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第15話「小さな仕事」

 ハンバーグを作った翌日から、ツカサの朝は少しだけ変わった。


 祖母より早く起きることは、まだ一度も成功していない。


 それでも、祖母が調理場に立つ頃には、すぐ隣に行くようになった。


 手を洗う。


 洗い直す。


 布巾を用意する。


 水桶の水を替える。


 皿を出す。


 野菜を洗う。


 できることは少ない。


 でも、何もできなかった昨日よりは増えていた。


「手が止まっているよ」


「はい」


「考えるのは悪くない。けど、手を止めていい理由にはならない」


「はい」


 祖母の言葉はいつも短かった。


 優しい言葉ではない。


 けれど、突き放す言葉でもなかった。


 ツカサはそれをひとつずつ受け取った。


 皿を拭く時、縁まで水滴が残っていないかを見る。


 床を掃く時、角に埃が残っていないかを見る。


 野菜を洗う時、葉の裏に泥が残っていないかを見る。


 米を研ぐ時、力を入れすぎていないか気をつける。


 どれも、小さなことだった。


 けれど、小さなことを重ねると、一日は少しずつ形になっていった。


 朝の支度。


 昼の食事。


 片づけ。


 洗濯。


 掃除。


 水汲み。


 店の前の簡単な掃き掃除。


 できることから。


 祖母は、何度もそう言った。


 ツカサはそのたびに頷いた。


     ◇


 ミカゲも少しずつ動くようになった。


 最初は、店の椅子に座っているだけだった。


 次に、箸を並べた。


 その次の日には、皿を運んだ。


 少し失敗して、皿を一枚落としかけた。


「割ってないから大丈夫」


 ミカゲは胸を張った。


「割りかけた時点で大丈夫ではないね」


 祖母が言う。


「でも割ってない」


「結果だけで威張らない」


「むう」


 ミカゲは頬をふくらませた。


 ツカサは横で皿を拭きながら、少しだけ笑った。


「また笑った」


「少しだけ」


「最近すぐ笑う」


「そんなことない」


「ある」


 ミカゲはそう言って、ツカサの手元を覗いた。


「それ、私もやる」


「皿拭き?」


「うん」


 ツカサは少し迷ってから、布巾を渡した。


「端まで拭くんだって」


「分かった」


「あと、強く持つと滑る」


「分かった」


「それから」


「ツカサ、おばあちゃんみたい」


 ミカゲが笑う。


 ツカサは少し固まった。


「……そう?」


「うん」


 ミカゲは悪気なく言った。


「言い方が似てる」


 ツカサは布巾を持つ手を見る。


 祖母みたい。


 それは、嬉しいと言っていいのか分からなかった。


 でも、嫌ではなかった。


 ミカゲは皿を拭き始めた。


 水滴が少し残っている。


 ツカサはそれを見つけて、言いかけた。


 けれど、すぐには言わなかった。


 ミカゲが自分で気づくかもしれない。


 しばらく見ていると、ミカゲは皿を光にかざして「あ」と声を出した。


「残ってた」


「うん」


「言ってよ」


「気づくかなって」


「む」


 ミカゲはもう一度拭いた。


 今度は綺麗だった。


「できた」


「うん」


「褒めて」


 ツカサは困った。


 褒める。


 どう言えばいいのか、一瞬分からなかった。


 でも、祖母ならどうするかを考えた。


「……悪くない」


「それ、おばあちゃん」


 ミカゲが笑った。


 祖母が調理場の奥から言う。


「私の真似をするなら、もう少し厳しくしなさい」


「厳しくしなくていいよ!」


 ミカゲが慌てて言う。


 ツカサは今度こそ、はっきり笑った。


     ◇


 数日後、祖母は店の戸を少しだけ開けた。


 まだ正式に営業を再開したわけではない。


 ただ、近所の人に頼まれた粥や煮物を渡すためだった。


