第11話「できることから」
朝は、静かに来た。
ツカサはほとんど眠れなかった。
眠れなかったのに、夜が明ける少し前に、いつの間にか意識が落ちていたらしい。
目を開けた時、部屋には薄い光が差し込んでいた。
知らない天井。
知らない布団。
知らない家の匂い。
それから、襖の近くで丸くなって眠っているミカゲ。
昨日の夜、部屋の端に座ったまま眠ってしまった少女は、今もそのままだった。
膝を抱えて、体を小さくしている。
ツカサがかけた布は、肩から少しずり落ちていた。
ツカサはゆっくり起き上がった。
音を立てないように、息を殺す。
近づいていいのか迷った。
近づくべきではない気もした。
でも、布が落ちそうだった。
寒いかもしれない。
それだけだ。
それだけなら。
ツカサはそっと膝をつき、布の端を掴んだ。
ミカゲに触れないように、慎重に肩へかけ直す。
その瞬間、ミカゲが小さく身じろぎした。
ツカサの手が止まる。
ミカゲは目を開けなかった。
ただ、少しだけ息を吐いて、また眠った。
ツカサは胸を押さえた。
鼓動が速かった。
何も起きていない。
何も壊していない。
そう自分に言い聞かせる。
それでも手は震えていた。
襖の向こうから、物音が聞こえた。
包丁の音。
水の音。
火の音。
ツカサは顔を上げた。
その音は、懐かしいものに似ていた。
遠い昔、寝床から聞いていた音。
母が台所に立つ音。
父が鍋を覗き込んで、ツバサが横から手を伸ばして、怒られて笑う声。
自分だけが布団の中にいて、ただ見ていることしかできなかった時間。
胸の奥が痛くなった。
ツカサはそっと部屋を出た。
◇
一階へ降りると、祖母が調理場に立っていた。
店はまだ開いていない。
表の戸も閉まっている。
それでも、調理場には火が入っていた。
鍋から湯気が立ち、まな板の上には刻まれた野菜が並んでいる。
祖母は振り返らずに言った。
「起きたかい」
「……はい」
「ミカゲは」
「まだ、寝ています」
「そうかい」
祖母は短く答え、手を止めなかった。
包丁が一定の音を立てる。
迷いのない音だった。
ツカサは調理場の入り口で立ち尽くした。
入っていいのか分からない。
声をかけていいのかも分からない。
祖母は鍋の蓋を少しずらし、中を確かめた。
それから言う。
「顔を洗ってきなさい」
「……はい」
「その後、手もよく洗うこと」
「はい」
言われた通りにする。
水は冷たかった。
手を洗う時、ツカサは指先をじっと見た。
昨日まで血で濡れていた手。
洗っても、洗っても、落ちた気がしなかった手。
今は何もついていない。
それが余計に怖かった。
手を拭いて戻ると、祖母は小さな椀を二つ並べていた。
白い湯気が立っている。
粥だった。
「運びなさい」
祖母が言った。
ツカサは固まった。
「私が、ですか」
「他に誰がいる」
「落とすかもしれません」
「落としたら拭く」
「割るかもしれません」
「割れたら片づける」
「……」
「それとも、椀に触れただけで壊すつもりかい」
ツカサは息を呑んだ。
祖母は振り返った。
その目は厳しかった。
けれど、恐れてはいなかった。
「怖いなら、両手で持ちなさい」
ツカサはゆっくり頷いた。
「……はい」
椀に手を伸ばす。
湯気が指に触れる。
温かい。
椀は壊れない。
黒くならない。
何も起きない。
ツカサは両手で椀を持った。
少し重い。
その重さが、現実のものとして手のひらに乗る。
「ミカゲの部屋へ」
「はい」
「起こす時は静かに」
「はい」
ツカサは椀を持って階段を上がった。
一段ずつ。
こぼさないように。
落とさないように。
呼吸までゆっくりにして。
部屋へ戻ると、ミカゲはまだ眠っていた。
ツカサは椀を机に置く。
小さな音がした。
それに反応して、ミカゲが目を開ける。
「……ツカサ?」
「ごめん。起こした」
「ううん」
ミカゲはぼんやりと起き上がった。
少しして、肩にかかった布に気づく。
それから、机の上の粥を見た。
「これ……」
「おばあさんが」
「ツカサが持ってきてくれたの?」
ツカサは少しだけ視線を逸らした。
「……持ってきただけ」
「ありがとう」
ミカゲはそう言った。
ツカサは返事を探した。
けれど、何も出てこなかった。
ありがとうと言われることが、まだ怖かった。
ミカゲは椀を手に取る。
ゆっくり一口食べた。
