第9話「一人の少女」
穏やかな日は、長くは続かなかった。
それでも、数日はあった。
ツカサはエーレの家で過ごした。
外には出ない。
窓にも近づかない。
人の声が聞こえるだけで肩を震わせ、足音が近づけば毛布を握りしめた。
それでも、少しずつ言葉は増えた。
皿を渡す。
布を畳む。
水を汲んだ桶に触れる。
何も起きないことを確かめる。
ツカサはいつも恐る恐るだった。
指先で触れて、壊れないと分かって、やっと息を吐く。
そのたびに、エーレはわざと何でもない顔をした。
「ほら、次」
「……次って」
「その匙」
「さっきもやった」
「じゃあ上達してるな」
「匙に上達とかあるの」
「ある。たぶん」
ツカサは少しだけ眉を寄せた。
笑うまではいかない。
けれど、表情が動くようにはなっていた。
それだけで、エーレは十分だと思った。
十分だと思うしかなかった。
外では、まだ街が泣いている。
死んだ人の名前が呼ばれ、壊れた通りが片づけられ、灯りの落ちた屋台が撤去されていく。
誰かがツカサを探している。
誰かがツカサを憎んでいる。
その事実は消えない。
それでも、この家の中だけは、ほんの少し静かだった。
壊れたものをすぐに直せるわけではない。
けれど、今以上に壊れないように支えることはできる。
エーレは、そう思っていた。
◇
その日の昼、ツカサは台所に立っていた。
エーレが使い終わった皿を洗うのを、横で見ている。
手伝いたそうにしているのは分かっていた。
だが、自分からは言い出せない。
だからエーレが、わざと布巾を差し出した。
「拭いてくれ」
ツカサは布巾を見た。
「私が?」
「他に誰がいる」
「……壊れるかも」
「皿が?」
「うん」
「壊れたら拾う」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題だ」
ツカサは黙った。
少ししてから、布巾を受け取る。
濡れた皿を両手で持つ。
息を止めるようにして、ゆっくり拭く。
皿は割れなかった。
黒くもならない。
冷たくもならない。
ただ、皿のままだった。
ツカサはそれを見つめた。
「……大丈夫だった」
「だな」
「なんで」
「知らん」
「知らないのにやらせたの」
「ずっと知らないままの方が怖いだろ」
ツカサは返事をしなかった。
ただ、二枚目の皿に手を伸ばした。
エーレはそれを見て、少しだけ安心した。
安心した、その時だった。
外で、強い足音がした。
複数人。
まっすぐこちらへ来る。
ツカサの手から皿が滑り落ちた。
床に当たって割れる。
音が鋭く響いた。
「ツカサ」
エーレが呼ぶ。
ツカサは床に落ちた皿を見ていた。
割れた皿。
白い破片。
自分が落としたもの。
「違う……」
小さく、声が漏れた。
「ただ、落としただけだ」
エーレは落ち着かせるように言った。
「割れただけだ。誰も死んでない」
戸を叩く音がした。
乱暴な音だった。
「エーレ! 開けろ!」
ツカサの呼吸が乱れる。
胸の奥から、冷たい気配がにじんだ。
エーレはツカサの前に立った。
「奥へ行け」
「……でも」
「いいから」
「エーレ」
「大丈夫だ」
大丈夫。
その言葉が嘘になることは、エーレにも分かっていた。
それでも、今は言うしかなかった。
戸を叩く音がさらに強くなる。
「いるんだろ! 水色の髪の子どもを出せ!」
「王都に知らせるって話だっただろ!」
「もう待てない!」
「また誰か死んだらどうする!」
ツカサの目が大きく揺れた。
また誰か死んだら。
その言葉は、ツカサをまっすぐ貫いた。
「私が……」
「ツカサ、聞くな」
「私がいるから」
「違う。今は違う」
エーレが近づこうとした瞬間、戸が大きく揺れた。
外から押されている。
鍵が軋む。
ツカサは後ずさった。
足元の皿の破片を踏む。
小さく血が滲む。
それでも、痛みに気づかない。
「私がいるから、みんな」
「ツカサ!」
戸が破られた。
男たちがなだれ込む。
手には縄や棒。
殺すためではない。
捕まえるため。
そう見えた。
だが、ツカサにとっては同じだった。
シス村の夜と重なった。
白い布。
鈴。
縄。
祈り。
逃がすなという声。
役目を背負えという声。
ツバサの名前。
すべてが一つに混ざった。
「やめて……」
ツカサは耳を塞いだ。
男の一人が叫ぶ。
「そいつを押さえろ!」
エーレが前に出た。
「待て! 近づくな!」
「どけ、エーレ!」
「今近づいたらまずい!」
「お前が匿うからだろ!」
男がエーレを押しのけようとした。
その腕が、ツカサへ伸びる。
