表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/59

第23話「豊穣の英雄」

 翌日、ミカゲは朝から少しそわそわしていた。


 理由は分かりやすかった。


 昨日、エイルが帰り際に言ったのだ。


 近いうちに、もう一人連れてくるかもね。


 そのもう一人が誰なのか、エイルは教えてくれなかった。


 けれど、ミカゲはすぐに察した。


「英雄かな」


 朝食の麦飯を食べながら、ミカゲは言った。


 ツカサは味噌汁の椀を置く。


「エイルさんが連れてくる人?」


「うん。エイルさんの知り合いって、英雄の人多そうだし」


「そうかも」


「グランさんか、ライトさんか、フェリクスさんか」


「昨日、外にいた人かもしれない」


 ミカゲは箸を止めた。


「外にいた人?」


「うん。エイルさんと話してた」


「見たの?」


「少しだけ」


「どんな人?」


 ツカサは少し考えた。


「綺麗な人」


「へえ」


「でも、入ってこなかった」


「なんで?」


「分からない」


 ミカゲは椀を持ったまま、首を傾げる。


「緊張してたのかな」


「そうは見えなかった」


「じゃあ、入りづらかったとか」


「かもしれない」


 ツカサはそう言って、焼いた魚をミカゲの皿に少し寄せた。


 ミカゲはそれを見て、すぐに眉を上げた。


「また私の方に多くしてる」


「してない」


「してる」


「少しだけ」


「それをしてるって言うの」


「ミカゲは今日も訓練があるから」


「ツカサも店があるでしょ」


「私は動き回らない」


「動き回ってるよ。料理して掃除して仕込みして、私の髪まで見て」


「髪は別」


「別じゃない」


 ミカゲは魚を半分に分けて、ツカサの皿へ戻した。


「はい。半分」


「ミカゲ」


「昨日ケーキ食べた時、エイルさんに言われてたでしょ。ツカサも食べなよって」


「それはケーキの話」


「魚も同じ」


「違う」


「同じ」


 二人は少しだけ見合った。


 先に折れたのはツカサだった。


「……分かった」


「よし」


 ミカゲは満足そうに笑う。


 ツカサは少し困った顔をしたけれど、戻された魚には手をつけた。


 朝の光が台所に入っていた。


 昨日整えたミカゲの髪は、まだ少しだけ指通りがよかった。


 ミカゲは何度か毛先を触って、そのたびに少し照れた顔をした。


 ツカサはそれに気づいていた。


 気づいていたけれど、何も言わなかった。


     ◇


 昼前になると、店に人が入り始めた。


 魚屋の男が来て、いつものように濃いめの汁を頼んだ。


 野菜を届けてくれる女性が来て、薄めの汁を頼んだ。


 近所の老人が、今日の魚は骨が少ないかと聞いてきた。


 ツカサは一つずつ応えた。


 祖母の帳面を見ながら、少しずつ覚えたことを、自分の手で確かめていく。


「今日は魚、少し小さくほぐしてます」


 ツカサが老人の前に皿を置く。


 老人は目を細めた。


「おや。ありがたいね」


「骨が多いと食べにくいと思って」


「おかみさんも、よくそうしてくれたよ」


 その言葉に、ツカサの手がほんの少し止まる。


 けれど、すぐに頭を下げた。


「はい」


 老人は箸を取り、一口食べた。


「うん。いい」


 短い言葉だった。


 それだけで、ツカサの肩から少し力が抜けた。


 ミカゲは水を運びながら、それを見ていた。


 昨日の魚みたいに、またツカサは自分のことではない顔をして喜んでいた。


 自分が褒められたことより、相手が食べやすそうにしていることの方が嬉しい。


 そういう顔だった。


 ミカゲは少し笑う。


「なに?」


 ツカサが小声で聞く。


「ツカサ、嬉しそう」


「そう?」


「うん」


「……そうかも」


 ツカサは少しだけ目を伏せた。


 その時、店の扉が開いた。


「やってるねぇ」


 エイルの声だった。


 ミカゲが振り返る。


「エイルさん」


「昨日ぶりー」


 エイルはいつものように片手を上げた。


 その後ろに、一人の女が立っていた。


 淡い色の髪を後ろでゆるくまとめ、肩に薄い外套をかけている。


 目元は涼しげで、口元には余裕のある笑みを浮かべていた。


 昨日、外から店を見ていた女だった。


 ミカゲはすぐに背筋を伸ばした。


