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第24話「その雨は誰が為」

 朝から、空は少し白かった。


 雲が厚いわけではない。


 けれど青一色でもなく、薄い布を一枚かけたような空だった。


 ミカゲは店の前で水を撒きながら、何度か空を見上げた。


「降るのかな」


 ぽつりと呟く。


 隣で、ツカサが店の戸を拭いていた。


「雨?」


「うん。なんか、そんな空じゃない?」


「そうかも」


「洗濯物、奥に入れた方がいいかな」


「まだ大丈夫だと思う」


「本当?」


「たぶん」


「たぶんはだめ」


 ミカゲがすぐに言う。


 ツカサは布を持ったまま、少しだけ目を瞬かせた。


「それ、私の言い方」


「覚えた」


「覚えなくていいところまで覚えてる」


「便利だから」


 ミカゲは得意げに笑った。


 ツカサは少し困った顔をして、それから店の中へ戻った。


 台所には、朝の仕込みが並んでいる。


 刻んだ野菜。


 水に浸した豆。


 下味をつけた魚。


 祖母の帳面には、今日の欄に小さく書き込みがあった。


 雨の前は、汁を少し温かく。


 湿気で気分が沈む人が多いから。


 ツカサはその字を指でなぞった。


 祖母は、雨の日のことまで見ていた。


 誰が傘を忘れるか。


 誰が濡れると機嫌が悪くなるか。


 誰が雨の日だけ、甘いものを少し欲しがるか。


 そんなことまで。


「ツカサ」


 ミカゲが台所を覗き込む。


「今日、汁多めに作る?」


「うん。雨が降ったら、温かいものが出る方がいいと思う」


「じゃあ、野菜多め?」


「うん」


「手伝う」


「包丁は私がやる」


「またそれ」


「ミカゲは水を運んで」


「はいはい」


「一回」


「はい」


 ミカゲは笑って、水桶を持った。


 その時、店の前を誰かが通る影が見えた。


 ミカゲが顔を上げる。


「あ」


 戸の外に、アルマが立っていた。


 昨日より少し軽い格好で、外套の代わりに薄い上着を羽織っている。


 空を見上げていた。


 何かを確かめるように。


 ミカゲが店の戸を開ける。


「アルマさん」


 アルマは視線を下ろした。


「おはよう」


「おはようございます。今日は早いですね」


「ちょっと近くまで来たから」


「近くまで?」


「うん。空を見に」


 アルマはまた空を見た。


 ミカゲもつられて見上げる。


「やっぱり、雨ですか?」


「たぶんね」


「たぶんはだめですよ」


 ミカゲがそう言うと、アルマは少し目を丸くした。


 それから笑う。


「何それ」


「ツカサがよく言うんです」


「ああ、あの子っぽい」


 アルマは店の中を覗いた。


 台所でツカサが振り返る。


「おはようございます」


「おはよう。今日も働いてるね」


「はい」


「褒めてないよ?」


「分かっています」


「分かってるんだ」


 アルマはくすりと笑った。


 ツカサは少し首を傾げる。


「入りますか?」


「入っていい?」


「もちろんです」


 その返事に、アルマは一瞬だけ動きを止めた。


 昨日は入り損ねた。


 今日は、戸の前で止まらなかった。


「じゃあ、お邪魔します」


 アルマは店の中へ入った。


     ◇


 開店前の店は、まだ静かだった。


 客の声もなく、椅子の脚が床を擦る音だけが小さく響く。


 アルマは窓際の席に座った。


 ミカゲが水を出す。


「今日はエイルさんはいないんですか?」


「今日は別行動。あの人、あれで忙しいから」


「あれで」


「眠そうだけどね」


「忙しくても眠そうですよね」


「忙しくなくても眠そうだよ」


 ミカゲは笑った。


 ツカサは台所で手を動かしながら、その会話を聞いていた。


「朝食、食べましたか?」


 ツカサが聞く。


「食べたよ」


「なら、お茶だけ出します」


「ありがとう」


 ツカサは温かい茶を淹れて、アルマの前に置いた。


 アルマは湯気を見つめる。


