第14話「ハンバーグ」
翌朝、ツカサは祖母より先に起きた。
正確には、先に起きようとして失敗した。
階段を降りる頃には、もう調理場から水の音がしていた。
祖母はすでに立っていた。
「遅い」
祖母が振り返らずに言った。
「すみません」
「謝る前に手を洗いなさい」
「はい」
ツカサはすぐに水場へ向かった。
昨日教わった通り、爪の間まで洗う。
手首まで洗う。
祖母に見せる。
「もう一度」
「はい」
洗い直す。
今度は頷かれた。
「今日は昨日より少し多くやる」
「はい」
「けれど、包丁はまだ持たせない」
「はい」
「火も見ているだけ」
「はい」
ツカサは素直に頷いた。
昨日の一日で分かった。
料理は、見た目よりずっと怖い。
火も、刃物も、水も、食べ物も、全部扱い方を間違えれば台無しになる。
それなのに、正しく扱えば温かいものになる。
その差が、まだ不思議だった。
祖母は棚からいくつかの材料を取り出した。
肉。
玉ねぎ。
卵。
パン粉。
牛乳。
ツカサは、その並びを見た瞬間、息を止めた。
「今日は」
祖母が言った。
「ハンバーグを作る」
ツカサは動けなくなった。
聞き間違いかと思った。
けれど、目の前には肉がある。
玉ねぎがある。
卵がある。
自分が昔、何も知らずに真似しようとした料理に、足りなかったものたちが並んでいる。
祖母はツカサを見た。
「嫌ならやめる」
「嫌じゃないです」
すぐに答えた。
声が少し裏返った。
「やりたいです」
「そうかい」
祖母は頷いた。
「なら、よく見なさい」
◇
ミカゲは少し遅れて起きてきた。
寝癖が跳ねている。
眠そうに目をこすりながら、調理場を覗いた。
「今日なに?」
「ハンバーグ」
ツカサが言うと、ミカゲの目が少しだけ輝いた。
「ハンバーグ?」
「うん」
「おばあちゃんのハンバーグ?」
「今日はツカサも手伝う」
祖母が言った。
ミカゲは一瞬で目を覚ました。
「ほんと?」
「洗い物と混ぜるところだけだよ」
ツカサが慌てて言った。
「でも作るんでしょ?」
「少しだけ」
「すごい」
ミカゲは素直に笑った。
その笑顔が、ツカサにはまぶしかった。
まだ何もしていないのに。
まだ成功してもいないのに。
それなのに、ミカゲはもう嬉しそうだった。
「ミカゲも手伝いなさい」
祖母が言った。
「えっ」
「食べるだけの子に育てた覚えはないって昨日も言ったね」
「昨日より言い方が強い」
「毎日言えば覚えるだろう」
「うう……」
ミカゲは不満そうにしながらも手を洗った。
また祖母に洗い直しを命じられた。
ツカサは横で少しだけ笑った。
「今笑った」
「少し」
「昨日より正直」
「怒られるから」
ミカゲは頬をふくらませる。
祖母が二人を一瞥した。
「手を止めない」
「はい」
「はい」
また声が重なった。
◇
祖母は玉ねぎを手に取った。
「まず、玉ねぎ」
皮を剥き、半分に切る。
包丁がまな板を叩く音がする。
細かく、細かく、玉ねぎが刻まれていく。
ツカサは目を離さなかった。
「大きすぎると食感が悪い。細かすぎても水が出る」
「はい」
「肉だけ丸めても、ただの肉の塊になる」
その言葉に、ツカサの胸がきゅっと締まった。
祖母は知らない。
ツカサが昔、肉だけを丸めて焼いたことを。
パン粉も、牛乳も、玉ねぎも、卵も知らずに、ただ肉を握って焼いたことを。
焦げて、硬くて、噛むたびに悲しくなるようなものを、ハンバーグだと思おうとしたことを。
祖母は知らない。
でも、その言葉は真っ直ぐ刺さった。
「料理は、足すものにも意味がある」
祖母は刻んだ玉ねぎを小さな鍋に入れた。
「これは後で炒める。甘みを出すため」
「甘み」
「そう。肉の強さを和らげる」
ミカゲが首を傾げる。
「お肉強いの?」
「強いよ。肉は主張が強い」
「肉、偉そう」
「ミカゲよりは静かだね」
「おばあちゃん?」
祖母は平然と火を入れた。
ミカゲは不服そうだった。
ツカサはまた少し笑った。
こういう会話が、食卓の前から始まるのだと思った。
料理は、皿に乗る前からもう誰かの時間になっている。
祖母は玉ねぎを炒める。
透明に近づいていく。