 ツカサも布巾を置き、店の方へ出てくる。


「紹介するね」


 エイルは軽く横へ避けた。


「豊穣の英雄、アルマ」


 店の中の何人かが、はっとしたように顔を上げた。


 豊穣の英雄。


 各地を巡り、畑と水と実りを支える英雄。


 ミカゲもその名は知っていた。


 グランやライトほど戦いの話は聞かない。


 けれど、街の人たちの暮らしに近い英雄だった。


 アルマは店の中を見回し、それから軽く手を振った。


「どうも。英雄様でーす」


 あまりにも軽い言い方だった。


 ミカゲは一瞬、返事に困った。


 エイルが隣で笑う。


「この人、だいたいこんな感じだから」


「雑な紹介しないでくれる?」


「正確でしょ」


「否定しづらいのが嫌だな」


 アルマはそう言って、空いている席へ向かった。


 ツカサがすぐに水を出す。


「いらっしゃいませ」


「おお。丁寧」


 アルマはツカサを見上げた。


「君がツカサ?」


「はい」


「エイルから聞いてるよ。料理できて、掃除できて、裁縫もできて、怪我人の世話もできて、ついでに髪まで整えられるらしいね」


 ツカサは少しだけ目を瞬かせた。


 ミカゲが横でむっとする。


「言い方」


「褒めてる褒めてる」


 アルマはひらひら手を振る。


「万能少女って感じでいいじゃん」


「万能ではないです」


 ツカサは静かに返した。


「できることをしているだけです」


「それをみんな万能って言うんだけどなあ」


 アルマは頬杖をつく。


 その目は笑っていた。


 けれど、ミカゲは少しだけ引っかかった。


 軽い。


 でも、ただ軽いだけではない気がした。


 言葉の端に、薄い棘のようなものがある。


 刺そうとしているのか。


 自分に向けているのか。


 まだ分からなかった。


     ◇


「今日のおすすめは?」


 アルマが聞いた。


「魚と野菜の汁です。あと、麦飯と煮物があります」


 ツカサが答える。


「じゃあ全部」


「全部?」


「うん。食べに来たし」


 エイルが隣の席に座りながら言う。


「アルマ、わりと食べるよ」


「わりとじゃなくて、ちゃんと食べるの。豊穣の英雄だから」


「それ関係ある?」


「たぶんある」


「たぶんなんだ」


 エイルは楽しそうに笑った。


 ツカサは台所へ戻る。


 ミカゲも手伝おうとして、その前にアルマへ向き直った。


「ミカゲです」


「知ってる」


「え」


「エイルから聞いた。剣の訓練してる子でしょ」


「はい」


「剣の英雄に教わってるんだって?」


「はい。グランさんに」


「へえ。すごいね」


 アルマはにこりと笑った。


「その歳で英雄に剣を教わって、家に帰れば料理上手な子が待ってて、髪まで綺麗にしてもらえる」


 ミカゲは少し顔を赤くした。


「髪は、昨日たまたま」


「たまたまねえ」


 アルマの視線が、ミカゲの髪に向く。


 昨日よりまとまった髪。


 毛先まで丁寧に梳かされた跡。


 ミカゲはなんとなく、髪を手で押さえた。


「似合ってるよ」


 アルマは言った。


 その声は軽かった。


 けれど、嘘ではなさそうだった。


「ありがとうございます」


「いいね。大事にされてる感じがして」


 ミカゲはどう返せばいいか分からなかった。


 横からエイルが口を挟む。


「アルマ、初対面で距離の詰め方が変」


「そう?」


「そう」


「褒めてるのに」


「褒め方に癖がある」


「英雄なんて癖があるくらいでちょうどいいでしょ」


「私はないよ」


「エイルは自覚がないだけ」


「ひどい」


 二人のやり取りに、店の中の空気が少し緩んだ。


 ミカゲも少し笑う。


 アルマはその笑顔を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。


 羨ましい。


 その言葉は口には出なかった。


 出すつもりもなかった。


 ただ、ミカゲの笑顔と、台所で迷いなく動くツカサの背中が、同じ場所に並んで見えた。


 誰かを待っている場所。


 誰かのために動ける手。


 誰かに帰ってきてほしいと思われる日々。


 アルマは視線を外した。


「いい匂い」


 軽い声で言う。


 さっき浮かびかけたものを、箸でつまんで皿の端に寄せるように。


     ◇


