んだ」
「お前が殺したのか」
ツカサは唇を噛んだ。
「……違う」
「じゃあ、誰が」
「村の人たち」
「村?」
「私の村。シス村」
エーレはその名前を頭の中に刻んだ。
シス村。
ここから歩いて来られる距離にある、小さな村。
死の英雄を祀る村だという噂を、聞いたことがあるような気がした。
だが、詳しくは知らない。
「話せるか」
ツカサは首を横に振った。
「今は、無理」
「分かった」
エーレはそれ以上聞かなかった。
「話せる時でいい」
「……怒らないの」
「怒る話なら怒る」
「優しいのか優しくないのか分からない」
「俺にも分からん」
ツカサは、ほんの少しだけ目を伏せた。
笑ったわけではない。
でも、呼吸が少しだけ戻ったように見えた。
◇
その日の夜、エーレは床に布を敷いた。
ツカサには寝台を使わせるつもりだった。
しかし、ツカサは寝台の端に座ったまま動かなかった。
「寝ろ」
「……ここ、エーレの場所でしょ」
「俺は床で寝られる」
「悪い」
「悪いと思うなら寝ろ」
ツカサは困った顔をした。
それから、小さく言う。
「一人で寝たくない」
エーレは動きを止めた。
ツカサはすぐに顔を伏せた。
「ごめん。変なこと言った」
「いや」
エーレは頭を掻いた。
九歳の子どもだ。
あれだけのことがあった後だ。
一人で眠れないのは当然だった。
当然なのに、どうすればいいか少し悩む。
下手に近づけば力が暴れるかもしれない。
でも遠ざければ、ツカサはまた一人になる。
「じゃあ、ここにいる」
エーレは寝台のそばに椅子を置いた。
「俺は椅子で寝る。お前は寝台」
「椅子で寝れるの」
「たぶん首を痛める」
「だめじゃん」
「うるさい。譲歩だ」
ツカサは少し迷ったあと、寝台に横になった。
毛布を胸まで引き上げる。
髪飾りは握ったまま。
エーレは椅子に座り、腕を組んだ。
「電気、消すぞ」
「……うん」
灯りを消す。
部屋が暗くなる。
外はまだ騒がしい。
遠くで誰かが泣いている。
近くで犬が吠える。
ツカサの呼吸が浅くなる。
「エーレ」
「何だ」
「いる?」
「いる」
少し間が空く。
「エーレ」
「何だ」
「まだいる?」
「一瞬で消えるわけないだろ」
「……うん」
また沈黙。
「エーレ」
「いる」
「まだ何も言ってない」
「どうせ確認だろ」
ツカサは小さく息を吐いた。
それが、ほんの少しだけ笑いに近かった。
エーレは暗闇の中で目を閉じる。
そのまま眠るつもりはなかった。
少しでも異変があれば起きられるように。
だが、昨夜からの疲れが重かった。
意識が落ちかける。
その時、ツカサが小さく言った。
「エーレ」
「……いる」
「私、明日もここにいていい?」
エーレは目を開けた。
暗闇の中で、ツカサの輪郭だけが見える。
毛布の中で、小さく丸まっている。
この子が昨日、街を壊した。
たくさんの人を死なせた。
それは事実だ。
でも、今ここにいるのは、明日ここにいていいかと怯えて聞く子どもだった。
「いい」
エーレは答えた。
「明日もいろ」
「明後日は?」
「明後日は明後日考える」
「またそれ」
「便利だろ」
ツカサは何も言わなかった。
しばらくして、静かな寝息が聞こえ始めた。
ようやく眠ったらしい。
エーレはそっと息を吐いた。
椅子の背にもたれる。
腕はまだ痛む。
ツカサに触れたところが、じんじんと疼いている。
このままいけば、自分はただでは済まないだろう。
街の人にも恨まれる。
英雄が来れば、責められるかもしれない。
ツカサ自身の力で死ぬかもしれない。
それでも、エーレは椅子から立たなかった。
寝台のそばにいた。
子どもが一人で泣かなくて済む距離に。
◇
数日が過ぎた。
ツカサはほとんど外に出なかった。
家の中で、毛布をかぶって過ごした。
食事は少しずつ取るようになった。
エーレの料理には、時々ひどい出来のものが混じった。
焦げたパン。
妙に塩辛いスープ。
芯の残った芋。
ツカサは最初、文句を言うこともできなかった。
けれど三日目には、小さく言った。
「……これ、硬い」
「芋だ」
「石かと思った」
「芋だ」
「歯が負ける」
「大げさだな」
「本当に硬い」
エーレは芋をかじり、顔をしかめた。
「硬いな」
「でしょ」
「よく噛め」
「解決してない」
そんな会話が、少しずつ増えた。
ほんの少し。
本当に、少しだけ。
ツカサの顔に人の色が戻っていった。
笑うことはなかった。
けれど、言葉を返すようになった。
エーレが部屋を片づけていると、黙って布を畳んだりした。
薪を運ぼうとすると、手を伸ばしかけて、途中で止めたりした。
自分が触れていいのか、いつも迷っていた。
エーレはそれに気づいていた。
だから、ある朝、あえて軽く言った。
「そこの皿、取ってくれ」
ツカサは固まった。