 表に出るのは祖母。


 ツカサは奥にいる。


 ミカゲも隣にいる。


 ツカサはまだ、人の前に出るのが怖かった。


 街の人が怖い。


 自分を見る目が怖い。


 優しくされるのも、責められるのも怖い。


 何より、自分がここにいることを知られるのが怖かった。


 祖母は無理に出ろとは言わなかった。


「奥で皿を拭いていなさい」


 それだけだった。


 ツカサは頷いた。


 戸の向こうで、人の声がする。


「助かるよ」


「無理しないでね」


「ミカゲちゃんは大丈夫かい」


 祖母が答える。


「少しずつだよ」


「そうかい」


「何かあったら言いなさいよ」


「言うよ」


 そんな会話が聞こえた。


 ミカゲは奥で少し小さくなっていた。


 名前を呼ばれるたびに、肩が揺れる。


 ツカサはそれを見ていた。


「大丈夫?」


 小さく聞く。


 ミカゲは少しだけ驚いた顔をした。


 それから、ゆっくり頷く。


「うん」


 少し沈黙してから、ミカゲは言った。


「みんな、心配してくれてるのは分かるんだけど」


「うん」


「心配されると、泣きそうになる」


 ツカサは何も言えなかった。


 ミカゲは膝の上で手を握った。


「大丈夫って言わなきゃって思う」


「……言わなくてもいいんじゃないかな」


 自分で言ってから、ツカサは少し驚いた。


 そんなことを言える立場ではない気がした。


 けれど、言葉は出ていた。


 ミカゲも驚いたように見てくる。


「ツカサがそれ言う?」


「……うん」


「ツカサも大丈夫って言うじゃん」


「言う」


「じゃあ、だめじゃん」


「だめかも」


 二人は少しだけ見つめ合った。


 それから、ミカゲが小さく笑った。


「じゃあ、二人ともだめだね」


「うん」


「おばあちゃんに怒られるね」


「怒られる」


 ツカサも小さく笑った。


 ミカゲは少しだけ肩の力を抜いた。


 戸の外では、祖母が近所の人と話している。


 その声が、家の中に柔らかく入ってきた。


     ◇


 昼過ぎ、店に一人の女性が訪れた。


 祖母と同じくらい街の人に顔を知られている人だった。


 けれど、雰囲気はまるで違う。


 眠そうな目。


 ゆるくまとめた髪。


 肩から下げた鞄。


 歩き方は少しだるそうなのに、目だけは人をよく見ていた。


「やっほー。生きてる?」


 店の戸を開けて、女性はそんなことを言った。


 祖母が呆れた顔をする。


「縁起でもない挨拶をするんじゃないよ、エイル」


「いやいや、大事な確認だよ。元気ですかって聞いて元気じゃない人、元気ですって言うし」


「それはあんたもだろう」


「ばれたか」


 女性は軽く笑って、店の中へ入ってきた。


 エイル。


 街の診療所で働く看護師。


 そして、癒しの英雄。


 ツカサはその名前を、祖母と街の人の会話で聞いたことがあった。


 怪我や病気を治す力を持つ人。


 英雄。


 その響きだけで、少し身構えた。


 エイルはすぐにツカサに気づいた。


「あ」


 ツカサは体を強ばらせた。


 エイルはじっと見た。


 責めるような目ではなかった。


 探るような目でもない。


 ただ、状態を確認する目だった。


「君がツカサちゃん?」


 ツカサは小さく頷いた。


「……はい」


「そっかそっか」


 エイルはしゃがみ込んで、目線を少し近づけた。


 距離は近すぎない。


 手も伸ばしてこない。


 それが少し意外だった。


「顔色は悪くないね。寝られてる?」


「……はい」


「食べられてる?」


「はい」


「お腹痛いとか、頭痛いとかは?」


「ないです」


「えらい」


 エイルは軽く頷いた。


「じゃあ今日は見るだけ」


「見るだけ?」


「そう。無理に触らないよ。怖いでしょ」


 ツカサは返事に困った。


 怖い。