 店の外はまだ明るい。


 けれど、雲の白さが少しだけ濃くなっていた。


「雨の日って、店は混む?」


 アルマが聞いた。


 ツカサは少し考える。


「祖母の帳面には、少し増えるって書いてありました」


「なんで?」


「外仕事の人が早めに切り上げるから。あと、温かいものを食べに来る人がいるみたいです」


「へえ」


「雨の日だけ、甘い煮物を頼む人もいます」


「細かいね」


「お婆ちゃんが書いてくれていたので」


 ツカサはそう言って、帳面を閉じた。


 アルマは茶を一口飲む。


「いいお婆さんだったんだね」


「はい」


 ツカサはすぐに答えた。


 迷いのない声だった。


 アルマはカップを持ったまま、少しだけ目を伏せた。


「そっか」


 それ以上は聞かなかった。


 ミカゲも、今日は口を挟まなかった。


 開店の準備は続く。


 ツカサは鍋に火を入れた。


 ミカゲは机を拭いた。


 アルマは窓際で、それを見ていた。


 誰かが働いている姿を、何もせず眺めているのは少し落ち着かなかった。


 けれど、手を出すほどの場所でもない。


 この店には、この店の手順がある。


 ツカサが鍋を見る。


 ミカゲが椀を並べる。


 足りないものを、どちらかが言う前にもう片方が持ってくる。


 まだぎこちないところもある。


 でも、二人だけの呼吸があった。


 アルマは自分の指先を見た。


 手は空いている。


 何も持っていない。


 英雄と呼ばれる時、たいてい誰かが頭を下げる。


 でも、その場で自分の手が何かを作っている実感は薄い。


 雨を降らせる。


 それは確かに仕事だ。


 けれど、雨が畑に染み込んで、芽が出て、実になって、誰かの皿に乗る頃には、アルマの姿はそこにない。


 食卓で笑う人の顔を、アルマは知らない。


「アルマさん?」


 ミカゲの声で、アルマは顔を上げた。


「何?」


「お茶、熱すぎました?」


「ううん。ちょうどいい」


「よかった」


 ミカゲは安心したように笑った。


 アルマはその顔を見て、茶をもう一口飲んだ。


 温かかった。


     ◇


 昼前になると、ぽつぽつと客が入ってきた。


 雨はまだ降っていない。


 けれど、空を気にする人は多かった。


「今日は降るかね」


 魚屋の男が言う。


 アルマを見つけて、慌てて背筋を伸ばした。


「お、おお。豊穣の英雄様」


「様はいらないよ」


 アルマは軽く手を振った。


「でも今日は降るかもね」


「そりゃありがたい。畑の連中が喜ぶ」


「魚屋なのに?」


「野菜が育たなきゃ、ここで食う汁の具が減るだろ」


「なるほど」


 アルマは少し笑った。


 野菜を届けに来る女性も、店に入ってきた。


 アルマを見るなり、ぱっと顔を明るくする。


「アルマ様」


「だから様はいらないって」


「この前の雨、本当に助かりました。畑が持ち直して」


「それはよかった」


 アルマはいつもの軽い笑顔で答えた。


 女性は何度も頭を下げる。


「今度の芽も、ようやく伸びてきて」


「うん」


「また見に来てください」


「近くに寄ったらね」


「はい」


 女性は嬉しそうに席へ向かった。


 ミカゲはその様子を見ていた。


 アルマは軽く受け流しているように見える。


 けれど、女性が席へ向かったあと、ほんの少しだけ口元の笑みが薄くなった。


 嬉しくないわけではなさそうだった。


 でも、喜びきってもいない。


 そんな顔だった。


「アルマさん、すごいですね」


 ミカゲが小声で言う。


「急に何?」


「みんな、雨で助かってるんですね」


「まあ、それが仕事だから」


「仕事でも、すごいです」


「ミカゲちゃんは素直だねえ」


 アルマは笑った。


「ツカサの影響?」


「元からです」


「そう?」


「たぶん」


「たぶんはだめなんじゃなかった?」


「あ」


 ミカゲが口を押さえる。


 アルマは少し楽しそうに笑った。


 その横で、ツカサは注文を受けながらアルマを見ていた。


