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第17話「揺れ」

 日々は、少しずつ形を変えていった。


 朝になれば、祖母が台所に立つ。


 ミカゲは眠そうな顔で起きてきて、顔を洗う水が冷たいと文句を言う。


 ツカサはそれより少し早く起きて、言われる前に床を拭いたり、皿を並べたりする。


 最初は何をするにも祖母の指示を待っていた。


 けれど、今では少しずつ分かるようになっていた。


 この皿はこっち。


 この鍋は先に洗う。


 米は水を替えながら研ぐ。


 味噌は入れすぎない。


 火は強ければいいものではない。


 覚えることは多かった。


 でも、覚えていくことは嫌ではなかった。


「ツカサ、そこ、もう少し弱火」


「はい」


「ミカゲ、あんたはつまみ食いしない」


「してないよ」


「口の横」


「……これは違う」


「何が違うんだい」


 祖母が呆れる。


 ミカゲは慌てて口元を拭く。


 ツカサはそれを見て、少しだけ笑った。


 笑った自分に、少し驚いた。


 それから、また鍋に目を戻した。


 祖母の店は、以前ほどではないが、少しずつ人が戻ってきていた。


 昼時には湯気が立つ。


 誰かの話し声がする。


 箸が器に当たる音がする。


 ミカゲは時々、表に出て客と話した。


 祖母に叱られながら、水を運ぶこともあった。


 ツカサはまだ奥にいることが多かった。


 店に来る人たちは、奥にもう一人子どもがいることを、なんとなく察していたかもしれない。


 けれど、名前も顔も知らない。


 祖母がそうしていた。


 ツカサも、それに甘えていた。


 怖かったから。


 外へ出ることが。


 見知らぬ目に見られることが。


 優しくされることも、責められることも、どちらも怖かった。


 それでも、家の中は少しずつ怖くなくなっていった。


 祖母の声。


 ミカゲの足音。


 鍋の匂い。


 洗った布の手触り。


 そういうものが、毎日少しずつ積み重なっていった。


     ◇


 ある日の昼過ぎ、ミカゲは庭で木の棒を振っていた。


 剣ではない。


 ただの棒だった。


 それでも、ミカゲは真剣だった。


「足が止まってるよ」


 縁側に座った祖母が言う。


「止まってない」


「止まってる」


「見てた?」


「見てるから言ってるんだよ」


 ミカゲはむっとして、もう一度構えた。


 棒を振る。


 振り方はまだぎこちない。


 体も流れている。


 それでも、前よりはましになっていた。


 ツカサは洗濯物を畳みながら、それを見ていた。


 ミカゲはよく転ぶ。


 よく文句を言う。


 でも、やめない。


 その姿を見ていると、胸の奥が少し温かくなった。


「ツカサ」


 祖母に呼ばれ、ツカサは慌てて手元に目を戻した。


「はい」


「見ているだけなら、畳む手を動かしなさい」


「すみません」


「謝るより動く」


「はい」


 ミカゲが棒を構えたまま笑った。


「ツカサ、見てた?」


「少しだけ」


「どう?」


「頑張ってると思う」


「そこは、かっこいい、じゃないの?」


「……かっこいいです」


「遅い」


 ミカゲは不満そうに言いながらも、少し嬉しそうだった。


 ツカサはまた小さく笑う。


 祖母はそんな二人を見ていた。


 目元は柔らかかった。


 けれど、その奥に、ほんの少しだけ影があった。


     ◇


 変化に最初に気づいたのは、祖母だった。


 夕食の支度をしている時だった。


 ツカサが包丁を置いたまま、じっと手元を見ていた。


「どうした」


 祖母が聞く。


 ツカサははっと顔を上げた。


「いえ」


「指でも切ったかい」


「違います」


「じゃあ、何だい」


 ツカサは少し迷った。


 それから、小さく言った。


「今、変なことを思い出しそうになって」


 祖母の手が止まった。


「変なこと?」


「はい」


「どんな」


「……分からないです」


 ツカサは眉を寄せる。


「誰かが、泣いていた気がしました」


 祖母は何も言わなかった。


 ツカサは続けた。


「でも、思い出そうとすると、頭の中が白くなるんです」


「白く」


「はい」


 ツカサは自分の胸元を押さえた。


「それで、少し苦しくなります」


 祖母は、静かにツカサを見つめた。


 ツカサは困ったように笑った。


「すみません。変なことを言いました」


「謝らなくていい」


「でも」


「いいんだよ」


 祖母は包丁を置いた。


 そして、少しだけ声を低くした。


「そういうことは、前にもあったのかい」


 ツカサはしばらく考えた。


 考えようとして、目を細める。


 けれど、答えはなかなか出てこなかった。


「……分かりません」


「分からない?」


「前にもあった気がします」


 ツカサはゆっくり言う。


「でも、それもはっきりしません」


 祖母は息を呑みそうになった。


 けれど、堪えた。


 ツカサは気づかない。


 自分の中で起きていることを、うまく言葉にできないでいる。


