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第18話「灯火」

 祖母が店に立てなくなったのは、秋の終わり頃だった。


 最初は、ほんの少しだった。


 朝、起きるのが遅くなる。


 包丁を握る前に、椅子に座る。


 咳が増える。


 火の前に立つ時間が短くなる。


 それでも祖母は、いつものように言った。


「年寄りはね、こういう日もあるんだよ」


 そう言われると、ミカゲは何も言えなくなった。


 ツカサも、何も言えなかった。


 けれど、何も言わない代わりに、二人は動いた。


 水を汲む。


 野菜を洗う。


 米を研ぐ。


 床を拭く。


 食器を並べる。


 祖母が一度言ったことを、ツカサはすぐに覚えた。


 ミカゲは途中で飽きたり、手順を間違えたりしたが、それでも投げ出さなかった。


「ミカゲ、そこは先に拭いてから置くんだよ」


「分かってるって」


「分かっている人の動きじゃないね」


「うっ」


 祖母が縁側からそう言うと、ミカゲは少しむくれながらやり直した。


 ツカサはそれを横目に見ながら、鍋の火を弱める。


 祖母はもう、ずっと立っていられない。


 それなら、立たなくても済むようにすればいい。


 火を見るのも、包丁を使うのも、重いものを持つのも、自分がすればいい。


 そう思っていた。


 祖母はそれに気づいているのか、時々ツカサを見ていた。


 何か言いたそうに。


 でも、すぐには言わなかった。


     ◇


 店は、開ける日よりも閉める日の方が増えた。


 表の戸には、祖母の字で書かれた札がかかる。


『本日休み』


 その札を見るたび、通りかかった人たちは少し足を止めた。


「おかみさん、大丈夫かね」


「無理しないでくれよ」


「また元気になったら食べに来るから」


 声は外から聞こえた。


 けれど、誰も奥まで入ってはこなかった。


 祖母がそうしていた。


 店の奥にいるツカサのことを、街の人たちは知らない。


 ミカゲと同じ年頃の少女が、祖母の家にいるらしい。


 その程度の噂なら、たぶんあった。


 けれど、名前も、顔も、事情も知られていない。


 祖母が隠していたからだ。


 ツカサも、自分から外には出なかった。


 出られなかった。


 怖かった。


 この街の人たちに見られることが。


 自分の中の何かを見透かされることが。


 何も知らない目で優しくされることも、怖かった。


 だからツカサは、戸の向こうの声だけを聞いていた。


 祖母が愛されている声。


 祖母の店を待つ声。


 ミカゲを気にかける声。


 その中に、自分はまだいない。


 それでいいと思った。


 そこに入る資格が、自分にあるとは思えなかった。


     ◇


 ある夜、祖母はツカサだけを呼んだ。


 ミカゲはもう眠っている。


 布団の中で、少し寝息を立てていた。


 祖母は奥の部屋で横になっていた。


 枕元の灯りが、小さく揺れている。


 ツカサは膝をそろえて座った。


「寒くないですか」


「寒くないよ」


「水、飲みますか」


「さっき飲んだ」


「薬は」


「飲んだ」


「じゃあ」


「ツカサ」


 祖母の声が、少しだけ強くなった。


 ツカサは口を閉じた。


 祖母はゆっくり息を吐いた。


「あんたはよく動くね」


「できることをしているだけです」


「そうだね」


 祖母は目を細める。


「でも、できることを全部しようとしなくていい」


 ツカサは首を振った。


「私は、何もできていません」


「できているよ」


「できていません」


 声が少しだけ震えた。


「まだ、店には立てません。街にも出られません。ミカゲの隣にも、ちゃんと立てているか分かりません」


 祖母は黙って聞いていた。


「それなのに、できることまでやらなかったら」


 ツカサは膝の上の手を握る。


「私は、ここにいていい理由がなくなります」


 灯りが揺れた。


 祖母は静かにツカサを見ていた。


 責める目ではなかった。


 でも、逃がさない目だった。


「あんたは、理由がないとここにいられないのかい」


 ツカサは答えられなかった。


 祖母は続ける。


「皿を洗うから。料理を覚えるから。ミカゲを守るから。店を手伝うから」


