第26話「半分こ」
朝が来る少し前まで、ミカゲは眠れなかった。
目を閉じても、すぐに開いてしまう。
寝台の隣は空いていた。
その少し離れた床に、ツカサがいる。
同じ部屋なのに、遠い。
それが嫌だった。
でも、自分から声をかけることもできなかった。
昨夜の言葉が、まだ喉の奥に残っている。
私にも持たせてよ。
そう言った。
言ったことは間違っていないと思う。
でも、言い方はたぶん間違えた。
ツカサは怖いと言った。
ここにいていいのか分からなくなると言った。
その顔を思い出すたび、胸が痛くなる。
それでも、守られるだけは嫌だった。
大切にされていることは分かる。
髪を整えてくれる。
怪我を見てくれる。
疲れている時は味を少し濃くしてくれる。
それは全部、嬉しい。
嬉しいのに、悲しくなる。
ツカサの手は、ミカゲに向けて伸びてくる。
でも、ミカゲが伸ばした手は、いつも途中で止められる。
危ないから。
重いから。
疲れているから。
怪我をしたら困るから。
言葉は優しい。
優しいから、余計に苦しかった。
外が薄く明るくなり始める。
窓の隙間から、朝の色が入ってきた。
ミカゲはそっと体を起こした。
床の布団を見る。
ツカサは眠っていた。
珍しく、深く眠っているようだった。
昨日、相当疲れていたのだと思う。
顔色はいつもより少し白い。
眉間に、小さなしわが寄っている。
ミカゲはしばらくその顔を見ていた。
「……ばか」
小さく呟く。
怒っているわけではなかった。
たぶん、泣きそうだった。
ミカゲは寝台から降りた。
足音を立てないように歩く。
部屋を出て、台所へ向かった。
◇
台所はまだ冷えていた。
昨日、ツカサが途中で止めた仕込みが残っている。
畳まれかけの布巾。
洗った鍋。
水に浸した豆。
切る前の野菜。
ミカゲはそれを見て、少しだけ息を吸った。
何からやればいいのか、すぐには分からなかった。
いつもツカサがやっている。
ミカゲは隣で見ていた。
見ていたはずなのに、いざ自分が立つと、台所は思ったより広くて、物が多かった。
「えっと」
まず火。
いや、その前に水。
味噌汁を作るなら鍋。
麦飯は昨日の残りが少しある。
魚はまだ触らない方がいい。
焼くのは怖い。
野菜なら切れる。
たぶん。
ミカゲは包丁を手に取った。
刃が朝の光を受けて鈍く光る。
ツカサなら、すぐに止めるだろう。
危ない、と言う。
でも、今日は止めるツカサがいない。
ミカゲはまな板の上に野菜を置いた。
ゆっくり切る。
大きさはばらばらになった。
薄いものと厚いものが混ざる。
指を切らないように、かなり慎重に。
一切れ切るたびに、肩に力が入る。
「……ツカサ、よく毎日やってるな」
思わず声が出た。
包丁を動かすだけでも、こんなに気を使う。
火を見ながら、客を見ながら、味も見る。
全部一人でやっていた。
ミカゲは唇を結んだ。
鍋に水を入れる。
火をつける。
なかなか火が安定しない。
焦って薪を足しすぎて、少し強くなった。
「あ、違う」
慌てて調整する。
台所に、乾いた音が響く。
椀を取り出そうとして、棚の端に肘をぶつけた。
「いたっ」
小声で呻く。
でも止まらない。
止まりたくなかった。
ミカゲは不器用に朝食を作り続けた。
◇
ツカサが目を覚ました時、部屋はすっかり明るかった。
最初に感じたのは、違和感だった。
いつもなら、夜明け前に目が覚める。
台所へ行って、火を起こして、朝食を作る。
店の仕込みを確認する。
それが一日の始まりだった。
なのに、今日は光が強い。
鳥の声も遠くない。
通りの足音も聞こえる。
ツカサは一瞬、何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間、体を起こす。
「……っ」
寝坊した。
頭が一気に冷える。
ミカゲの訓練前に朝食を作らないと。
店の仕込みもある。
昨日の片づけも全部終わっていない。
何から。