 料理が並ぶと、アルマはまず汁を飲んだ。


 一口。


 それから少しだけ眉を上げる。


「おいしい」


 ツカサは台所の前で立っていた。


「ありがとうございます」


「優しい味だね」


 エイルが横で言う。


「昨日の私と同じ感想だ」


「感想が被った。悔しい」


「悔しがるところ?」


「だってエイルと同じって、なんか負けた感じする」


「どういう意味かなぁ」


 エイルが笑顔のまま、アルマを見る。


 アルマは気にせず煮物に箸を伸ばした。


「これもおいしい」


「ありがとうございます」


「君、本当に何でもできるね」


 また、その言葉だった。


 ツカサは少しだけ視線を落とす。


「何でもはできません」


「じゃあ、できないことは?」


「たくさんあります」


「例えば?」


 ミカゲは横で少し眉を寄せた。


 アルマの聞き方は、強くはない。


 けれど、逃げ道を探すような軽さがあった。


 ツカサは少し考えた。


「高いところの物を取るのは苦手です」


「かわいい答え」


「あと、重い荷物を運ぶのも苦手です」


「それは見た目通り」


「それと」


 ツカサは、ほんの少しだけ間を置いた。


「人に任せるのは、まだ苦手です」


 ミカゲがツカサを見る。


 エイルも、少しだけ目を細めた。


 アルマは箸を止める。


「へえ」


 軽い声だった。


 でも、さっきより少しだけ温度が下がった。


「苦手って分かってるなら、まだいいんじゃない?」


「そうですか」


「分かってない人、いっぱいいるから」


 アルマはまた汁を飲んだ。


 その横顔を見て、ミカゲは思った。


 この人は、自分の話をしているのかもしれない。


 でも、それを聞くほどの距離ではなかった。


 初対面の英雄に、いきなり踏み込めるほどミカゲは無遠慮ではない。


 ツカサも何も聞かなかった。


 ただ、小さく頷いた。


「気をつけます」


「真面目」


 アルマは少し笑った。


「エイルから聞いてた通り」


「エイルさん、何を話したんですか」


 ツカサがエイルを見る。


 エイルはわざとらしく目を逸らした。


「いやあ、別に? ツカサちゃんが働きすぎとか、ミカゲちゃんが怪我をごまかすとか、二人とも見回り先として優秀とか、そのくらい」


「全部話してる」


 ミカゲが言う。


「必要な共有です」


「癒しの英雄っぽい言い訳」


「それっぽいでしょ」


 エイルは胸を張った。


 アルマは二人を眺めながら、煮物を食べた。


 店の中で、ツカサは自然に動いている。


 客の椀が空になりそうなら声をかける。


 水が減っていれば注ぐ。


 ミカゲが運ぶ皿を取り落としそうになれば、先に手を伸ばす。


 それらは全部、考えてからやっているようには見えなかった。


 体が覚えている。


 誰かを見ることが、癖になっている。


 アルマは箸を置いた。


「ねえ、ツカサ」


「はい」


「疲れない?」


 ツカサは少しだけ目を瞬かせた。


「疲れます」


「そこは正直なんだ」


「はい」


「じゃあ、なんでやるの?」


 店の空気が、少しだけ静かになった。


 強く責めたわけではない。


 ただの質問にも聞こえる。


 けれどミカゲは、胸の奥が少し引っかかるのを感じた。


 ツカサはすぐには答えなかった。


 店の奥で鍋が小さく鳴る。


 通りから人の声が聞こえる。


 それから、ツカサは言った。


「やりたいから」


「義務じゃなくて?」


「それもある」


「責任?」


「それもある」


「じゃあ、楽しい?」


 ツカサは少しだけ考えた。


 そして、ミカゲの方を見た。


 ミカゲは皿を持ったまま、首を傾げる。


「楽しい時もある」


「例えば?」


「ミカゲが、料理をおいしいって言う時」


 ミカゲの顔がすぐに赤くなった。


「なんでそこで私なの」


「聞かれたから」


「そうだけど」


「あと、お客さんがまた来るって言ってくれる時」


 ツカサは視線を店の方へ戻す。


「この店が、まだここにあっていいんだと思えるから」


 アルマは黙った。


 エイルも茶化さなかった。


 ミカゲは、手元の皿を少しだけ強く持った。


 ツカサの声は静かだった。


 でも、軽くはなかった。


 祖母がいなくなった店。


 それでも戸を開けて、火を入れて、誰かに食事を出す。


