表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/59

第21話「朝を迎えるということ」

 店を開ける時間は、少しずつ長くなっていった。


 最初は昼のほんの少しだけ。


 次は昼の終わりまで。


 それから、夕方前まで。


 無理をしないように、少しずつ。


 ツカサは毎朝、祖母が残した帳面を開いた。


 そこには仕入れの数や、常連の好みや、季節ごとの献立が細かく書かれていた。


 字は丸くて、ところどころ乱れている。


 けれど、不思議と読みやすかった。


 誰が何を好きか。


 誰には味を少し薄めにするか。


 誰が来ると魚がよく出るか。


 誰が嫌いな野菜を残すか。


 そんなことまで書いてある。


 祖母らしいと思った。


 厳しくて、よく怒って、でも結局、誰のこともよく見ていた。


「今日は魚屋さんが来る日だから、汁は濃いめ」


 ツカサが帳面を見ながら言う。


 隣でミカゲが頷いた。


「魚屋さん、濃い味好きだもんね」


「でも濃くしすぎると、野菜の人が文句を言う」


「あの人、しょっぱいの苦手だから」


「だから鍋を分ける」


「できるの?」


「やってみる」


 ツカサはそう言って、袖をまくった。


 台所には、朝の匂いが満ちていた。


 炊きたての麦飯。


 刻んだ野菜。


 煮立つ汁。


 焼ける魚の脂。


 祖母がいた頃とは、少し違う匂い。


 けれど、もう空っぽではなかった。


 ミカゲは水桶を運びながら、それを見ていた。


 ツカサの動きは、以前より迷いが少なくなっている。


 包丁を持つ手も安定してきた。


 味見の回数も、少し減った。


 それでも、ひとつ作るたびに真剣すぎる顔をするから、ミカゲはたまに笑ってしまう。


「何?」


 ツカサが顔を上げる。


「真面目だなって」


「料理は真面目にするもの」


「うん。でも顔が怖い」


「ミカゲも剣の訓練の時、顔が怖い」


「それは言わなくていい」


「言われたから返しただけ」


 ツカサは淡々と言った。


 ミカゲはむっとした顔をする。


 それを見て、ツカサがほんの少し笑った。


 その笑い方も、前より自然になっていた。


     ◇


 昼になると、店に人が入ってきた。


「お、今日は魚か」


 魚屋の男が入るなり鼻を鳴らした。


「はい。濃いめです」


 ツカサがそう言うと、男は満足そうに席へ座った。


「分かってきたじゃねえか」


「帳面に書いてありました」


「おかみさんめ、そんなことまで書いてたのか」


「はい」


「余計なことを」


 そう言いつつ、男は少し嬉しそうだった。


 野菜を届けてくれる女性も、店に入ってきた。


「私のは薄めでお願いね」


「分かっています」


「あら、頼もしい」


 ツカサは別の小鍋から汁をよそった。


 女性はそれを見て、少し驚いた顔をする。


「ちゃんと分けてるの?」


「はい」


「へえ」


 席についた女性は、一口飲んで頷いた。


「うん。今日のはちょうどいい」


 ツカサの肩から、ほんの少し力が抜けた。


 ミカゲはそれを見逃さなかった。


「やったね」


 小声で言う。


 ツカサも小声で返した。


「まだ分からない」


「褒められたじゃん」


「一人だけ」


「一人目」


「そうとも言う」


 ミカゲは笑った。


 店の中も、少しずつ声が増えていく。


 祖母の頃ほど賑やかではない。


 まだ、あの温かさには届かない。


 でも、誰もそれを責めなかった。


 この店はもう終わった場所ではない。


 新しく始まった場所なのだと、皆が少しずつ受け入れているようだった。


     ◇


 昼過ぎ、エイルが店に入ってきた。


 白い上着を肩にかけ、髪をゆるくまとめている。


 相変わらず眠そうな顔で、けれど目だけはよく周りを見ていた。


「やってるねぇ」


「エイルさん」


 ミカゲが振り返る。


 エイルは片手を上げた。


「お腹すいた。癒しの英雄も食べないとしぼむ」


「しぼむんですか?」


「気持ちがね」


 堂々と言って、エイルは席に座った。


 ツカサが少し緊張した顔で水を出す。


「いらっしゃいませ」


「はい、いらっしゃいました」


 エイルはにこにこしている。


「今日のおすすめは?」


「魚と野菜の汁です」


「じゃあ、それ」


「はい」


 ツカサが台所へ戻る。


 ミカゲはエイルの向かいに座りかけて、すぐに立ち上がった。


「私、手伝ってくる」


「いい子だねぇ」


「子ども扱いしないでください」


「十三歳は子どもです」


「エイルさんだって、たまに子どもみたいです」


「失礼だなぁ。私は立派な大人だよ。眠い時に眠そうな顔を隠さないだけで」


「それは立派なんですか?」


「正直ではある」


 エイルはそう言って、だらりと頬杖をついた。


 やがて料理が運ばれてくる。


 エイルは手を合わせた。


「いただきまーす」


 一口食べる。


 それから、ゆっくり目を細めた。


「うん」


 ツカサが少し身構える。


「どうですか?」


「おいしい」


 あまりにも自然に言われたので、ツカサは一瞬反応できなかった。


 エイルはもう一口食べる。


「優しい味だねぇ。胃に喧嘩を売ってこない。ありがたい」


 ミカゲがぱっと顔を輝かせた。


「でしょ!」


 自分が褒められたわけでもないのに、なぜか誇らしげだった。


「ツカサの料理、おいしいんです。最初は塩が足りないって言われてたけど、最近はちゃんと人によって味を変えたりしてて。あと、朝も早く起きて仕込みしてて、帳面もちゃんと読んでて、それで」