「……私が?」
「他に誰がいる」
「触って、大丈夫かな」
「皿が死ぬか?」
「分からない」
「じゃあ試す」
ツカサはおそるおそる皿に触れた。
何も起きなかった。
皿は皿のままだった。
ツカサは少し驚いた顔をした。
エーレは平然と受け取った。
「ほら、大丈夫」
「……うん」
「次、匙」
ツカサは匙を渡した。
「次、布」
布を渡した。
「次、鍋」
「重い」
「じゃあいい」
「持てる」
ツカサは両手で鍋を持った。
少しふらついたが、落とさなかった。
エーレは受け取って、台所に置いた。
「やれることはある」
何気なく言った。
ツカサが顔を上げる。
「全部が壊れるわけじゃない」
エーレは続けた。
「分からないなら、少しずつ試せ。危なそうなら止める」
「エーレが?」
「他に誰がいる」
「……怖くないの」
「怖い」
また即答。
ツカサが目を瞬かせる。
「怖いのに?」
「怖いから見てる。知らない方がもっと怖い」
ツカサは、皿を見つめた。
何も起きなかった皿。
ただの皿。
それが、少しだけ救いのように見えた。
◇
夜になると、ツカサは時々うなされた。
ツバサの名前を呼ぶ。
母を呼ぶ。
父を呼ぶ。
ごめんなさい、と何度も言う。
ある夜、ツカサは突然飛び起きた。
息が荒い。
目が見開かれている。
胸の奥から、冷たい気配が少しだけ漏れた。
部屋の隅に置いてあった花が、一輪だけ萎れる。
エーレはすぐに起きた。
「ツカサ」
ツカサは聞こえていない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「ツカサ」
「私じゃない、でも私が、私が」
エーレは慎重に近づいた。
触れれば危ないかもしれない。
でも、放っておけばもっと危ない。
椅子を避け、寝台のそばに膝をつく。
「ツカサ、俺を見ろ」
「ごめんなさい」
「見ろ」
ツカサの目が、ようやくエーレを捉えた。
その瞬間、冷たい気配が少し弱まる。
「エーレ……?」
「いる」
「……ここ、どこ」
「俺の家」
「私、また」
「何もしてない」
「花が」
「花は弱い」
「私のせいで」
「花はまた買えばいい」
「でも」
「人は死んでない」
エーレははっきり言った。
ツカサの呼吸が少しずつ戻る。
「今は、それでいい」
ツカサの目から涙が落ちた。
「怖い」
「知ってる」
「寝るの、怖い」
「知ってる」
「起きるのも怖い」
「それも知ってる」
「どうしたらいいの」
「今は、息をしろ」
エーレは自分でゆっくり息を吸って、吐いた。
「真似しろ」
ツカサは震えながら、息を吸った。
吐く。
また吸う。
何度も。
少しずつ、部屋の冷たさが薄れる。
エーレは寝台の横に座った。
「寝るまでいる」
「……ずっと?」
「寝るまで」
「起きたら?」
「起きたら、またいる」
ツカサは毛布を握りしめた。
「エーレ」
「何だ」
「手、握ってもいい?」
エーレは一瞬だけ迷った。
ツカサもそれに気づいた。
すぐに顔を伏せる。
「ごめん。やっぱり」
「いい」
エーレは手を差し出した。
ツカサはおそるおそる、その手を握った。
冷たい感覚が、エーレの腕に走る。
痛みもある。
命を少しずつ削られるような、嫌な感覚。
だが、耐えられないほどではなかった。
ツカサの手は小さく、必死だった。
エーレは軽く握り返した。
「痛くない?」
「少し」
ツカサが手を離そうとする。
エーレは離さなかった。
「でも大丈夫だ」
「嘘」
「少しだけ嘘」
「離して」
「お前が寝たらな」
「エーレが痛い」
「お前が一人で壊れるよりはましだ」
ツカサは泣きそうな顔でエーレを見た。
「なんで、そんなことするの」
エーレは答えに少し迷った。
立派な理由なんてなかった。
世界を救いたいわけでもない。
英雄になりたいわけでもない。
ただ、目の前の子どもを一人にしたくなかった。
それだけだった。
「お前が泣いてたから」
エーレは言った。
「それだけ」
ツカサは、しばらく何も言わなかった。
やがて、握る力が少し弱くなる。
呼吸が落ち着く。
瞼がゆっくり閉じる。
眠りに落ちる直前、ツカサは小さく呟いた。
「……あったかい」
エーレはその言葉を聞いて、何も返せなかった。
返したら、たぶん泣かせてしまう気がした。
だから黙っていた。
ツカサが眠ったあとも、しばらく手を握ったままでいた。
痛みはあった。
でも、そこには確かにぬくもりもあった。
冷たい力の奥に、まだ消えていない小さな熱があった。
エーレはそれを手放さなかった。
この子は悪いことをした。
取り返しのつかないことをした。
けれど、悪いことをしたくてしたわけではない。
少なくとも、今この手の中にある小さな震えは、そう言っているように思えた。
朝が来るまで、エーレはその手を握っていた。




