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第16話「街の人」

 店の戸が開くようになってから、家の中に入ってくる音が増えた。


 最初は、祖母の声だけだった。


「今日は粥だけだよ」


「煮物なら少しある」


「持って帰るなら器を返しなさい」


 それに混じって、近所の人の声がする。


「助かるよ」


「無理しないでね」


「ミカゲちゃんにもよろしく」


 ツカサは奥で皿を拭きながら、その声を聞いていた。


 まだ表には出ない。


 祖母も出ろとは言わない。


 ミカゲも、無理に連れていこうとはしない。


 ただ、店の中に人の気配が戻ってくるたびに、ツカサは少しだけ息を詰めた。


 ここは、祖母の店だ。


 祖母を慕っている人たちが来る場所だ。


 ミカゲを心配する人たちが来る場所だ。


 そこに自分がいる。


 それが、どうしても落ち着かなかった。


「手、止まってる」


 隣でミカゲが言った。


 ツカサははっとして、布巾を動かす。


「ごめん」


「私に謝られても」


「うん」


 皿の縁に残った水滴を拭う。


 ミカゲは横から覗き込んできた。


「今日、ちょっとだけお店の方出てみる?」


 ツカサの手が止まりかけた。


 けれど、すぐに動かす。


「……まだ」


「そっか」


 ミカゲはあっさり頷いた。


 それが少し意外で、ツカサはミカゲを見る。


「いいの?」


「いいよ」


「なんで」


「なんでって、嫌なんでしょ?」


「嫌というか」


「怖い?」


 ツカサは答えなかった。


 ミカゲは少しだけ考える顔をした。


「私も、ちょっと怖い」


「ミカゲも?」


「うん」


 ミカゲは膝の上で手を握る。


「みんな優しいけど、私を見ると、かわいそうって顔をするから」


 声は小さかった。


「それを見ると、両親がいないんだって思い出す」


 ツカサは皿を持ったまま動けなくなった。


 ミカゲは続ける。


「でも、おばあちゃんが言ってた。街の人は、勝手に心配して勝手に助けようとするけど、悪気はないって」


「……うん」


「だから、少しずつでいいんだって」


 ミカゲはツカサを見た。


「ツカサも少しずつでいいと思う」


 ツカサは布巾を握りしめた。


 少しずつ。


 できることから。


 最近、その言葉ばかり聞いている。


 でも、そのたびに少しだけ呼吸がしやすくなる。


「ありがとう」


 ツカサが言うと、ミカゲは少し得意げにした。


「どういたしまして」


 祖母の声が奥まで飛んでくる。


「二人とも、皿を割ってないだろうね」


「割ってない!」


 ミカゲが即答した。


 ツカサも慌てて言う。


「割ってません」


「返事だけは立派だね」


 祖母の声に、店の方から笑い声が起きた。


 それは軽い笑いだった。


 馬鹿にするものではない。


 ただ、この家に流れている日常の笑いだった。


 ツカサはその音を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。


     ◇


 昼過ぎ、祖母はツカサに籠を渡した。


「洗濯物を干すよ」


「はい」


「今日は裏庭じゃなくて、店の横に干す」


 ツカサは少しだけ固まった。


 店の横。


 人目につく場所だ。


 祖母は何も言わず、洗濯物を籠に入れていく。


 ミカゲが横から顔を出す。


「私も行く」


「なら、ミカゲは洗濯ばさみ」


「はーい」


 祖母はツカサを見た。


「嫌なら裏でいい」


 ツカサは籠の持ち手を握った。


 逃げたい。


 そう思った。


 でも、ミカゲが隣にいる。


 祖母もいる。


 洗濯物を干すだけだ。


 ただ、それだけ。


「行きます」


 そう答えると、祖母は頷いた。


「なら行くよ」


 店の横に出ると、陽射しが眩しかった。


 通りを人が歩いている。


 荷物を運ぶ男。


 子どもの手を引く女。


 店先を掃く老人。


 遠くで誰かが野菜を売っている声。


 笑い声。


 足音。


 ツカサは一瞬、息を止めた。


 どれも普通の音だった。


 でも、普通の音が怖かった。


 自分が混ざってはいけないもののように思えた。


 ミカゲが隣で洗濯ばさみを持っている。


「これ、どこ置く?」


「そこ」


 祖母が物干しの端を指す。


 ツカサは洗濯物を一枚取り出した。


 広げる。


 しわを伸ばす。


 干す。


 手が震えないように気をつける。


 ミカゲが端を押さえてくれた。


「こう?」


「うん」