「ミカゲ」


 ツカサが止める。


 耳が少し赤い。


「言いすぎ」


「言いすぎじゃないよ。本当のことだし」


「いいぞいいぞ、もっと言って」


 エイルが楽しそうに箸を持ったまま身を乗り出す。


「お嬢ちゃん、続けて」


「エイルさん」


 ツカサが少し困った声を出す。


 エイルは笑った。


「褒められてる時は大人しく褒められなさい。照れてる顔も栄養になるから」


「何の栄養ですか」


「エイルさんの」


「それは嫌です」


「ひどい」


 ミカゲが笑う。


 ツカサも、少しだけ口元を緩めた。


 エイルはそれを見て、満足そうに汁を飲んだ。


「いい店になってきたね」


 その言葉に、二人は黙った。


 エイルは軽い口調のまま続ける。


「前と同じじゃない。でも、それでいいんじゃないかな。前と同じにしようとすると疲れるよ。あの人はあの人、君たちは君たち」


 ツカサは小さく頷いた。


「はい」


「真面目」


「はい」


「返事も真面目」


 エイルは笑った。


「でも、そういうところも嫌いじゃないよ」


     ◇


 夕方、店を閉めたあと、ミカゲは剣の訓練へ向かった。


 グランはいつもの広場にいた。


 木剣を肩に担ぎ、待ち構えている。


「来たな」


「はい」


「今日は足運びだ」


「斬る練習じゃないんですか?」


「斬る前に立て。立てなきゃ斬れない。動けなきゃ守れない」


 グランは地面に簡単な線を引いた。


「ここからここ。踏み込んで、戻る。横に流れて、また戻る。剣は振らなくていい」


「地味ですね」


「地味だぞ」


 グランはあっさり認めた。


「強くなるやつは地味なことを嫌がらない」


「じゃあ、やります」


「よし」


 ミカゲは足を動かした。


 踏み込む。


 戻る。


 横へ。


 戻る。


 最初は簡単だと思った。


 けれど、何度も繰り返すうちに足が重くなる。


 腰がぶれる。


 息が上がる。


「遅い」


「はい」


「目線が落ちてる」


「はい」


「足だけ動かすな。体ごと運べ」


「はい」


 返事をしながら、ミカゲは必死についていく。


 やがて、足元が少しもつれた。


 転びそうになる。


 踏ん張った。


 その瞬間、膝に痛みが走った。


「っ」


 ミカゲは地面に膝をついた。


 擦りむいた膝から血がにじむ。


 グランがすぐに近づいた。


「大丈夫か」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃない時にも言うやつだな、それ」


「大丈夫です」


「二回言えば本当になるわけじゃない」


 グランは呆れたように言いながらも、布を取り出して膝に当てた。


「今日はここまで」


「まだできます」


「できるかどうかじゃない。続けていい怪我かどうかだ」


 ミカゲは悔しそうに唇を噛んだ。


 グランは少しだけ目を細める。


「焦るな」


「でも」


「守りたいんだろ」


 ミカゲは顔を上げた。


「はい」


「なら、怪我して守られる側になるな」


 その言葉は、少し痛かった。


 ミカゲは黙って頷いた。


     ◇


 エイルの診療所は、広場からそう遠くなかった。


 ミカゲがグランに連れられて入ると、エイルは棚の整理をしていた。


「おや」


 エイルが振り返る。


「また怪我したのかい、お嬢ちゃん」


「またって言うほどしてません」


「してる顔だよ」


 エイルは椅子を指差した。


「座りなさい」


 ミカゲは素直に座った。


 グランが事情を説明する。


「訓練で膝をやった。深くはないと思う」


「はいはい」


 エイルは膝を見て、軽く頷いた。


「擦り傷と打ち身。骨は平気。無茶したねぇ」


「少し転びかけただけです」


