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第25話「背負うということ」

 雨の翌日、空はよく晴れていた。


 石畳の端には、まだ少しだけ水が残っている。


 店の前に置いた鉢の葉も、朝の光を受けて濡れていた。


 ミカゲは戸を開けながら、空を見上げた。


「昨日の雨、すごかったね」


「うん」


 ツカサは台所で野菜を刻んでいた。


 包丁の音が、一定の間隔で響いている。


「アルマさん、また来るかな」


「来ると思う」


「ツカサ、それ昨日も言ってた」


「また来るって言ってたから」


「理由が強い」


 ミカゲは笑いながら、机を拭いた。


 昨日の雨の日、アルマは最後まで店にいた。


 軒先で雨宿りをする人に、ツカサが汁を出した。


 アルマもそれを手伝った。


 それから少しだけ、アルマは柔らかく笑うようになった。


 ミカゲはそれが嬉しかった。


 英雄は遠い存在だと思っていた。


 グランも、エイルも、アルマも。


 でも、少しずつ店に来るようになって、話して、食べて、笑う。


 遠いものが、少しずつ近くなる。


 それが不思議だった。


「ツカサ、今日の仕込み多くない?」


 机を拭き終えたミカゲが、台所を覗き込む。


 いつもより野菜の量が多い。


 魚も多めに下味をつけてある。


 豆も水に浸してあった。


「昨日、雨宿りの人に出した分、減ったから」


「それは昨日の分でしょ?」


「今日、来る人が増えるかもしれない」


「なんで?」


「昨日、汁をもらった人が来るかもしれないから」


「なるほど」


 ミカゲは頷きかけて、少し首を傾げた。


「でも、そんなに増えるかな」


「分からない」


「分からないなら、少しでよくない?」


「足りない方が困る」


 ツカサは包丁を止めずに言った。


 その声は、いつも通りだった。


 静かで、淡々としている。


 でも、ミカゲには少しだけ引っかかった。


「余ったら?」


「夜に食べる」


「またそれ」


「食べられるから」


「食べられる量には限りがあるよ」


「なら、保存する」


「できるものとできないものがあるでしょ」


「工夫する」


 ツカサはそう言って、刻んだ野菜をざるへ移した。


 ミカゲは台所の入口に立ったまま、少し眉を寄せる。


「私も手伝う」


「机、終わった?」


「終わった」


「じゃあ、水を汲んできて」


「それはやるけど、こっちも手伝う」


「包丁は私がやる」


「包丁じゃなくてもいいから」


「火の方は危ない」


「じゃあ、野菜を洗う」


「洗ってある」


「豆を見ておく」


「もう見た」


「……私がやること、残ってる?」


 ツカサの手が、ほんの少しだけ止まった。


 それから、また動く。


「水を汲んできて」


「それは分かったって」


「じゃあ、お願い」


 ミカゲは桶を見た。


 空の桶。


 いつも通りの仕事。


 でも、今日はそれだけを渡されたような気がした。


「うん」


 ミカゲは短く返事をして、桶を持った。


     ◇


 昼になると、ツカサの予想通り、店には人が多く来た。


 昨日、軒先で汁を受け取った老人も来た。


 近所の女性が、雨の日に助かったと礼を言った。


 魚屋の男も、いつもより少し早く来て、昨日の汁をもらい損ねたと笑った。


 店は忙しくなった。


 ツカサは台所と店を行き来し続けた。


 ミカゲも水を出し、皿を下げ、机を拭いた。


 それでも、ツカサの方が明らかに動いていた。


 注文を聞く。


 鍋を見る。


 盛り付ける。


 味を調整する。


 足りない椀を出す。


 火の強さを見る。


 米をよそう。


 客の食べる速度を見る。


 老人の皿だけ、魚を小さくほぐす。


 野菜が苦手な子の椀には、少し細かく刻んだものを入れる。


 全部、ツカサがやっていた。


「ツカサ、私それ運ぶ」


「熱いからいい」


「じゃあ水」


「そっちはお願い」


「皿は?」


「重いから置いておいて」


「重くないよ」


