第13話「夢の一歩」
雨の翌朝、ツカサは少し熱を出した。
当然だった。
夜の雨の中を歩いて、路地に座り込んで、濡れたまましばらくいたのだから、体が平気なわけがない。
祖母は額に手を当てるなり、眉間に皺を寄せた。
「今日は何もしなくていい」
「でも」
「でもじゃない」
即答だった。
「寝ていなさい」
「皿くらいなら」
「寝ていなさい」
「床を」
「寝ていなさい」
言葉を重ねるたびに祖母の声が低くなっていくので、ツカサはそれ以上言えなくなった。
布団に戻される。
水を飲まされる。
額に冷たい布を乗せられる。
祖母はそれだけを手早く済ませると、調理場へ戻っていった。
店はまだ開いていない。
けれど祖母は、いつものように朝の支度をしている。
包丁の音が聞こえた。
鍋の音が聞こえた。
水の流れる音が聞こえた。
ツカサは布団の中で、じっと天井を見つめていた。
何もしなくていいと言われることが、落ち着かなかった。
できることをしなければいけない。
何かをしていなければいけない。
そうでなければ、この家にいる理由がなくなる気がした。
でも、体は重い。
少し動くだけで頭がぼんやりする。
情けない。
ツカサは目を閉じた。
すると、雨の音を思い出した。
昨日の路地。
冷たい地面。
ミカゲの声。
帰ろう。
今日帰る場所は、うちでいいと思う。
胸の奥が少しだけ痛くなる。
温かくもあった。
だから余計に、痛かった。
◇
昼前、襖が少し開いた。
ミカゲが顔を出す。
「ツカサ、起きてる?」
「……起きてる」
「入っていい?」
「うん」
ミカゲは盆を持って入ってきた。
盆の上には、水と、小さな器が乗っている。
粥だった。
昨日より少し柔らかそうに煮てある。
「おばあちゃんが、食べられるなら食べてって」
「ありがとう」
ツカサは起き上がろうとした。
けれど、体が重くて少しふらつく。
ミカゲが慌てて近づきかけて、途中で止まった。
触れていいか迷ったのだろう。
ツカサはそれに気づいた。
「大丈夫」
「ほんと?」
「うん」
「顔、あんまり大丈夫じゃないよ」
ミカゲは少しだけ困った顔をした。
ツカサは何も返せなかった。
ミカゲは盆を机に置く。
それから、器をツカサの近くへ寄せた。
「食べられそう?」
「うん」
「無理しなくていいって」
「食べる」
ツカサは匙を持った。
粥をすくう。
少し冷まして、口に入れる。
温かかった。
喉を通る。
体の中に落ちていく。
食べられる。
それが少し不思議だった。
昔は、体が弱い日はほとんど何も食べられなかった。
母が作ってくれたものも、何度も残した。
ツバサはそのたびに、じゃあ私が半分食べてあげる、と笑っていた。
それを思い出して、ツカサの手が止まる。
「まずかった?」
ミカゲが聞いた。
ツカサは首を振った。
「違う」
「熱い?」
「違う」
「じゃあ、どうしたの?」
ツカサは少し迷った。
言わなくてもいいことだった。
けれど、言ってもいい気がした。
全部ではなくても。
少しだけなら。
「昔、体が弱かったから」
ミカゲが瞬きをした。
「そうなの?」
「うん」
「今は?」
「今は、違う」
ツカサは自分の手を見た。
ツバサからもらった体。
健康になってしまった体。
「昔は、こういうのしか食べられなかった」
「お粥?」
「もっと、形がないもの」
ツカサは匙の先を見つめる。
「寝たまま、見てるだけだった。お父さんとお母さんが料理して、ツバサが手伝ってるのを」
「ツバサ?」
ミカゲが聞いた。
ツカサの指が少し止まる。
「妹」
「妹がいたんだ」
「うん」
声が細くなった。
ミカゲはそれ以上踏み込まなかった。
ただ、膝を抱えて座っていた。
「ツバサは、料理できたの?」
「できたっていうか、手伝いたがりだった」
ツカサは小さく言った。
「卵を割るのが下手で、殻が入って怒られてた。でも、楽しそうだった」
「ツカサは?」
「私は、見てるだけ」
「やりたかった?」
ツカサは黙った。
喉の奥に、何かが詰まる。
ずっと、言葉にしなかったことだった。
自分でも、もう終わった夢だと思っていた。
寝床から眺めていた台所。
包丁の音。
火の音。
父の笑い声。
母の手。
ツバサの背中。
自分だけがそこに入れなかった。
「……やりたかった」
小さく答えた。
「一緒に、作ってみたかった」
ミカゲは静かに聞いていた。
