第12話「雨の日の救い」
それから、少しずつ日が過ぎた。
店はまだ開かなかった。
それでも祖母は、毎朝火を入れた。
鍋を温め、米を炊き、野菜を刻む。
食事を作る音が家の中に響くたび、ツカサは目を覚ました。
最初は、ただ見ているだけだった。
次に、床を掃いた。
その次の日には、皿を一枚拭いた。
また次の日には、二枚拭いた。
布巾を絞る力が強すぎて水が跳ね、祖母に叱られた。
野菜を洗う時、泥を落としきれていなくて、もう一度やり直しになった。
米を研ぐ時は、力を入れすぎるなと言われた。
ツカサはそのたびに謝った。
祖母はそのたびに、
「謝る前に、次はどうするか覚えなさい」
と言った。
ツカサは覚えた。
皿は端まで拭く。
布巾は固く絞りすぎない。
床を掃く時は、埃を立てすぎない。
水桶を持つ時は、片手で無理をしない。
火には、祖母がいる時以外触らない。
包丁には、まだ触らない。
ひとつずつ。
本当にひとつずつ。
できることが増えていった。
けれど、それが嬉しいと思うたびに、ツカサは胸が苦しくなった。
嬉しいと思っていいのか分からなかった。
ここは、ミカゲの家だ。
祖母の店だ。
街の人たちが帰ってくる場所だ。
自分が壊した街の中にある場所だ。
その中で、できることが増えていく。
それは、許されているみたいで怖かった。
実際には、許されてなどいないのに。
◇
ミカゲは少しずつ部屋から出るようになった。
最初は祖母に連れられて、一階へ降りてきた。
次に、自分で階段を降りた。
その次は、店の椅子に座って、水を飲んだ。
まだ長くは話さない。
急に黙り込むこともある。
夜になると、両親の名前を呼んで泣くこともあった。
けれど朝になると、目を赤くしながらも祖母に笑ってみせた。
「大丈夫」
ミカゲはよくそう言った。
全然大丈夫ではなかった。
子どもの言う大丈夫ほど信用ならないものはない。ほんと世界、そういうとこだけ残酷にできてる。けれど祖母は、それを否定しなかった。
「そうかい」
とだけ言って、温かいものを出した。
ツカサはその横で、皿を運んだ。
「ありがとう」
ミカゲが言う。
ツカサはいつも少し遅れて頷く。
「……うん」
それ以上は、まだ言えなかった。
ミカゲが向ける小さな礼が、ツカサの胸に刺さる。
何も知らないままの優しさ。
その優しさに救われそうになる自分が、何より嫌だった。
◇
ある日の昼。
祖母が少しだけ店の戸を開けた。
営業ではない。
近所の人が、器を返しに来ただけだった。
「助かったよ」
女の人が言った。
腕には小さな子どもを抱いている。
子どもはまだ眠っていた。
「うちの子、昨日やっと食べたんだ。あんたの粥なら食べられるって」
「それはよかった」
祖母は器を受け取った。
「またいるなら言いなさい」
「悪いね。店も大変だろうに」
「大変なのはみんな同じだよ」
女の人は何度も頭を下げて帰っていった。
ツカサは奥からその様子を見ていた。
祖母が戸を閉める。
ツカサは、思わず聞いた。
「どうして、そこまでするんですか」
祖母が振り返る。
「何がだい」
「お店も開けられないのに。自分たちだって大変なのに」
祖母は器を水桶に入れた。
「食べないと、人は動けないからね」
「……でも」
「でも?」
「祖母さんが、全部やる必要はないと思います」
言った直後、ツカサは失敗したと思った。
けれど祖母は怒らなかった。
少しだけ目を細めた。
「そうだね。私が全部やる必要はない」
「じゃあ」
「だから、あんたにもやらせてる」
ツカサは言葉に詰まった。
「私ができることをする。あんたができることをする。ミカゲにも、いつかできることが出てくる。街の人もそれぞれにやる」
祖母は濡れた器を洗いながら言った。
「誰か一人が全部背負ったら、すぐに潰れるよ」
ツカサはその言葉を聞いて、うまく息ができなくなった。
誰か一人が全部背負う。
その響きが、なぜか胸の奥に深く落ちた。
「私は……」
声が小さくなる。
「何をすればいいんでしょう」
「今やっていることを続けなさい」
「皿を拭くだけで?」
「皿を拭ける人がいなければ、次の料理は出せない」
祖母は当然のように言った。
「床を掃く人がいなければ、誰かが転ぶ。水を汲む人がいなければ、鍋も洗えない」
ツカサは手元の布巾を見た。
ただの布。