そして、小さく息を吐いた。
「おばあちゃんの味だ」
その声が、少しだけ柔らかくなった。
ツカサは何も言えずに、それを見ていた。
ミカゲは二口目を食べる。
泣きそうな顔をした。
それでも食べた。
きっと、食べることも苦しいのだ。
両親がいない朝。
昨日までとは違う朝。
それでも、祖母が作った粥を口に運んでいる。
ツカサは胸の奥を押さえた。
自分にも椀がある。
祖母が用意してくれたもの。
食べなければいけない。
生きるなら。
ここで生きるなら。
ツカサは自分の椀を手に取った。
一口食べる。
熱い。
柔らかい。
米の味がした。
塩気は薄い。
体に無理なく入ってくる味だった。
ツカサは目を伏せた。
昔、自分が食べていたものは、もっと形のないものだった。
喉を通すためにすり潰され、薄められ、器に入れられたもの。
それでも母は、少しでも美味しくなるようにしてくれていた。
ツバサは横で、普通のご飯を食べながら、いつか一緒に同じもの食べようね、と笑っていた。
ツカサは粥を飲み込んだ。
喉が痛かった。
「ツカサ?」
ミカゲが見ていた。
「大丈夫?」
「……うん」
「熱かった?」
「少し」
「ふーってしないと」
ミカゲは、自分の椀に息を吹きかけて見せた。
当たり前のことのように。
ツカサはその仕草を見た。
そして、小さく頷いた。
「……そうする」
二人は静かに粥を食べた。
同じ部屋で。
同じ朝に。
同じ祖母の料理を。
◇
食べ終わると、ツカサは椀を下げようとした。
ミカゲも立とうとする。
「私も」
「休んでて」
「でも」
「おばあさんが、休みなさいって言うと思う」
「ツカサも昨日来たばっかりなのに」
「私は……」
言いかけて、止まる。
私は何かしないといけない。
そう言いたかった。
でも、それをミカゲに言うべきではない気がした。
「できることから、って言われたから」
ツカサはそう言った。
ミカゲは少しだけ黙ってから頷いた。
「じゃあ、お願い」
「うん」
椀を持って一階へ降りる。
調理場では、祖母が別の鍋を火にかけていた。
ツカサは椀を差し出した。
「食べました」
「そうかい」
「ミカゲも、少し」
「十分だよ」
祖母は椀を受け取り、水桶に入れた。
ツカサはそれを見ていた。
皿を洗う。
昨日、割った皿を思い出す。
手が震える。
祖母はそれに気づいていたのか、椀を水に浸けたまま言った。
「今日は洗わなくていい」
「……でも」
「見るだけ」
ツカサは顔を上げる。
「見るだけでいいんですか」
「最初はね」
祖母は袖をまくった。
水に手を入れ、布で椀を洗う。
動きは丁寧だった。
強くこすりすぎない。
でも汚れは残さない。
洗った椀を水ですすぎ、伏せる。
「道具は、乱暴に扱えば壊れる」
祖母が言った。
「怖がりすぎても、うまく扱えない」
ツカサは黙って聞いた。
「力も同じだよ」
祖母は椀をもう一つ洗う。
「何もかも怖がって触れないなら、何も覚えられない。でも、怖さを忘れたら簡単に壊す」
ツカサは自分の手を見た。
「怖いまま、覚えなさい」
祖母はそう言った。
ツカサはゆっくり頷いた。
「はい」
「明日は、一枚だけ拭く」
「……はい」
「今日は床を掃きなさい」
祖母は箒を渡した。
ツカサは両手で受け取る。
軽い。
けれど、持つだけで緊張した。
「店の中だけでいい。調理場にはまだ入らない」
「はい」
ツカサは店へ出た。
朝の光が、閉じた戸の隙間から細く入っている。
机と椅子が並んでいる。
使われていない店。
それでも、埃は少しずつ溜まる。
ツカサは箒を床に当てた。
そっと動かす。
埃が寄る。
何も壊れない。
もう一度、動かす。
木の床を掃く音が、静かな店に響く。
少しずつ。
少しずつ。
ツカサは床を掃いた。
途中で、一つの机の前で手が止まった。
そこだけ、椅子が三つ並んでいた。
誰かが座っていたのだろうか。
家族かもしれない。
友達かもしれない。
昨日までは、ここに笑い声があったのかもしれない。
ツカサは唇を噛んだ。
それでも箒を動かした。
掃かない理由にはならない。
できることから。
祖母の言葉を思い出す。
できることから。
そうしているうちに、店の戸が叩かれた。
ツカサは肩を跳ねさせた。
箒を握りしめる。
祖母が調理場から出てきた。
「奥へ」
低い声だった。
