第21話「朝を迎えるということ」
店を開ける時間は、少しずつ長くなっていった。
最初は昼のほんの少しだけ。
次は昼の終わりまで。
それから、夕方前まで。
無理をしないように、少しずつ。
ツカサは毎朝、祖母が残した帳面を開いた。
そこには仕入れの数や、常連の好みや、季節ごとの献立が細かく書かれていた。
字は丸くて、ところどころ乱れている。
けれど、不思議と読みやすかった。
誰が何を好きか。
誰には味を少し薄めにするか。
誰が来ると魚がよく出るか。
誰が嫌いな野菜を残すか。
そんなことまで書いてある。
祖母らしいと思った。
厳しくて、よく怒って、でも結局、誰のこともよく見ていた。
「今日は魚屋さんが来る日だから、汁は濃いめ」
ツカサが帳面を見ながら言う。
隣でミカゲが頷いた。
「魚屋さん、濃い味好きだもんね」
「でも濃くしすぎると、野菜の人が文句を言う」
「あの人、しょっぱいの苦手だから」
「だから鍋を分ける」
「できるの?」
「やってみる」
ツカサはそう言って、袖をまくった。
台所には、朝の匂いが満ちていた。
炊きたての麦飯。
刻んだ野菜。
煮立つ汁。
焼ける魚の脂。
祖母がいた頃とは、少し違う匂い。
けれど、もう空っぽではなかった。
ミカゲは水桶を運びながら、それを見ていた。
ツカサの動きは、以前より迷いが少なくなっている。
包丁を持つ手も安定してきた。
味見の回数も、少し減った。
それでも、ひとつ作るたびに真剣すぎる顔をするから、ミカゲはたまに笑ってしまう。
「何?」
ツカサが顔を上げる。
「真面目だなって」
「料理は真面目にするもの」
「うん。でも顔が怖い」
「ミカゲも剣の訓練の時、顔が怖い」
「それは言わなくていい」
「言われたから返しただけ」
ツカサは淡々と言った。
ミカゲはむっとした顔をする。
それを見て、ツカサがほんの少し笑った。
その笑い方も、前より自然になっていた。
◇
昼になると、店に人が入ってきた。
「お、今日は魚か」
魚屋の男が入るなり鼻を鳴らした。
「はい。濃いめです」
ツカサがそう言うと、男は満足そうに席へ座った。
「分かってきたじゃねえか」
「帳面に書いてありました」
「おかみさんめ、そんなことまで書いてたのか」
「はい」
「余計なことを」
そう言いつつ、男は少し嬉しそうだった。
野菜を届けてくれる女性も、店に入ってきた。
「私のは薄めでお願いね」
「分かっています」
「あら、頼もしい」
ツカサは別の小鍋から汁をよそった。
女性はそれを見て、少し驚いた顔をする。
「ちゃんと分けてるの?」
「はい」
「へえ」
席についた女性は、一口飲んで頷いた。
「うん。今日のはちょうどいい」
ツカサの肩から、ほんの少し力が抜けた。
ミカゲはそれを見逃さなかった。
「やったね」
小声で言う。
ツカサも小声で返した。
「まだ分からない」
「褒められたじゃん」
「一人だけ」
「一人目」
「そうとも言う」
ミカゲは笑った。
店の中も、少しずつ声が増えていく。
祖母の頃ほど賑やかではない。
まだ、あの温かさには届かない。
でも、誰もそれを責めなかった。
この店はもう終わった場所ではない。
新しく始まった場所なのだと、皆が少しずつ受け入れているようだった。
◇
昼過ぎ、エイルが店に入ってきた。
白い上着を肩にかけ、髪をゆるくまとめている。
相変わらず眠そうな顔で、けれど目だけはよく周りを見ていた。
「やってるねぇ」
「エイルさん」
ミカゲが振り返る。
エイルは片手を上げた。
「お腹すいた。癒しの英雄も食べないとしぼむ」
「しぼむんですか?」
「気持ちがね」
堂々と言って、エイルは席に座った。
ツカサが少し緊張した顔で水を出す。
「いらっしゃいませ」
「はい、いらっしゃいました」
エイルはにこにこしている。
「今日のおすすめは?」