「割れたら危ない」


「割らないって」


「ミカゲ」


 ツカサが振り返る。


 声は強くなかった。


 でも、そこで話が終わるような声だった。


「水をお願い」


 ミカゲは皿に伸ばした手を止めた。


「……分かった」


 水を注ぐ。


 机を拭く。


 空いた椀を一つだけ下げる。


 できることはある。


 けれど、真ん中には入れてもらえない。


 そんな感じがした。


 客が帰る頃には、ツカサの額に汗が浮いていた。


 それでも表情は変えない。


 最後の客を見送った後、ツカサはすぐに台所へ戻った。


「片づける」


「休んだら?」


「先に片づける」


「少しくらい座って」


「あとで」


 あとで。


 その言葉が、最近少し増えていた。


 あとで休む。


 あとで食べる。


 あとで寝る。


 あとで大丈夫。


 でも、そのあとが来る前に、ツカサは次のことを始めている。


 ミカゲはそれに気づいていた。


 気づいていたけれど、どう言えばいいのか分からなかった。


     ◇


 夕方、ミカゲはグランの訓練へ向かった。


 足運び。


 受け身。


 木剣を使った軽い打ち込み。


 いつも通りの訓練だった。


 けれど、集中しきれなかった。


「目線が落ちてるぞ」


 グランが言う。


「はい」


「返事だけいいな」


「すみません」


「何かあったか」


 ミカゲは木剣を下ろした。


「……ツカサが」


「あの子がどうした」


「頑張りすぎてる気がします」


 グランは少しだけ眉を上げた。


「それは前からじゃないか」


「前からですけど、最近もっとです」


「店か」


「はい。店も、家のことも、私のことも、全部」


 ミカゲは木剣を握り直す。


「私もやるって言ってるのに、あんまり任せてくれなくて」


「危ないからとか?」


「そうです」


「まあ、心配なんだろうな」


「それは分かります」


 ミカゲは俯いた。


「でも、私だって守りたいんです」


 グランは木剣を肩に担いだ。


 しばらく黙ってから、少しだけ笑う。


「なら、まず落とすな」


「え?」


「今日の木剣、握りが甘い」


 ミカゲは自分の手を見た。


 確かに、少し力が抜けていた。


「守りたいって思うなら、手を空にするな」


「はい」


「ただし、全部握ろうとするな」


 ミカゲは顔を上げる。


 グランは真っ直ぐこちらを見ていた。


「抱えられる量は決まってる。剣も、荷物も、人もな」


「……はい」


「相手が全部持とうとしてるなら、奪うんじゃなくて、持たせろって言うしかない」


「持たせろ?」


「お前にも持たせろってことだ」


 グランは木剣を構えた。


「口で言うのは簡単だ。でも言い方を間違えると、相手には責められてるように聞こえる」


「責めたいわけじゃないです」


「なら、そう言え」


 ミカゲは黙った。


 グランは軽く木剣を振る。


「続きだ。悩むなら足を動かしながら悩め」


「はい」


「今度は転ぶなよ」


「転びません」


「そう言うやつほど転ぶ」


「転びません!」


 ミカゲは少しむっとして、足を踏み出した。


 けれど、その日の訓練はやはり少しぎこちなかった。


     ◇


 家に戻ると、店の明かりがまだついていた。


 戸を開けると、ツカサは台所にいた。


 鍋を洗っている。


 髪を一つに結び、袖をまくっている。


 朝からほとんど変わらない姿だった。


「ただいま」


「おかえり」


 ツカサは振り返る。


 いつものように、最初にミカゲの膝や肘を見た。


「怪我は?」


「してない」


「本当に?」


「本当」


「ならいい」


 ツカサはまた鍋に視線を戻した。


 ミカゲは靴を脱ぎ、台所へ近づく。


「まだ片づけしてるの?」


「もう少し」


「朝からずっと動いてない?」


「途中で食べた」


「食べたって、余りを少しでしょ」


「足りてる」


「足りてないと思う」


「ミカゲ」


 ツカサは少しだけ困ったように振り返る。