ツカサはすぐ頷き、調理場の奥へ下がる。
祖母は戸へ向かった。
鍵を開ける。
戸の外には、年配の男が立っていた。
顔に疲れがある。
腕には包帯が巻かれていた。
「すまないね。まだ店は……」
「分かってる」
男はすぐに言った。
「分かってるんだ。ただ、あんたが無事かと思って」
「私は無事だよ」
「ミカゲちゃんは」
「休んでいる」
「そうか……」
男は目を伏せた。
「何かいるものがあったら言ってくれ。こっちも余裕があるわけじゃないが、できることはする」
「ありがとね」
「こっちこそ、いつも世話になってたからな」
男は少しだけ店の中を見た。
ツカサは奥で息を殺した。
見つかってはいけない。
そう思った。
男はそれ以上何も言わず、頭を下げた。
「また来る」
「ああ」
戸が閉まる。
鍵がかかる。
ツカサは、しばらく動けなかった。
祖母が戻ってくる。
「今の人は」
「近所の人だよ」
「……このお店の、お客さんですか」
「そうだね」
祖母は店の方を見た。
「客でもあり、隣人でもある」
「隣人……」
「ここは食事を出す店だ。でも、それだけじゃない」
祖母はゆっくり椅子に手を置いた。
「腹を空かせた人が来る。疲れた人が来る。話したい人が来る。何も話したくない人も来る」
ツカサは店を見回した。
机。
椅子。
調理場。
献立札。
何の変哲もない場所に見えた。
でも、祖母の言葉を聞くと、違って見えた。
ここは誰かが帰ってくる場所なのだ。
温かいものを食べて、息をつく場所。
昨日まで、そうだった場所。
「すごいですね」
ツカサは小さく言った。
祖母がツカサを見る。
「何が」
「このお店」
ツカサは自分でも驚くほど、素直に言っていた。
「誰かが来る場所を、作れるのが」
祖母は黙った。
ツカサは慌てて俯く。
「ごめんなさい。勝手なことを」
「勝手なことじゃない」
祖母は静かに言った。
「店は、そういう場所であれたらいいと思ってやっている」
ツカサは顔を上げた。
「思って、できるものなんですか」
「できない日もある」
祖母は言った。
「焦げる日もある。味が決まらない日もある。客と喧嘩する日もある。疲れて笑えない日もある」
「……」
「それでも、次の日にまた火を入れる」
祖母の声は穏やかだった。
「店というのは、そういうものだよ」
ツカサは調理場の火を見た。
鍋から湯気が上がっている。
何かが煮えている匂いがする。
柔らかく、温かい匂い。
寝床から見ていただけのもの。
自分の手では届かなかったもの。
ツバサが嬉しそうに手伝っていたもの。
「……私も」
ツカサは小さく呟いた。
祖母が聞き返す。
「何だい」
ツカサは首を振った。
「なんでも、ありません」
言えなかった。
料理をしてみたい。
店に立ってみたい。
誰かに温かいものを出してみたい。
そんなことを、自分が願っていいはずがないと思った。
この手で奪ったのに。
この手で壊したのに。
誰かに食べ物を差し出したいなんて。
言っていいはずがない。
「箒」
祖母が言った。
「まだ終わっていないよ」
「はい」
ツカサは箒を握り直した。
床を掃く。
さっきより少しだけ、音が安定していた。
◇
昼過ぎ、祖母は鍋に入れたものを小さな器に分けた。
それを盆に並べる。
ツカサは横で見ていた。
「これは?」
「近所に持っていく」
「お店、開けないんじゃ」
「店は開けない。けれど、食べるものがいる家はある」
祖母は蓋をした。
「怪我人がいる家。葬儀の支度で手が回らない家。子どもだけで留守番している家。そういうところに、少しずつね」
ツカサは息を呑んだ。
「私も……」
言いかけて、止まった。
外に出てはいけない。
自分が行けるはずもない。
祖母は盆を持った。
「あんたはここにいなさい」
「はい」
「ミカゲが起きたら、水を飲ませる。粥も、まだ食べられるなら温める」
「温める……」
「火には触らない。鍋ごとこっちへ持ってきなさい。私が戻ってからやる」
「はい」
「戸は開けない」
「はい」
祖母は店を出ていった。
戸が閉まる。
鍵がかかる。
ツカサは店の中に一人残された。
二階にはミカゲがいる。
静かな家。
静かな店。
さっきまであった祖母の気配が薄れると、急に心細くなった。
ツカサは調理場の前に立った。
火は落とされている。
鍋には蓋がされている。
まな板も洗われている。