ただの仕事。
けれど祖母は、それを軽く見ていなかった。
「大きなことができないなら、小さなことをしなさい」
祖母は言った。
「小さなことを馬鹿にする子は、大きなことを任されてもろくなことにならない」
ツカサは頷いた。
「……はい」
祖母は器を差し出した。
「じゃあ、拭きなさい」
「はい」
ツカサは布巾を持ち、器を拭いた。
端まで丁寧に。
水滴が残らないように。
◇
夕方になると、ミカゲが店の椅子に座っていた。
窓の外を見ている。
外では、街の人たちが壊れた道具を片づけていた。
誰かが板を運び、誰かが瓦礫をまとめている。
子どもたちはまだあまり外に出てこない。
笑い声も少ない。
けれど、街は完全に止まってはいなかった。
「ねえ、ツカサ」
ミカゲが言った。
「なに」
「ツカサは、外に出ないの?」
ツカサの手が止まった。
皿を拭いていた布巾が、指の間で固まる。
「……出ない」
「どうして?」
「怖いから」
それは本当だった。
外が怖い。
街の人が怖い。
自分の力が怖い。
そして何より、ミカゲと同じように誰かに優しくされることが怖かった。
「そっか」
ミカゲはそれ以上聞かなかった。
少しだけ窓の外を見る。
「私は、外に出るのも怖いけど、ここにずっといるのも怖い」
ツカサはミカゲを見た。
ミカゲは膝の上で手を握っていた。
「お父さんとお母さんのこと、考えちゃうから」
「……」
「外に出たら、もっと思い出すかもしれない。でも、ここにいても思い出す」
ミカゲは小さく笑った。
笑えていなかった。
「どこにいても、思い出すんだね」
ツカサは返す言葉を持っていなかった。
謝ることもできない。
慰めることもできない。
ただ、布巾を握ることしかできなかった。
「でもね」
ミカゲは続けた。
「おばあちゃんが、少しずつでいいって言った」
「……うん」
「だから、私も少しずつやる」
ミカゲはツカサを見た。
「ツカサも、少しずつでいいと思う」
ツカサは目を逸らした。
「私は……」
「うん?」
「私は、少しずつでも、いいのかな」
思わずこぼれた。
ミカゲは不思議そうに首を傾げる。
「いいんじゃない?」
あまりにも自然に言われた。
ツカサは息を詰める。
「なんで」
「だって、一気にできないでしょ」
ミカゲは当然のように言う。
「私もできないし」
ツカサは黙った。
それは、とても単純な答えだった。
単純すぎて、逃げ道がなかった。
できないなら、少しずつやる。
それだけ。
それだけなのに、ツカサには難しかった。
◇
夜になってから、雨が降り始めた。
細い雨だった。
屋根を叩く音が、家の中に静かに響いている。
祖母は早めに灯りを落とした。
「今日は休みなさい」
ミカゲは素直に二階へ上がった。
ツカサも自分の部屋へ戻る。
けれど、眠れなかった。
雨の音が耳につく。
シス村を出た夜のことを思い出す。
何も持たずに歩いた道。
泥で汚れた足。
行く場所のないまま、ただ歩いて、歩いて、辿り着いた祭りの灯り。
その先にあったもの。
自分が壊したもの。
ツカサは布団の中で体を丸めた。
息が苦しい。
ここにいていいはずがない。
ミカゲは優しい。
祖母は厳しいけれど、追い出さない。
この店には火がある。
食べ物がある。
布団がある。
朝が来る。
そんな場所に、自分がいる。
おかしい。
おかしい。
ここは、自分のいる場所ではない。
胸の中で何かが膨らんでいく。
怖さ。
罪悪感。
息苦しさ。
全部が混ざって、喉を塞いだ。
ツカサは起き上がった。
部屋を出る。
廊下は暗かった。
祖母の部屋の襖は閉まっている。
ミカゲの部屋も静かだった。
ツカサは階段を降りた。
店の戸の前に立つ。
鍵がかかっている。
祖母から、勝手に外へ出るなと言われていた。
でも、ここにいたら壊してしまう気がした。
優しさに触れていると、自分が何かを間違えてしまう気がした。
ここにいたいと思ってしまう。
それが一番怖かった。
ツカサは鍵に手を伸ばした。
震える指で、そっと開ける。
戸を少しだけ開けると、冷たい雨の匂いが入ってきた。
外は暗い。
街の灯りは少ない。
ツカサは布を頭にかぶり、外へ出た。
◇
雨は思ったより冷たかった。
細いのに、肌に触れるたび体温を奪っていく。
ツカサは走らなかった。
走る力もなかった。
ただ歩いた。
