第20話「二人の日々」
葬儀が終わっても、祖母の店はしばらく閉まったままだった。
表には、相変わらず休みの札がかかっている。
けれど、その札を見る街の人たちの目は、少しだけ変わった。
以前は、祖母の体調を心配する目だった。
今は、残された二人を気にかける目だった。
「ミカゲちゃん、何か足りないものはないかい」
「重いものがあったら持っていくよ」
「火の始末だけは気をつけなさいよ」
そう声をかけられるたびに、ミカゲは頭を下げた。
「ありがとうございます」
前よりも、少しだけ素直に。
ツカサは最初、そのたびに奥へ引っ込みそうになった。
でも、ミカゲが手首を掴んで止めた。
「逃げない」
「逃げてない」
「一歩下がった」
「それは、少し移動しただけ」
「逃げたって言うんだよ、それ」
ミカゲがそう言うと、ツカサは少しだけ困った顔をした。
それでも、今度は奥へ戻らなかった。
街の人たちに見られる。
名前を呼ばれる。
話しかけられる。
その全部に、まだ慣れない。
けれど、逃げてばかりではいられない。
祖母の前で言った。
この街にいたいと。
ミカゲと一緒に生きていきたいと。
その言葉は、まだツカサの中で熱を持っていた。
◇
店を再び開けたのは、葬儀から十日ほど経った日の昼だった。
長く開けるつもりはなかった。
昼の少しの時間だけ。
出すものも、ひとつだけ。
祖母がよく作っていた、野菜の煮込みと麦飯。
それだけだった。
朝からツカサは台所に立っていた。
米を研ぐ手が、少し震えている。
包丁を握る指先にも力が入りすぎていた。
「ツカサ、玉ねぎ薄すぎない?」
「薄い方が火が通りやすい」
「でも、おばあちゃんのはもうちょっと形残ってなかった?」
「……そうだったかもしれない」
「味見した?」
「三回した」
「しすぎじゃない?」
「足りないよりはいい」
そう言いながら、ツカサはまた小皿に汁を取った。
ミカゲは隣からそれを覗き込んで、少し笑った。
「緊張してる?」
「してない」
「してるじゃん」
「してない」
「じゃあなんでさっきから同じ皿三回拭いてるの」
ツカサは手元を見た。
たしかに、同じ皿を拭いていた。
ミカゲが笑う。
「大丈夫だよ」
その言葉に、ツカサは顔を上げた。
ミカゲは少しだけ胸を張っていた。
「おばあちゃんと同じじゃなくても、ツカサの料理でしょ」
「でも」
「でもじゃない」
ミカゲは祖母の真似をするように言った。
「やるんだよ」
ツカサは一瞬だけ目を丸くした。
それから、困ったように笑った。
「ずるい」
「年寄りじゃないけどね」
「本当にずるい」
◇
店の戸を開けると、すでに数人が待っていた。
多くは祖母の常連だった。
いつも窓際に座っていた老人。
大きな声で笑う魚屋の男。
野菜を届けてくれる女性。
それから、少し離れたところにエイルもいた。
白っぽい上着を肩に引っ掛けて、眠そうな顔をしている。
「開いたねぇ」
エイルがひらひら手を振った。
「おめでとう、でいいのかな。まあ、違ってたらあとで直すよ」
相変わらずゆるい声だった。
けれど、その目は優しかった。
ツカサは深く頭を下げた。
「今日は、少しだけです」
「少しでいいよ。最初から張り切ると、あとで倒れるからねぇ」
「はい」
「返事が真面目。百点」
エイルはそう言って笑った。
店の中に人が入る。
祖母がいた頃より、少し静かだった。
祖母なら、入ってきた瞬間に「今日は何にするんだい」と声をかけていた。
誰かが冗談を言えば、すぐに言い返していた。
今のツカサには、それはできない。
注文を聞く声も固い。
皿を置く手も慎重すぎる。
ミカゲは水を配りながら、それを横目で見ていた。
少し危なっかしい。
でも、逃げてはいない。
それが嬉しかった。