すべてが整っていた。
その整い方が、祖母の生き方そのもののように見えた。
ツカサは自分の手を見た。
何かを作る手。
何かを壊す手。
どちらにもなる手。
その時、階段から足音がした。
ミカゲが降りてくる。
「おばあちゃんは?」
「近所に、ご飯を持っていった」
「そっか」
ミカゲはまだ少しふらついていた。
ツカサは慌てて近づきかけ、すぐに止まった。
「水、飲む?」
「うん」
ツカサは水を汲んで、器に入れる。
手が震えた。
こぼさないように、両手で持って渡す。
ミカゲは受け取った。
「ありがとう」
「うん」
ミカゲは水を飲んだ。
それから、店の中を見回す。
「お店、静かだね」
「……うん」
「いつもは、もっと人がいるの」
「そうなんだ」
「おばあちゃんのご飯、みんな好きだから」
ミカゲの声に、少しだけ誇らしさが混ざった。
でもすぐに沈む。
「お父さんも、お母さんも、よくここで食べてた」
ツカサは何も言えなかった。
ミカゲは椅子に座った。
小さく息を吐く。
「お母さんは、ここのスープ好きだった。お父さんは、いつも大盛りにしてもらってた」
ツカサは胸が苦しくなった。
聞いてはいけない気がした。
でも、ミカゲは話していた。
誰かに話さないと、消えてしまいそうだったのかもしれない。
「ミカゲは?」
ツカサは気づけば聞いていた。
ミカゲが顔を上げる。
「ミカゲは、何が好きなの」
ミカゲは少しだけ考えた。
「卵のやつ」
「卵?」
「ふわってしてて、上にとろっとしたのがかかってる」
「……おいしそう」
「おいしいよ」
ミカゲはほんの少し笑った。
「おばあちゃん、たまにしか作ってくれないけど」
「どうして」
「手間がかかるからって」
「手間……」
ツカサは調理場を見た。
卵。
ふわっとしたもの。
とろっとしたもの。
どうやって作るのだろう。
想像しても分からない。
でも、作ってみたいと思った。
ミカゲが好きなものなら。
ミカゲが少しでも笑うなら。
そう思ってしまった。
そのことに、ツカサ自身が一番怯えた。
願ってはいけない。
そんな資格はない。
けれど、願いは胸の奥に小さく灯ってしまった。
消そうとしても、消えなかった。
◇
夕方、祖母が戻ってきた。
空の器を重ねている。
疲れていたが、どこかほっとした顔だった。
「ミカゲ、水は飲んだかい」
「飲んだ」
「粥は」
「あとで食べる」
「そうしなさい」
祖母は器を洗い始めた。
ツカサはそばで見ていた。
それから、小さく言った。
「あの」
「何だい」
「明日、皿を一枚だけ拭くって言ってました」
「言ったね」
「今日、やってもいいですか」
祖母の手が止まった。
ミカゲもツカサを見る。
ツカサは俯きながら続けた。
「一枚だけでいいです。落としたら、片づけます。割ったら、謝ります。でも……」
声が少し震える。
「できることを、少しでも覚えたいです」
祖母はしばらく黙っていた。
それから、一番小さな皿を洗い、布巾と一緒に差し出した。
「一枚だけ」
「はい」
ツカサは皿を受け取った。
両手で。
慎重に。
布巾で水を拭う。
端から、ゆっくり。
皿は割れなかった。
手の中に残った。
白い皿のまま。
ツカサは拭き終えた皿を祖母に渡した。
「できました」
祖母は皿を見た。
「水滴が残ってる」
「……すみません」
「次はそこも見る」
「はい」
祖母は皿を棚に置いた。
ミカゲがそばで見ていた。
「ツカサ、すごいね」
ツカサは首を振った。
「すごくない」
「でも、やった」
ミカゲはそう言った。
「できること、一個増えた」
その言葉に、ツカサは何も返せなかった。
ただ、小さく頷いた。
「……うん」
祖母の店は、まだ開いていない。
街もまだ泣いている。
失ったものは戻らない。
けれど、その日の夕方、ツカサは皿を一枚拭いた。
たった一枚。
それだけだった。
それでも、ツカサにとっては、初めてこの家で自分の手が壊す以外のことをした証だった。
夜、祖母はまた粥を作った。
ミカゲは少しだけ食べた。
ツカサも食べた。
同じ机で。
距離はまだあった。
言葉も少なかった。
でも、火の匂いがあった。
器の音があった。
誰かが作り、誰かが食べる時間があった。
ツカサはその全部を、胸の奥にしまった。
いつか自分も。
そう思ってしまったことは、まだ誰にも言えなかった。