「先に着替えてきて。汗をかいたままだと冷える」


「私のことはいいよ」


「よくない」


「ツカサのことを話してるの」


 声が少し強くなった。


 ツカサは手を止めた。


 水の音だけが残る。


 ミカゲは息を吸う。


 グランの言葉を思い出す。


 責めたいわけじゃない。


 持たせろと言う。


「ツカサ、少し休んで」


「あとで」


「そのあとで、全然来ないよ」


「来る」


「来てない」


 ミカゲは台所に一歩入った。


「私にもやらせて」


「やってもらってる」


「水を出すとか、机を拭くとかだけじゃなくて」


「それも大事」


「分かってる。でも、そうじゃなくて」


 ミカゲは言葉を探す。


 言いたいことが多すぎて、形にならない。


「料理も、片づけも、仕込みも、もっと手伝う」


「料理は火を使う」


「覚える」


「包丁も使う」


「覚えるって」


「怪我したら困る」


「怪我しないように教えて」


「訓練もある」


「でも」


「ミカゲは剣をやってるでしょ」


 ツカサの声が少しだけ早くなった。


「それで疲れて帰ってくる。怪我もする。なら、家のことは私がやる」


「なんでそうなるの」


「その方がいい」


「誰にとって?」


 ミカゲの声が、思ったより強く出た。


 ツカサは黙った。


「ツカサにとっては?」


「私は大丈夫」


「大丈夫じゃない」


「大丈夫」


「大丈夫じゃないって言ってるの!」


 店の中が静まり返った。


 ミカゲも、言ったあとで自分の声に驚いた。


 ツカサは少しだけ目を見開いていた。


 その顔を見て、ミカゲの胸が痛くなる。


 でも、止まれなかった。


「なんで全部自分でやろうとするの。私だっているのに」


「ミカゲがいるから」


「だから、私にもやらせてって言ってるの」


「ミカゲがいるから、私がやるの」


 ツカサの声も、少しだけ強くなった。


 強いのに、どこか必死だった。


「お婆ちゃんに頼まれた。ミカゲと仲良く過ごしてって。ミカゲを一人にしないって」


「それは、全部ツカサがやれって意味じゃないでしょ」


「でも、私は」


 ツカサは鍋の縁を握った。


 指先が白くなる。


「ちゃんとしてないと」


「何を?」


「分からない」


 ツカサは唇を結んだ。


 その顔は、本当に分かっていない顔だった。


 分からないのに、追い詰められている顔だった。


「でも、止まると、分からなくなる」


「何が?」


「……ここにいていいのか」


 ミカゲは息を止めた。


 ツカサは視線を落とす。


「何もしないでいたら、私はここにいていい理由がなくなる気がする」


「そんなわけない」


「分かってる」


「分かってないよ」


「分かってる。でも」


 ツカサは鍋の縁を握ったまま、声を絞る。


「怖い」


 短い言葉だった。


 それだけなのに、重かった。


 ミカゲは何も言えなくなった。


 ツカサがそんなふうに言うとは思っていなかった。


 怖い。


 その言葉を、ツカサはあまり使わない。


 だからこそ、ミカゲの胸が詰まった。


 でも、そこで抱きしめるには、ミカゲの中にも痛みがありすぎた。


「私がいるじゃん」


 ようやく出た声は、震えていた。


「ツカサが何もしなくても、私がいるじゃん」


「うん」


「なのに、なんで信じてくれないの」


「信じてる」


「信じてない」


「信じてる」


「じゃあ、なんで任せてくれないの!」


 ツカサは答えられなかった。


 答えられないまま、視線を落とした。


 その沈黙が、ミカゲには拒絶に見えた。


「私は、ツカサの隣にいたいの。守られるだけじゃ嫌なの。水を運ぶだけじゃ嫌なの」


「ミカゲは守られるだけじゃない」


「じゃあ、私にも持たせてよ」


 ミカゲはグランの言葉を思い出しながら言った。


 でも、声はもう冷静ではなかった。


「ツカサが背負ってるもの、私にも持たせてよ」


「それは」


「それは?」


「……ミカゲには、持たせたくない」


 その言葉が、ミカゲの胸に刺さった。