香りが立つ。
ツカサはその匂いに目を細めた。
「焦がさない」
「はい」
「でも、生のままでもいけない」
「はい」
「ちょうどいいところを見る」
祖母は火を止めた。
小皿に移し、冷ます。
「熱いまま肉に入れるとよくない」
「冷ますんですか」
「そう。急ぐと失敗する」
ツカサは頷いた。
急ぐと失敗する。
昨日から何度も、祖母は似たようなことを言う。
力を入れすぎるな。
怖がりすぎるな。
急ぎすぎるな。
料理の話なのに、全部自分のことを言われているようだった。
◇
次に、祖母は大きな器を出した。
肉を入れる。
卵を割る。
パン粉を入れる。
牛乳を少し入れる。
「パン粉と牛乳は、柔らかくするため」
「柔らかく……」
「卵はつなぎ」
「つなぎ」
「塩と少しの香辛料」
「はい」
祖母は一つずつ説明した。
ツカサは全部聞いた。
全部覚えようとした。
食べ物には理由がある。
形にも、柔らかさにも、匂いにも、全部。
昔の自分は何も知らなかった。
肉を丸めればハンバーグになると思っていた。
名前だけ知っていて、中身を知らなかった。
だから失敗した。
それでも、あの時は本気だった。
あの小さな台所で、ひとりで肉を丸めて、どうにか家族みたいなものに近づきたかった。
「ツカサ」
祖母の声で、意識が戻った。
「はい」
「混ぜる」
祖母は器をツカサの前へ置いた。
ツカサは固まった。
「私が?」
「そうだよ」
「でも」
「手で混ぜる。怖いならやめる」
ツカサは器の中を見る。
肉。
卵。
パン粉。
牛乳。
玉ねぎ。
すべてがまだ別々にある。
これを、自分の手でひとつにする。
手を入れるのが怖かった。
汚すのも怖い。
壊すのも怖い。
でも、やりたかった。
「やります」
ツカサは言った。
祖母は頷く。
「力を入れすぎない。けれど、混ざるまではしっかり」
「はい」
「冷たいよ」
「はい」
ツカサは両手を器に入れた。
冷たい。
肉の冷たさが指にまとわりつく。
卵がぬるりと触れる。
パン粉が水分を吸っていく。
ツカサは思わず肩を震わせた。
ミカゲが横から覗く。
「冷たい?」
「冷たい」
「うわ、ほんとだ」
ミカゲが指先で少し触ってすぐ引っ込めた。
「私は見てる」
「手伝いなさい」
祖母が即座に言った。
「えぇ……」
「ミカゲは皿を用意」
「そっちならやる」
ミカゲは逃げるように皿を取りに行った。
ツカサは肉を混ぜた。
最初はぎこちなかった。
指先だけで触っていたら、祖母に言われる。
「それでは混ざらない」
「はい」
「握り潰すんじゃない。全体を合わせる」
「はい」
ツカサは少しずつ手を動かす。
別々だったものが、ひとつになっていく。
肉の赤に、玉ねぎの白が混ざる。
パン粉が消えていく。
卵が馴染んでいく。
形のないものが、だんだんまとまっていく。
ツカサは息を忘れそうだった。
自分の手が、壊していない。
自分の手が、何かを作る方へ動いている。
「そのくらい」
祖母が言った。
ツカサは手を止めた。
祖母は器の中を見て頷く。
「悪くない」
たったそれだけ。
でもツカサの胸は熱くなった。
「次は形を作る」
「はい」
「中の空気を抜く。割れないように」
祖母は手本を見せた。
丸めた肉を、手のひらから手のひらへ軽く投げるように移す。
ぱん、ぱん、と音がする。
「強く投げない」
「はい」
「怖がって弱すぎても抜けない」
「はい」
「手で覚える」
またそれだ。
手で覚える。
ツカサは肉を少し取った。
手のひらに乗せる。
柔らかい。
怖い。
でも、逃げない。
ぱん。
うまくいかず、形が崩れた。
「あ」
「直せばいい」
祖母が言う。
ツカサは形を整えた。
もう一度。
ぱん。
今度は少しだけできた。
ぱん。
ぱん。
丸い形になっていく。
真ん中を少しくぼませる。
「どうしてへこませるの?」
ミカゲが聞いた。
「焼くと膨らむから」
祖母が答える。
「へえ」
「ミカゲ、皿」
「やってるよ」
「一枚足りない」
「え、なんで」
「数えなさい」
「むむ」
ミカゲが皿を数え直す。
ツカサはそれを横目で見ながら、次の形を作った。
一つ。
二つ。