 昨日より、少しだけ分かった気がした。


 アルマは褒められるのが嫌いなのではない。


 ただ、褒められる場所をいつも少しずらしている。


 受け取らないようにしている。


 そう見えた。


     ◇


 昼の忙しさが落ち着く頃、空はさらに白くなっていた。


 遠くで低い雷のような音がした。


 雷ではないかもしれない。


 荷車かもしれない。


 それでも、店の中にいた何人かが空を見た。


「降るな」


 魚屋の男が言った。


「帰るなら今のうちだ」


 そう言って、客が一人、また一人と帰っていく。


 店には、アルマとミカゲとツカサだけが残った。


 ツカサは空いた器を片づける。


 ミカゲは窓を少し閉めた。


 風が湿っている。


 雨の匂いが近づいていた。


「アルマさんは、雨が降るの分かるんですか?」


 ミカゲが聞いた。


「なんとなくね」


「英雄の力で?」


「それも少し」


 アルマは窓の外を見た。


「でも、今日のは私の雨じゃないよ。普通の雨」


「普通の雨と、アルマさんの雨って違うんですか?」


「違うと言えば違うし、同じと言えば同じ」


「難しい」


「私もそう思う」


 アルマは笑った。


 ツカサが洗い物を終えて、布巾で手を拭く。


「アルマさんの雨は、どこかで必要な時に降らせるんですか?」


「そうだよ」


「どこでも?」


「どこでも、は言いすぎかな。準備がいるし、場所にもよる」


 アルマは少し考えるように、カップの縁を指でなぞった。


「王都に、雨を呼ぶための大きな仕組みがあるの」


 ミカゲが目を丸くする。


「王都に?」


「うん。古い魔法陣みたいなもの。私がそこに力を流すと、決められた地域に雨を届けられる」


 ツカサは静かに聞いていた。


 アルマは続ける。


「もちろん、何でも好き勝手にできるわけじゃないよ。空の状態も見るし、場所も選ぶし、量も調整する。やりすぎたら畑が駄目になるし、足りなかったら意味がない」


「大変なんですね」


 ミカゲが言う。


「まあね」


 アルマは軽く返した。


「でも、私はそこで力を流すだけ」


「だけ?」


 ツカサが聞いた。


 アルマは少しだけ笑う。


 笑ったのに、目はあまり笑っていなかった。


「剣の英雄みたいに前に立って戦うわけじゃない。盾の英雄みたいに誰かを受け止めるわけでもない。癒しの英雄みたいに、目の前の怪我を治すわけでもない」


 外で、雨粒が一つ落ちた。


 窓の木枠に、小さな音がした。


「風の英雄みたいに、遠くまで調べられるわけでもない」


 ぽつ。


 また一つ。


「私は雨を降らせるだけ」


 アルマはそう言って、カップから指を離した。


「英雄って呼ばれるほどのことかなって、たまに思う」


 店の中が静かになった。


 雨粒の音だけが、少しずつ増えていく。


 ミカゲは何か言おうとして、言葉を探した。


 すごいです、とすぐに言うこともできた。


 でも、昨日と同じように言えばいいわけではない気がした。


 アルマは笑っている。


 けれど、その笑顔は、先に逃げ道を作っているように見えた。


 ツカサは窓の外を見た。


 雨が降り始めている。


 石畳に点が増えていく。


 通りを歩く人が足を速める。


 店の軒先に、小さな雨音が重なった。


「アルマさん」


 ツカサが言った。


「何?」


「この店で使っている野菜は、誰かが育てたものです」


「うん」


「麦も、豆も、果物も」


「うん」


「それがなかったら、私は料理を作れません」


 アルマはツカサを見た。


 ツカサはまっすぐ見返していた。


「料理を食べた人が、少し元気になったり、また来るって言ってくれたりします」


 ツカサは台所の方へ目を向ける。


 鍋。


 椀。


 祖母の帳面。


「その前に、食べるものが必要です」


 雨の音が強くなる。


 けれど、ツカサの声は消えなかった。


「アルマさんの雨は、そこに繋がっています」


 アルマは何も言わなかった。


「目の前で怪我を治すのとは違うかもしれません」


「うん」