店から離れる。
祖母の家から離れる。
ミカゲから離れる。
街の中心へは行かない。
人のいる場所には行けない。
壊れた通りを避けて、細い路地へ入る。
雨音に紛れて、自分の足音も聞こえなくなっていく。
どこへ行くつもりなのか、分からなかった。
シス村へ戻ることはできない。
エーレの家へ行くこともできない。
メーランにいてはいけない。
なら、どこへ。
どこにもない。
そんなことは、最初から分かっていた。
それでも歩いた。
やがて、街の外れにある細い路地に辿り着いた。
建物の影が重なり、雨も少しだけ弱くなる場所。
ツカサはそこで座り込んだ。
膝を抱える。
体が震えていた。
寒さのせいだけではない。
「……ごめんなさい」
雨の中で呟く。
「ごめんなさい……」
何度言っても、誰にも届かない。
届かなくていいと思った。
届いたら困る。
謝罪を受け取らせる相手がいないなら、これはただの音で済む。
ツカサは髪飾りを握りしめた。
ツバサのもの。
自分が持っていていいはずのないもの。
それでも手放せないもの。
「私、ここにいたらだめだよ」
声が雨に溶ける。
「ミカゲのそばにいたら、だめだよ……」
ミカゲは何も知らない。
だから優しい。
だから、余計にここにいられない。
なのに。
明日もいる?
よかった。
少しずつでいいと思う。
その言葉が、頭から離れなかった。
ツカサは顔を伏せた。
雨が髪を濡らす。
布はもう役に立っていない。
このまま朝までここにいれば、祖母は怒るだろう。
ミカゲは心配するだろう。
それでも戻れなかった。
戻っていい理由が見つからなかった。
◇
「ツカサ!」
声がした。
ツカサは顔を上げた。
雨の向こう。
路地の入り口に、小さな影が立っていた。
黒髪が雨に濡れている。
肩で息をしている。
ミカゲだった。
ツカサは目を見開いた。
「なんで……」
「いないから!」
ミカゲは叫ぶように言った。
「部屋にいなかったから!」
「来ちゃだめ」
ツカサは立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。
「戻って。お願いだから」
「嫌だ」
ミカゲは即答した。
雨の中を近づいてくる。
ツカサは慌てて後ずさろうとした。
「来ないで」
「なんで」
「私、危ないから」
「知ってる」
「知らない!」
ツカサの声が震えた。
「ミカゲは何も知らないから、そんなこと言えるんだよ!」
言った瞬間、胸が冷えた。
言い過ぎた。
ミカゲは立ち止まった。
雨が二人の間に落ちる。
ミカゲの顔は濡れていた。
雨なのか涙なのか、分からなかった。
「知らないよ」
ミカゲは言った。
「知らないことばっかりだよ」
ツカサは息を詰めた。
「お父さんとお母さんがどうして死んだのかも、あの怖いものが何だったのかも、これからどうしたらいいのかも、何も知らない」
ミカゲの声は震えていた。
「でも、ツカサが今ここで一人で泣いてるのは分かる」
ツカサの目が揺れる。
「だから来た」
「……来なくていい」
「来るよ」
「なんで」
「ツカサも、昨日来たばっかりだから」
ミカゲは一歩近づいた。
「私も怖いけど、ツカサも怖いんでしょ」
「私は……」
「怖いなら、帰ろう」
ミカゲは手を伸ばした。
ツカサはその手を見た。
小さな手。
雨に濡れた手。
震えている手。
自分が触れていいはずのない手。
「触らないで」
ツカサは言った。
ミカゲの手が止まる。
ツカサは泣きそうになりながら続けた。
「触ったら、何かあるかもしれない」
「じゃあ、触らない」
ミカゲはすぐに言った。
伸ばした手を下ろす。
「でも、帰る」
「……」
「隣を歩くだけならいい?」
ツカサは答えられなかった。
ミカゲは少しだけ首を傾げる。
「だめ?」
ツカサは髪飾りを握りしめた。
帰りたい。
帰ってはいけない。
その二つが胸の中でぶつかる。
けれど、ミカゲは待っていた。
急かさなかった。
触れなかった。
ただ、雨の中で立っていた。
自分も怖いはずなのに。
こんな暗い路地にいるのも、雨に濡れているのも、怖いはずなのに。
「……怒られる」
ツカサは小さく言った。
「おばあちゃんに」
「うん」
ミカゲは頷いた。
「たぶん、二人とも怒られる」
「ミカゲも?」
「私も勝手に出てきたから」
ミカゲは少しだけ、困ったように笑った。