何も笑わなかった。
子どもみたいな夢だと言わなかった。
ただ、真面目に頷いた。
「じゃあ、おばあちゃんに教えてもらえばいいじゃん」
ツカサは顔を上げた。
「え」
「料理」
ミカゲは当然のように言った。
「ツカサ、いつも見てるし。やってみたいんでしょ?」
「でも」
「でも?」
「私は、そんなことを言える立場じゃ」
「立場って何?」
ミカゲは首を傾げた。
その目には、本当に分からないという色があった。
ツカサは言葉に詰まる。
立場。
罪。
過去。
隠していること。
言えないこと。
全部、ミカゲは知らない。
だからこそ、その問いはまっすぐだった。
「やりたいなら、言えばいいと思う」
ミカゲは続けた。
「おばあちゃん、怒るかもしれないけど」
「怒るの?」
「怒るときは怒るよ」
ミカゲは少しだけ笑った。
「でも、教えてくれると思う」
「……どうして」
「おばあちゃん、料理好きな人のこと嫌いじゃないから」
ツカサは粥を見る。
温かい湯気が上がっている。
食べること。
作ること。
誰かに出すこと。
それを好きだと思っていいのか。
願っていいのか。
まだ分からない。
でも、ミカゲがあまりにも普通に言うから、少しだけ思ってしまった。
聞くだけなら。
教えてほしいと言うだけなら。
それくらいなら、許されるだろうか。
◇
熱は夕方には少し下がった。
祖母は額に手を当てて、まだ少し熱いね、と言った。
「今日はもう寝ていなさい」
「……はい」
ツカサは返事をした。
けれど、祖母が部屋を出ようとした時、思わず声をかけた。
「あの」
祖母が振り返る。
「何だい」
ツカサは布団の上で、手を握った。
言葉が喉に引っかかる。
言えば、笑われるかもしれない。
怒られるかもしれない。
お前が言うことではないと言われるかもしれない。
それなら、それでいい。
でも、言わないままでは、また何もできない。
「料理を」
声が震えた。
「教えて、ほしいです」
祖母は黙った。
ツカサは俯いたまま続ける。
「まだ包丁も火も触れないのは分かっています。でも、いつかでいいです。皿を拭くのも、掃除も、水を汲むのも続けます。できることからでいいので」
言葉が少しずつ速くなる。
「私も、作れるようになりたいです」
部屋の中が静かになった。
ミカゲは襖の向こうで聞いていたのか、少しだけ顔を出していた。
祖母はツカサを見ている。
怒っているのか、考えているのか、分からない顔だった。
「どうして」
祖母が聞いた。
ツカサは唇を噛んだ。
どうして。
その答えはいくつもあった。
誰かの役に立ちたいから。
ここにいる理由が欲しいから。
ミカゲに何かを返したいから。
昔、できなかったから。
ツバサとやりたかったから。
両親と一緒に台所に立ちたかったから。
でも、その全部をうまく言えなかった。
「……温かいものを」
ツカサはやっと言った。
「誰かに、出せるようになりたいです」
祖母の目が少しだけ細くなる。
「誰かって誰だい」
ツカサは一瞬、ミカゲを見た。
ミカゲと目が合う。
すぐに逸らした。
「……まだ、分かりません」
それは嘘ではなかった。
ミカゲに作りたい。
そう思った。
でも、それだけではない気もした。
自分が奪ったものに、ほんの少しでも近づきたい。
壊すだけではない手になりたい。
そう思ってしまった。
「分からないけど、覚えたいです」
祖母はしばらく何も言わなかった。
そして、深く息を吐いた。
「明日、熱が下がっていたらね」
ツカサは顔を上げた。
「いいんですか」
「教えるとは言っていない」
祖母は言った。
「台所に立たせるだけだよ」
ツカサの目が揺れる。
それでも十分だった。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
「はい」
「料理は遊びじゃない。火も包丁も、使い方を間違えれば人を傷つける」
「はい」
「食べ物を粗末にするのも許さない」
「はい」
「それでもやるかい」
ツカサはまっすぐ頷いた。
「やりたいです」
祖母はツカサを見た。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「なら、明日までに熱を下げなさい」
「はい」
「寝ることも仕事だよ」
「……はい」
今度は素直に頷いた。
祖母は部屋を出ていった。