 ひとつひとつ、祖母は並べた。


「そういうものがないと、ここにいてはいけないと思っているのかい」


「……はい」


 ツカサは小さく答えた。


 祖母は困ったように笑った。


「あんたは、真面目すぎる」


「ごめんなさい」


「謝るところじゃない」


 祖母は少し咳き込んだ。


 ツカサが立ち上がろうとすると、祖母は手で制した。


「座っていなさい」


「でも」


「座って」


 ツカサは座り直した。


 祖母は息を整えてから言った。


「ツカサ。あんたは、ここにいていい」


 ツカサの指が震えた。


「理由があるからじゃない。役に立つからじゃない。ミカゲのためになるからでもない」


 祖母はまっすぐに言う。


「いていいんだよ」


 ツカサは顔を上げられなかった。


 その言葉は、優しいのに痛かった。


「……私には」


「資格がない?」


 祖母が先に言った。


 ツカサは何も言えない。


「資格なんてものはね、誰かが勝手に決めるものじゃない」


「でも」


「でも、じゃない」


 祖母の声は静かだった。


 それでも、ちゃんと叱っていた。


「あんたがここで生きるなら、これから先、いくらでも間違える。迷う。怖くなる。逃げたくもなる」


 ツカサは唇を噛む。


「それでも、ミカゲと仲良くしておくれ」


 ツカサの目が揺れた。


 祖母は続ける。


「あの子は強いようで、強くない。明るいようで、ずっと寂しがっている」


「……はい」


「それでも、あの子はあんたの前では笑う」


 ツカサは思い出す。


 雨の日。


 路地裏で座り込んでいた自分を見つけたミカゲ。


 怒って、泣きそうで、それでも手を差し出してくれたミカゲ。


「だから、あんたも笑ってやっておくれ」


「私が」


「そうだよ」


「私に、できますか」


「できるかどうかじゃない」


 祖母は薄く笑った。


「やるんだよ」


 ツカサの喉が詰まった。


 なんて乱暴な言い方だろうと思った。


 けれど、祖母らしかった。


「ミカゲと仲良くね」


 祖母はもう一度言った。


「それが、私からあんたへのお願いだ」


 ツカサは深く頭を下げた。


「……はい」


 声が震えた。


「はい」


     ◇


 次の日、祖母はミカゲを呼んだ。


 ツカサは台所にいた。


 鍋を見ているふりをした。


 でも、声は聞こえた。


「ミカゲ」


「なに?」


 ミカゲの声はいつもより明るかった。


 明るくしようとしている声だった。


 祖母はそれを分かっているように、ゆっくり言った。


「あんたに言っておくことがある」


「急にどうしたの」


「急じゃないよ。ずっと考えていた」


 ミカゲは黙った。


 祖母は少し間を置く。


「ミカゲを守れる人は、これから先もいるだろうね」


「……え?」


「グラン様のような人もいる。ライト様のような人もいる。エイル様だって、あんたを気にかけてくれている」


「うん」


「街の人たちもいる」


 祖母の声が柔らかくなる。


「あんたは、一人じゃない」


 ミカゲは少し黙ってから言った。


「でも、おばあちゃんがいないと」


「私は、いつまでもはいられない」


 その言葉で、部屋の空気が止まった。


 ツカサは鍋の前で動けなくなった。


「……そんなこと言わないでよ」


 ミカゲの声が小さくなる。


「言わなきゃいけないことだよ」


「嫌だ」


「ミカゲ」


「嫌だよ」


 祖母は何も言わなかった。


 しばらくして、布の擦れる音がした。


 たぶん、祖母がミカゲの手を握ったのだと思った。


「泣いていいんだよ」


「泣いてない」


「そうかい」


「泣いてないもん」


 声はもう、泣いていた。


 祖母は優しく言った。


「ツカサを守ってあげなさい」


 ミカゲの息が止まる。


「ツカサを?」


「そう」


「ツカサは、私よりずっとしっかりしてるよ」


「そう見えるね」


「料理もできるし、掃除もできるし、私より何でもできる」


「そうだね」


「だったら」


「あの子は、弱音を言うのが下手なんだよ」


 ミカゲは黙った。


 祖母は続ける。


「あの子が何か大切なことを言おうとしている時、軽く受け止めてはいけないよ」


「大切なこと?」


「そう」


「何を言うの?」