「一緒に怒られよう」
その言葉で、ツカサの中の何かが切れた。
涙がこぼれた。
雨に紛れても、止まらなかった。
「……私、ここにいていいのかな」
ツカサは震える声で聞いた。
ミカゲは少し考えた。
きっと、難しいことは分からない。
罪も、嘘も、何も知らない。
それでも、ミカゲは答えた。
「今日帰る場所は、うちでいいと思う」
ツカサは顔を上げた。
「明日のことは、明日考えよう」
ミカゲは言った。
「今日は寒いし」
あまりにも子どもらしい理由だった。
でも、今のツカサには、それくらいしか受け取れなかった。
大きな許しなんていらない。
一生いていいなんて言われたら潰れてしまう。
ただ、今日帰る場所。
それだけなら。
「……うん」
ツカサは小さく頷いた。
「帰る」
ミカゲはほっとしたように笑った。
「うん。帰ろう」
二人は並んで歩き出した。
手は繋がなかった。
触れなかった。
それでも、ミカゲは隣にいた。
雨の中、街の外れから祖母の店へ戻る。
ツカサの足は重かった。
けれど、来た時よりは少しだけ進めた。
◇
店に戻ると、祖母が戸口で待っていた。
灯りを持っている。
顔は怖かった。
とても怖かった。
ミカゲが小さく「う」と声を漏らした。
ツカサはさらに小さくなった。
祖母は二人を見た。
頭から足まで雨で濡れている。
泥もついている。
祖母は深く息を吐いた。
「入りなさい」
声が低い。
二人は黙って中へ入った。
戸が閉まる。
鍵がかかる。
祖母は灯りを置き、まず布を二枚持ってきた。
「拭きなさい」
「はい……」
ミカゲが受け取る。
ツカサも受け取る。
髪を拭く。
肩を拭く。
服から水が落ちる。
祖母は腕を組んで二人を見ていた。
「勝手に出るなと言ったね」
ツカサは俯いた。
「……はい」
「ミカゲも」
「はい……」
「夜の雨の中を、子ども二人で出歩くのがどれだけ危ないか分かっているのかい」
「ごめんなさい」
ミカゲが先に言った。
ツカサも続く。
「ごめんなさい」
祖母はしばらく黙った。
怒られる。
当然だ。
追い出されても仕方ない。
ツカサはそう思った。
けれど祖母は、二人を叩かなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、もう一度深く息を吐いた。
「戻ってきたなら、それでいい」
ツカサは顔を上げた。
祖母の顔は怖いままだった。
けれど、目の奥に安堵があった。
「次はないよ」
「はい」
「はい」
二人の声が重なった。
祖母は台所へ向かった。
「湯を沸かす。体を温めなさい。風邪を引いたら面倒だ」
ミカゲが小さく笑った。
「おばあちゃん、怒ってる?」
「怒ってるよ」
「心配した?」
「したよ」
祖母は振り返らずに言った。
「二人とも、いなくなるには早すぎる」
ツカサの胸がまた痛くなった。
いなくなるには早すぎる。
その言葉が、静かに残った。
◇
その夜、二人は温かい湯を飲まされた。
祖母に髪を拭かれ、乾いた服に着替えさせられ、早く寝ろと部屋へ追いやられた。
ミカゲは布団の中で、少しだけ鼻をすすった。
「怒られたね」
「うん」
「でも、帰ってきたね」
「……うん」
ツカサは隣の布団にいた。
同じ部屋。
少し離れた場所。
祖母が、今日は仕方ないと言って敷いた布団だった。
「ツカサ」
「なに」
「また出ていきたくなったら、言って」
ツカサはミカゲを見る。
ミカゲは眠そうな目で続けた。
「そしたら、先におばあちゃんに言う」
「怒られるよ」
「怒られるね」
「……」
「でも、勝手に出るよりいいでしょ」
ツカサは少しだけ黙った。
それから頷いた。
「……うん」
ミカゲは満足そうに目を閉じた。
「おやすみ、ツカサ」
ツカサはしばらく返事ができなかった。
でも、やがて小さく言った。
「おやすみ、ミカゲ」
雨の音はまだ続いていた。
けれど、もうさっきほど怖くはなかった。
手は繋がなかった。
真実も言わなかった。
許されたわけでもなかった。
それでも、あの雨の中でミカゲは来た。
帰ろうと言った。
今日帰る場所は、うちでいいと思う。
その言葉だけで、ツカサはこの夜を越えられた。
そして、祖母の店にはまた朝が来る。
温かい火の音と、皿の音と、まだ何も終わっていない二人の少女の呼吸を連れて。