「いただきます」
最初に老人が手を合わせた。
その声に、ツカサの肩がわずかに跳ねる。
皆が料理を口に運ぶ。
沈黙。
短いはずなのに、ひどく長い沈黙だった。
ツカサは息を止めていた。
やがて老人が言った。
「うん」
それだけだった。
ツカサの顔が強張る。
老人は続けた。
「おかみさんの味とは違うな」
「……はい」
「ちょっと優しすぎる」
魚屋の男も汁を飲んで言った。
「塩が足りねえな」
ツカサは小さく頷いた。
「すみません」
「いや、悪いとは言ってねえよ」
男は麦飯をかき込んだ。
「ただ、あのばあさんの味はもっと遠慮がなかった」
「そうそう。あんたのは遠慮してる味だね」
野菜を届けてくれる女性が笑った。
「もっと堂々と作りなさいよ。食べる側もその方が楽しいから」
ツカサは目を伏せた。
怒られているわけではない。
突き放されているわけでもない。
ただ、足りないところを言われている。
次があるみたいに。
また食べに来るつもりみたいに。
そのことに、胸が詰まった。
「はい」
ツカサはもう一度頷いた。
「次は、もう少し濃くします」
「濃くしすぎたら文句言うけどな」
魚屋の男が言う。
「え」
「そりゃ言うだろ。客だぞ」
「……はい」
「そこで真面目に受け取るんじゃないよ」
店の中に、小さな笑いが起きた。
祖母の店とは違う。
けれど、冷たい場所ではなかった。
ミカゲは水差しを抱えたまま、少しだけ泣きそうになった。
それをごまかすように、声を張った。
「おかわりいる人!」
「店員がそんなに勢いよく聞くもんかね」
エイルが笑う。
「いいじゃん。初日だし」
「初日だからこそ落ち着きなよ、お嬢ちゃん」
「エイルさんも食べる?」
「食べる食べる。エイルさん空腹で倒れちゃう」
「癒しの英雄なのに?」
「癒しの英雄もお腹は減るんだよ。都合よくできてないからねぇ」
その言葉に、また少し笑いが起きる。
ツカサは台所からそれを見ていた。
祖母のいた場所。
自分にはまだ遠すぎる場所。
それでも、その端に指先だけ触れられた気がした。
◇
店を閉めたあと、ツカサは椅子に座り込んだ。
疲れ切っていた。
昼の短い時間だけだったのに、全身が重い。
ミカゲが向かいに座って、にやにやしている。
「疲れてる」
「疲れてない」
「嘘」
「……少し」
「かなりでしょ」
ツカサは反論しなかった。
できなかった。
ミカゲは机に頬杖をつく。
「でも、よかったね」
ツカサはゆっくり頷いた。
「うん」
「文句言われてたけど」
「うん」
「塩足りないって」
「うん」
「遠慮してる味って」
「覚えてる」
「じゃあ次は?」
「もう少し、堂々と作る」
ツカサがそう言うと、ミカゲは満足そうに笑った。
「よろしい」
「ミカゲは何様なの」
「店主の相棒」
「相棒」
「嫌?」
ツカサは少し考えた。
それから首を振った。
「嫌じゃない」
ミカゲは嬉しそうに笑った。
ツカサも、ほんの少し笑った。
◇
その日の夕方、ミカゲはグランを探しに行った。
グランは街外れの広場にいた。
大きな木の下で、木剣を振っている。
力任せではない。
一振りごとに、空気が整うような剣だった。
踏み込み。
腰の回転。
刃筋。
ミカゲには詳しいことは分からない。
それでも、綺麗だと思った。
強いだけではない。
まっすぐで、迷いがない。
剣の英雄。
幼い頃から聞いていた、街を守る英雄のひとり。
その背中は、やはり眩しかった。
グランは素振りを止めて、振り返った。
「お、ミカゲ」
「……こんにちは」
「どうした? 店、今日は開けたんだろ。疲れてないのか?」
「疲れてるのはツカサです」
「だろうな」
グランは笑った。
「お前も働いたんじゃないのか?」
「私は水を配っただけです」
