第10話「優しい嘘」
祖母の家は、メーランの中心から少し外れた通りにあった。
一階は食事処。
二階は住まい。
軒先には小さな鉢植えが並び、戸口の横には、その日の献立を書くための板が掛けられている。
けれど、その板には何も書かれていなかった。
店の灯りも落ちている。
祭りの夜から、メーランは変わってしまった。
道の端には、壊れた屋台の木片が積まれている。
焦げた布が風に揺れている。
いつもなら人の声で満ちていた通りも、今は低い話し声と、時折こぼれる泣き声だけが残っていた。
祖母はその中を、ツカサを連れて歩いた。
ツカサは俯いていた。
水色の髪を隠すように、祖母から借りた布を深くかぶっている。
手には、ツバサの髪飾りを握っていた。
すれ違う人の声がするたび、足が止まりそうになる。
祖母は振り返らなかった。
ただ、ツカサが遅れそうになると、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。
それだけだった。
店の前に着くと、祖母は鍵を開けた。
戸を開ける。
中は暗い。
使われていない机。
並べられた椅子。
壁に掛かった古い献立札。
そこには、少し前まで誰かが座って、笑って、食事をしていた気配が残っていた。
ツカサは中に入ることをためらった。
ここに入っていいのか分からなかった。
誰かの場所。
誰かが帰ってくる場所。
自分が壊した街の中にある、まだ壊れていない場所。
そこに自分が足を踏み入れていいはずがない。
「入りなさい」
祖母が言った。
声は静かだった。
優しくはない。
でも、突き放してもいなかった。
ツカサは小さく頷き、靴を脱いだ。
「……はい」
二階へ上がる。
廊下の奥の部屋から、小さな物音がした。
祖母が足を止める。
ツカサも止まった。
襖の向こうから、少女の声が聞こえた。
「おばあちゃん……?」
ツカサの息が止まった。
知っている声だった。
祭りの夜。
父と母に名前を呼ばれていた少女。
ミカゲ。
ツカサが両親を奪った少女。
祖母は襖の前で、一度だけ目を閉じた。
それから、ゆっくり開ける。
部屋の中には、黒髪の少女が座っていた。
布団の上で膝を抱えている。
目は赤く腫れていた。
泣き疲れた顔だった。
それでも、祖母を見ると少しだけ安心したように息を吐いた。
「おばあちゃん……どこ行ってたの」
「少し、用事があってね」
祖母はそう答えた。
ミカゲの視線が、祖母の後ろにいるツカサへ移る。
ツカサは動けなかった。
布をかぶっていても、水色の髪は少し見えている。
ミカゲは首を傾げた。
「その子、誰?」
祖母は、ほんの少しだけ沈黙した。
そして言った。
「ツカサという子だよ」
「ツカサ……?」
「昨日のことで、この子も行く場所を失った」
ツカサの指が震えた。
祖母は続ける。
「この子も、忌子の騒ぎに巻き込まれた子だよ」
嘘だった。
ミカゲを守るための嘘だった。
ツカサは息を吸えなかった。
自分は巻き込まれた側ではない。
巻き込んだ側だ。
逃げるべきなのに。
罰されるべきなのに。
今、祖母は自分を被害者の形にして、ミカゲの前に置いた。
ミカゲはツカサをじっと見た。
その目に憎しみはなかった。
何も知らない目だった。
それが、苦しかった。
「ツカサも、怖かった?」
ミカゲが聞いた。
ツカサは答えられなかった。
怖かった。
でも、怖いと言っていい立場ではない。
自分が怖がらせた。
自分が奪った。
自分が壊した。
それなのに、ミカゲは少しだけ布団から身を乗り出して言った。
「私も、怖かった」
声が震えていた。
「お父さんも、お母さんも、いなくなった」
ツカサの胸が詰まった。
謝りたい。
今すぐ土下座して、泣いて、全部言いたい。
私がやった。
あなたの両親を殺したのは私だ。
そう言えば、ミカゲは自分を憎んでくれるかもしれない。
追い出してくれるかもしれない。
殺してくれるかもしれない。
でも、それを言ったら。
この子は、今よりもっと壊れる。
ツカサは唇を噛んだ。
血の味がした。