 でも、それを認めるのも怖かった。


 エイルは勝手に頷いた。


「怖いよね。知らない大人が急に手を伸ばしてきたら怖い。私でも嫌だし」


 そう言って、ゆるく笑う。


「だから、今日は顔を見るだけ。必要なら、おばあちゃんに言ってくれたらいいよ」


 祖母が横から言う。


「この子は口が軽いようで、診る時は真面目だよ」


「褒めてる?」


「半分はね」


「半分かぁ」


 エイルは肩をすくめた。


 ミカゲはエイルの顔を見ると、少し安心したように近づいた。


「エイルさん」


「お嬢ちゃん、顔がちょっと細くなったねえ」


「そう?」


「そう。ちゃんと食べてる?」


「食べてる」


「泣いてる?」


「……泣いてない」


「嘘だぁ」


 エイルはにやっと笑った。


「泣いた顔してる」


「してない」


「してるしてる。目元に出るんだよねえ」


 ミカゲは少しむっとする。


「エイルさん、意地悪」


「意地悪じゃないよ。観察」


「それも嫌」


「じゃあ、心配」


 エイルは少しだけ声を柔らかくした。


「泣ける時に泣いておきな。あとでまとめて来ると面倒だから」


 ミカゲは黙った。


 エイルはそれ以上言わない。


 鞄から包みを取り出し、祖母に渡した。


「薬草と、少しだけ消毒用。あと、子ども二人に甘いもの」


「また余計なものを」


「必要経費だよーん」


 エイルは軽く手を振る。


 包みの中には、小さな焼き菓子が入っていた。


 ミカゲの目が分かりやすく輝く。


 ツカサも少しだけ見てしまった。


 エイルはそれに気づいて、にっと笑う。


「食べられそうなら食べてね。甘いものは薬じゃないけど、まあ、ちょっと効く時もある」


 祖母が包みを受け取った。


「礼を言いなさい」


 ミカゲがすぐに言う。


「ありがとう!」


 ツカサも少し遅れて頭を下げた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 エイルは立ち上がる。


「じゃ、今日は帰るよ。顔見に来ただけだから」


「忙しいんじゃないのかい」


「忙しいよ。だから帰る」


 エイルは戸口へ向かった。


 途中で振り返り、ツカサを見る。


「できることからでいいよ」


 ツカサの目が少し揺れた。


 祖母と同じ言葉。


 でも、少し響きが違った。


「できないことまで背負うと、体の方が先に文句言うからね」


 エイルは自分の肩を軽く叩いた。


「体の文句は結構うるさい。聞いてあげな」


 そう言って、店を出ていった。


 戸が閉まる。


 ツカサはしばらく、その扉を見ていた。


     ◇


 夕方、祖母は焼き菓子を三つに分けた。


「一人一つ」


 ミカゲは嬉しそうに受け取る。


 ツカサは少し躊躇った。


「私は」


「一人一つと言っただろう」


「でも」


「でもじゃない」


 祖母は皿を置いた。


「差し入れだ。食べなさい」


 ツカサは小さく頷いた。


「はい」


 焼き菓子は甘かった。


 少し硬くて、噛むとほろっと崩れる。


 バターの匂いがした。


 ミカゲは嬉しそうに食べている。


「おいしい」


「うん」


 ツカサも答えた。


 甘いものを食べることに、少し罪悪感があった。


 でも、ミカゲが嬉しそうだから、少しだけ一緒に嬉しくなった。


「エイルさん、面白いよね」


 ミカゲが言う。


「うん」


「ちょっと変だけど」


「うん」


「でも、優しい」


 ツカサは焼き菓子を見つめた。


「……うん」


 優しい人。


 優しい大人。


 ツカサは、そういう人が怖かった。


 エーレもそうだった。


 祖母もそうだ。


 ミカゲも。


 そして、エイルも。


 優しい人に触れるたび、自分の中の汚れた部分が浮き上がる気がした。


 それでも、逃げるだけでは何も変わらない。


 昨日、ハンバーグを作った。


