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第22話「綺麗な子」

「ただいま!」


 扉が開く音と一緒に、ミカゲの声が店の中へ入ってきた。


 昼を少し過ぎた頃だった。


 客足は落ち着いていて、ツカサは台所で使い終わった器を拭いていた。


 声だけ聞けば、今日も元気そうだった。


 声だけなら。


「おかえり」


 ツカサは布巾を置いて、店の方へ出た。


 ミカゲは入口のところで、得意げに胸を張っていた。


 額には汗が浮いている。


 頬には土が少しついていた。


 髪は首元に張りついて、いつもより重たそうに見える。


 袖口には薄く土が擦れていた。


 裾の端からは、糸が一本、頼りなく垂れている。


「今日はね、ちゃんと最後まで立ってた」


 ミカゲは誇らしげに言った。


「最後まで?」


「うん。途中で転んだけど、最後は立ってたから」


「転んだんだ」


「ちょっとだけ」


「どこ打った?」


「えーっと……膝と、肘と、あとたぶん肩?」


「たぶん、はだめ」


 ツカサはすぐに近づいた。


 ミカゲは笑ってごまかすように、両手をひらひらさせる。


「平気だって。グランさんも、今日はよく避けたって言ってくれたし」


「避けたのに転んだの?」


「避けたあとに足がもつれた」


「それは避けきれてない」


「そこまで細かく言わなくてよくない?」


 ミカゲは少し頬を膨らませた。


 けれど、ツカサは笑わなかった。


 ミカゲの肩に手を添えて、椅子へ座らせる。


「座って」


「はいはい」


「一回でいい」


「ツカサ、お婆ちゃんみたい」


 ツカサの手が一瞬だけ止まった。


 ミカゲも、しまった、という顔をした。


 けれどツカサはすぐに布を取りに戻った。


「似てるなら、悪くない」


 それだけ言って、濡らした布を持って戻ってくる。


 ミカゲは少しだけ目を伏せた。


「うん。そうだね」


 ツカサはミカゲの膝を確認した。


 大きな怪我ではない。


 擦れて赤くなっているだけだった。


 肘も同じ。


 肩は打ったというより、土がついただけに見えた。


「大きい怪我はなさそう」


「でしょ?」


「でも、帰ってきたら先に言って」


「言ったよ。ただいまって」


「怪我のこと」


「それは……言ったら心配するかなって」


「言わなくても心配する」


 ツカサは布で土を拭った。


 少し冷たかったのか、ミカゲの肩がぴくりと揺れる。


「冷たい」


「我慢して」


「ツカサ、手当ての時だけちょっと厳しいよね」


「怪我を隠すから」


「隠してないもん」


「じゃあ、忘れてたんだ」


「……それは、そうかも」


 ミカゲは視線を横へ逃がした。


 ツカサは小さく息を吐いた。


 怒っているようではなかった。


 ただ、見逃せないものを見逃さない顔だった。


     ◇


 手当てが終わると、ミカゲはすぐに立ち上がろうとした。


「じゃあ、私、着替えてくるね」


「待って」


「まだある?」


 ツカサはミカゲの髪を見た。


 汗でまとまった髪の間に、細かい砂が入り込んでいる。


 毛先が少し絡んでいた。


 いつもより櫛が通りにくそうだった。


「髪も洗う」


「え、今?」


「今」


「夜でよくない?」


「よくない」


「髪なんて、洗えば戻るでしょ」


 ツカサはミカゲの後ろに回り、絡んだ毛先を指でそっと分けた。


 その指先は、傷を探す時と同じくらい慎重だった。


「戻るものもある」


 ゆっくりと、絡みをほどく。


「でも、傷んだままにしていいものじゃない」


 ミカゲは後ろを振り返ろうとして、ツカサに頭を押さえられた。


「動かないで」


「はい」


「はいは一回」


「今一回だったよ」


「ならいい」


 ミカゲは少し笑った。


 ツカサは桶に湯を用意した。


 洗い場に椅子を置き、ミカゲを座らせる。


 ミカゲは最初、少し落ち着かない様子だった。