ツカサは目を見開いた。
「来ないで」
「動くな!」
「来ないで!」
冷気が走った。
部屋の空気が沈む。
棚に置かれていた花が黒く萎れた。
男たちの足が止まる。
だが、一人が怯えを振り切るように踏み込んだ。
「化け物が!」
その言葉で、ツカサの中の何かが壊れた。
ツカサは叫んだ。
黒い力が、家の中に弾けた。
◇
エーレは、とっさに男たちを突き飛ばした。
「外へ出ろ!」
叫ぶ。
だが遅かった。
棚が砕ける。
床板が黒く染まる。
器が割れる。
壁に亀裂が走る。
男の一人が倒れかけ、仲間に引きずられて外へ出る。
エーレは最後まで残った。
ツカサが、部屋の中央で立ち尽くしていたから。
目の焦点が合っていない。
両手で耳を塞ぎ、泣きながら何かを呟いている。
「違う……違う……私は……」
エーレは息を詰めた。
近づけば危ない。
それは分かる。
分かっている。
けれど、ツカサの周囲に広がる力は、どんどん強くなっていた。
このままでは家だけでは済まない。
外にいる人間にも届く。
また、誰かが死ぬ。
エーレは一歩踏み出した。
腕に痛みが走る。
皮膚ではなく、内側を削られるような痛み。
それでも進む。
「ツカサ」
返事はない。
「ツカサ、俺を見ろ」
「来ないで……」
「見るだけでいい」
「来ないで!」
力が弾けた。
エーレの肩に衝撃が走る。
壁に叩きつけられ、息が詰まった。
それでも倒れなかった。
足に力を入れる。
再び近づく。
「ツカサ!」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……!」
「俺だ!」
エーレは手を伸ばした。
ツカサの肩を掴む。
その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
何かが刺さったような感覚。
いや、刺さってはいない。
血はまだ出ていない。
けれど、命が深く抉られた。
エーレの膝が折れる。
「っ……!」
ツカサの目が、ようやくエーレを見た。
焦点が戻る。
戻ってしまった。
その瞬間、自分が何をしているのか理解した。
「エーレ……?」
エーレは床に片膝をついた。
胸元を押さえる。
指の隙間から血が滲んだ。
今度は本当に血だった。
ツカサの顔から色が消える。
「エーレ?」
「……大丈夫」
エーレは言った。
声がかすれた。
大丈夫ではなかった。
それはツカサにも分かった。
分かってしまった。
ツカサは震える手で、エーレの胸元に触れようとした。
すぐに手を引く。
触ったら、もっと悪くなるかもしれない。
でも、触らなければ助けられない。
「どうしよう」
ツカサの声が震える。
「どうしよう、血が、血が」
「落ち着け」
「落ち着けない!」
ツカサは布を探した。
さっきまで皿を拭いていた布巾を拾う。
震える手でエーレの傷に押し当てる。
止まらない。
血が滲む。
布が赤くなる。
「止まって……止まってよ……!」
ツカサは必死に押さえた。
力加減も分からない。
どこを押さえればいいかも分からない。
息が荒くなる。
涙が落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、エーレ、ごめんなさい」
「謝るのは……後でいい」
「後なんてないかもしれない!」
「ある」
「ないよ!」
ツカサは叫んだ。
「みんな、そうやっていなくなる! お父さんも、お母さんも、ツバサも、村の人も、街の人も、みんな、私のせいで!」
エーレは、痛みに顔を歪めながらも、ツカサを見た。
その目は責めていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、見ていた。
一人の少女を。
「ツカサ」
「ごめんなさい……」
「聞け」
「私、また」
「聞け」
エーレの声が少し強くなった。
ツカサは息を止める。
「お前は、今、俺を助けようとしてる」
ツカサは目を見開いた。
「違う……だって、傷つけたのは私で」
「それでも、今は助けようとしてる」
「そんなの」
「見れば分かる」
エーレは短く息を吐いた。
痛みが深くなる。
視界が少し揺れた。
それでも、言葉を続けた。
「お前は悪いことをした。たくさんした。そこから逃げられない」
ツカサの涙が止まらない。
「でも、それだけじゃない」
「……それだけだよ」
「違う」
「違わない!」
「違う」
エーレは、残った力でツカサの手首を掴んだ。
血で濡れた手。
震える手。
逃げ出したがっている手。
それを、離さなかった。