「……ごめんなさい」
それだけが漏れた。
ミカゲは首を傾げる。
「なんでツカサが謝るの?」
ツカサは答えられない。
祖母が静かに言った。
「ミカゲ。今日はもう休みなさい」
「でも」
「この子にも休ませる。話は明日でいい」
ミカゲはまだツカサを見ていた。
何か言いたそうだった。
けれど、祖母の顔を見て、小さく頷いた。
「……うん」
ツカサは逃げるように部屋を出た。
◇
祖母はツカサを隣の小さな部屋へ連れていった。
客間のようだった。
布団が一組だけ敷かれている。
窓の外は暗く、街の灯りも少ない。
襖が閉まると、部屋の中はひどく静かになった。
祖母はしばらく何も言わなかった。
ツカサも言えなかった。
やがて、祖母が口を開いた。
「ミカゲには、今の話で通す」
ツカサは顔を上げた。
「……どうして」
「今、あの子に本当のことを伝えれば、あの子は壊れる」
祖母の声は低かった。
「両親を失ったばかりだ。その相手が目の前にいると知れば、あの子はどうなる」
「でも……嘘は」
「嘘だよ」
祖母は逃げずに言った。
「私はミカゲに嘘をつく。あの子を守るために」
ツカサは髪飾りを握りしめた。
「私は……黙っていればいいんですか」
「今はね」
「そんなの、ずるいです」
「そうだね」
「私が楽をしてるだけじゃないですか」
「違う」
祖母の声が少し強くなった。
「楽になるために本当のことを言うな、と言っているんだ」
ツカサは言葉を失った。
「謝りたいだろう。全部話したいだろう。自分が悪いと責められたいだろう。憎まれれば、少しは形がはっきりするからね」
「……」
「でも、それを受け止めるのはミカゲだ」
祖母はツカサを見据えた。
「今のあの子に、あんたの罪まで背負わせるんじゃない」
ツカサの目から涙が落ちた。
胸が痛かった。
その通りだった。
自分はきっと、許されたいのではない。
罰されたいのだ。
憎まれて、拒まれて、殺されても仕方ない形になれば、自分がどうすればいいのか分かる。
でも、それはミカゲにやらせていいことではなかった。
「私は……どうすればいいんですか」
「生きなさい」
祖母は言った。
「生きて、あの子のそばで償いなさい」
「私に、そんな資格は」
「資格があるからやるんじゃない」
祖母は厳しく言った。
「ないから、やるんだよ」
ツカサは俯いた。
「私は、ミカゲに優しくされたら……耐えられないかもしれません」
「耐えなさい」
即答だった。
「ミカゲは何も知らずに、あんたに優しくするかもしれない。そのたびに苦しみなさい」
祖母の声は震えていなかった。
「でも、その苦しさを理由に、あの子を傷つけるんじゃない」
「……はい」
「真実を隠すことが正しいとは言わない。いつか言うべき時が来るかもしれない。来ないかもしれない」
祖母は少しだけ目を伏せた。
「それでも、今じゃない」
ツカサは何も言えず、ただ頷いた。
祖母は棚から布を出し、布団の横に置いた。
「今日はここで寝なさい」
「……ここにいて、いいんですか」
「いいとは言っていない」
祖母は言った。
「ここに置くと決めた。それだけだよ」
「……はい」
「明日から、少しずつ手伝いをしてもらう」
「手伝い……?」
「皿を拭く。床を掃く。野菜を洗う。できることからだ」
ツカサはエーレの家で皿を拭いたことを思い出した。
割れた皿。
血。
エーレの手。
最後の言葉。
「……やります」
ツカサは言った。
「やらせてください」
祖母は少しだけ頷いた。
「それと、勝手に外へ出るんじゃない。ミカゲにも近づきすぎない。力が安定するまでは、何が起きるか分からない」
「はい」
「けれど、閉じこもって泣いているだけでもだめだ」
ツカサは顔を上げた。
「ここで生きるなら、ここでできることをしなさい」
ツカサはまた頷いた。
「はい」
祖母は部屋を出ようとした。
ツカサは思わず呼び止める。
「あの」
祖母が振り返る。
「エーレは……」
最後まで言えなかった。
祖母の表情が、少しだけ沈む。
「あの子は、私が弔う」
「私も、行っていいですか」