「剣で誰かを守るのとも違うかもしれません」


「うん」


「でも、誰かが明日も食べられるようにしているなら、それはすごいことです」


 ツカサは少しだけ間を置いた。


「私は、そう思います」


 アルマは視線を落とした。


 カップの中の茶は、もう少し冷めている。


 雨音が屋根を叩く。


 店の中に、温かい汁の匂いが残っていた。


「君はさ」


 アルマは小さく言った。


「そういうこと、どこで覚えたの?」


 ツカサは少し考えた。


「分かりません」


「分からないんだ」


「でも」


 ツカサは祖母の帳面を見た。


「たぶん、ここで」


 アルマも帳面を見る。


 古い帳面。


 角が丸くなって、何度も開かれた跡がある。


「お婆ちゃんが、誰が何を食べやすいか、全部書いていました」


「うん」


「私は、それを見て作っています」


「うん」


「だから、食べることは大事なんだと思います」


 アルマはしばらく黙っていた。


 それから、ふっと力を抜いたように笑った。


「そっか」


 短い返事だった。


 でも、さっきまでの軽さとは少し違った。


「そっかあ」


 もう一度言う。


 ミカゲはその横顔を見て、少しだけ安心した。


 アルマの肩から、何かがほんの少しだけ落ちたように見えた。


     ◇


 雨は本降りになった。


 通りを行く人の数は減り、軒先に雨の筋が落ち続ける。


 ツカサは戸を少し閉め、店の中に吹き込まないようにした。


 ミカゲは窓の側に椅子を寄せる。


 アルマはそこに座ったまま、雨を眺めていた。


「今日のは普通の雨なんですよね」


 ミカゲが言う。


「うん」


「普通の雨でも、アルマさんは気になるんですか?」


「気になるよ」


「なんでですか?」


「降りすぎないかなとか、足りるかなとか」


 アルマは頬杖をつく。


「私が降らせた雨じゃなくても、畑は濡れるから」


「そっか」


「雨って、ちょうどいいのが難しいんだよ」


「多すぎても駄目?」


「駄目。根が腐るし、土も流れる。少なすぎても駄目。芽が枯れる」


「大変ですね」


「大変だよ」


 アルマは少し笑った。


「でも、大変って言うと、なんか英雄っぽく聞こえるでしょ」


「実際、大変じゃないですか」


「そうかな」


「そうです」


 ミカゲは即答した。


 アルマはその顔を見て、少しだけ目を細める。


「ミカゲちゃんも、そういうところあるよね」


「そういうところ?」


「まっすぐ言うところ」


「変ですか?」


「変じゃないよ」


 アルマは窓の外へ視線を戻した。


「ちょっと、痛いだけ」


 ミカゲは黙った。


 その言葉の意味は、まだよく分からなかった。


 けれど、聞き返すのは違う気がした。


 ツカサが台所から温かい汁を持ってくる。


「少し残っているので」


「くれるの?」


「はい」


「お金払うよ」


「試作なので」


「試作便利だね」


「便利です」


 ツカサはアルマの前に椀を置いた。


 アルマはその湯気を見て、少し笑う。


「さっき食べたのに」


「雨の日は温かいものがいいと、帳面に書いてありました」


「お婆さん、強いね」


「はい」


 ツカサは当然のように頷いた。


 アルマは汁を飲んだ。


 少しだけ濃い。


 雨の日に、体が冷えないような味だった。


「おいしい」


「よかった」


 ツカサは少し安心した顔をした。


 アルマは椀を両手で包む。


 温かさが、指に移る。


「ねえ、ツカサ」


「はい」


「もし、この雨がしばらく止まなかったら、困る?」


「困ります」


「すぐ答えるね」


「洗濯物が乾かないので」


「そこ?」


「あと、外の人が来にくくなります」


「現実的」


「それから、畑も困ると思います」


 アルマは少し笑った。


「ちゃんとそこにも行くんだ」


「はい」


「じゃあ、雨が全然降らなかったら?」


「もっと困ります」


「なんで?」


「野菜が育たないから」


「それだけ?」


「井戸の水も減ります」