三つ。
不揃いだった。
祖母のものほど綺麗ではない。
大きさも少し違う。
でも、肉の塊ではなかった。
ちゃんと、ハンバーグの形をしていた。
◇
焼くのは祖母だった。
ツカサは横で見るだけ。
フライパンに油を引く。
肉を置くと、じゅう、と音が立った。
ツカサは少し肩を跳ねさせた。
香りが広がる。
肉の焼ける匂い。
玉ねぎの甘い匂い。
油の音。
火の熱。
全部が調理場を満たしていく。
「触らない」
「はい」
「焼き色がつくまで待つ」
「はい」
「何度も動かすと崩れる」
「はい」
待つ。
それも料理だった。
何かしたくなる。
手を出したくなる。
焦って裏返したくなる。
でも、待つ。
祖母は静かにフライパンを見ていた。
やがて、へらを差し込む。
ひっくり返す。
焼き色がついていた。
ツカサは息を呑んだ。
「きれい」
思わず言った。
祖母は少しだけ笑った。
「まだ完成じゃない」
蓋をする。
火を弱める。
中まで火を通す。
その間に、祖母は別の小鍋でソースを作った。
肉汁。
調味料。
少しの甘み。
煮詰まる香り。
ミカゲがそわそわし始めた。
「まだ?」
「まだ」
「いい匂い」
「まだ」
「お腹すいた」
「皿を並べなさい」
「並べた」
「箸」
「はいはい」
ミカゲがぱたぱた動く。
ツカサはフライパンから目を離せなかった。
蓋が開く。
湯気が上がる。
ハンバーグがそこにあった。
祖母が一つずつ皿に乗せる。
ソースをかける。
湯気の中で、艶が出る。
ツカサはそれを見て、手を握った。
ちゃんと、ハンバーグだった。
◇
三人で席についた。
祖母の店の一角。
まだ営業していない静かな店。
けれど今日は、少しだけ食堂らしい匂いがした。
ミカゲは目を輝かせている。
「食べていい?」
「いただきますが先」
祖母が言う。
「いただきます」
ミカゲはすぐに手を合わせた。
ツカサも、少し遅れて手を合わせる。
「いただきます」
その言葉を口にした瞬間、胸が詰まった。
いただきます。
言えば、返ってくる場所がある。
食べる相手がいる。
同じ皿を見ている人がいる。
昔、自分がほしかったものが、今ここにある。
ミカゲがハンバーグを切った。
柔らかそうに割れる。
湯気が上がる。
一口食べる。
目を丸くした。
「おいしい!」
その声は、店の中に明るく響いた。
ツカサは息を止めた。
「ほんとにおいしい。ツカサ、これ作ったんだよね?」
「混ぜただけ」
「でも作った」
「祖母さんが焼いたし」
「でも作った!」
ミカゲは譲らなかった。
「おいしいよ、ツカサ」
ツカサは自分の皿を見た。
手が震える。
祖母が何も言わずに見ている。
ツカサはハンバーグを切った。
中まで火が通っている。
肉だけではない。
玉ねぎが混ざっている。
パン粉も、牛乳も、卵も、全部が一緒になっている。
口に運ぶ。
柔らかい。
肉の味がする。
玉ねぎの甘さがある。
ソースの味がする。
ちゃんと、美味しかった。
昔作った、硬い肉の塊ではなかった。
ハンバーグだった。
ツカサは口の中のものを飲み込んだ。
次の瞬間、涙がこぼれた。
ミカゲが驚く。
「ツカサ?」
ツカサは手で拭おうとした。
でも、止まらなかった。
祖母が静かに言う。
「熱かったかい」
ツカサは首を振った。
「違います」
声が震える。
「おいしくなかった?」
ミカゲが不安そうに聞く。
「違う」
ツカサは必死に首を振った。
「おいしい」
涙が落ちる。
皿に落ちそうになって、慌てて俯く。
「おいしいです」
言葉にすると、余計に泣けた。
ずっと食べたかった。
ちゃんとした形のあるものを。
家族と同じものを。
誰かと一緒に作ったものを。
誰かと一緒に食べるものを。
「私、昔……」
ツカサは途切れ途切れに言った。
「ハンバーグ、作ろうとしたことがあって」
祖母もミカゲも黙っていた。
「でも、作り方知らなくて。お肉を丸めて焼いただけで」
情けない話だった。
でも、止められなかった。
「硬くて、全然おいしくなくて。でも、これがハンバーグだって思おうとして」
喉が詰まる。
「本当は、こういうのを、作りたかった」
涙が止まらない。