「今ここにいるのは、俺を殺したい化け物じゃない」
「でも」
「怪我した人間を助けようとして、何も分からないまま布を押さえて泣いてる子どもだ」
ツカサは言葉を失った。
「俺には、そう見える」
その言葉は、ツカサの中に深く落ちた。
許されたわけではない。
救われたわけでもない。
罪が消えたわけでもない。
けれど、初めてだった。
自分を、化け物ではなく少女として見ようとする言葉は。
◇
その時、外から別の足音が聞こえた。
男たちの荒い足音ではない。
早いが、乱れていない。
誰かが戸口に立つ。
「エーレ!」
鋭い声が響いた。
入ってきたのは、老女だった。
白髪をきちんと結い、背筋を伸ばした人だった。
年老いているのに、目だけは強い。
ミカゲの祖母。
メーランで食事処を営み、街の者に慕われている人だった。
彼女は祭りの夜の混乱の中、別の場所で避難誘導をしていた。
それから、エーレが何かを隠しているという話を聞き、ここまで来た。
部屋の惨状。
倒れかけたエーレ。
血に濡れた布。
泣きながらそれを押さえている水色の髪の少女。
すべてを見て、祖母の顔が強張った。
「……その子が」
声に怒りが混ざる。
当然だった。
彼女は知っている。
祭りの夜に、娘夫婦が死んだことを。
孫のミカゲが、両親を失ったことを。
その原因となった少女が、目の前にいることを。
ツカサは祖母の視線に射抜かれ、動けなくなった。
怒られる。
責められる。
殺される。
それでいい。
そう思いかけた。
だが、エーレが先に口を開いた。
「……ばあさん」
「喋るんじゃないよ」
祖母はすぐに近づき、エーレの傷を見る。
顔がさらに険しくなった。
「何をしているんだい、あんたは」
「見ての通り……失敗した」
「笑えない冗談だね」
「俺もそう思う」
祖母は布を取って傷を確かめた。
ツカサが震える。
「ごめんなさい……私が、私がやったんです……」
「黙っておいで」
祖母の声は厳しかった。
ツカサはびくりとした。
「泣くなら、手を動かしな。押さえる場所がずれてる」
「え……」
「そこじゃない。こっちだよ」
祖母はツカサの手を取り、布を当てる位置を変えた。
ツカサは戸惑いながらも従う。
祖母は手早く別の布を探し、傷口を締める。
その動きに迷いはなかった。
エーレが苦しそうに息を吐く。
「助かる?」
ツカサが震える声で聞いた。
祖母はすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えに近かった。
ツカサの顔が崩れる。
「そんな……」
「まだ諦めるんじゃないよ」
祖母は言った。
言いながらも、その声は重かった。
エーレ自身が一番分かっていた。
傷は深い。
命が抜けていく感覚がある。
普通の怪我ではない。
ツカサの力が、内側に届いている。
エーレは祖母を見た。
「ばあさん」
「喋るなと言っただろう」
「聞いてくれ」
「嫌だね」
「頼む」
その声に、祖母の手が止まった。
エーレは苦しそうに息を吸った。
「この子を……助けてやってくれ」
ツカサは息を呑んだ。
祖母の目が鋭くなる。
「あんた、自分が何を言っているか分かってるのかい」
「分かってる」
「この子が何をしたかも?」
「見た」
「私の娘と、その夫も死んだ」
祖母の声が震えた。
怒りではない。
悲しみで。
それでも、崩れまいとしていた。
「ミカゲは両親を失った。まだ九つだよ」
「……分かってる」
「分かってないよ」
祖母は低く言った。
「分かっていたら、そんなことは頼めない」
「頼む」
「エーレ」
「この子は……悪いことをした」
エーレはツカサを見た。
「でも、悪いことをしたくてした顔じゃない」
ツカサの涙が落ちる。
「この子は、たぶん、ずっと誰かに化け物として見られてきた」
「だから何だい」
「人として見てやってくれ」
祖母は何も言わなかった。
「叱っていい。怒っていい。許さなくていい。でも、化け物として終わらせないでくれ」
「……そんなことを、私に頼むのかい」
「ばあさんしか、頼めない」
「勝手な男だね」
「よく言われる」
「こんな時まで」
祖母の目に涙が浮かんだ。
それでも流さなかった。
エーレは、力の抜け始めた手を伸ばした。
ツカサの方へ。
ツカサはその手を握った。
怖がりながら。
傷つけることを恐れながら。
それでも握った。
「ツカサ」
エーレが呼ぶ。
「はい……」
「お前は、どうしたい」
ツカサは泣きながら首を振った。
「分からない……」
「分からないなら、ひとつだけでいい」
「ひとつ……?」