 誰かに髪を洗われることに、まだ慣れていなかった。


 祖母がいた頃も、身の回りのことはできるだけ自分でやっていた。


 けれどツカサは、当たり前のようにミカゲの後ろに立つ。


 湯を少しずつ髪に含ませる。


 指の腹で、頭皮を強くしすぎないように洗う。


「痛くない?」


「うん」


「目に入ってない?」


「大丈夫」


「寒くない?」


「大丈夫だって」


「大丈夫が多い」


「ツカサが聞くからでしょ」


 ミカゲは笑った。


 湯気が少しだけ上がる。


 店の奥は静かだった。


 外からは、通りを歩く人の声が遠く聞こえる。


 ツカサの指が髪の間を通るたび、ミカゲの肩から少しずつ力が抜けていった。


「ツカサって、こういうの上手いよね」


「そう?」


「うん。気持ちいい」


 ツカサは返事をしなかった。


 けれど、指の動きがほんの少しだけ柔らかくなった。


 洗い終えると、ツカサは布で水気を取った。


 それから棚の奥から、小さな瓶を取り出す。


 透明な瓶だった。


 中には薄く色づいた油が入っている。


 ミカゲはそれを見て、目を丸くした。


「なにそれ」


「髪に使うもの」


「え。高そう」


「少しだけ」


「少しだけって、値段の話?」


「量の話」


「値段は?」


 ツカサは瓶の蓋を開けた。


 ふわりと、花のような匂いがした。


 強くはない。


 近づかなければわからないくらいの香りだった。


「必要だから」


「答えてない」


「必要だから」


「ごまかした」


「ごまかしてない」


「ごまかしてる時の顔だよ、それ」


 ミカゲは後ろを向いたまま言った。


 ツカサは少しだけ黙る。


 そして、指先にほんのわずかだけ油を取った。


「高すぎるものじゃない」


「じゃあ、ちょっと高いんだ」


「……少しだけ」


「やっぱり」


 ミカゲは困ったように眉を下げた。


「私、そんなの使わなくてもいいよ。訓練したらまた汚れるし」


「また洗う」


「また傷むよ」


「また整える」


「毎回やるの?」


「必要なら」


「ツカサ、お金の使い方ちょっと変だよ」


「変じゃない」


 ツカサはミカゲの毛先に油をなじませた。


 絡んでいた髪が、少しずつ指に従うようになる。


 櫛を通すと、最初はかすかに引っかかった。


 ツカサは無理に引かなかった。


 根元を押さえ、毛先から少しずつほどいていく。


「ミカゲ」


「なに?」


「綺麗でいてほしい」


 櫛の音が、そこで一度止まった。


 ミカゲは何も言わなかった。


 言葉を探しているように、膝の上で指を握る。


 ツカサは続けない。


 ただ、また櫛を動かした。


「……なんか、それ、変じゃない?」


「変?」


「だって、剣の訓練してるんだよ。転ぶし、泥もつくし、髪だってぐしゃぐしゃになるし」


「うん」


「綺麗とか、そういうのとは遠くない?」


「遠くない」


「そうかな」


「うん」


 ツカサの声は静かだった。


「守りたいなら、怪我をしないようにするのも大事」


「うん」


「でも、怪我をしないだけじゃ足りない」


 櫛がゆっくり下りていく。


「ミカゲが、自分のことを雑にしないでほしい」


 ミカゲは黙っていた。


 湯気の残った髪が、少しずつ乾いていく。


 花の匂いが、ほんの少しだけ肩のあたりに残った。


「それってさ」


 ミカゲは小さな声で言う。


「私が女の子だから?」


 ツカサは少し考えた。


「それもある」


「それも?」


「ミカゲだから」


 ミカゲは膝の上の指を、ぎゅっと握った。


「……そっか」


「うん」


「じゃあ、ちゃんと綺麗にして」


「最初からそのつもり」


「うん」


 ミカゲは少し笑った。


 顔は見えなかった。


 けれど耳が赤かった。


 ツカサはそれに気づいた。


 気づいたけれど、何も言わなかった。


     ◇


 髪を整え終わる頃には、ミカゲはすっかり大人しくなっていた。