「できた」


 ミカゲが少し笑う。


 その時、通りの向こうから声がした。


「あら、ミカゲちゃん」


 ツカサは肩を跳ねさせた。


 ミカゲも少しだけ固まる。


 声をかけてきたのは、中年の女性だった。


 手には買い物籠を持っている。


 顔には心配と安堵が混じっていた。


「外に出られるようになったのね」


 ミカゲは少し迷ってから、頷く。


「うん」


「よかった」


 女性は本当に嬉しそうに言った。


「おばあちゃんの手伝い?」


「洗濯物」


「偉いわねえ」


 ミカゲは少し照れたように、洗濯ばさみを握った。


「こっちは?」


 女性の目がツカサに向いた。


 ツカサの背中が強ばる。


 祖母がすぐに口を挟んだ。


「うちで預かっている子だよ」


「そうなの」


 女性はツカサをじっと見すぎなかった。


 ただ、柔らかく笑った。


「こんにちは」


 ツカサは喉が詰まった。


 挨拶。


 それだけ。


 返せばいい。


「……こんにちは」


 小さく返した。


 女性はにっこりした。


「お手伝い、偉いわね」


 ツカサは何も言えなかった。


 偉くない。


 そう思った。


 でも、言わなかった。


 女性は祖母に軽く会釈して、歩いていった。


 それだけだった。


 何も起きなかった。


 責められなかった。


 聞かれなかった。


 ただ、こんにちはと言われた。


 ツカサは洗濯物を持つ手を見た。


 ミカゲが横から小声で言う。


「できたじゃん」


「……挨拶だけ」


「挨拶、大事だよ」


 ミカゲは真面目に言った。


「おばあちゃんも言ってた」


 祖母が洗濯物を干しながら言う。


「挨拶を軽く見る子は、だいたい皿も軽く割る」


「それ関係ある?」


 ミカゲが聞く。


「ある」


「ほんと?」


「私があると言ったらある」


「強い」


 ミカゲが納得したような、していないような顔をする。


 ツカサは少しだけ笑った。


 また、洗濯物を干す。


 一枚ずつ。


 風に揺れる白い布を見ながら。


     ◇


 その日の夕方、店には数人が食事をしに来た。


 まだ本格的な営業ではない。


 祖母は「簡単なものだけ」と何度も言った。


 それでも、近所の人たちは嬉しそうに席についた。


「久しぶりだねえ」


「やっぱりここは落ち着く」


「無理はしないでよ」


「言われなくてもするもんかい」


 祖母が淡々と返すたび、客たちは笑った。


 ツカサは奥で茶を用意する手伝いをした。


 湯呑みを並べる。


 盆に乗せる。


 運ぶのは祖母だった。


 ツカサは入り口の影から見ているだけ。


 客たちはそれぞれに話していた。


 畑の話。


 隣の家の子が転んだ話。


 王都から来た商人の話。


 明日の天気の話。


 ミカゲの祖母の煮物はやっぱり薄味だけどちょうどいい、という話。


 祖母が「聞こえているよ」と言うと、また笑いが起きた。


 ツカサは不思議だった。


 誰かひとりが全部背負っているわけではない。


 この人たちは、それぞれの暮らしを持っている。


 店に来て、ご飯を食べて、話をして、帰っていく。


 祖母は料理を作る。


 客は食べる。


 誰かが野菜を作る。


 誰かが売る。


 誰かが運ぶ。


 誰かが直す。


 誰かが治す。


 誰かが笑う。


 そうやって、ここは続いている。


「何見てるの?」


 ミカゲが隣に来た。


 ツカサは少しだけ考えた。


「みんな、何かしてるんだなって」


「何か?」


「うん」


 ツカサは客席を見る。


「祖母さんは料理を作ってる。あの人は多分、野菜を売ってる人。あっちの人は、前に屋根を直してた」


「よく見てるね」


「見てただけ」


「それもすごいと思うけど」


 ミカゲはそう言って、店の中を見た。


「私も、何かできるかな」


「できると思う」


「何が?」


「分からない」


「分からないのに?」


「でも、ミカゲはミカゲだから」


 言ってから、ツカサは少し恥ずかしくなった。


 あまりうまい言葉ではなかった。


 けれど、ミカゲは少し目を丸くして、それから笑った。


「何それ」


「ごめん」


「謝らなくていいよ」


 ミカゲは店の中を見る。


「じゃあ、ツカサは?」


「私?」


「ツカサは何ができるようになりたい?」


 ツカサは答えに詰まった。


 料理。


 洗濯。


 掃除。


 繕い物。


 いくつか浮かぶ。


 でも、それを言うのが少し怖かった。


「まだ、分からない」


 そう答えた。