「魚と野菜の汁です」
「じゃあ、それ」
「はい」
ツカサが台所へ戻る。
ミカゲはエイルの向かいに座りかけて、すぐに立ち上がった。
「私、手伝ってくる」
「いい子だねぇ」
「子ども扱いしないでください」
「十三歳は子どもです」
「エイルさんだって、たまに子どもみたいです」
「失礼だなぁ。私は立派な大人だよ。眠い時に眠そうな顔を隠さないだけで」
「それは立派なんですか?」
「正直ではある」
エイルはそう言って、だらりと頬杖をついた。
やがて料理が運ばれてくる。
エイルは手を合わせた。
「いただきまーす」
一口食べる。
それから、ゆっくり目を細めた。
「うん」
ツカサが少し身構える。
「どうですか?」
「おいしい」
あまりにも自然に言われたので、ツカサは一瞬反応できなかった。
エイルはもう一口食べる。
「優しい味だねぇ。胃に喧嘩を売ってこない。ありがたい」
ミカゲがぱっと顔を輝かせた。
「でしょ!」
自分が褒められたわけでもないのに、なぜか誇らしげだった。
「ツカサの料理、おいしいんです。最初は塩が足りないって言われてたけど、最近はちゃんと人によって味を変えたりしてて。あと、朝も早く起きて仕込みしてて、帳面もちゃんと読んでて、それで」
「ミカゲ」
ツカサが止める。
耳が少し赤い。
「言いすぎ」
「言いすぎじゃないよ。本当のことだし」
「いいぞいいぞ、もっと言って」
エイルが楽しそうに箸を持ったまま身を乗り出す。
「お嬢ちゃん、続けて」
「エイルさん」
ツカサが少し困った声を出す。
エイルは笑った。
「褒められてる時は大人しく褒められなさい。照れてる顔も栄養になるから」
「何の栄養ですか」
「エイルさんの」
「それは嫌です」
「ひどい」
ミカゲが笑う。
ツカサも、少しだけ口元を緩めた。
エイルはそれを見て、満足そうに汁を飲んだ。
「いい店になってきたね」
その言葉に、二人は黙った。
エイルは軽い口調のまま続ける。
「前と同じじゃない。でも、それでいいんじゃないかな。前と同じにしようとすると疲れるよ。あの人はあの人、君たちは君たち」
ツカサは小さく頷いた。
「はい」
「真面目」
「はい」
「返事も真面目」
エイルは笑った。
「でも、そういうところも嫌いじゃないよ」
◇
夕方、店を閉めたあと、ミカゲは剣の訓練へ向かった。
グランはいつもの広場にいた。
木剣を肩に担ぎ、待ち構えている。
「来たな」
「はい」
「今日は足運びだ」
「斬る練習じゃないんですか?」
「斬る前に立て。立てなきゃ斬れない。動けなきゃ守れない」
グランは地面に簡単な線を引いた。
「ここからここ。踏み込んで、戻る。横に流れて、また戻る。剣は振らなくていい」
「地味ですね」
「地味だぞ」
グランはあっさり認めた。
「強くなるやつは地味なことを嫌がらない」
「じゃあ、やります」
「よし」
ミカゲは足を動かした。
踏み込む。
戻る。
横へ。
戻る。
最初は簡単だと思った。
けれど、何度も繰り返すうちに足が重くなる。
腰がぶれる。
息が上がる。
「遅い」
「はい」
「目線が落ちてる」
「はい」
「足だけ動かすな。体ごと運べ」
「はい」
返事をしながら、ミカゲは必死についていく。
やがて、足元が少しもつれた。
転びそうになる。
踏ん張った。
その瞬間、膝に痛みが走った。
「っ」
ミカゲは地面に膝をついた。
擦りむいた膝から血がにじむ。
グランがすぐに近づいた。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない時にも言うやつだな、それ」
「大丈夫です」
「二回言えば本当になるわけじゃない」
グランは呆れたように言いながらも、布を取り出して膝に当てた。
「今日はここまで」
「まだできます」
「できるかどうかじゃない。続けていい怪我かどうかだ」