 ツカサが鏡を持ってくると、ミカゲは少し恥ずかしそうに覗き込んだ。


 髪はさらりと肩の後ろに流れている。


 砂で重くなっていた時とは違って、光を受けると細く艶が出た。


「……おお」


 ミカゲは妙な声を出した。


「おお?」


「いや、なんか、すごい」


「すごい?」


「私の髪じゃないみたい」


「ミカゲの髪だよ」


「知ってるけど」


 ミカゲは毛先をつまむ。


 指から逃げるように、髪がするりと落ちた。


「ツカサ、ほんと何でもできるね」


「何でもはできない」


「でも、料理できるし、掃除できるし、髪もこうできるし」


「できることを増やしただけ」


 ツカサはそう言って、ミカゲの服の裾に目を落とした。


「それと、服も見せて」


「服?」


「裾、ほつれてる」


 ミカゲは自分の服を見る。


 糸が一本、ふらふらと揺れていた。


「あ、本当だ」


「そのままにすると広がる」


「これくらいなら平気じゃない?」


「平気じゃない」


「今日のツカサ、平気じゃない判定が厳しい」


「ミカゲの平気判定が甘い」


「そんなことないと思うけどなあ」


 ミカゲは椅子に座ったまま、裾をつまんだ。


 ツカサは裁縫箱を持ってくる。


 祖母が使っていたものだった。


 木箱の角は少し丸くなっている。


 蓋を開けると、針、糸、小さな鋏、布切れがきちんと入っていた。


 ツカサは服の色に近い糸を選んだ。


 針に糸を通す手つきは慣れていた。


 ミカゲはそれをじっと見る。


「それもお婆ちゃんに教わったの?」


「少しだけ」


「少しだけでそんなにできる?」


「練習した」


「いつ?」


「時間がある時に」


「ツカサの時間がある時って、どこ?」


 ツカサは針を止めた。


 少しだけ目を瞬かせる。


「……夜とか」


「夜は寝て」


「少しだけ」


「その少しだけ、絶対少しじゃないやつ」


「少し」


「絶対うそ」


 ミカゲは頬を膨らませる。


 ツカサは目を逸らした。


 その顔を見て、ミカゲは小さく笑う。


「でも、ありがとう」


 ツカサは裾を手に取った。


「動かないで」


「はい」


「足も」


「足も?」


「服がずれる」


「はいはい」


「一回」


「それ好きだね」


「必要だから」


 針が布を通る。


 小さな音はしなかった。


 ただ、ツカサの指が規則正しく動いていく。


 糸は布の裏に隠れるように通されて、表からはほとんど目立たない。


 ミカゲはその手元を見ていた。


 ツカサの指は細い。


 でも、頼りない感じはしなかった。


 料理を作る時も、包帯を巻く時も、髪を整える時も、服を縫う時も。


 同じ手だった。


「ツカサ」


「何?」


「私の服、そんなに丁寧にしなくてもいいよ」


「丁寧にした方が長く着られる」


「まあ、そうだけど」


「それに」


 ツカサは糸を引いた。


「ミカゲが着るものだから」


 また、ミカゲは黙った。


 今日は、ツカサの言葉が妙なところで刺さる。


 怒られているわけでもない。


 甘やかされているだけでもない。


 大切にされている。


 そう思うと、どこを見ればいいのかわからなくなった。


「……ツカサってさ」


「何?」


「そういうこと、普通に言うよね」


「そういうこと?」


「そういうこと」


「分からない」


「分かんなくていい」


 ミカゲは顔を横へ向けた。


 耳はまだ少し赤い。


 ツカサは少しだけ首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。


     ◇


「ごめんくださーい。生きてるかなー」


 ゆるい声が店の方から聞こえた。


 ミカゲがぱっと顔を上げる。


「エイルさん?」


「はーい。エイルさんだよーん」


 入口から、エイルが顔を出した。


 片手に小さな箱を持っている。


 いつものように、どこか力の抜けた笑顔だった。


「差し入れを持ってきました。いい子にしてる少女たちに、甘いものです」