 優しさだと分かった。


 でも、突き放されたようにも聞こえた。


「そう」


「ミカゲ」


「私は持たせてもらえないんだ」


「違う」


「何が違うの」


 ミカゲの目に熱が滲む。


 怒っているのに、悲しかった。


「私は、ツカサと一緒にいたいだけなのに」


「ミカゲ」


「もういい」


「待って」


「訓練で疲れたから、寝る」


 ミカゲは背を向けた。


 ツカサが何か言おうとした気配があった。


 けれど、言葉は出てこなかった。


 ミカゲはそのまま奥の部屋へ行った。


 戸を閉める音が、いつもより硬く響いた。


     ◇


 ツカサは台所に立ったままだった。


 鍋の中に、洗いかけの水が残っている。


 火は消してある。


 店の中は静かだった。


 ミカゲの足音はもう聞こえない。


 奥の部屋の戸の向こうに、気配だけがある。


 ツカサは鍋を見下ろした。


 指先がまだ少し白い。


 ちゃんとしていないといけない。


 そう思う理由を、ツカサはうまく言葉にできなかった。


 祖母に託されたから。


 エーレに助けられたから。


 ミカゲを一人にしたくないから。


 それは全部、本当だった。


 でも、それだけではない気がした。


 胸の奥に、ぽっかり穴のようなものがある。


 何かを落とした気がする。


 とても大事なものを。


 けれど、それが何だったのかは思い出せない。


 思い出そうとすると、頭の奥が白くなる。


 そこから先へ行ってはいけないと、どこかで誰かに止められるような感じがする。


 だからツカサは、手元を見るしかなかった。


 鍋。


 皿。


 包丁。


 祖母の帳面。


 ミカゲの服。


 ミカゲの髪。


 今、手の中にあるもの。


 それだけは落としたくなかった。


 落としたら、もう二度と拾えない気がした。


 ツカサは水を流した。


 鍋を洗う。


 手を動かす。


 今できることをする。


 昔のことは思い出せない。


 でも、できなかったことが多かった気はする。


 台所に立つことも。


 外を走ることも。


 誰かのために食事を作ることも。


 今はできる。


 できるなら、やりたい。


 やらなければ、いけない。


 そこまで考えて、ツカサは手を止めた。


 やりたい。


 やらなければいけない。


 その二つが、いつの間にか同じ場所に重なっていた。


 ツカサは鍋を拭いた。


 皿を並べた。


 台を拭いた。


 明日の仕込みを確認した。


 いつもより少しだけ、手が遅かった。


     ◇


 奥の部屋で、ミカゲは寝台に座っていた。


 着替えは済ませた。


 けれど、寝る気にはなれなかった。


 膝を抱えて、戸の方を見る。


 台所から、かすかな物音がする。


 鍋を置く音。


 皿を重ねる音。


 布で台を拭く音。


 まだやっている。


 ミカゲは唇を噛んだ。


 言いすぎた。


 それは分かっている。


 でも、言わなければよかったとは思えない。


 ツカサはずっと動いている。


 朝早く起きて、仕込みをして、店を開けて、片づけて、ミカゲの怪我を見て、髪を整えて、服を縫って。


 その全部を、当然のようにやる。


 当然ではないのに。


「怖い、か」


 ミカゲは小さく呟いた。


 ツカサの声が耳に残っていた。


 怖い。


 それを聞いた時、怒りは少しだけ揺らいだ。


 でも、消えなかった。


 自分がいるのに。


 何もしなくてもここにいていいと、何度でも言えるのに。


 ツカサはそれを信じきれない。


 それが悲しかった。


 隣にいるつもりだった。


 二人で暮らしているつもりだった。


 でも、ツカサが背負っているものの中に、自分は入れてもらえない。


 そう思ってしまった。


 ミカゲは髪に触れた。


 昨日、ツカサが整えてくれた髪。


 今日もまだ少しだけ、指通りがよかった。


 大切にされている。


 それは分かる。


 分かるから、余計に分からなかった。


 大切にしてくれるのに。


 どうして、隣には立たせてくれないのか。