「うん」


「暑い日が続くと、食べられなくなる人もいると思います」


「うん」


「だから、雨は必要です」


 ツカサはそう言って、窓の外を見た。


「でも、降りすぎても困ります」


「うん」


「難しいですね」


「難しいよ」


 アルマは椀の中を見つめる。


「だから、ちょうどよく降らせるのが仕事」


「はい」


「ちょうどよく、誰かに届くように」


「はい」


「……それができたら、すごい?」


 アルマは冗談のように言った。


 逃げられるように。


 軽く流せるように。


 けれどツカサは、軽く流さなかった。


「すごいです」


 迷わなかった。


 アルマは一瞬、言葉を失った。


 ミカゲも少し笑う。


「ツカサはそういうの、ちゃんと言います」


「うん。知ってきた」


 アルマは椀を持ったまま、肩を落とす。


「困るなあ」


「困るんですか?」


「困るよ」


「なんで?」


「受け取らなきゃいけなくなるから」


 アルマはそう言って、汁を飲んだ。


 その声は、少しだけ照れているようにも聞こえた。


     ◇


 雨は夕方近くまで降り続いた。


 店に客は少なかった。


 その代わり、軒先で雨宿りする人が何人かいて、ミカゲは余った湯を分けた。


 ツカサは小さな椀に汁をよそって、外の老人に渡した。


 アルマも立ち上がり、椀を運ぶのを手伝った。


「いいんですか?」


 ミカゲが驚く。


「座ってるだけも暇だし」


「英雄さんに運ばせていいのかな」


「今はただの雨宿り客ということで」


 アルマはそう言って、椀を持って外へ出た。


 軒先の老人は驚いて、何度も礼を言った。


 アルマはいつもの軽い笑顔で受け流す。


「熱いから気をつけて」


 それだけ言って戻ってくる。


 ミカゲはその背中を見ていた。


 昨日よりも、少しだけ近い気がした。


 遠くで雨を降らせる英雄ではなく。


 今、目の前で椀を運んでいる人。


 そう見えた。


 ツカサも同じように見ていた。


 アルマは視線に気づき、少し眉を上げる。


「何?」


「似合いますね」


 ツカサが言った。


「何が?」


「椀を運ぶの」


 アルマは変な顔をした。


「褒めてる?」


「はい」


「それ、褒めてる?」


「はい」


 ミカゲが笑う。


「ツカサ、それはちょっと分かりにくい」


「そう?」


「でも、なんか分かる」


「分かるんだ」


 アルマは呆れたように言いながら、椀をもう一つ手に取った。


「じゃあ、もう一回似合ってくる」


「はい」


「はいじゃないよ」


 アルマは笑いながら、また軒先へ向かった。


 雨の音の中に、少しだけ人の声が混じる。


 熱い汁を受け取った人たちが、店の方へ頭を下げる。


 ツカサはそのたびに小さく頭を下げた。


 ミカゲは隣で手を振った。


 アルマはそれを少し離れたところから見ていた。


 雨を降らせるだけでは見えなかったものが、そこにあった。


 椀を受け取る手。


 湯気に近づく顔。


 濡れた肩が少し下がる瞬間。


 雨の日の温かい汁が、誰かを少しだけ座らせる。


 その野菜は、どこかの畑で育ったものだった。


 雨を受けて、土から伸びたものだった。


 アルマは手の中の空いた椀を見た。


 軽かった。


 でも、空ではなかった。


     ◇


 雨が弱くなった頃、アルマは帰ることにした。


 雲の切れ間から、少しだけ光が差している。


 石畳には水たまりができていた。


 店の軒先から落ちる滴が、一定の間隔で地面を叩く。


「今日はありがとうございました」


 ツカサが頭を下げる。


「それ、こっちの台詞じゃない?」


「手伝ってもらったので」


「汁もらったし」


「それは試作です」


「便利な試作」


 アルマは笑った。


 ミカゲも店の前に出る。


「また来てください」


「うん」


「今度はエイルさんも一緒に」


「ケーキ付きで?」


「はい」


「素直」


「ケーキは大事なので」


「それは分かる」