「それも仕事だろ」
そう言われて、ミカゲは少し黙った。
それから、まっすぐグランを見る。
「お願いがあります」
グランの表情が少し変わった。
ふざけた空気が消える。
「言ってみろ」
「剣を教えてください」
風が通った。
グランはすぐには答えなかった。
ミカゲの目を見る。
子どもの思いつきか。
憧れだけか。
それとも、もっと深いものか。
そう確かめるような目だった。
「理由は?」
「守りたいからです」
ミカゲは答えた。
迷わなかった。
「誰を」
「ツカサを」
グランは少しだけ眉を動かした。
ミカゲは続ける。
「おばあちゃんが言いました。ツカサを守ってあげなさいって」
「そうか」
「でも、今の私には何もできません」
声が震えそうになる。
ミカゲは唇を結んで、こらえた。
「おばあちゃんがいなくなって、ツカサは表に出てきました。あの子は頑張っています。怖いのに、逃げないでいます」
グランは黙って聞いていた。
「だったら、私も何かしたい」
「剣じゃなくてもいいだろ」
「剣がいいです」
ミカゲは即答した。
自分でも少し驚くほど、早かった。
「どうして」
「かっこいいから」
グランが目を丸くした。
ミカゲは恥ずかしそうに、けれど目を逸らさずに言った。
「それだけじゃないです。でも、それもあります」
グランは一瞬黙ったあと、声を上げて笑った。
「ははっ、正直だな」
「笑わないでください」
「悪い悪い。でも、嫌いじゃない」
グランは木剣を肩に担いだ。
「剣を握る理由なんて、最初はそれくらいでいい。かっこいい。守りたい。強くなりたい。何でもいい」
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、握ったあとに何を斬るかは、ちゃんと考えろ」
ミカゲは頷いた。
「はい」
「剣は便利じゃない。持てば全部守れるわけでもない。むしろ、持ったせいで傷つけることもある」
「分かっています」
「分かってない」
グランはすぐに言った。
強い言葉ではなかった。
けれど、逃がさない言葉だった。
「今はまだ、分からなくていい。ただ、分かったつもりにはなるな」
ミカゲは少しだけ息を呑んだ。
それから、もう一度頷いた。
「はい」
「よし」
グランは近くに置いていた予備の木剣を拾い、ミカゲに投げた。
ミカゲは慌てて受け取る。
「うわっ」
「受け取れたな」
「急に投げないでください」
「剣を持つなら、急なことにも慣れろ」
「雑じゃないですか?」
「雑じゃない。実践的と言え」
グランはにやりと笑った。
「構えてみろ」
ミカゲは木剣を握った。
思っていたより重い。
両手で持つと、腕に力が入る。
「力みすぎ」
グランがすぐに言った。
「え」
「肩。あと肘。ついでに顔」
「顔も?」
「怖い顔してる」
「真剣なんです」
「真剣すぎると体が動かない」
グランはミカゲの周りを歩きながら、軽く姿勢を直した。
「足はもう少し開け。腰を落とす。剣先は下げすぎない。相手を見る。でも睨むな」
「難しいです」
「最初から簡単だったら俺が泣く」
「剣の英雄なのに?」
「剣の英雄にも誇りがあるんだよ」
ミカゲは少し笑った。
グランも笑う。
「じゃあ、振ってみろ」
ミカゲは木剣を振った。
ぶん、と鈍い音がした。
剣筋は大きくぶれた。
体も少し持っていかれる。
「おっと」
グランが支える。
「今ので魔物がいたら、お前が転んで終わりだな」
「ひどい」
「事実だ」
「もう一回」
「いいぞ」
ミカゲはもう一度振った。
今度は少しだけましだった。
けれど、まだ重い。
腕が痛い。
手のひらも痛い。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