ミカゲは悔しそうに唇を噛んだ。
グランは少しだけ目を細める。
「焦るな」
「でも」
「守りたいんだろ」
ミカゲは顔を上げた。
「はい」
「なら、怪我して守られる側になるな」
その言葉は、少し痛かった。
ミカゲは黙って頷いた。
◇
エイルの診療所は、広場からそう遠くなかった。
ミカゲがグランに連れられて入ると、エイルは棚の整理をしていた。
「おや」
エイルが振り返る。
「また怪我したのかい、お嬢ちゃん」
「またって言うほどしてません」
「してる顔だよ」
エイルは椅子を指差した。
「座りなさい」
ミカゲは素直に座った。
グランが事情を説明する。
「訓練で膝をやった。深くはないと思う」
「はいはい」
エイルは膝を見て、軽く頷いた。
「擦り傷と打ち身。骨は平気。無茶したねぇ」
「少し転びかけただけです」
「その少しでこうなるなら、少しじゃないんだよ」
エイルはミカゲの膝に手をかざした。
柔らかい光が灯る。
痛みが、すっと引いていく。
傷口がゆっくり閉じた。
ミカゲは何度見ても、その光に驚いてしまう。
「すごい」
「でしょ」
エイルは少し得意げに笑った。
「でも、治ったからってすぐ走り回らないこと。痛みが消えても、体は疲れてる」
「はい」
「本当に分かった?」
「分かりました」
「怪しいなぁ」
エイルはミカゲの額を軽く指でつついた。
「君も頑張りすぎる側だからね」
「ツカサほどじゃないです」
「比べる相手が悪い」
グランが苦笑する。
「それはそうだな」
「グランさんまで」
「事実だ」
ミカゲはむっとする。
エイルはその顔を見て、楽しそうに笑った。
「でも、いいことだよ」
「怪我がですか?」
「違う違う。守りたいものがあること」
エイルは包帯を軽く巻きながら言った。
「ただ、守りたいものがある時ほど、自分のことを雑に扱いやすい。そこだけ気をつけなさい」
ミカゲは黙って頷いた。
その言葉は、なぜか胸に残った。
◇
家に帰ると、ツカサがすぐにミカゲの膝に気づいた。
「怪我した?」
「もう治してもらった」
「誰に」
「エイルさん」
「本当に?」
「本当に」
ツカサはミカゲの前にしゃがみ、包帯を見た。
傷はもう塞がっている。
けれど、表情は険しい。
「無理しないで」
「だから、もう治ってるって」
「でも怪我した」
「訓練だから」
「訓練でも」
ツカサの声が少し強くなる。
ミカゲはそれを見て、少しだけ目を丸くした。
ツカサはすぐに視線を落とす。
「ごめん」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「心配してる?」
「……うん」
素直な返事だった。
ミカゲは膝を抱えて、少し笑った。
「ツカサも心配される側だからね」
「私は怪我してない」
「でも、疲れてる時ある」
「それは」
「ある」
ミカゲが言い切ると、ツカサは反論できなかった。
二人は少しだけ黙った。
それからミカゲが言った。
「じゃあ、今日は早く寝よう」
「まだ片付けが」
「明日でいい」
「でも」
「エイルさんが言ってた。痛みが消えても体は疲れてるって」
「ミカゲの話でしょ」
「ツカサにも効く言葉だよ」
ツカサは困った顔をした。
それから、小さく頷いた。
「分かった」
◇
その夜、二人は同じ寝台に入った。
前は布団を二つ並べていた。
でも、祖母がいなくなってから、夜の静けさが大きすぎる日があった。
どちらからともなく距離が近くなって、気づけば同じ寝台で眠るようになっていた。
広くはない。
むしろ少し狭い。
けれど、その狭さがちょうどよかった。
隣に体温がある。
呼吸の音がある。
それだけで、夜が少し怖くなくなる。
「ミカゲ」
「ん?」
「膝、本当に痛くない?」
「痛くないよ」
「ならいい」
「ツカサ」
「何?」
「今日、エイルさんに料理褒められてたね」