 今日、皿を拭いた。


 エイルに礼を言った。


 小さなこと。


 できることから。


 それしかない。


     ◇


 その夜、ツカサは祖母の横で洗濯物を畳んでいた。


 ミカゲはすでに眠っている。


 昼間少しはしゃいだから、疲れたのだろう。


 ツカサは小さな服を畳む。


 ミカゲの服。


 袖口に少しほつれがあった。


 ツカサは指先でそれに触れた。


「祖母さん」


「何だい」


「ここ、ほつれてます」


 祖母はちらりと見る。


「明日直すよ」


「直せるんですか」


「針と糸があればね」


「……それも、教えてもらえますか」


 祖母は少しだけツカサを見た。


「料理の次は繕い物かい」


「できた方がいいと思って」


「何でもできるようになろうとしすぎるのは、感心しないね」


 ツカサは肩を縮めた。


「すみません」


「でも、覚えて損はない」


 祖母はそう言って、服を受け取った。


「明日、見ていなさい」


「はい」


「針は危ない。勝手に持たない」


「はい」


「指を刺しても騒がない」


「……刺すんですか」


「最初はだいたい刺す」


 ツカサは少し不安になった。


 祖母は平然としている。


「痛いのも覚えるうちだよ」


「はい」


 ツカサは頷いた。


 痛いのも覚える。


 それもまた、できることの一つなのだろうか。


 まだ分からない。


 でも、知りたかった。


 ミカゲの服を直せるようになりたい。


 皿を拭けるように。


 野菜を洗えるように。


 ハンバーグを混ぜられるように。


 少しずつ。


 できることから。


     ◇


 布団に入る前、ツカサは台所を見た。


 火は落ちている。


 鍋も洗われている。


 皿は棚に戻っている。


 昼間の匂いは薄くなっていた。


 それでも、ここには一日の跡が残っていた。


 誰かが食べた跡。


 誰かが片づけた跡。


 誰かが生きていた跡。


 ツカサは自分の手を見る。


 今日も、この手は誰も傷つけなかった。


 皿を拭いた。


 野菜を洗った。


 焼き菓子を受け取った。


 服のほつれを見つけた。


 それだけ。


 それだけなのに、少し疲れていた。


 でも、悪い疲れではなかった。


「ツカサ」


 背後から祖母の声がした。


 ツカサは振り返る。


「はい」


「明日は少し早いよ」


「料理ですか」


「洗濯もある」


「はい」


「それと、ミカゲを起こしなさい。あの子は放っておくと朝を食べ損ねる」


「分かりました」


「無理に引っ張るんじゃないよ」


「はい」


 祖母は頷いた。


「おやすみ」


 ツカサは一瞬、返事が遅れた。


 それから小さく言う。


「おやすみなさい」


 その言葉を言える場所がある。


 朝になれば、またすることがある。


 それが怖くて、少しだけ嬉しかった。


 ツカサは部屋に戻る。


 布団に入る。


 隣ではミカゲが眠っていた。


 寝相が少し悪く、布団が半分ずれている。


 ツカサは迷ったあと、そっと布団を直した。


 触れすぎないように。


 起こさないように。


 ミカゲは小さく寝息を立てている。


 ツカサはその寝顔を見て、胸の奥で何かが静かに動くのを感じた。


 守りたい。


 その言葉は、まだはっきりとは浮かばなかった。


 けれど、近いものはあった。


 朝になったら起こす。


 ご飯を食べてもらう。


 服のほつれを直せるようになる。


 また、温かいものを作れるようになる。


 それくらいなら、今の自分にもできるかもしれない。


 できることから。


 小さく、小さく。


 ツカサは目を閉じた。


 明日の朝、また祖母の包丁の音が聞こえる。


 その音を、少しだけ待ちながら。

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