第19話「ミカゲとツカサ」
祖母が亡くなった朝は、静かだった。
あまりにも静かで、ミカゲはしばらく気づかなかった。
握っていた手が、いつもより冷たい。
呼吸の音がしない。
それだけのことを、頭が受け入れなかった。
「おばあちゃん」
呼んでも、返事はなかった。
昨日までは、かすれた声でも返してくれた。
うるさいね、とか。
水はもう飲んだよ、とか。
少し寝かせておくれ、とか。
そういう、当たり前みたいな返事が、どこにもなかった。
「おばあちゃん」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
ミカゲの喉が震えた。
けれど、泣き声は出なかった。
隣にいたツカサも、動けなかった。
ただ、祖母の顔を見ていた。
眠っているように見える。
けれど、眠っているのとは違う。
それはもう、誰にも分かってしまう静けさだった。
ミカゲは祖母の手を握ったまま、じっと座っていた。
ツカサも、その隣にいた。
朝の光が、障子越しに部屋へ入ってくる。
その光はいつもと同じなのに、部屋の中だけが違っていた。
しばらくして、ミカゲが言った。
「知らせなきゃ」
声は思っていたよりも落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
ツカサはミカゲを見る。
ミカゲは立ち上がろうとして、少しふらついた。
ツカサは思わず手を伸ばした。
「ミカゲ」
「大丈夫」
ミカゲは言った。
「大丈夫だから」
その言葉は、自分に言い聞かせているみたいだった。
◇
知らせは、すぐに街へ広がった。
祖母の店の前に、人が集まり始めた。
誰も大きな声では話さなかった。
それでも、たくさんの足音があった。
戸の前で手を合わせる人。
食材を持ってくる人。
葬儀の準備を手伝おうとする人。
泣きながら、昔の話をする人。
「あの人の飯で、何度助けられたか」
「うちの子が熱を出した時も、粥を持ってきてくれてね」
「怒ると怖かったけどな」
「怖かった。ほんとに怖かった」
そう言って、少しだけ笑って、それからまた泣く。
祖母は街で愛されていた。
ツカサは奥の部屋にいた。
そこから、全部を聞いていた。
声だけで分かる。
祖母がどれだけ大事にされていたのか。
この店が、どれだけ街にとって大切な場所だったのか。
そして、その中に自分の名前はない。
当然だった。
街の人たちは、ツカサを知らない。
祖母が隠してくれていた。
守ってくれていた。
だから今も、ツカサは奥にいる。
表へ出る資格がない。
そう思うと、胸の奥が締めつけられた。
ミカゲは外にいた。
何度も、大人たちに声をかけられている。
「ミカゲちゃん、大丈夫かい」
「無理するんじゃないよ」
「寂しくないか」
「何か困ったことがあったら、必ず言いなさい」
ミカゲはそのたびに答えた。
「大丈夫です」
「平気です」
「一人じゃないから」
その声が聞こえるたび、ツカサは顔を上げた。
一人じゃないから。
ミカゲは何度もそう言った。
けれど、ツカサの名前は出さなかった。
出せるはずがない。
街の人たちはツカサを知らない。
祖母が、ツカサを守るために隠していたから。
ミカゲも、その嘘を守っている。
だからミカゲは、一人じゃないと言いながら、誰の名前も言えない。
そのことが、ツカサには痛かった。
痛くて、苦しくて、座っていられなくなった。
◇
葬儀は、祖母の店の前で行われた。
小さな店には入りきらないほど、人が来た。
王都から来ていたグランとライトも、遠くから静かに手を合わせていた。
エイルもいた。
彼女はいつものだらっとした空気を消して、静かにミカゲのそばに立っていた。
ミカゲは泣かなかった。
正確には、泣かないようにしていた。