 アルマは笑いながら、空を見上げた。


 雨はほとんど止んでいた。


「ミカゲちゃん」


「はい」


「訓練、頑張って」


「はい」


「でも、髪をぐちゃぐちゃにしすぎると、ツカサが大変だよ」


「それは……気をつけます」


「気をつけてもぐちゃぐちゃになる顔だ」


「なります」


「正直でよろしい」


 アルマは次に、ツカサを見た。


「ツカサ」


「はい」


「さっきの話」


「さっき?」


「雨の話。あんまり人に言わないでね」


 ツカサは少しだけ目を瞬かせた。


「仕組みのことですか?」


「うん。別に秘密ってほどじゃないけど、誰にでも詳しく話すものでもないから」


「分かりました」


「真面目」


「はい」


「返事も真面目」


 アルマは少し笑った。


「でも、君になら話してもいいかなって思った」


 ツカサはすぐには返事をしなかった。


 少しだけ困ったような顔をして、それから言う。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


「何がですか?」


「ちゃんと、すごいって言ってくれたこと」


 アルマは軽く手を振った。


 重くならないように。


 でも、消えないように。


「また来る」


「はい」


「次は雨じゃない日に」


「お待ちしています」


 ツカサがそう言うと、アルマは少しだけ目を細めた。


「うん」


 アルマは通りを歩き出した。


 濡れた石畳に、靴音が小さく響く。


 ミカゲはその背中を見送った。


「なんか、昨日より笑ってたね」


「うん」


「ツカサが褒めたからかな」


「褒めたというか」


「褒めたよ」


「そうかな」


「そう」


 ミカゲは髪を指で整えながら言った。


「アルマさんの雨って、すごいね」


「うん」


「遠くの畑に降って、それがここに来て、私たちが食べるんだね」


「うん」


「なんか、変な感じ」


「変?」


「遠いのに、近い感じ」


 ツカサは少しだけ考えた。


 それから、店の中に置かれた野菜の籠を見た。


 葉についた水滴が、小さく光っている。


「近いと思う」


「うん」


「ここにあるから」


 ミカゲは籠を見た。


 それから、空を見る。


 雲の隙間から差した光が、濡れた通りを照らしていた。


 雨はもう、ほとんど止んでいた。


     ◇


 アルマは一人で通りを歩いていた。


 エイルはいない。


 誰かと話しながら帰ることもできたが、今日は一人でよかった。


 靴の裏が、水たまりを踏む。


 小さく水が跳ねる。


 雨上がりの匂いがした。


 畑の匂いとは違う。


 街の石と土と、濡れた木の匂い。


 アルマは手を開いた。


 さっきまで椀を持っていた手。


 誰かに汁を渡した手。


 豊穣の英雄として雨を降らせる時、その手はもっと大きな仕組みに触れる。


 王都の古い魔法陣。


 流し込む力。


 広がっていく雲。


 見えない先に届く雨。


 それは大事な仕事だ。


 分かっている。


 何度も言われた。


 何度も頭を下げられた。


 でも今日、ツカサは違うところから言った。


 誰かが食べるものを守っているなら、すごい。


 その言葉は、妙に残った。


 役割を褒められたのか。


 自分を見られたのか。


 まだ分からない。


 分からないけれど、嫌ではなかった。


「困るなあ」


 アルマは小さく呟いた。


 空を見る。


 雲の切れ間が広がっていた。


 次に雨を降らせる時。


 たぶん、今日の店を思い出す。


 湯気の立つ椀。


 ミカゲのまっすぐな目。


 ツカサの静かな声。


 濡れた軒先で、汁を受け取った手。


 アルマはゆっくり息を吐いた。


「……すごい、か」


 口に出してみると、少し恥ずかしかった。


 だからすぐに歩き出した。


 濡れた通りを、少しだけ早足で。


 雨上がりの光が、背中に落ちていた。

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