「お父さんと、お母さんと、ツバサと、一緒に」
ミカゲの顔が少し歪んだ。
ツカサは続けた。
「寝てるだけじゃなくて、一緒に台所に立ちたかった。手伝いたかった。いただきますって言って、同じものを食べたかった」
言ってしまった。
ずっと胸の奥で、言葉にならずに残っていたもの。
自分でも見ないふりをしていたもの。
「それが、したかった」
声が小さくなる。
「ずっと」
店の中は静かだった。
雨は降っていない。
けれどツカサの中では、ずっと降っていたものが少しだけ溢れていた。
ミカゲが席を立つ。
ツカサは一瞬身構えた。
けれど、ミカゲは近づきすぎず、隣の席に座り直した。
そして、自分の皿からハンバーグを一切れ切って、ツカサの皿の端に置いた。
「じゃあ、今日は一緒に食べたね」
ツカサはミカゲを見る。
ミカゲは真面目な顔をしていた。
「お父さんたちとは、できなかったかもしれないけど」
少しだけ言葉を探す。
「今日は、私とおばあちゃんと食べた」
ツカサの目からまた涙が落ちた。
「それじゃ、だめ?」
ミカゲが聞いた。
ツカサは何度も首を振った。
「だめじゃない」
声にならない声で答える。
「だめじゃない」
祖母は静かに箸を置いた。
「食べなさい」
その声は、少しだけ柔らかかった。
「冷める」
ツカサは泣きながら頷いた。
「はい」
ハンバーグを食べる。
涙で少し塩辛くなった。
それでも美味しかった。
ミカゲも食べる。
祖母も食べる。
三人で、同じ料理を食べた。
◇
食後、ツカサは皿を洗おうとして祖母に止められた。
「今日は泣いたから休みなさい」
「泣いたから、ですか」
「目元がひどい」
ミカゲが横から覗いた。
「ほんとだ。真っ赤」
「ミカゲもだよ」
「私は泣いてない」
「少し泣いてた」
「泣いてない」
「泣いてた」
「見間違い」
ミカゲはそっぽを向いた。
まあ、意地を張る九歳児である。見栄という名の薄い紙を大事に抱えて生きている。かわいいので許される。だいたい子どもはそういうズルをする。
祖母は二人を見て、わずかに息を吐いた。
「今日は皿は私が洗う」
「でも」
「明日からまたやりなさい」
「……はい」
ツカサは素直に下がった。
ミカゲも隣に立つ。
「ねえ、ツカサ」
「なに」
「また作って」
ツカサは目を瞬いた。
「ハンバーグ?」
「うん」
「まだ一人では作れない」
「じゃあ、作れるようになったら」
ミカゲは笑った。
「また食べたい」
ツカサの胸の奥に、小さな火が灯った。
昨日より少し強い火。
「……うん」
ツカサは頷いた。
「作れるようになる」
「約束?」
「約束」
ミカゲは満足そうに笑った。
ツカサはその笑顔を見た。
怖かった。
嬉しかった。
どちらも本当だった。
◇
夜。
ツカサは布団に入ってからも眠れなかった。
けれど、嫌な眠れなさではなかった。
手にまだ、肉を混ぜた感触が残っている気がした。
玉ねぎの匂い。
焼ける音。
ミカゲの「おいしい」。
祖母の「悪くない」。
全部が何度も蘇る。
そのたびに胸が痛む。
でも、その痛みは捨てたくなかった。
ツカサは布団の中で、そっと手を握る。
この手で、壊した。
この手で、奪った。
それは消えない。
でも今日、この手でハンバーグを作った。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
それも消えないでほしいと思った。
襖の向こうから、祖母の足音が聞こえた。
見回りだろう。
少しして、足音は遠ざかる。
ミカゲは隣の布団で眠っている。
寝息が静かに聞こえる。
ツカサは小さく呟いた。
「また、作るね」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ミカゲへ。
祖母へ。
もういない両親へ。
ツバサへ。
あるいは、昔の自分へ。
寝床から台所を見ているだけだった、何もできなかった自分へ。
「今度は、ちゃんと」
返事はなかった。
けれど、夜は少しだけ温かかった。
祖母の店の中には、今日作ったハンバーグの匂いが、まだほんの少し残っていた。