「その少しでこうなるなら、少しじゃないんだよ」


 エイルはミカゲの膝に手をかざした。


 柔らかい光が灯る。


 痛みが、すっと引いていく。


 傷口がゆっくり閉じた。


 ミカゲは何度見ても、その光に驚いてしまう。


「すごい」


「でしょ」


 エイルは少し得意げに笑った。


「でも、治ったからってすぐ走り回らないこと。痛みが消えても、体は疲れてる」


「はい」


「本当に分かった?」


「分かりました」


「怪しいなぁ」


 エイルはミカゲの額を軽く指でつついた。


「君も頑張りすぎる側だからね」


「ツカサほどじゃないです」


「比べる相手が悪い」


 グランが苦笑する。


「それはそうだな」


「グランさんまで」


「事実だ」


 ミカゲはむっとする。


 エイルはその顔を見て、楽しそうに笑った。


「でも、いいことだよ」


「怪我がですか?」


「違う違う。守りたいものがあること」


 エイルは包帯を軽く巻きながら言った。


「ただ、守りたいものがある時ほど、自分のことを雑に扱いやすい。そこだけ気をつけなさい」


 ミカゲは黙って頷いた。


 その言葉は、なぜか胸に残った。


     ◇


 家に帰ると、ツカサがすぐにミカゲの膝に気づいた。


「怪我した?」


「もう治してもらった」


「誰に」


「エイルさん」


「本当に?」


「本当に」


 ツカサはミカゲの前にしゃがみ、包帯を見た。


 傷はもう塞がっている。


 けれど、表情は険しい。


「無理しないで」


「だから、もう治ってるって」


「でも怪我した」


「訓練だから」


「訓練でも」


 ツカサの声が少し強くなる。


 ミカゲはそれを見て、少しだけ目を丸くした。


 ツカサはすぐに視線を落とす。


「ごめん」


「怒ってる?」


「怒ってない」


「心配してる?」


「……うん」


 素直な返事だった。


 ミカゲは膝を抱えて、少し笑った。


「ツカサも心配される側だからね」


「私は怪我してない」


「でも、疲れてる時ある」


「それは」


「ある」


 ミカゲが言い切ると、ツカサは反論できなかった。


 二人は少しだけ黙った。


 それからミカゲが言った。


「じゃあ、今日は早く寝よう」


「まだ片付けが」


「明日でいい」


「でも」


「エイルさんが言ってた。痛みが消えても体は疲れてるって」


「ミカゲの話でしょ」


「ツカサにも効く言葉だよ」


 ツカサは困った顔をした。


 それから、小さく頷いた。


「分かった」


     ◇


 その夜、二人は同じ寝台に入った。


 前は布団を二つ並べていた。


 でも、祖母がいなくなってから、夜の静けさが大きすぎる日があった。


 どちらからともなく距離が近くなって、気づけば同じ寝台で眠るようになっていた。


 広くはない。


 むしろ少し狭い。


 けれど、その狭さがちょうどよかった。


 隣に体温がある。


 呼吸の音がある。


 それだけで、夜が少し怖くなくなる。


「ミカゲ」


「ん?」


「膝、本当に痛くない?」


「痛くないよ」


「ならいい」


「ツカサ」


「何?」


「今日、エイルさんに料理褒められてたね」


 ツカサは少し黙った。


「うん」


「嬉しかった?」


「……少し」


「少し?」


「かなり」


 ミカゲは笑った。


「やっぱり」


「ミカゲが言いすぎるから恥ずかしかった」


「本当のことだもん」


「それでも」


「じゃあ次は控えめに自慢する」


「自慢はするんだ」


「するよ」


 暗い部屋の中で、ミカゲの声が少し弾んでいた。


「だって、ツカサの料理おいしいし」


 ツカサは返事をしなかった。


 けれど、布団の中で小さく丸まった。