「その力で、また誰かを殺したいのか」
ツカサは勢いよく首を振った。
「嫌だ!」
「じゃあ、何に使いたい」
「分からない……分からないけど……」
ツカサはエーレの手を握りしめた。
傷口を押さえる布が、赤く染まっていく。
止められない。
助けられない。
それでも、助けたいと思っている。
「誰も殺したくない」
声は震えていた。
けれど、迷いはなかった。
「使えるなら……壊すんじゃなくて……殺すんじゃなくて……誰かのために……使いたい……!」
祖母は、その答えを聞いた。
黙って、ツカサを見た。
血で濡れた手。
涙で濡れた顔。
恐怖に震えながら、それでもエーレの傷から手を離さない少女。
化け物と呼ぶには、あまりにも人の顔をしていた。
祖母は目を閉じた。
長い沈黙のあと、低く言った。
「なら、覚えておきな」
ツカサは祖母を見る。
「その力は人を殺せる」
厳しい声だった。
「それを忘れたら、あんたは本当に化け物になる」
ツカサは泣きながら頷いた。
「でもね」
祖母は続けた。
「人を殺せるほどの力なら、人を守るためにも使えるかもしれない」
ツカサの目が揺れた。
「簡単じゃない。綺麗な話にもならない。あんたがしたことは消えない。私も、あんたを許せるかなんて分からない」
祖母の声は少しだけ震えていた。
「それでも、あんたが今言ったことが本当なら」
祖母はエーレを見た。
そして、もう一度ツカサを見る。
「生きて、それを証明しな」
ツカサは言葉を失った。
エーレは小さく笑った。
「……ほらな」
「何が、ほらなだい」
祖母が睨む。
「ばあさんは……優しい」
「黙りな」
「頼んだ」
「勝手に頼んで、勝手に満足するんじゃないよ」
「ごめん」
エーレの声が細くなっていく。
ツカサは慌てて身を乗り出した。
「エーレ、だめ、寝ないで」
「眠いな」
「だめ!」
「ツカサ」
「嫌だ……」
「飯、ちゃんと食えよ」
「そんなこと言わないで!」
「あと……皿は、落としても拾えばいい」
「エーレ!」
エーレは、ツカサの手を少しだけ握り返した。
ほんの少し。
それが最後だった。
「悪いことをしたくてしたわけじゃないなら……次は、したいことを間違えるな」
ツカサは泣きながら頷いた。
「うん……うん……!」
「ばあさん」
「聞いてるよ」
「頼む」
「……聞いてる」
エーレは安心したように息を吐いた。
それきり、手の力が抜けた。
ツカサはしばらく、その手を握ったままだった。
温かさが消えていく。
さっきまであったぬくもりが、少しずつ遠ざかっていく。
ツカサは声も出せなかった。
泣くことすら、うまくできなかった。
祖母は目を伏せた。
そして、震える息をひとつ吐いた。
「……立ちなさい」
ツカサは動けない。
「ツカサ」
初めて、祖母がその名を呼んだ。
ツカサはゆっくり顔を上げた。
「ここにはもういられない。外の人間が戻ってくる」
「でも、エーレが」
「この子は私が弔う」
「私も」
「今のあんたがここにいたら、また誰かが死ぬかもしれない」
その言葉に、ツカサは息を止めた。
祖母は厳しい目で続ける。
「だから来なさい」
「どこに……?」
「私の家だよ」
ツカサは信じられない顔をした。
「なんで……」
「エーレに頼まれた」
「でも」
「それだけじゃない」
祖母は、ほんの少しだけ顔を歪めた。
「私はまだ、あんたを許せない」
ツカサは俯いた。
「でも、あんたをこのまま外に放り出せば、エーレが命を使って頼んだことを踏みにじることになる」
祖母は背を向けた。
「だから来なさい。一人の少女として叱ってやる」
ツカサはエーレの手を、そっと床に戻した。
離したくなかった。
でも、離さなければいけなかった。
髪飾りを握る。
涙を拭う。
立ち上がる。
足は震えていた。
健康な体なのに、立っているだけで精一杯だった。
祖母は戸口へ向かう。
ツカサは一度だけ振り返った。
エーレは静かに横たわっていた。
まるで眠っているようだった。
もう、手を握り返してはくれない。
「……ありがとう」
声になったか分からないほど、小さな声だった。
祖母は振り返らなかった。
それでも、少しだけ待ってくれた。
ツカサはエーレに頭を下げた。
そして、祖母の後を追った。
外には、壊れた街があった。
怒りと悲しみがあった。
ツカサを許さない目があった。
それでも祖母は、ツカサの前を歩いた。
守るように。
連れていくように。
裁くように。
ツカサはその背中を追った。
化け物ではなく、一人の少女として。
叱られるために。
生きるために。