 祖母には分かった。


 忘れようとしているのだ。


 この子は。


 あまりにも重いものを抱えたままでは生きられないから。


 心が、自分を守ろうとしている。


 祖母はそれを責められなかった。


 忘れた方が、この子は笑えるかもしれない。


 忘れた方が、ミカゲの隣に立てるかもしれない。


 けれど。


 忘れたままでいいのか。


 ミカゲの両親を奪ったこと。


 街を壊したこと。


 その事実を忘れたまま、ミカゲと共に生きていいのか。


 答えは出なかった。


 出せるはずがなかった。


「今日はもう、包丁は置きなさい」


 祖母は言った。


「え、でも」


「いいから」


 ツカサは戸惑ったが、頷いた。


「……はい」


「火の番だけしておくれ」


「はい」


 ツカサは素直に火の前へ移った。


 祖母はその横顔を見る。


 まだ幼い。


 幼くて、細くて、けれどいつも自分を責めるような顔をしている。


 そんな子が、忘れ始めている。


 忘れたいと願ったわけではないのだろう。


 ただ、耐えられないから、心が逃がしている。


 祖母は目を伏せた。


 嘘で守ることが正しいのか。


 真実で傷つけることが正しいのか。


 そのどちらかを選べるほど、祖母は強くなかった。


     ◇


 その夜、祖母は一人で長く起きていた。


 台所の火は落としてある。


 ミカゲは布団の中で眠っている。


 ツカサもその隣で、静かに寝息を立てていた。


 二人は同じ部屋で眠ることが増えていた。


 ミカゲがそうしたがったからだ。


 ツカサは最初、遠慮していた。


 けれど、ミカゲが当然のように布団を並べるので、最後には何も言わなくなった。


 祖母は襖の隙間から二人を見た。


 ミカゲは寝相が悪い。


 ツカサの方へ少し寄っている。


 ツカサは端の方で小さく丸まっている。


 まるで、自分が場所を取りすぎないようにしているみたいだった。


 祖母は静かに襖を閉めた。


 胸の奥が痛む。


 最近、咳が増えた。


 息が切れる日もある。


 包丁を握る手が重い。


 自分の体が、長くないことを少しずつ知らせてくる。


 まだ早い。


 そう思った。


 まだ、この子たちには早い。


 ミカゲは強がる。


 ツカサは抱え込む。


 どちらも、まだ子どもだ。


 この二人を残していくには、早すぎる。


 けれど、体は待ってくれない。


 祖母は台所の椅子に座った。


 小さく咳が出る。


 布で口元を押さえた。


 しばらくして、咳は止まった。


 祖母は布を握ったまま、目を閉じた。


 ミカゲに真実を伝えるべきか。


 ツカサに、忘れるなと言うべきか。


 それとも、このまま嘘の中で、少しでも穏やかな時間を与えるべきか。


 死ぬ前にすべてを正すべきだという考えはあった。


 でも、正しさは人を救うとは限らない。


 少なくとも祖母は、それを知っていた。


 優しい嘘。


 傷つけないための嘘。


 けれど、嘘はいつか形を変える。


 守るためについた嘘が、後で深く刺さることもある。


 祖母はそれも知っていた。


「……難儀だね」


 誰に言うでもなく呟いた。


 答える者はいなかった。


     ◇


 数日後、街に二人の英雄が訪れた。


 剣の英雄、グラン。


 盾の英雄、ライト。


 二人は数年前の災厄について調べているらしかった。


 街の人たちから話を聞いていた。


 あの時、何を見たか。


 どこで何が壊れたか。


 誰が亡くなったか。


 その話は、店の奥までは届かない。


 祖母が届かせなかった。


 店の戸口でグランたちを迎え、話は外で済ませた。


 ミカゲは少し離れた場所から、グランを見ていた。


 剣を持つ姿。


 まっすぐ立つ背。


 誰かを守るためにそこにいる人。


 ミカゲの目は、自然とその剣に向かっていた。


「剣の英雄……」


 小さく呟く。


 祖母はそれを聞いていたが、何も言わなかった。


 グランとライトは、祖母に礼を言って去っていった。


 去り際、ライトだけが少し祖母を見た。


「無理はなさらないように」


 祖母は笑った。


「年寄り扱いかい」


「体調が良くないように見えます」


「目がいいね」


「盾の役目ですので」


 ライトは静かに言った。


 グランが横から覗き込む。


「何か困ったことがあれば言ってください。俺たちも、しばらく近くにいますから」


「ありがとう」


 祖母はそう答えた。


 けれど、何も言わなかった。


 言えることは、いくつもあった。


 でも、どれも言わなかった。


     ◇


 その日の夕方、ミカゲは祖母に言った。


「私、剣を習いたい」


 祖母は驚かなかった。


 いつか言うだろうと思っていた。


 ミカゲは縁側の前に立っている。


 拳を握って、真剣な顔をしていた。


「グランさんに、教えてもらいたい」


 ツカサは少し離れたところで洗濯物を畳んでいた。


 手が止まる。


 祖母はミカゲを見る。


「何のために」


「守るため」


「誰を」


 ミカゲは一瞬だけ黙った。