 ミカゲは布団に潜った。


 隣の空いた場所を見る。


 最近は、同じ寝台で眠ることが多かった。


 今日は、そこにツカサが来るか分からなかった。


 来てほしい。


 でも、顔を合わせたらまた何か言ってしまいそうだった。


 ミカゲは目を閉じた。


 眠れなかった。


     ◇


 その頃、店の外で足音が止まった。


 閉店後の札を見て、一度通り過ぎかけた足音が、また戻ってくる。


 軽く戸を叩く音。


 ツカサは手を止めた。


 こんな時間に客は来ない。


 少し迷ってから、戸を開ける。


 そこに立っていたのは、ライトだった。


 暗くなりかけた通りに、静かな立ち姿が浮かんでいた。


「こんばんは」


「ライトさん」


「閉店後にごめんなさい。灯りが見えたから」


「いえ」


 ツカサは少しだけ頭を下げる。


「何か食べますか?」


「違うわ」


 ライトは店の中を見た。


 片づいた机。


 拭かれた床。


 奥の台所。


 そして、疲れた顔を隠しきれていないツカサ。


「少し話せる?」


 ツカサは一瞬だけ迷った。


 奥の部屋の方を見る。


 それから、小さく頷く。


「はい」


 ライトは店に入った。


 椅子に座るよう促されても、すぐには座らず、台所の方を見た。


「まだ片づけをしていたの?」


「もう終わります」


「その言い方をする人は、だいたい終わらないわ」


 ツカサは返事に困った。


 ライトは静かに椅子へ座る。


「座って」


「でも」


「座って」


 強い声ではなかった。


 けれど、逆らう余地もなかった。


 ツカサは向かいに座った。


 手は膝の上で揃えられている。


 ライトはその手を見た。


 小さな赤み。


 水仕事の跡。


 針仕事でできた細い傷。


「ミカゲと、何かあった?」


 ツカサは少しだけ肩を揺らした。


「……分かりますか」


「空気で分かることもある」


「そうですか」


「無理に話さなくてもいい」


 ライトはそう言った。


 その言葉に、ツカサは少しだけ下を向く。


「ミカゲを、怒らせました」


「どうして?」


「全部、自分でやろうとするなって」


「言われたのね」


「はい」


「それで?」


「私は、大丈夫だと言いました」


「大丈夫ではないのに?」


 ツカサは黙った。


 ライトは責めなかった。


 ただ、静かに見ていた。


「ツカサ」


「はい」


「守ることは、全部に手を出すことではないわ」


 ツカサは顔を上げた。


「相手が転ばないように支えることは大事。でも、相手が立つ場所まで奪ったら、それは守るとは違う」


「奪っているつもりは」


「つもりはなくても、そうなることがある」


 ライトの声は冷たくなかった。


 むしろ、とても穏やかだった。


 だからこそ、逃げにくかった。


「ミカゲは、あなたに何かをしたいのよ」


「分かっています」


「分かっていて、止めている」


 ツカサは黙った。


「怪我をしてほしくない。疲れてほしくない。失敗してほしくない。そう思うのは自然よ」


「はい」


「でも、失敗しないように全部先に片づけてしまったら、あの子は何も持てなくなる」


「……持つ?」


「あなたを支える役目を」


 ツカサの指が、膝の上で小さく動いた。


「ミカゲは守られたいだけじゃない。守りたいの」


「はい」


「それを奪われるのは、きっと苦しい」


 ツカサは目を伏せた。


 ミカゲの声が耳に残っていた。


 私にも持たせてよ。


 水を運ぶだけじゃ嫌なの。


「でも」


 ツカサは小さく言う。


「私は、ちゃんとしていないと」


「何を?」


「分かりません」


 ライトは少しだけ目を細めた。


「分からないのに、しなければいけないと思うの?」


「はい」


「なぜ?」


 ツカサは答えられなかった。


 答えられないまま、膝の上の手を握った。


「止まると、怖くなります」


 やっと出た声は、小さかった。


「ここにいていいのか、分からなくなる」


 ライトはしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ息を吐く。


「そう」


 短い返事だった。


 けれど、否定ではなかった。


「それは、苦しいわね」


 ツカサは顔を上げた。


 ライトは静かに続ける。


「でも、怖いから全部背負うのは、長く続かない」


「はい」


「怖い時ほど、人に渡す練習をした方がいい」


「渡す」


「全部ではなくていい。少しでいい。皿一枚でも、包丁の持ち方一つでも」


 ライトは台所へ目を向けた。


「あなたが渡した分だけ、ミカゲは隣に立てる」


 ツカサは何も言えなかった。


「ミカゲは、あなたが楽をするための道具になりたいわけじゃない」


「分かっています」


「あなたと一緒に暮らす人になりたいのよ」


 店の奥で、かすかに床が鳴った。


 ミカゲが起きているのかもしれない。


 ツカサはそちらを見た。


 ライトも気づいたが、何も言わなかった。


「謝るなら、今じゃなくてもいい」


「はい」


「でも、遅くしすぎない方がいい」


「……はい」


「それから」


 ライトは立ち上がった。


「今日はもう寝なさい」


「でも」


「終わります、は聞かない」


 ツカサは口を閉じた。


「いい?」


「はい」


「返事は真面目ね」


 ライトは少しだけ笑った。


「そこは嫌いじゃないわ」


 ツカサは小さく頭を下げた。


     ◇


 ライトが店を出ると、通りはもう暗くなっていた。


 灯りの少ない道を歩きながら、彼女は少しだけ振り返る。


 店の奥に、まだ光が残っている。


 あの子はたぶん、すぐには寝ない。


 でも、何も言わないよりはましだった。


 ライトは歩き出した。


 グランなら、もっと大きな声で励ましただろう。


 エイルなら、柔らかく包んだだろう。


 自分には、自分の言葉しかなかった。


 それで届くかは分からない。


 けれど、何も持たせてもらえない苦しさも、持ちすぎて折れる苦しさも、ライトには少し分かった。


 守るための盾は、誰かの手まで塞ぐためにあるわけではない。


 それだけは、伝えておきたかった。


     ◇


 店の奥で、ツカサはしばらく立っていた。


 片づけはまだ少し残っている。


 けれど、手を伸ばせなかった。


 全部ではなくていい。


 少しでいい。


 ライトの声が残っている。


 ツカサは台所を見た。


 洗った鍋。


 畳みかけの布巾。


 明日の仕込み。


 まだできる。


 まだ動ける。


 でも、動いたらまた同じになる気がした。


 ツカサは台所の灯りを落とした。


 鍋は明日の朝、もう一度洗えばいい。


 台も、もう拭いてある。


 仕込みも、全部ではないけれど終わっている。


 それでいいのかは分からない。


 分からないまま、奥の部屋へ向かった。


 戸の前で立ち止まる。


 中は静かだった。


 ミカゲは眠っているかもしれない。


 起きているかもしれない。


 ツカサは手をかけた。


 少しだけ開ける。


 寝台の上で、ミカゲは背を向けて横になっていた。


 呼吸は浅い。


 眠っていない。


 でも、振り返らなかった。


 ツカサは部屋に入った。


 いつものように隣へ入ることはできなかった。


 少し迷って、床に敷いた薄い布団を引き寄せる。


 その音に、ミカゲの肩がわずかに動いた。


 ツカサはそれに気づいた。


 気づいて、何も言えなかった。


「おやすみ」


 小さく言う。


 少し間があった。


 それから、寝台の上から声が返ってきた。


「……おやすみ」


 それだけだった。


 短い。


 でも、返ってきた。


 ツカサは布団に入った。


 部屋は暗い。


 同じ部屋にいるのに、いつもよりずっと遠かった。


 ミカゲも、ツカサも、眠れなかった。


 けれど、どちらもそれを言わなかった。


 夜だけが、静かに長くなっていった。

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