ツカサは少し黙った。
「うん」
「嬉しかった?」
「……少し」
「少し?」
「かなり」
ミカゲは笑った。
「やっぱり」
「ミカゲが言いすぎるから恥ずかしかった」
「本当のことだもん」
「それでも」
「じゃあ次は控えめに自慢する」
「自慢はするんだ」
「するよ」
暗い部屋の中で、ミカゲの声が少し弾んでいた。
「だって、ツカサの料理おいしいし」
ツカサは返事をしなかった。
けれど、布団の中で小さく丸まった。
照れているのだと分かって、ミカゲはまた笑った。
「おやすみ」
「おやすみ」
そう言って、二人は目を閉じた。
夜は静かだった。
祖母の声はもう聞こえない。
それでも、隣にいる人の呼吸があった。
その音に合わせるように、ミカゲの意識はゆっくり落ちていった。
◇
朝が来た。
窓の外が白く明るくなる。
鳥の声がする。
遠くで誰かが荷車を引く音がする。
店の戸の前を、人が通る足音がする。
ミカゲが目を開けると、隣にはもうツカサはいなかった。
寝台の片側には、まだ少しだけ温もりが残っている。
台所の方から、小さな物音が聞こえた。
包丁がまな板を叩く音。
鍋の蓋がずれる音。
火が弾ける音。
いつもの朝だった。
ミカゲは寝台から起き上がり、膝を軽く曲げてみた。
痛みはない。
エイルの言った通り、傷はきれいに塞がっていた。
でも、体は少し重い。
昨日の訓練の疲れが残っている。
「無理するなって、こういうことか」
小さく呟いて、ミカゲは台所へ向かった。
ツカサはすでに朝食の準備をしていた。
髪を簡単に結び、袖をまくっている。
鍋からは味噌汁の匂いがした。
「おはよう」
ミカゲが声をかける。
ツカサが振り返った。
「おはよう」
「早いね」
「いつも通り」
「疲れてない?」
「少し」
「正直」
「嘘をつくところじゃないから」
ツカサはそう言って、椀に味噌汁をよそった。
ミカゲは近づいて、横から覗き込む。
「手伝う?」
「今日は座ってて」
「膝のこと?」
「うん」
「もう治ってるよ」
「でも疲れてる」
エイルと同じことを言われて、ミカゲは少しだけ笑った。
「みんな同じこと言う」
「それだけミカゲが分かってないってこと」
「ひどい」
「事実」
ツカサは淡々と言う。
その顔は少し真面目すぎて、でもどこか柔らかかった。
ミカゲは素直に椅子へ座った。
しばらくして、朝食が並ぶ。
麦飯。
味噌汁。
焼いた魚。
小さな漬物。
特別なものではない。
けれど、湯気が立っていた。
二人で手を合わせる。
「いただきます」
声が重なった。
ミカゲは味噌汁を飲んだ。
温かい。
「おいしい」
「よかった」
「昨日よりちょっと濃い?」
「ミカゲは訓練したから」
「何それ」
「疲れてる時は、少し濃い方がいいと思って」
ミカゲは椀を持ったまま、ツカサを見た。
ツカサは魚をほぐしている。
何でもないことのような顔をしている。
ミカゲは少しだけ胸がぎゅっとなった。
「そっか」
「うん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
短いやり取り。
それだけで、朝が少し明るくなる。
食べ終わったら、ツカサは店の準備をする。
ミカゲは水を運び、昼過ぎにはまた剣の訓練へ行く。
きっと今日も、できないことがたくさんある。
失敗もする。
怒られるかもしれない。
怪我をするかもしれない。
それでも、朝を迎えられる。
二人で起きて、二人で食べて、また一日を始められる。
それは当たり前のようで、当たり前ではなかった。
祖母がいない家で。
それでも、まだ温かい食事がある。
隣に、同じ朝を迎える人がいる。
ミカゲは箸を置き、小さく笑った。
「朝って、いいね」
ツカサが顔を上げる。
少しだけ考えてから、頷いた。
「うん」
今日もまた、二人の日々が始まる。