 その一つ一つが、ツカサにとってはただの仕事ではなかった。


 アルマは小さく息を吐く。


「そっか」


 それだけ言って、また箸を取った。


「じゃあ、ちゃんと食べないとね。残したら悪い」


「無理はしなくていいです」


「しないよ。おいしいから食べる」


 アルマはそう言って、今度は本当に少しだけ笑った。


     ◇


 昼の忙しさが過ぎると、店は落ち着いた。


 客はぽつぽつと帰っていき、最後に残ったのはエイルとアルマだけになった。


 ミカゲは机を拭いていた。


 ツカサは台所で洗い物をしている。


 エイルは椅子に深く座り、眠そうにしていた。


「エイルさん、寝ないでくださいね」


 ミカゲが言う。


「寝てないよ。まぶたを休ませてるだけ」


「それ、寝る前の人が言うやつです」


「よく知ってるねえ」


「ツカサがたまに言います」


 台所から、器の音が一瞬止まった。


「言ってない」


「言ってるよ。少し目を閉じるだけって」


「少しだけなら寝てない」


「寝てる」


「寝てない」


 アルマがそれを聞いて、少し笑った。


「仲いいね」


 ミカゲは布巾を動かしながら答える。


「はい」


 何の迷いもなかった。


 アルマはその返事に、少しだけ目を細めた。


「即答」


「仲いいので」


「言い切るねえ」


「言い切れます」


 ミカゲは少し誇らしげだった。


 その様子を、ツカサが台所から見ていた。


 すぐに視線を戻したけれど、耳が少し赤かった。


 アルマはその一瞬も見ていた。


「いいね」


 小さく呟く。


 ミカゲが顔を上げる。


「何がですか?」


「んー」


 アルマは椅子の背にもたれた。


「言い切れるものがあるのは、いいなって」


 ミカゲは少し考える。


「アルマさんにはないんですか?」


 聞いてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。


 けれどアルマは怒らなかった。


 ただ、肩をすくめる。


「あるよ」


「なら」


「でも、言い切るのって体力いるじゃん」


「体力?」


「そう。言ったあと、違ってたら恥ずかしいし」


「そうですか?」


「そうだよ。大人になるとね、いろいろ面倒なの」


 エイルが片目を開ける。


「アルマ、また大人ぶってる」


「ぶってない。大人だから」


「大人は初対面の子の髪を見て、眩しいとか言わないよ」


「それ昨日の話でしょ」


「昨日の話だねえ」


 ミカゲはきょとんとした。


「眩しい?」


 アルマは少しだけ固まった。


 エイルは楽しそうに笑っている。


「エイル」


「口が滑った」


「絶対わざと」


「まさかぁ」


 アルマはため息をついた。


 それから、ミカゲを見る。


「昨日、外から見てたんだよ」


「入ればよかったのに」


「そう言われると思った」


「じゃあ、なんで入らなかったんですか?」


 ミカゲは素直に聞いた。


 アルマは窓の外を見る。


 昼の光が、通りの石畳に落ちている。


「なんか、入り損ねた」


「入り損ねた?」


「うん」


「それだけ?」


「それだけ」


 嘘ではない。


 でも、全部でもない。


 ミカゲはそう感じた。


 ツカサも洗い物の手を止めずに、少しだけ耳を傾けていた。


 アルマは軽く笑う。


「ほら、ああいうのってあるでしょ。楽しそうなところに後から入ると、ちょっと間が悪い感じ」


「あります」


 ミカゲは頷いた。


「でも入ってくれたらよかったのに」


「今日入ったから許して」


「許します」


「優しい」


「ケーキがなかったのは残念ですけど」


「そこ?」


 アルマが笑った。


 店の空気がまた少し緩む。


 エイルはそれを見て、満足そうに目を細めた。


     ◇


 アルマは食後もしばらく店にいた。


 特に何かをするわけではない。


 エイルと話したり、ミカゲの訓練の話を聞いたり、ツカサの動きをぼんやり眺めたりしていた。


「ミカゲちゃんは、なんで剣を習ってるの?」


 アルマが聞いた。


 ミカゲは少しだけ背筋を伸ばす。


「守りたい人がいるからです」


「へえ」


 アルマの目がツカサへ向く。


「その人?」


 ミカゲは少し赤くなった。


 けれど、否定しなかった。