 ミカゲは頷いた。


「じゃあ、一緒だ」


「うん」


「一緒に探す?」


 ツカサはミカゲを見た。


 ミカゲは、当たり前みたいな顔をしている。


 一緒に。


 その言葉は、まだツカサには大きかった。


 でも、断りたくはなかった。


「……うん」


 小さく答える。


 ミカゲは満足そうに笑った。


     ◇


 数日後、エイルがまた店に来た。


「エイルさんからの差し入れだよーん」


 そう言って、紙袋を掲げている。


 中身は小さな焼き菓子だった。


 まただ。


 ミカゲの目が輝く。


 ツカサも少しだけ視線が向いてしまう。


 エイルはそれに気づいて、にやにやした。


「甘いものに反応するの、健康でよろしい」


「診察ですか」


 ツカサが小さく聞く。


「半分」


「半分?」


「もう半分は、私が食べたかった」


 エイルは堂々と言った。


「一人で食べるとちょっと寂しいじゃん?」


 祖母が呆れたように言う。


「診療所は暇なのかい」


「暇じゃないよ。だから休憩が必要なんだよ」


「休憩の名目でうちに来ているだけだろう」


「ばれてる」


 エイルは笑って席についた。


 祖母が茶を出す。


 ミカゲも向かいに座った。


 ツカサは少し離れた場所に立っていたが、エイルが手招きした。


「ツカサちゃんも座りなよ」


 ツカサは祖母を見る。


 祖母は頷いた。


「茶を飲むくらいならいい」


 ツカサはそっと座った。


 エイルは焼き菓子を一つずつ配る。


「最近どう?」


 軽い声だった。


 けれど、目はちゃんと見ている。


 ミカゲが先に答えた。


「洗濯物干した」


「おお、えらい」


「皿も拭いた」


「えらいえらい」


「ツカサはハンバーグ作った」


「それはすごい」


 エイルがツカサを見る。


「ほんと?」


「混ぜただけです」


「混ぜるの大事じゃん。混ざらないとハンバーグにならないし」


 ツカサは少しだけ目を伏せた。


「……はい」


「いいねえ」


 エイルは焼き菓子をかじる。


「できることが増えるのはいい。増えすぎるとしんどいけど」


 祖母が茶を飲みながら言う。


「あんたは自分に言いなさい」


「言われております」


 エイルは肩をすくめた。


 ミカゲが聞く。


「エイルさんは、なんで看護師になったの?」


「急に深いねえ」


「癒しの英雄だから?」


 エイルは少し考えた。


「それもある」


「それも?」


「力があるなら、使えるところにいる方がいいでしょ」


 エイルは自分の手をひらひらさせる。


「でも、癒せるからって、何でも治せるわけじゃないしね。薬もいるし、包帯もいるし、寝る場所もいるし、ご飯もいる。話を聞く人もいる」


 ツカサはエイルの手を見た。


 癒しの英雄。


 その力があっても、全部をひとりでできるわけではない。


「だから、診療所にいる」


 エイルは言った。


「私だけじゃなくて、いろんな人がいるから。薬を作る人、掃除する人、患者を運ぶ人、泣いてる子どもをなだめる人。誰かひとりだと、すぐ詰む。悲しいくらい簡単に詰む」


 エイルは茶を飲む。


「だから、みんなでやる」


 ミカゲは少し真面目な顔で聞いていた。


 ツカサも、同じだった。


 エイルは二人を見ると、少しだけ笑う。


「まあ、難しい話っぽく言ったけど、要するに手が足りないから手伝えってことだね」


「台無しじゃないですか」


 ミカゲが言う。


「分かりやすいでしょ」


 エイルは悪びれない。


 祖母が小さくため息をついた。


     ◇


 エイルが帰ったあと、祖母は店の戸を閉めた。


 夕暮れだった。


 空が橙に染まっている。


 店の中には、茶と焼き菓子の匂いが少し残っていた。


 ミカゲは椅子に座ったまま、足を揺らしている。


「みんなでやる、か」


 ぽつりと言った。


 ツカサは湯呑みを片づけながら頷く。


「うん」


「おばあちゃんも一人でやってるように見えるけど、違うんだね」


「多分」


「野菜売る人がいて、お客さんがいて、エイルさんがいて」


「うん」


「ツカサもいて」


 ツカサの手が止まった。


 ミカゲは続ける。


「私もいる」


 少しだけ照れたように笑う。


「まだ何もできないけど」


「皿、拭ける」


「それだけ?」


「洗濯物も干せる」


「あと?」


「……焼き菓子を嬉しそうに食べられる」


「それは仕事?」


「エイルさんは喜んでた」


 ミカゲは少し考えてから、胸を張った。


「じゃあ仕事」


 ツカサは笑った。


 ミカゲも笑う。