目は赤い。
声も少し枯れている。
それでも、誰かに声をかけられるたびに、ちゃんと顔を上げていた。
「大丈夫です」
「ありがとうございます」
「おばあちゃんも、きっと喜んでます」
そう言うミカゲは、ひどく小さく見えた。
それでも、倒れなかった。
倒れないようにしていた。
ツカサは奥から見ていた。
戸の隙間。
ほんの少しだけ開いた場所から。
祖母の棺。
それを囲む街の人たち。
泣いている人。
手を合わせる人。
ミカゲに優しい言葉をかける人。
全部が、祖母の人生だった。
その中に、自分は入っていない。
けれど、祖母は自分にも言ってくれた。
ここにいていい。
ミカゲと仲良くね。
ツカサは拳を握った。
ずっと隠れていた。
祖母に守られていた。
ミカゲにも、守らせてしまっていた。
ミカゲは、一人じゃないと言っている。
でも、その理由を言えない。
それでいいのか。
祖母がいなくなった後も、自分は奥に隠れて、ミカゲにだけ背負わせるのか。
街の人たちが、ミカゲを心配している。
一人で大丈夫かと聞いている。
ミカゲは、大丈夫だと嘘をついている。
その嘘を、自分は聞いているだけなのか。
ツカサは息を吸った。
足が震えた。
怖い。
表に出るのが怖い。
知られるのが怖い。
拒まれるのが怖い。
でも、それよりも怖いことがあった。
ミカゲが、自分の名前を出せないまま、一人じゃないと言い続けること。
その方が、ずっと怖かった。
◇
葬儀の終わり際だった。
街の人たちが少しずつ帰り始める。
それでも、店の前にはまだ多くの人が残っていた。
ミカゲは棺のそばに立っていた。
エイルがそっと肩に手を置く。
「大丈夫?」
ミカゲは小さく頷いた。
「はい」
「大丈夫じゃない顔してるけどねぇ」
「……大丈夫です」
「そっか」
エイルはそれ以上、無理に聞かなかった。
その時だった。
店の奥から、戸が開く音がした。
小さな音だった。
けれど、その場にいた何人かが振り返った。
ミカゲも振り返る。
ツカサが立っていた。
水色の髪。
少し長く伸びた髪を、簡単に結んでいる。
顔色は悪い。
けれど、目は逸らしていなかった。
街の人たちはざわついた。
「誰だい」
「ミカゲちゃんの知り合い?」
ツカサは一歩、外へ出た。
日差しが眩しかった。
視線が痛かった。
それでも、足を止めなかった。
ミカゲが小さく言う。
「ツカサ……?」
その声を聞いた瞬間、ツカサの胸が震えた。
自分の名前。
ミカゲが、みんなの前で初めて呼んだ名前。
ツカサは棺の前まで歩いた。
祖母の前で立ち止まる。
そして、街の人たちに向き直った。
まず、深く頭を下げた。
「すみません」
声は震えていた。
「私は、ツカサといいます」
ざわめきが少し止まる。
ミカゲは動けなかった。
ツカサは頭を下げたまま続けた。
「私は、ずっとこの家にいました」
その言葉に、周囲がまた揺れる。
「でも、皆さんには何も言えませんでした。祖母さんに、隠してもらっていました」
祖母さん。
その呼び方に、ミカゲの目が揺れた。
ツカサはゆっくり頭を上げた。
街の人たちの顔を見る。
知らない顔が多い。
でも、声は知っている。
戸の外から聞いていた声。
祖母を慕っていた声。
ミカゲを心配していた声。
「私は、まだ皆さんに何かを言える立場じゃありません」
ツカサはそう言った。
「この街のことも、皆さんのことも、ちゃんと知っているわけじゃありません。表にも出られませんでした。ずっと、守られていました」
ミカゲが唇を噛んだ。
ツカサは棺を見る。
「祖母さんにも、たくさん守ってもらいました」
声が詰まりそうになる。
けれど、飲み込んだ。
「私は、祖母さんみたいにはなれません」
街の人たちは黙っていた。
