表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/59

第19話「ミカゲとツカサ」

 祖母が亡くなった朝は、静かだった。


 あまりにも静かで、ミカゲはしばらく気づかなかった。


 握っていた手が、いつもより冷たい。


 呼吸の音がしない。


 それだけのことを、頭が受け入れなかった。


「おばあちゃん」


 呼んでも、返事はなかった。


 昨日までは、かすれた声でも返してくれた。


 うるさいね、とか。


 水はもう飲んだよ、とか。


 少し寝かせておくれ、とか。


 そういう、当たり前みたいな返事が、どこにもなかった。


「おばあちゃん」


 もう一度呼ぶ。


 返事はない。


 ミカゲの喉が震えた。


 けれど、泣き声は出なかった。


 隣にいたツカサも、動けなかった。


 ただ、祖母の顔を見ていた。


 眠っているように見える。


 けれど、眠っているのとは違う。


 それはもう、誰にも分かってしまう静けさだった。


 ミカゲは祖母の手を握ったまま、じっと座っていた。


 ツカサも、その隣にいた。


 朝の光が、障子越しに部屋へ入ってくる。


 その光はいつもと同じなのに、部屋の中だけが違っていた。


 しばらくして、ミカゲが言った。


「知らせなきゃ」


 声は思っていたよりも落ち着いていた。


 落ち着きすぎていた。


 ツカサはミカゲを見る。


 ミカゲは立ち上がろうとして、少しふらついた。


 ツカサは思わず手を伸ばした。


「ミカゲ」


「大丈夫」


 ミカゲは言った。


「大丈夫だから」


 その言葉は、自分に言い聞かせているみたいだった。


     ◇


 知らせは、すぐに街へ広がった。


 祖母の店の前に、人が集まり始めた。


 誰も大きな声では話さなかった。


 それでも、たくさんの足音があった。


 戸の前で手を合わせる人。


 食材を持ってくる人。


 葬儀の準備を手伝おうとする人。


 泣きながら、昔の話をする人。


「あの人の飯で、何度助けられたか」


「うちの子が熱を出した時も、粥を持ってきてくれてね」


「怒ると怖かったけどな」


「怖かった。ほんとに怖かった」


 そう言って、少しだけ笑って、それからまた泣く。


 祖母は街で愛されていた。


 ツカサは奥の部屋にいた。


 そこから、全部を聞いていた。


 声だけで分かる。


 祖母がどれだけ大事にされていたのか。


 この店が、どれだけ街にとって大切な場所だったのか。


 そして、その中に自分の名前はない。


 当然だった。


 街の人たちは、ツカサを知らない。


 祖母が隠してくれていた。


 守ってくれていた。


 だから今も、ツカサは奥にいる。


 表へ出る資格がない。


 そう思うと、胸の奥が締めつけられた。


 ミカゲは外にいた。


 何度も、大人たちに声をかけられている。


「ミカゲちゃん、大丈夫かい」


「無理するんじゃないよ」


「寂しくないか」


「何か困ったことがあったら、必ず言いなさい」


 ミカゲはそのたびに答えた。


「大丈夫です」


「平気です」


「一人じゃないから」


 その声が聞こえるたび、ツカサは顔を上げた。


 一人じゃないから。


 ミカゲは何度もそう言った。


 けれど、ツカサの名前は出さなかった。


 出せるはずがない。


 街の人たちはツカサを知らない。


 祖母が、ツカサを守るために隠していたから。


 ミカゲも、その嘘を守っている。


 だからミカゲは、一人じゃないと言いながら、誰の名前も言えない。


 そのことが、ツカサには痛かった。


 痛くて、苦しくて、座っていられなくなった。


     ◇


 葬儀は、祖母の店の前で行われた。


 小さな店には入りきらないほど、人が来た。


 王都から来ていたグランとライトも、遠くから静かに手を合わせていた。


 エイルもいた。


 彼女はいつものだらっとした空気を消して、静かにミカゲのそばに立っていた。


 ミカゲは泣かなかった。


 正確には、泣かないようにしていた。


 目は赤い。


 声も少し枯れている。