「今はだめだ」
ツカサは唇を噛んだ。
「……はい」
「いつか、行けるようになりなさい」
拒絶ではなかった。
許しでもなかった。
遠い約束のような言葉だった。
ツカサは深く頭を下げた。
「はい」
祖母は部屋を出ていった。
◇
夜になっても、ツカサは眠れなかった。
布団に入っても、目を閉じることが怖かった。
目を閉じれば、全部が戻ってくる。
シス村。
ツバサ。
父と母。
祭りの灯り。
倒れていく人たち。
エーレの血。
ミカゲの顔。
ツカサは髪飾りを握りしめた。
「ツバサ……」
小さく呼んだ。
答えはない。
あるはずもない。
その時、襖の向こうで小さな足音がした。
祖母ではない。
もっと軽い足音。
「ツカサ」
ミカゲの声だった。
ツカサは息を止めた。
「起きてる?」
答えない方がいいと思った。
でも、無視することもできなかった。
「……起きてる」
襖の向こうで、ミカゲが少し動く気配がした。
「入っていい?」
ツカサは迷った。
祖母の言葉を思い出す。
近づきすぎるな。
けれど、断る声も出なかった。
「……少しだけなら」
襖が細く開いた。
ミカゲが顔を出す。
手には、柔らかそうな布を持っていた。
「これ」
ミカゲは部屋に入り、布団の横にそっと置いた。
「枕、固いかもしれないから」
ツカサはそれを見つめた。
受け取ることもできなかった。
「……ありがとう」
「うん」
ミカゲは少しだけ笑った。
その笑顔は無理をしていた。
でも、ツカサに向けられていた。
「ツカサも、眠れない?」
「……うん」
「私も」
ミカゲは部屋の端に座った。
ツカサから少し離れた場所。
触れられない距離。
でも、同じ部屋だった。
「ここにいたら、だめ?」
ミカゲが聞いた。
「だめじゃ……ない」
「じゃあ、少しだけ」
ミカゲは膝を抱えた。
静かな時間が流れた。
二人とも何も言わない。
言えない。
けれど、同じ部屋にいる。
それだけで、夜の暗さが少し変わった。
「ツカサ」
「……なに」
「明日も、ここにいる?」
ツカサの胸が痛んだ。
昨日、エーレに聞いた言葉を思い出す。
明日もここにいていい?
エーレは言った。
明日もいろ、と。
そのエーレは、もういない。
「……いる」
ツカサは答えた。
「おばあちゃんが、そう言うなら」
「そっか」
ミカゲは小さく頷いた。
「じゃあ、明日もいるんだね」
「……うん」
「よかった」
ツカサは泣きそうになった。
何がよかったのか、分からなかった。
何も知らないから言える言葉だった。
それでも、言われた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなってしまった。
それが苦しかった。
「……ミカゲ」
「なに?」
「私は……」
言いかけて、止まる。
祖母の言葉が蘇る。
今のあの子に、あんたの罪まで背負わせるんじゃない。
ツカサは唇を噛んだ。
「……なんでもない」
「そっか」
ミカゲは深く聞かなかった。
しばらくして、壁にもたれたまま眠ってしまった。
ツカサはそっと布団から身を起こした。
さっきミカゲが置いてくれた布を見つめる。
それを手に取る。
少し迷ってから、ミカゲのそばへ近づきすぎないようにして、布をかけた。
触れないように。
怖がらせないように。
でも、寒くないように。
それだけして、すぐに布団へ戻った。
「……ごめんなさい」
小さく呟いた。
誰に向けた言葉か分からなかった。
ミカゲに。
祖母に。
エーレに。
ツバサに。
父と母に。
死んだ人たちに。
謝っても、何も戻らない。
言えばいいわけでもない。
言わなければいいわけでもない。
ツカサは髪飾りを握りしめた。
祖母がついた嘘は、二人の間に置かれていた。
優しい形をしているのに、重くて、痛い嘘。
それでも今夜だけは、その嘘がミカゲを眠らせていた。
ツカサは目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
それでも、朝を待った。
この家で迎える、最初の朝を。