「祖母さんみたいに、誰にでも明るく声をかけられません。皆さんの話を聞いて、笑って、怒って、あの店をあんなふうに温かい場所にすることも、きっとできません」
ツカサの手が震えた。
「それでも」
一歩、前に出る。
「祖母さんが作ってくれた料理を、少しだけ知っています」
ミカゲの目から涙が落ちた。
「教えてもらいました。包丁の持ち方も、米の研ぎ方も、味噌汁の味も、ハンバーグの作り方も」
ツカサは言葉を止めなかった。
止めたら、もう言えなくなる気がした。
「同じ雰囲気の店にはできません。祖母さんみたいにはできません。でも」
声が強くなる。
「同じような料理なら、作れます」
その瞬間、ツカサの膝が少し折れた。
頭を下げるだけでは足りない。
そう思った。
自分がここにいたいと願うには、あまりにも足りない。
ツカサは膝をついた。
地面に手をつく。
額が、冷たい土に近づく。
ミカゲが息を呑んだ。
「私をこの街にいさせてください!!」
ツカサは言った。
声が震えていた。
でも、消えなかった。
「私は、まだ何もできません!皆さんに受け入れてもらえるようなことも、何ひとつしていません!」
額を下げる。
「でも、ここにいたいです!」
街のざわめきが消えた。
「ミカゲと一緒にいたいです!」
ミカゲの涙が止まらなくなる。
「祖母さんが守ってくれたこの場所で、ミカゲと一緒に過ごしたいです、」
ツカサは土に手を押しつけた。
「祖母さんのような店は作れないかもしれません。でも、祖母さんが教えてくれた味を、忘れたくありません」
声が少し崩れる。
「この街で、ミカゲと一緒に、生きていきたいです!」
誰もすぐには答えなかった。
ツカサは頭を下げたまま動かなかった。
沈黙が長かった。
長すぎるほどだった。
やがて、一人の老人が言った。
「顔を上げなさい」
ツカサは動けなかった。
「そんなに頭を下げ続けられると、こっちが困る」
少しだけ、笑い混じりの声だった。
ツカサはゆっくり顔を上げた。
老人は祖母の常連だった。
何度も戸の外から声だけを聞いたことがある。
「おかみさんが隠してたってことは、守りたかったんだろう」
別の女性が言った。
「なら、私らがいきなり追い出すわけにはいかないね」
「料理、作れるのかい」
誰かが聞く。
ツカサは慌てて頷いた。
「はい。まだ、上手ではないですけど」
「おかみさんの味を知ってるなら、十分だよ」
「いや、十分かどうかは食べてからだろ」
その言葉に、少しだけ笑いが起きた。
泣き声の混じった、ぎこちない笑いだった。
ツカサはそれを聞いて、目を見開いた。
拒まれなかった。
それだけで、胸がいっぱいになった。
ミカゲが駆け寄ってきた。
「ツカサ」
ツカサは顔を上げる。
ミカゲは泣いていた。
ずっと我慢していた涙が、もう止まらなくなっていた。
「ごめん」
ツカサが言う。
「勝手に、こんな」
ミカゲは首を振った。
何度も振った。
「違う」
声が震える。
「違うよ」
そして、街の人たちを見た。
ミカゲは涙を拭わなかった。
泣いたまま、はっきりと言った。
「寂しいです」
初めての本音だった。
「おばあちゃんがいなくなって、すごく寂しいです」
誰も口を挟まなかった。
「でも」
ミカゲはツカサの手を握った。
「私には、ツカサがいます」
ツカサの手が震えた。
ミカゲはその手を強く握る。
「だから、一人じゃないです」
その言葉を聞いて、ツカサはとうとう涙をこぼした。
ミカゲも泣いていた。
二人とも、子どもみたいに泣いていた。
街の人たちは、それを静かに見守っていた。
祖母の棺の前で。
たくさんの人の前で。
やっと、二人は並んで立った。
隠された子と、強がっていた子ではなく。
ミカゲとツカサとして。
祖母が残した場所で、二人は初めて、この街に名前を置いた。