「甘いもの!」


 ミカゲが椅子から立ち上がろうとした。


 その瞬間、ツカサが裾を押さえる。


「動かないで」


「あっ」


「針がある」


「ごめん」


 エイルはその様子を見て、目を細めた。


「なになに〜? お直し中?」


「裾がほつれてたから」


 ツカサは針を持ったまま答えた。


 エイルは箱を机に置き、近づいてくる。


「見せて見せて」


「うん」


 ツカサは少し場所を空けた。


 エイルはしゃがみ込み、縫い目を見る。


「おお。丁寧。えらい」


「ありがとう」


「でも、そこはもう少し返して縫うと丈夫かな。訓練で引っかけるなら、なおさら」


「返して?」


「そうそう。ここを一回戻る感じ」


 エイルは自分の指で布の上を示した。


 ツカサは真剣に見ている。


 その目つきは、料理の手順を教わっている時と似ていた。


「やってみてもいい?」


「もちろん」


 ツカサはエイルに教えられた通り、針を通す。


 一針。


 戻って、また一針。


 糸が布を押さえる形が、さっきより少し強くなった。


「そうそう。上手い上手い」


「ありがとう」


「ツカサちゃん、覚えるの早いねえ。先生、楽で助かる」


「先生なんだ」


「今だけ先生」


 エイルは胸を張った。


 ミカゲが笑う。


「エイル先生、ケーキは?」


「はいはい、そっちが本命だよね。知ってた」


 エイルは箱を開けた。


 中には小さなケーキが三つ入っていた。


 白いクリームの上に、赤い果物が少し乗っている。


 ミカゲの目が、わかりやすく輝いた。


「ケーキ!」


「いい反応。持ってきた甲斐があるねえ」


 ツカサも箱の中を見た。


 目がほんの少しだけ明るくなる。


 けれどすぐに立ち上がろうとした。


「お皿出す」


 エイルがその肩を軽く押さえた。


「まず喜びなさいな。働くの早すぎ」


「でも」


「でもじゃなーい。今は差し入れをもらった子の顔をする時間です」


 ツカサは困ったように瞬きをした。


 ミカゲが横から笑う。


「ツカサ、怒られてる」


「怒ってないよー。ちょっと止めてるだけ」


「それ、ツカサには効きそう」


「効いてるねえ」


 ツカサは視線を落とした。


「……ありがとう」


「はい、よくできました」


 エイルは満足そうにうなずいた。


 皿は結局、ツカサが出した。


 ただしエイルに見張られながらだった。


「はい、ゆっくり。急がない。皿は逃げない」


「逃げないね」


「分かってるなら急がない」


「うん」


「いい子」


 ツカサは少し困った顔をした。


 ミカゲはそれを見て、また笑った。


     ◇


 三人で机を囲んだ。


 店はまだ静かだった。


 外の光が窓から斜めに入って、机の上のケーキを明るく見せている。


 ミカゲは一口食べて、すぐに顔をほころばせた。


「おいしい!」


「でしょ。ここの、たまに食べたくなるんだよねえ」


「クリームがすごい。ふわってする」


「語彙がかわいい」


「かわいいって言わないでください」


「照れた?」


「照れてないです」


 ミカゲはそう言いながら、また一口食べた。


 ツカサはそれを見ていた。


 自分の皿のケーキには、まだ手をつけていない。


 エイルがそれに気づく。


「ツカサちゃんも食べなよ」


「うん」


「ミカゲちゃんの嬉しい顔だけでお腹いっぱい、みたいな顔してるけど」


 ツカサは目を瞬かせた。


「そんな顔してた?」


「してたしてた」


「してたよ」


 ミカゲも頷いた。


「ミカゲまで」


「だって本当だもん。ツカサ、すぐ私の方見る」


「見ちゃだめ?」


「だめじゃないけど」


 ミカゲは自分の皿を少し押した。


「ほら、食べて」


「自分のがある」


「じゃあ、ツカサのも食べる?」


「それはだめ」


「じゃあ食べて」


 ツカサは少しだけ考えた。


 それから、小さくフォークを入れる。


 クリームが柔らかく沈んだ。