 それから答える。


「おばあちゃん」


 祖母は何も言わない。


「ツカサ」


 ツカサの肩がわずかに揺れた。


「それから、この街」


 ミカゲの声は少し震えていた。


 けれど、目は逸らさなかった。


「あの時、私は逃げることしかできなかった」


「逃げたから、生きている」


「分かってる」


「なら」


「でも嫌だった」


 ミカゲは言った。


「何もできなかったのが、嫌だった」


 祖母は、ミカゲの顔を見た。


 明るくて、よく笑って、すぐ顔に出る子。


 その中に、あの日の傷がまだ残っている。


 癒えたわけではない。


 ただ、日々の中で少しずつ見えにくくなっていただけだった。


「剣を握るということは、人を守るだけじゃない」


 祖母は言った。


「人を傷つけることでもある」


「分かってる」


「分かっていないよ」


 ミカゲは唇を噛んだ。


 祖母は続ける。


「守るためと言えば、綺麗に聞こえる。けれど、その先で何を選ばされるかは分からない」


「それでも」


「それでも?」


「何もできないよりはいい」


 ミカゲははっきり言った。


「もう、隠れて震えるだけは嫌」


 祖母は深く息を吐いた。


 その言葉を否定することはできなかった。


 あの日、この子は確かに震えていた。


 そして、何もできなかったことを、今も抱えている。


 ミカゲもまた、別の形で自分を責めている。


 この家には、責任を背負いたがる子どもが二人もいる。


 まったく、困ったものだ。


 祖母は少しだけ眉を下げた。


「すぐに剣は握らせないよ」


 ミカゲの顔が上がる。


「じゃあ」


「まずは体を作りなさい。走る。転ぶ。起きる。棒を振るのはそれから」


「いいの?」


「考えると言ったんだよ」


「でも、だめとは言わなかった」


「都合よく聞くね」


 ミカゲは少しだけ笑った。


「ありがとう、おばあちゃん」


「まだ礼を言うところじゃない」


「言いたいから言ったの」


 祖母は呆れたように息を吐いた。


 ツカサはそのやり取りを見ていた。


 ミカゲは前に進もうとしている。


 自分は、まだ何かから目を逸らしている。


 その何かの形すら、もう分からなくなり始めている。


 それが怖かった。


 でも、思い出すのも怖かった。


     ◇


 その夜、ツカサは夢を見た。


 誰かが笑っていた。


 自分と似た声だった。


 でも、自分よりずっと明るい。


 手を引かれている。


 どこかへ行こうとしている。


 柔らかい手。


 小さな手。


 その子の髪が揺れる。


 名前を呼ぼうとした。


 けれど、声が出ない。


 次の瞬間、景色が赤くなった。


 誰かが泣いている。


 誰かが叫んでいる。


 自分の手が震えている。


 何か大切なものが、もう戻らない場所へ行ってしまった。


 そこで目が覚めた。


 ツカサは布団の中で、荒く息をしていた。


 隣でミカゲが寝ている。


 寝息は穏やかだった。


 ツカサは口元を押さえた。


 名前。


 夢の中の誰かの名前。


 思い出せない。


 思い出せないのに、胸が痛い。


 忘れてはいけない気がする。


 でも、思い出したら壊れてしまう気もする。


 ツカサは布団の端を握りしめた。


 涙は出なかった。


 ただ、息が苦しかった。


 襖の向こうで、わずかに物音がした。


 祖母が起きているのかもしれない。


 ツカサは声をかけようとして、やめた。


 言葉にしたら、何かが崩れる気がした。


 だから、目を閉じた。


 もう一度眠るためではない。


 何も見ないために。


     ◇


 祖母は、その夜も起きていた。


 襖の向こうから、ツカサが息を乱す音が聞こえていた。


 声をかけるべきか迷った。


 けれど、かけなかった。


 かければ、あの子はきっと謝る。


 大丈夫ですと言う。


 迷惑をかけてすみませんと言う。


 そういう子だ。


 祖母は小さく咳をした。


 胸が痛む。


 体の痛みなのか、心の痛みなのか、もう分かりにくかった。


 ツカサは忘れ始めている。


 ミカゲは剣を握ろうとしている。


 自分の体は、少しずつ衰えている。


 全部が同じ場所へ向かっているような気がした。


 穏やかな日々の下で、何かが揺れている。


 まだ崩れてはいない。


 けれど、いつか崩れるかもしれない。


 その時、自分はもうここにいないかもしれない。


 祖母は暗い台所で、しばらく座っていた。


 そして、ようやく立ち上がる。


 明日の米を研がなければならない。


 ミカゲは朝から騒がしい。


 ツカサは言われなくても動きすぎる。


 自分がいられるうちは、まだ日々を続けなければならない。


 祖母は水に手を入れた。


 冷たかった。


 それでも、米を研ぐ手は止めなかった。


 朝はまた来る。


 来てしまう。


 だから、その朝に二人が食べるものを用意する。


 それくらいしか、今の祖母にはできなかった。

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