グランの剣のようには程遠い。
でも、一歩目だった。
◇
夜、ミカゲは手のひらにできた赤みをツカサに見せた。
「見て」
ツカサは眉をひそめた。
「痛そう」
「痛い」
「なんで少し嬉しそうなの」
「剣の訓練したから」
ツカサの表情が止まった。
「剣?」
「うん。グランさんに教えてもらうことにした」
「どうして」
「守るため」
ミカゲは即答した。
「ツカサを」
ツカサは何も言えなくなった。
ミカゲは照れくさそうに笑う。
「まだ全然だめだったけどね。振っただけで腕持っていかれたし、グランさんには顔が怖いって言われたし」
ツカサはミカゲの手をそっと取った。
赤くなった手のひらを見る。
「無理しないで」
「ツカサもね」
ミカゲがすぐに返す。
ツカサは言葉に詰まった。
ミカゲは笑う。
「お互い様でしょ」
「……うん」
「だから、今日は手当てして」
ミカゲは少し得意げに手を差し出した。
「私はツカサの料理を手伝った。ツカサは私の手を手当てする。これで半分こ」
「それ、半分こなのかな」
「半分こ」
「分かった」
ツカサは薬箱を取ってきた。
祖母が使っていたものだった。
軟膏を少し指に取り、ミカゲの手に塗る。
ミカゲはくすぐったそうに指を動かした。
「動かない」
「はい」
「しみる?」
「ちょっと」
「我慢して」
「はい」
ツカサの手つきは丁寧だった。
痛くないように。
跡が残らないように。
ミカゲの手を、大事なもののように扱っていた。
ミカゲはそれを見ながら、少しだけ胸が温かくなった。
「ねえ、ツカサ」
「何?」
「今日の料理、私は好きだったよ」
ツカサの手が止まる。
「塩、足りなかったけど」
「そこは言わなくていい」
「でも好きだった」
ミカゲは笑った。
「ツカサの味だった」
ツカサは何も言わなかった。
ただ、ミカゲの手に布を巻いた。
少しだけ時間をかけて。
「ありがとう」
小さな声だった。
ミカゲは首を傾げる。
「どっちの?」
「両方」
「じゃあ、どういたしまして」
◇
その夜、二人は同じ部屋で眠った。
祖母の部屋には、まだ入れなかった。
店の奥の小さな部屋に、布団を二つ並べる。
灯りを消すと、外の虫の音が聞こえた。
祖母がいた時と同じ家。
でも、もう祖母はいない。
その事実は、夜になると輪郭を強くした。
ミカゲは布団の中で、天井を見ていた。
「ツカサ」
「うん」
「今日、店を開けてよかった?」
少し沈黙があった。
それから、ツカサが答えた。
「怖かった」
「うん」
「でも、よかった」
「そっか」
「ミカゲは?」
「グランさんの訓練、怖かった」
「うん」
「でも、楽しかった」
「そっか」
似たような答えに、二人は少しだけ笑った。
暗い部屋の中で、その笑い声は小さく響いた。
ミカゲは横を向いた。
ツカサの顔は暗くてよく見えない。
でも、そこにいることは分かった。
「明日も、店やる?」
「少しだけ」
「私も手伝う」
「訓練は?」
「する」
「忙しいね」
「ツカサもでしょ」
「うん」
ツカサは小さく頷いた。
「忙しい」
「でもさ」
ミカゲは目を閉じた。
「二人なら、なんとかなる気がする」
ツカサはすぐには答えなかった。
でも、しばらくしてから言った。
「私も」
その声は、まだ頼りなかった。
けれど、確かに前を向いていた。
祖母のいない家で。
祖母の残した店で。
二人の日々が、少しずつ始まっていく。
悲しみが消えたわけではない。
寂しさがなくなったわけでもない。
それでも朝は来る。
店の戸は開く。
鍋には火が入る。
剣は振られる。
手のひらには赤みが残り、料理にはまだ足りない味がある。
けれど、それでよかった。
足りないものを、二人で少しずつ埋めていけばいい。
そう思える夜だった。