襖の向こうで、ミカゲが嬉しそうに笑っていた。
「よかったね」
ツカサはまだ信じられないまま、頷いた。
「……うん」
◇
翌朝。
熱は下がっていた。
祖母は額に手を当て、少しだけ眉を上げた。
「本当に下げたね」
「寝ました」
「それはよろしい」
祖母はそう言うと、台所へ向かった。
ツカサは着替え、髪を整え、手をいつもより念入りに洗った。
爪の間まで。
手首まで。
何度も。
祖母に見せると、もう一度洗えと言われた。
洗った。
今度は頷かれた。
「今日は見る。それから、野菜を洗う」
「はい」
「包丁は持たない。火にも触らない」
「はい」
「言われたこと以外はしない」
「はい」
ツカサは何度も頷いた。
調理場に入る。
今までは入り口から見ていただけの場所。
今日は、その一歩内側に立っている。
まな板。
包丁。
鍋。
水桶。
調味料の入った小さな器。
それぞれに置き場所がある。
それぞれに意味がある。
祖母は野菜を出した。
土のついた根菜。
葉のついた青菜。
「まず、洗う」
「はい」
「強くこすれば傷む。弱すぎれば泥が残る」
「はい」
「見れば分かる、じゃない。手で覚えなさい」
「はい」
ツカサは水桶の前に立つ。
野菜を手に取る。
冷たい水に浸ける。
指で泥を落とす。
力を入れすぎないように。
でも、残さないように。
野菜は壊れなかった。
死ななかった。
ただ、水の中で土を落としていく。
ツカサは息を詰めながら洗った。
「遅い」
祖母が言った。
「すみません」
「謝らなくていい。丁寧なのは悪くない。だが、店で出すなら速さもいる」
「はい」
「今日は遅くていい。覚える日だから」
「はい」
ミカゲは調理場の入り口から覗いていた。
「ツカサ、真剣」
「当たり前だよ」
ツカサが小さく答える。
「料理だし」
ミカゲは少し笑った。
祖母が横目で見る。
「笑っているなら、ミカゲも手伝いなさい」
「え、私も?」
「食べるだけの子に育てた覚えはないよ」
「う」
ミカゲは渋々手を洗った。
祖母に爪の間まで洗えと言われ、顔をしかめながら洗い直す。
ツカサはそれを見て、少しだけ笑いそうになった。
ミカゲが気づく。
「今笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「笑ってない」
「ふーん」
ミカゲは不満そうにしながらも、隣に立った。
二人で野菜を洗う。
ミカゲは力任せにこすりすぎて、祖母に叱られた。
「ミカゲ、葉物を敵だと思っているのかい」
「思ってない!」
「なら優しく」
「はい……」
ツカサは今度こそ少し笑った。
ミカゲが睨む。
「ツカサ」
「ごめん」
「笑ったよね」
「少し」
「正直でよろしい」
ミカゲは偉そうに頷いた。
祖母が呆れたようにため息をつく。
「手を止めない」
「はい」
「はい」
二人の声が重なった。
◇
その日の料理は、簡単なものだった。
柔らかく煮た野菜と、粥。
祖母は包丁を使いながら、切り方を見せた。
「大きさを揃える」
「はい」
「火の通りが変わるからね」
「はい」
「硬いものは小さく。柔らかいものは崩れないように」
「はい」
ツカサはまばたきも忘れそうなほど見つめた。
祖母の手は迷わない。
野菜が同じくらいの大きさになっていく。
ただ切っているだけなのに、そこには技術があった。
父の手も、こんなふうだっただろうか。
母は、どんなふうに包丁を持っていただろう。
ツバサは、横でどんな顔をしていただろう。
思い出そうとすると、胸が苦しくなる。
それでも、今日は目を逸らさなかった。
祖母は鍋に野菜を入れる。
水を入れる。
火を入れる。
蓋をする。
煮えるまでの間、調理場に湯気の匂いが広がった。
ツカサはそれを吸い込んだ。
温かい匂い。
生きるための匂い。
しばらくして、祖母が味を見た。
小皿に少し取り、冷ましてからツカサへ差し出す。
「味を見る」
「私が?」
「舌も覚えないと料理はできない」
ツカサは小皿を受け取った。
一口食べる。
優しい味だった。
少しだけ塩気がある。
野菜の甘さがある。
「どうだい」
「……おいしいです」
「それだけ?」
祖母が聞く。
ツカサは困った。
「えっと」
「何の味がする」
「野菜の味」
「どの野菜」
ツカサはもう一口食べる。
考える。
「これが、甘いです」
「それは根菜だね」