 それでも、誰かに声をかけられるたびに、ちゃんと顔を上げていた。


「大丈夫です」


「ありがとうございます」


「おばあちゃんも、きっと喜んでます」


 そう言うミカゲは、ひどく小さく見えた。


 それでも、倒れなかった。


 倒れないようにしていた。


 ツカサは奥から見ていた。


 戸の隙間。


 ほんの少しだけ開いた場所から。


 祖母の棺。


 それを囲む街の人たち。


 泣いている人。


 手を合わせる人。


 ミカゲに優しい言葉をかける人。


 全部が、祖母の人生だった。


 その中に、自分は入っていない。


 けれど、祖母は自分にも言ってくれた。


 ここにいていい。


 ミカゲと仲良くね。


 ツカサは拳を握った。


 ずっと隠れていた。


 祖母に守られていた。


 ミカゲにも、守らせてしまっていた。


 ミカゲは、一人じゃないと言っている。


 でも、その理由を言えない。


 それでいいのか。


 祖母がいなくなった後も、自分は奥に隠れて、ミカゲにだけ背負わせるのか。


 街の人たちが、ミカゲを心配している。


 一人で大丈夫かと聞いている。


 ミカゲは、大丈夫だと嘘をついている。


 その嘘を、自分は聞いているだけなのか。


 ツカサは息を吸った。


 足が震えた。


 怖い。


 表に出るのが怖い。


 知られるのが怖い。


 拒まれるのが怖い。


 でも、それよりも怖いことがあった。


 ミカゲが、自分の名前を出せないまま、一人じゃないと言い続けること。


 その方が、ずっと怖かった。


     ◇


 葬儀の終わり際だった。


 街の人たちが少しずつ帰り始める。


 それでも、店の前にはまだ多くの人が残っていた。


 ミカゲは棺のそばに立っていた。


 エイルがそっと肩に手を置く。


「大丈夫?」


 ミカゲは小さく頷いた。


「はい」


「大丈夫じゃない顔してるけどねぇ」


「……大丈夫です」


「そっか」


 エイルはそれ以上、無理に聞かなかった。


 その時だった。


 店の奥から、戸が開く音がした。


 小さな音だった。


 けれど、その場にいた何人かが振り返った。


 ミカゲも振り返る。


 ツカサが立っていた。


 水色の髪。


 少し長く伸びた髪を、簡単に結んでいる。


 顔色は悪い。


 けれど、目は逸らしていなかった。


 街の人たちはざわついた。


「誰だい」


「ミカゲちゃんの知り合い?」


 ツカサは一歩、外へ出た。


 日差しが眩しかった。


 視線が痛かった。


 それでも、足を止めなかった。


 ミカゲが小さく言う。


「ツカサ……?」


 その声を聞いた瞬間、ツカサの胸が震えた。


 自分の名前。


 ミカゲが、みんなの前で初めて呼んだ名前。


 ツカサは棺の前まで歩いた。


 祖母の前で立ち止まる。


 そして、街の人たちに向き直った。


 まず、深く頭を下げた。


「すみません」


 声は震えていた。


「私は、ツカサといいます」


 ざわめきが少し止まる。


 ミカゲは動けなかった。


 ツカサは頭を下げたまま続けた。


「私は、ずっとこの家にいました」


 その言葉に、周囲がまた揺れる。


「でも、皆さんには何も言えませんでした。祖母さんに、隠してもらっていました」


 祖母さん。


 その呼び方に、ミカゲの目が揺れた。


 ツカサはゆっくり頭を上げた。


 街の人たちの顔を見る。


 知らない顔が多い。


 でも、声は知っている。


 戸の外から聞いていた声。


 祖母を慕っていた声。


 ミカゲを心配していた声。


「私は、まだ皆さんに何かを言える立場じゃありません」


 ツカサはそう言った。


「この街のことも、皆さんのことも、ちゃんと知っているわけじゃありません。表にも出られませんでした。ずっと、守られていました」


 ミカゲが唇を噛んだ。


 ツカサは棺を見る。


「祖母さんにも、たくさん守ってもらいました」


 声が詰まりそうになる。


 けれど、飲み込んだ。


「私は、祖母さんみたいにはなれません」


 街の人たちは黙っていた。