 一口食べる。


 ツカサの表情は大きく変わらなかった。


 けれど、目元がほんの少しだけ緩んだ。


 ミカゲはそれを見逃さなかった。


「おいしい?」


「うん」


「よかった」


「なんでミカゲが嬉しそうなの」


「ツカサが嬉しそうだから」


 ツカサは返事に困った。


 エイルは頬杖をついて、二人を見ている。


「いいねえ」


「なにがですか」


 ミカゲが聞く。


「んー、なんだろうねえ」


 エイルは少しだけ考えるふりをした。


「甘いものをちゃんと甘いって思えるところ?」


「それ、普通じゃないですか?」


「普通だと思えるなら、いいことだよ」


 エイルはそれ以上、説明しなかった。


 ミカゲも深く聞かなかった。


 ツカサはフォークを持ったまま、少しだけエイルを見た。


 エイルは笑っていた。


 いつもの、力の抜けた笑顔だった。


 でも、その目はちゃんと二人を見ていた。


「ミカゲちゃん、訓練はどう?」


「大変です。でも、前よりは動けるようになってきました」


「膝は?」


「今日はちょっとだけです」


「ちょっとだけ、ねえ」


 エイルはツカサを見る。


 ツカサは無言で頷いた。


「なるほど。ちょっとだけではあった、と」


「ほら」


 ミカゲは得意げに言った。


「でも、ちょっとだけ怪我したのは本当」


「う」


「守りたいものがある子は、自分のことも守りなさいな」


 エイルは軽く言った。


 重くはなかった。


 けれど、ミカゲは少し背筋を伸ばした。


「はい」


「いい返事」


 それからエイルは、ツカサの方を見る。


「ツカサちゃんもね」


「私?」


「そう。ミカゲちゃんの髪も服も大事にしてるのは、とてもよろしい」


「うん」


「でも、自分の分も忘れないように」


 ツカサは少し黙った。


 ミカゲが横から覗き込む。


「ツカサ、自分の髪にはオイル使ってる?」


「私は別に」


「別にじゃない」


 ミカゲはすぐに言った。


 さっきのツカサの言い方を真似するように。


「傷んだままにしていいものじゃない」


 ツカサは目を丸くした。


 エイルが吹き出す。


「おお、言われてる」


「ミカゲ」


「なに?」


「覚えるの早いね」


「ツカサほどじゃないけどね」


 ミカゲは少し得意げに笑った。


 ツカサは困ったように視線を落とした。


 けれど、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。


     ◇


 エイルはしばらく店にいた。


 縫い方をもう一つ教えて、ケーキを食べて、ミカゲの膝を簡単に見て、それから椅子にもたれて少し休んだ。


「エイルさん、忙しくないんですか?」


 ミカゲが聞くと、エイルは片手をひらひら振った。


「忙しいよー。だから休んでる」


「ここで?」


「ここで」


「いいんですか」


「いいのいいの。働く場所が一つ増えたと思えば」


「働く場所?」


「怪我人候補がいるし、頑張りすぎ候補もいるし」


 エイルはミカゲとツカサを順番に見る。


「見回り先としては優秀だね」


「候補って言われた」


 ミカゲが少し不満そうに言う。


「まだ候補だからいいじゃない」


「本物にならないようにします」


「うん。それがいい」


 エイルは立ち上がった。


「さて、そろそろ行こうかな」


「ありがとうございました」


 ツカサが頭を下げる。


 ミカゲも続けて頭を下げた。


「ケーキ、ありがとうございました!」


「喜び方に差があるねえ」


「縫い方もありがとう」


 ツカサが真面目に言う。


「はいはい。どっちもどういたしまして」


 エイルは扉へ向かった。


 外へ出る前に、ふと振り返る。


「ミカゲちゃん」


「はい」


「髪、似合ってるよ」


 ミカゲは一瞬、固まった。


 それから少し照れたように笑う。


「ありがとうございます」


「ツカサちゃん」


「はい」


「いい仕事です」