 照れているのだと分かって、ミカゲはまた笑った。


「おやすみ」


「おやすみ」


 そう言って、二人は目を閉じた。


 夜は静かだった。


 祖母の声はもう聞こえない。


 それでも、隣にいる人の呼吸があった。


 その音に合わせるように、ミカゲの意識はゆっくり落ちていった。


     ◇


 朝が来た。


 窓の外が白く明るくなる。


 鳥の声がする。


 遠くで誰かが荷車を引く音がする。


 店の戸の前を、人が通る足音がする。


 ミカゲが目を開けると、隣にはもうツカサはいなかった。


 寝台の片側には、まだ少しだけ温もりが残っている。


 台所の方から、小さな物音が聞こえた。


 包丁がまな板を叩く音。


 鍋の蓋がずれる音。


 火が弾ける音。


 いつもの朝だった。


 ミカゲは寝台から起き上がり、膝を軽く曲げてみた。


 痛みはない。


 エイルの言った通り、傷はきれいに塞がっていた。


 でも、体は少し重い。


 昨日の訓練の疲れが残っている。


「無理するなって、こういうことか」


 小さく呟いて、ミカゲは台所へ向かった。


 ツカサはすでに朝食の準備をしていた。


 髪を簡単に結び、袖をまくっている。


 鍋からは味噌汁の匂いがした。


「おはよう」


 ミカゲが声をかける。


 ツカサが振り返った。


「おはよう」


「早いね」


「いつも通り」


「疲れてない?」


「少し」


「正直」


「嘘をつくところじゃないから」


 ツカサはそう言って、椀に味噌汁をよそった。


 ミカゲは近づいて、横から覗き込む。


「手伝う?」


「今日は座ってて」


「膝のこと?」


「うん」


「もう治ってるよ」


「でも疲れてる」


 エイルと同じことを言われて、ミカゲは少しだけ笑った。


「みんな同じこと言う」


「それだけミカゲが分かってないってこと」


「ひどい」


「事実」


 ツカサは淡々と言う。


 その顔は少し真面目すぎて、でもどこか柔らかかった。


 ミカゲは素直に椅子へ座った。


 しばらくして、朝食が並ぶ。


 麦飯。


 味噌汁。


 焼いた魚。


 小さな漬物。


 特別なものではない。


 けれど、湯気が立っていた。


 二人で手を合わせる。


「いただきます」


 声が重なった。


 ミカゲは味噌汁を飲んだ。


 温かい。


「おいしい」


「よかった」


「昨日よりちょっと濃い?」


「ミカゲは訓練したから」


「何それ」


「疲れてる時は、少し濃い方がいいと思って」


 ミカゲは椀を持ったまま、ツカサを見た。


 ツカサは魚をほぐしている。


 何でもないことのような顔をしている。


 ミカゲは少しだけ胸がぎゅっとなった。


「そっか」


「うん」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 短いやり取り。


 それだけで、朝が少し明るくなる。


 食べ終わったら、ツカサは店の準備をする。


 ミカゲは水を運び、昼過ぎにはまた剣の訓練へ行く。


 きっと今日も、できないことがたくさんある。


 失敗もする。


 怒られるかもしれない。


 怪我をするかもしれない。


 それでも、朝を迎えられる。


 二人で起きて、二人で食べて、また一日を始められる。


 それは当たり前のようで、当たり前ではなかった。


 祖母がいない家で。


 それでも、まだ温かい食事がある。


 隣に、同じ朝を迎える人がいる。


 ミカゲは箸を置き、小さく笑った。


「朝って、いいね」


 ツカサが顔を上げる。


 少しだけ考えてから、頷いた。


「うん」


 今日もまた、二人の日々が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