「祖母さんみたいに、誰にでも明るく声をかけられません。皆さんの話を聞いて、笑って、怒って、あの店をあんなふうに温かい場所にすることも、きっとできません」


 ツカサの手が震えた。


「それでも」


 一歩、前に出る。


「祖母さんが作ってくれた料理を、少しだけ知っています」


 ミカゲの目から涙が落ちた。


「教えてもらいました。包丁の持ち方も、米の研ぎ方も、味噌汁の味も、ハンバーグの作り方も」


 ツカサは言葉を止めなかった。


 止めたら、もう言えなくなる気がした。


「同じ雰囲気の店にはできません。祖母さんみたいにはできません。でも」


 声が強くなる。


「同じような料理なら、作れます」


 その瞬間、ツカサの膝が少し折れた。


 頭を下げるだけでは足りない。


 そう思った。


 自分がここにいたいと願うには、あまりにも足りない。


 ツカサは膝をついた。


 地面に手をつく。


 額が、冷たい土に近づく。


 ミカゲが息を呑んだ。


「私をこの街にいさせてください!!」


 ツカサは言った。


 声が震えていた。


 でも、消えなかった。


「私は、まだ何もできません!皆さんに受け入れてもらえるようなことも、何ひとつしていません!」


 額を下げる。


「でも、ここにいたいです!」


 街のざわめきが消えた。


「ミカゲと一緒にいたいです!」


 ミカゲの涙が止まらなくなる。


「祖母さんが守ってくれたこの場所で、ミカゲと一緒に過ごしたいです、」


 ツカサは土に手を押しつけた。


「祖母さんのような店は作れないかもしれません。でも、祖母さんが教えてくれた味を、忘れたくありません」


 声が少し崩れる。


「この街で、ミカゲと一緒に、生きていきたいです!」


 誰もすぐには答えなかった。


 ツカサは頭を下げたまま動かなかった。


 沈黙が長かった。


 長すぎるほどだった。


 やがて、一人の老人が言った。


「顔を上げなさい」


 ツカサは動けなかった。


「そんなに頭を下げ続けられると、こっちが困る」


 少しだけ、笑い混じりの声だった。


 ツカサはゆっくり顔を上げた。


 老人は祖母の常連だった。


 何度も戸の外から声だけを聞いたことがある。


「おかみさんが隠してたってことは、守りたかったんだろう」


 別の女性が言った。


「なら、私らがいきなり追い出すわけにはいかないね」


「料理、作れるのかい」


 誰かが聞く。


 ツカサは慌てて頷いた。


「はい。まだ、上手ではないですけど」


「おかみさんの味を知ってるなら、十分だよ」


「いや、十分かどうかは食べてからだろ」


 その言葉に、少しだけ笑いが起きた。


 泣き声の混じった、ぎこちない笑いだった。


 ツカサはそれを聞いて、目を見開いた。


 拒まれなかった。


 それだけで、胸がいっぱいになった。


 ミカゲが駆け寄ってきた。


「ツカサ」


 ツカサは顔を上げる。


 ミカゲは泣いていた。


 ずっと我慢していた涙が、もう止まらなくなっていた。


「ごめん」


 ツカサが言う。


「勝手に、こんな」


 ミカゲは首を振った。


 何度も振った。


「違う」


 声が震える。


「違うよ」


 そして、街の人たちを見た。


 ミカゲは涙を拭わなかった。


 泣いたまま、はっきりと言った。


「寂しいです」


 初めての本音だった。


「おばあちゃんがいなくなって、すごく寂しいです」


 誰も口を挟まなかった。


「でも」


 ミカゲはツカサの手を握った。


「私には、ツカサがいます」


 ツカサの手が震えた。


 ミカゲはその手を強く握る。


「だから、一人じゃないです」


 その言葉を聞いて、ツカサはとうとう涙をこぼした。


 ミカゲも泣いていた。


 二人とも、子どもみたいに泣いていた。


 街の人たちは、それを静かに見守っていた。


 祖母の棺の前で。


 たくさんの人の前で。


 やっと、二人は並んで立った。


 隠された子と、強がっていた子ではなく。


 ミカゲとツカサとして。


 祖母が残した場所で、二人は初めて、この街に名前を置いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