「はい」


 ツカサは台所で器を拭いていた手を止めた。


「ミカゲ」


「いいでしょ。本当のことだし」


「でも」


「でもじゃない」


 ミカゲは少しだけ胸を張った。


「私はツカサを守りたいの」


 店の中に、短い沈黙が落ちた。


 ツカサは何か言おうとして、やめた。


 その代わり、布巾を畳む。


「……ありがとう」


「うん」


 ミカゲは当然のように頷いた。


 アルマはそれを見ていた。


 まっすぐに言えること。


 まっすぐに受け取れること。


 それが少しだけ眩しかった。


 眩しいものは、見ているだけで目が疲れる。


 でも、目を逸らすのも惜しい。


「いいなあ」


 アルマは、今度は声に出してしまった。


 ミカゲが首を傾げる。


「いい?」


「うん。守りたい人がいて、守りたいって言えるの」


「アルマさんは?」


「私?」


「はい。守りたいもの、ないんですか?」


 アルマは口元に笑みを作った。


「あるよ。畑とか、村とか、食べ物とか。豊穣の英雄だからね」


「すごいです」


 ミカゲは素直に言った。


 アルマは笑ったまま、少しだけ目を伏せた。


「すごいかな」


「すごいです」


「剣を振るわけでもないのに?」


「でも、食べるものがないと困ります」


 ミカゲは当たり前のように言った。


「この店だって、野菜とか麦とか魚とか、いろんなものがあるからできてますし」


「魚は私じゃないけどね」


「でも畑は関係ありますよね」


「まあ、あるかな」


 アルマは軽く返した。


 軽く返したつもりだった。


 けれど、ツカサが台所からこちらを見ていることに気づいた。


「ツカサ?」


 アルマが呼ぶ。


 ツカサは少しだけ迷ってから、口を開いた。


「この店で使ってる野菜も、アルマさんの仕事と繋がってるんですよね」


 アルマの指が、机の上で止まった。


「まあ、そういうこともあるかもね」


「なら、すごいです」


 ツカサの声は静かだった。


 お世辞の響きはなかった。


「誰かが食べるものを守っているなら、すごいことだと思います」


 アルマは何も言わなかった。


 エイルも、今回は茶化さなかった。


 ミカゲは、ツカサを見た。


 ツカサは本当に、ただそう思ったから言った顔をしていた。


 そこに特別な意味はなかった。


 でも、アルマには少し強すぎた。


「……君さ」


 アルマはやっと声を出した。


「本当に、そういうこと普通に言うんだね」


 ミカゲが小さく笑う。


「ツカサ、そうなんです」


「なるほどね」


 アルマは背もたれに体を預けた。


「エイルが気にするわけだ」


「でしょー」


 エイルが得意げに言う。


「私の目に狂いはない」


「だいたい眠そうなのに?」


「眠そうでも見えるものは見える」


「便利だね」


「便利だよー」


 アルマは少し笑った。


 今度の笑みには、さっきまでの棘がほとんどなかった。


     ◇


 夕方前、エイルとアルマは店を出ることにした。


 ツカサは二人に頭を下げる。


「ありがとうございました」


「こちらこそ。ごちそうさま」


 エイルが言う。


「また来るねー」


「はい」


 アルマは入口で振り返った。


「ツカサ」


「はい」


「料理、おいしかった」


「ありがとうございます」


「あと」


 アルマは少しだけミカゲを見る。


「髪、ちゃんと見てあげなよ」


 ミカゲが目を丸くする。


「え?」


「訓練してると、すぐ荒れるでしょ。せっかく綺麗なんだから」


 ミカゲは少し照れたように髪を触った。


 ツカサは頷く。


「そのつもりです」


「うん。そういうところ、君っぽい」


「私っぽい?」


「気にしなくていいよ。褒めてるから」


 アルマはひらひらと手を振った。


 そして、少しだけ口元を緩める。


「また来る」


「はい」


「次はケーキがある時に」


「それはエイルさんに」


「じゃあエイル、よろしく」


「私は菓子運び係じゃないんだけどなあ」


「昨日持ってきたんでしょ」


「持ってきたけど」


「じゃあ係だね」


「任命が雑」


 二人はそんな話をしながら、通りへ出た。


 ミカゲは店の前まで見送りに出る。


 ツカサもその隣に立った。


 エイルが振り返り、軽く手を振る。