「それは私にも分からない」


 祖母は少し咳をした。


「でも、いつか言うかもしれない。言えないまま抱えるかもしれない」


 ミカゲは何も言わない。


「その時、ちゃんと聞いてあげなさい」


「……うん」


「驚いても、怖くても、怒ってもいい。けれど、聞く前に逃げてはいけない」


「うん」


「ツカサを守れるのは、あんただけになるかもしれない」


 ミカゲの声が震えた。


「私にできるかな」


「できるかどうかじゃない」


 祖母は昨日と同じことを言った。


「やるんだよ」


 ミカゲはしばらく黙っていた。


 そして、鼻をすすった。


「おばあちゃん、言い方がずるい」


「年寄りだからね」


「関係ないじゃん」


「あるよ。年寄りは少しずるくても許される」


「許さない」


「そうかい」


 祖母が小さく笑った。


 ミカゲも、泣きながら少し笑った。


「分かった」


 ミカゲは言った。


「私、ツカサを守る」


 ツカサは台所で立ち尽くしていた。


 鍋はもう、火を止めた方がよかった。


 でも、手が動かなかった。


     ◇


 祖母の体調は、それからさらに悪くなった。


 店は完全に閉まった。


 表には休みの札がかかりっぱなしになった。


 街の人たちは何度も様子を見に来た。


 戸の外で声をかける。


 食べ物を置いていく。


 薬を持ってくる。


 けれど、祖母は奥にいる子のことを話さなかった。


 ミカゲも話さなかった。


 ツカサは、そのたびに奥で息を殺した。


 守られている。


 そのことが分かった。


 分かるから、苦しかった。


 夜になると、ミカゲは一人で泣くようになった。


 布団に入る前。


 庭の隅。


 水を汲みに行った帰り。


 誰にも見られない場所を選んで、声を殺して泣いていた。


 ツカサは気づいていた。


 けれど、声をかけられない時があった。


 ミカゲは、昼間は明るく振る舞う。


 祖母の前では笑う。


「今日は転ばなかったよ」


「皿も割らなかった」


「ツカサが味噌汁作ったんだよ。ちょっとしょっぱかったけど」


「しょっぱくないです」


「しょっぱかった」


 そんなふうに、わざと何でもない話をする。


 祖母はそれを聞いて、目を細める。


 ツカサは横で静かに座る。


 その時間だけは、何かがまだ残っているような気がした。


 小さな灯り。


 消えかけているのに、まだ温かいもの。


     ◇


 ある日の夜、祖母は眠っていた。


 呼吸は浅い。


 ミカゲは祖母の手を握ったまま、うつむいていた。


 ツカサは少し離れたところで座っていた。


 何かをしなければと思う。


 けれど、何をしても足りなかった。


 水を用意しても。


 布を替えても。


 火を絶やさないようにしても。


 祖母の呼吸は、少しずつ遠くなっていく。


 ミカゲが小さく言った。


「ツカサ」


「うん」


「私、ちゃんとできるかな」


 ツカサは答えられなかった。


 ちゃんと、とは何か。


 祖母を見送ることか。


 泣かないことか。


 これからも生きることか。


 それとも、ツカサを守ることか。


 どれも、簡単にできるとは言えなかった。


 だからツカサは、少しだけ近づいた。


 ミカゲの隣に座る。


「分からない」


 正直に言った。


 ミカゲが顔を上げる。


「でも」


 ツカサは祖母を見る。


「私も、ちゃんとしたい」


 ミカゲの目が揺れた。


「一緒に?」


 ツカサは頷いた。


「一緒に」


 ミカゲは泣きそうな顔で笑った。


「そっか」


「うん」


「じゃあ、少しだけ大丈夫かも」


 その言葉を聞いて、ツカサの胸が痛んだ。


 大丈夫。


 そう言わせてしまっている。


 本当は大丈夫じゃないのに。


 でも、ミカゲは祖母の前では泣かなかった。


 祖母の手を握って、笑おうとしていた。


 ツカサも、その隣に座り続けた。


 灯りは小さく揺れていた。


 祖母の寝息は、細く、細くなっていく。


 それでもその夜は、まだ消えなかった。


 だから二人は、朝までそこにいた。


 何もできないまま。


 ただ、そばにいた。

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