 祖母が奥から言った。


「笑っているなら手伝いなさい」


「はーい」


 ミカゲは椅子から降りる。


 ツカサも湯呑みを持って立ち上がる。


 店の片づけをする。


 椅子を戻す。


 机を拭く。


 床を掃く。


 小さな仕事がいくつもある。


 誰かがやらなければ、店は明日を迎えられない。


 ツカサは机を拭きながら、昼間の通りを思い出した。


 野菜を運ぶ人。


 屋根を直す人。


 子どもを叱る人。


 診療所へ向かうエイル。


 それぞれに役目がある。


 役目というほど大げさでなくても、やることがある。


 自分にも、何かあるのだろうか。


 まだ分からない。


 でも、今日は机を拭ける。


 明日は、洗濯物を干せる。


 いつか、ミカゲにまたハンバーグを作れるかもしれない。


 それだけは、少しだけ信じられた。


     ◇


 夜、ツカサは祖母に針を教わった。


 ミカゲの服のほつれを直すためだった。


 針は思ったより小さく、思ったより怖かった。


「布を持つ手に気をつける」


「はい」


「針先を見る」


「はい」


「焦らない」


「はい」


 一針目。


 指を刺した。


「痛っ」


 ツカサは思わず声を漏らした。


 ミカゲが横から心配そうに覗く。


「大丈夫?」


「大丈夫」


 指先に小さな血が滲んだ。


 祖母が布を渡す。


「押さえなさい」


「はい」


「だから言っただろう」


「はい」


「もうやめるかい」


 ツカサは首を振った。


「やります」


 祖母は少しだけ目を細めた。


「なら続ける」


 針を持ち直す。


 今度はもっとゆっくり。


 布に針を通す。


 糸を引く。


 曲がっている。


 不格好だった。


 でも、穴は少しずつ塞がっていく。


 ミカゲが横で見ている。


「すごい」


「曲がってる」


「でも直ってる」


 ツカサは小さく息を吐いた。


 直っている。


 壊れたものが、少しだけ戻っていく。


 完全ではない。


 跡も残る。


 それでも、着られるようになる。


 ツカサはもう一針、縫った。


 また少し曲がった。


 ミカゲはそれを見て言う。


「私、この縫い目好きかも」


「どうして」


「ツカサが直したって分かるから」


 ツカサは針を持つ手を止めた。


 ミカゲは何気なく言ったのだろう。


 でも、その言葉は胸の奥に残った。


 祖母が静かに言う。


「手を止めない」


「……はい」


 ツカサはまた縫った。


 不格好な縫い目が続く。


 けれど、それは確かに、ミカゲの服を繋いでいた。


     ◇


 眠る前、ミカゲは直った服を大事そうに畳んだ。


「明日着る」


「まだ下手だから」


「着る」


「目立つよ」


「いいよ」


 ミカゲは笑う。


「ツカサが直したんだから」


 ツカサは返事に困った。


 ミカゲはもう布団に入っている。


 祖母も奥の部屋へ戻った。


 夜の店は静かだった。


 昼間の声が嘘のように消えている。


 でも、寂しくはなかった。


 机がある。


 椅子がある。


 棚がある。


 畳んだ洗濯物がある。


 直した服がある。


 明日の朝に使う鍋がある。


 ツカサは布団に入る。


 隣でミカゲが眠りかけていた。


「ツカサ」


「なに」


「明日も、手伝おうね」


 眠そうな声だった。


 ツカサは少しだけ目を細める。


「うん」


「街の人、また来るかな」


「来ると思う」


「そっか」


 ミカゲは安心したように息を吐いた。


「おやすみ」


「おやすみ」


 ミカゲの寝息が少しずつ深くなる。


 ツカサは天井を見つめた。


 街の人。


 祖母。


 エイル。


 ミカゲ。


 みんな、それぞれに何かをしている。


 自分も、何かをできるようになりたい。


 誰かの今日を、少しだけ支えられるようになりたい。


 大きなことではなくていい。


 皿を拭く。


 野菜を洗う。


 服を直す。


 朝ご飯を作る。


 おかえりと言う。


 そんなことを、ひとつずつ。


 ツカサはそっと手を握った。


 指先には、針を刺した小さな痛みが残っている。


 その痛みが、なぜか少しだけ嬉しかった。


 明日もまた、店の戸が開く。


 誰かが来る。


 誰かが食べる。


 誰かが笑う。


 その中に、自分の小さな仕事が一つでもあればいい。


 そう思いながら、ツカサは目を閉じた。

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