 アルマも少し遅れて手を上げた。


 その姿が通りの向こうへ小さくなっていく。


「不思議な人だったね」


 ミカゲが言った。


「うん」


「軽いけど、軽いだけじゃない感じ」


「うん」


「ちょっと意地悪っぽいけど、悪い人じゃなさそう」


「うん」


「ツカサ、うんしか言ってない」


「同じこと思ってたから」


 ミカゲは笑った。


 そして、少しだけ首を傾げる。


「でも、なんか寂しそうだった」


 ツカサはアルマたちが去った通りを見た。


 もう姿は見えない。


 ただ、夕方の光だけが伸びている。


「そうかも」


「また来るかな」


「来ると思う」


「なんで?」


「また来るって言ってたから」


「それはそう」


 ミカゲはまた笑った。


 ツカサは店の中へ戻ろうとして、ふとミカゲの髪に目を向けた。


 風で少し乱れている。


 ツカサは手を伸ばし、毛先を軽く整えた。


「また絡んでる」


「風のせい」


「訓練のせいでもある」


「まだ今日は訓練してないよ」


「これからするでしょ」


「する」


「じゃあ、帰ってきたら見る」


「うん」


 ミカゲは嬉しそうに頷いた。


 その顔を見て、ツカサも少しだけ笑った。


     ◇


 通りを歩きながら、エイルは隣のアルマを見た。


「どうだった?」


「何が?」


「二人」


「かわいいね」


「それだけ?」


「料理がおいしかった」


「それだけ?」


「髪が綺麗だった」


「それだけ?」


 アルマは足を止めた。


 エイルも止まる。


 夕方の光が、二人の足元を長く伸ばしていた。


「エイル、しつこい」


「だってアルマ、言わないとすぐ隠すし」


「隠してない」


「隠れて店に入らなかった人が言う?」


「入り損ねただけ」


「はいはい」


 エイルは笑った。


 アルマは少しだけ空を見上げる。


 雲は薄く、空は明るい。


 乾いた風が通りを抜けた。


「……眩しい子たちだった」


 アルマは小さく言った。


 昨日と同じ言葉だった。


 でも、少しだけ違う響きだった。


「ミカゲちゃん?」


「二人とも」


「そっか」


「片方は守りたいってまっすぐ言うし、片方は何でもない顔で人の食べるものを守ってるならすごいとか言うし」


「刺さった?」


「別に」


「刺さった顔してる」


「うるさい」


 アルマは歩き出した。


 エイルはその横に並ぶ。


「アルマもすごいよ」


「急に何」


「言った方がいいかなって」


「いらない」


「本当に?」


「いらない」


 アルマの返事は早かった。


 早すぎた。


 エイルはそれ以上言わなかった。


 アルマは前を向いたまま、少しだけ唇を結ぶ。


 すごい。


 そう言われるのは、慣れているはずだった。


 豊穣の英雄だから。


 必要とされているから。


 感謝されることもある。


 頭を下げられることもある。


 けれど、それはいつも役割に向けられている気がした。


 アルマという一人の人間ではなく。


 豊穣の英雄という札に向けられている気がした。


 それなのに、あの子は言った。


 誰かが食べるものを守っているなら、すごい。


 たぶん、深く考えていない。


 本当にそう思っただけ。


 だから困る。


「また行く」


 アルマは言った。


 エイルが少し笑う。


「うん」


「別に、気に入ったわけじゃないから」


「はいはい」


「料理がおいしかっただけ」


「うんうん」


「ケーキもあるかもしれないし」


「そうだねえ」


「あと、あの子たち、放っておくとなんか危なそうだし」


「それは同意」


 エイルは眠そうな目で、少しだけ真面目に頷いた。


 アルマはもう一度、店の方を振り返った。


 遠くて、もう見えない。


 けれど、あの小さな店の中に残っていた温度だけは、少しだけ覚えていた。


 眩しい。


 そう思うのに、嫌ではなかった。


 アルマは前を向く。


「次は、ちゃんと入る」


「今日はちゃんと入ったよ」


「最初からって意味」


「そっか」


 エイルは笑った。


 二人は夕方の通りを歩いていった。


 その背中に、乾いた風が吹いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