「こっちは、少し苦い」
「葉物」
「でも、嫌じゃないです」
「なら、それを覚える」
祖母は頷いた。
「料理は、ただおいしいだけじゃない。何がどうおいしいのか、何が足りないのか、考える」
「はい」
ミカゲも味見をした。
「おいしい」
「ミカゲはそれだけかい」
「おいしいものはおいしいよ」
「それも大事だね」
祖母が少し笑った。
ツカサはその顔を見た。
祖母が笑うと、店の空気が少し変わる。
ここが人の帰る場所になる理由が、少しだけ分かる気がした。
◇
昼食は三人で食べた。
ツカサは自分が洗った野菜が入っている器を見つめた。
切ったのは祖母。
煮たのも祖母。
味をつけたのも祖母。
自分は洗っただけ。
それでも、その中にほんの少しだけ自分の手が入っている。
ミカゲが一口食べた。
「今日の、ツカサも手伝ったんだよね」
「洗っただけ」
「でも手伝った」
ミカゲは笑った。
「おいしいよ」
ツカサは俯いた。
言葉が出なかった。
おいしい。
それはただの感想だった。
でも、ツカサには大きすぎた。
誰かに食べてもらう。
誰かが、おいしいと言う。
たったそれだけで、胸がいっぱいになる。
こんなことを、自分はしたかったのだと思った。
ずっと。
寝床から見ていた頃から。
父と母とツバサの中に、自分も入りたかった。
同じものを作って、同じものを食べて、同じように笑いたかった。
ツカサは器を持つ手に力を込めた。
涙が落ちそうだった。
でも、ここでは泣きたくなかった。
ミカゲが不思議そうに見ている。
「ツカサ?」
「……うん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。
でも、昨日までの大丈夫とは少し違った。
苦しい。
痛い。
それでも、嫌ではない。
「また、手伝っていいですか」
ツカサは祖母に聞いた。
祖母は器を置いた。
「熱を出さないならね」
「出しません」
「雨の日に出歩かないなら」
「……出歩きません」
ミカゲが横から言う。
「私も見張る」
「ミカゲも出歩いた側だろう」
「う」
祖母に言われて、ミカゲは黙った。
ツカサは少しだけ笑った。
今度は、ミカゲも怒らなかった。
◇
その日の夕方。
片づけが終わったあと、ツカサは調理場の入り口に立っていた。
祖母は鍋を磨いている。
ミカゲは店の椅子で眠っていた。
昼間に少し動いたせいで疲れたのだろう。
ツカサは小さな声で言った。
「あの」
「何だい」
「今日、ありがとうございました」
「礼は食べた人に言いなさい」
「でも、教えてくれたのは祖母さんなので」
祖母は鍋を磨く手を止めない。
「料理を覚えたいなら、明日も早く起きなさい」
「はい」
「手を洗うところから」
「はい」
「そして、今日のことを忘れないこと」
「忘れません」
ツカサは即答した。
忘れない。
今日、初めて台所に立ったこと。
野菜を洗ったこと。
味を見たこと。
ミカゲがおいしいと言ったこと。
祖母が教えてくれたこと。
忘れたくなかった。
祖母は鍋を置き、ツカサを見た。
「ツカサ」
「はい」
「料理は、人を救うような大げさなものじゃない」
ツカサは黙って聞いた。
「でも、今日を越える力くらいにはなる」
祖母は言った。
「温かいものを食べて、眠って、また朝を迎える。その繰り返しで、人は少しずつ立つ」
ツカサは、店の椅子で眠るミカゲを見た。
昨日の雨。
今日の粥。
温かい野菜。
皿を拭いた手。
全部が、細い糸のように繋がっていた。
「だから、雑に扱うんじゃないよ」
「はい」
「人も、食べ物も、自分の手も」
ツカサは自分の手を見た。
壊すだけではなかった手。
今日、野菜を洗った手。
「はい」
もう一度、頷いた。
その夜、ツカサは布団に入ってからもなかなか眠れなかった。
でも、昨日とは違った。
胸の中に、不安だけではないものがあった。
小さな火のようなもの。
消えそうで、頼りなくて、それでも確かにあるもの。
料理を覚えたい。
温かいものを作れるようになりたい。
誰かに食べてもらいたい。
いつか。
いつか、自分の手で。
それは、夢と呼ぶには小さすぎるものかもしれない。
でもツカサにとっては、初めて自分から踏み出した一歩だった。
雨の日に連れ戻された家で。
祖母の店の台所で。
ミカゲの「おいしい」を聞いた、その日から。