 ツカサは少しだけ目を伏せた。


「ありがとう」


 エイルは満足そうに笑って、店を出ていった。


 扉が閉まる。


 店の中に、また静かな時間が戻ってきた。


 ミカゲは自分の髪を指で触る。


 するりと指が通った。


「ねえ、ツカサ」


「何?」


「明日も訓練あるんだけど」


「うん」


「また汚れるよ」


「洗う」


「また服もほつれるかも」


「縫う」


「また怪我するかも」


「それは減らして」


「はい」


 ミカゲは笑った。


 ツカサも少しだけ笑った。


「じゃあ、頑張ってくる」


「無理はしないで」


「頑張るのと無理するのって、違う?」


「違う」


「どう違うの?」


 ツカサは少し考えた。


「帰ってきて、また明日も頑張れるなら、頑張る」


「じゃあ、無理は?」


「帰ってこられなくなること」


 ミカゲは髪を触っていた手を止めた。


 ツカサは、すぐに言葉を足した。


「怪我の話」


「分かってるよ」


 ミカゲは笑った。


 少しだけ、さっきより静かに。


「ちゃんと帰ってくる」


「うん」


「で、また髪やってもらう」


「うん」


「服も縫ってもらう」


「うん」


「ケーキも食べたい」


「それはエイルさんに言って」


「ツカサが作ってもいいよ」


「……練習する」


「本当に?」


「うん」


 ミカゲはぱっと顔を明るくした。


「楽しみにしてる」


 ツカサは頷いた。


 その時、ミカゲの整えられた髪が、窓から入る光に少しだけ揺れた。


 ツカサはそれを見た。


 櫛を通した髪。


 油をなじませた毛先。


 土を落とした袖。


 縫い直した裾。


 どれもすぐにまた汚れる。


 またほつれる。


 また傷む。


 それでも、整えたかった。


 ミカゲが明日も剣を握るなら。


 帰ってきた時、ここに座らせて、また直せばいい。


 ツカサは裁縫箱の蓋を閉じた。


「ミカゲ」


「ん?」


「明日は、帰ってきたら先に怪我の報告して」


「えー」


「して」


「はい」


「はいは」


「一回でしょ。分かってる」


 ミカゲは笑った。


 その笑い声が、店の奥まで届いた。


     ◇


 エイルは通りを少し歩いたところで、足を止めた。


 店の外壁に寄りかかるようにして、一人の女が立っていた。


 淡い色の髪を風に揺らしながら、店の窓を見ている。


 エイルは軽く手を上げた。


「アルマ」


 女は視線だけを動かした。


「……見つかった」


「隠れてたの?」


「隠れてないし。入り損ねただけだし」


 アルマはそう言って、窓の方へまた目を向けた。


 中では、ミカゲが何かを話していた。


 ツカサがそれを聞いている。


 距離は近い。


 けれど、騒がしいほどではない。


 二人の間だけ、少し暖かそうに見えた。


 エイルは隣に立つ。


「入ればよかったのに」


「今日はいい」


「ケーキ、もうないよ」


「別にそれ目当てじゃないし」


「じゃあ何目当て?」


 アルマは少し黙った。


 それから、軽く肩をすくめる。


「どんな子たちかなって思っただけ」


「見てどうだった?」


「……眩しい」


「おや」


「なに」


「素直な感想だなと思って」


「うるさい」


 アルマは壁から背を離した。


「また今度入る」


「うん。そうしな」


「別に怖がってないから」


「何も言ってないよーん」


「言いそうな顔だった」


「ひどいなあ」


 エイルは笑った。


 アルマは少しだけ店の方を振り返った。


 窓の向こうで、ミカゲが自分の髪を指で梳いている。


 その隣で、ツカサが裁縫箱を片づけていた。


 アルマは目を細める。


「……綺麗な子」


 それがどちらを指した言葉なのか、エイルは聞かなかった。


 アルマも答えなかった。


 二人はそのまま、通りの先へ歩き出した。

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