どれから。
考える前に、ツカサは布団から出た。
髪が乱れている。
寝巻きの襟も少しずれている。
そんなことを気にする余裕もなく、部屋を出た。
台所から音が聞こえた。
包丁の音ではない。
鍋の蓋が慌てて置かれる音。
火が強すぎて、小さく弾ける音。
ツカサは足を止めた。
台所の入口に立つ。
そこに、ミカゲがいた。
髪を少し乱して、袖をまくっている。
まな板の上には、大きさの違う野菜が並んでいた。
鍋からは湯気が上がっている。
椀は二つ出ていた。
麦飯も、少し不格好に盛られていた。
ミカゲが振り返る。
目が合った。
一瞬、二人とも何も言わなかった。
先に口を開いたのは、ミカゲだった。
「ひどい顔と寝癖してる」
ツカサは返事ができなかった。
ミカゲは少しだけ笑う。
笑おうとして、でもうまく笑えていない顔だった。
「おはよう」
「……おはよう」
ツカサは台所を見た。
鍋。
椀。
切られた野菜。
火。
ミカゲの手。
指先に小さな赤みがある。
「怪我」
「してない」
「赤い」
「ぶつけただけ」
「どこに」
「棚」
「痛い?」
「ちょっと」
ツカサはすぐに近づこうとした。
ミカゲが片手を上げて止める。
「待って」
ツカサは動きを止めた。
「でも」
「待って」
ミカゲはもう一度言った。
今度は少し強かった。
ツカサは何も言えず、その場に立つ。
「朝ご飯、作った」
ミカゲは言った。
「まだ途中だけど」
鍋の中を見る。
野菜の大きさはばらばら。
火は少し強い。
味も、たぶん整っていない。
ツカサならもっと綺麗に作る。
そんなことは、ミカゲにも分かっていた。
「完璧じゃないよ」
ミカゲは自分から言った。
「たぶん、味も変。野菜も変な大きさだし、火も強くしすぎたし、椀も一回落としかけた」
ツカサは黙って聞いていた。
「でも、作った」
ミカゲはツカサを見た。
「ツカサの分も」
その言葉で、ツカサの表情が少しだけ崩れた。
困ったような、泣きそうな、怒られた子みたいな顔。
「ミカゲ」
「先に言わせて」
ミカゲは息を吸った。
昨夜から、ずっと考えていた。
でも、言葉はきれいには並ばなかった。
だから、そのまま言うしかなかった。
「昨日は、言い方きつかった」
ツカサは首を横に振ろうとする。
ミカゲはそれより先に続けた。
「でも、嫌だったのは本当」
ツカサの動きが止まる。
「ツカサが全部やって、私は危ないからって止められて、守られるだけみたいになるの、嫌だった」
「守られるだけじゃない」
「うん。分かってる」
ミカゲは小さく頷いた。
「でも、そう感じた」
ツカサは何も言えなかった。
「ツカサが私を大事にしてくれてるのは分かるよ。髪も、怪我も、料理も、服も。分かってる」
ミカゲは自分の髪を少し触った。
昨日より乱れている。
朝から台所で動いたせいだ。
「でも、私もツカサを大事にしたい」
ツカサの目が揺れた。
「私も、ツカサのために何かしたい。失敗しても、変な味になっても、火が強すぎても」
ミカゲは鍋を見た。
「それを、最初から取らないでほしい」
店の中は静かだった。
通りの足音が遠く聞こえる。
鍋の中で、野菜が小さく揺れていた。
ツカサは俯いた。
「ごめん」
声が小さかった。
「私、止めすぎた」
「うん」
「任せなかった」
「うん」
「怖かった」
「うん」
ミカゲは頷く。
急かさなかった。
ツカサは膝の横で手を握る。
「ミカゲが怪我したら嫌だった。疲れてるのに、もっと疲れたら嫌だった。私ができるなら、私がやればいいと思った」
「うん」
「でも」
ツカサは台所を見た。
不格好な朝食。
少し乱れたミカゲの髪。
赤くなった指先。
自分のために用意された椀。
「それだと、ミカゲが入るところがなくなるって、ライトさんに言われた」
「ライトさん来たの?」
「昨日」
「そっか」
「ミカゲは、私と一緒に暮らす人になりたいんだって」
ツカサは少しだけ顔を上げた。
「言われて、分かった」
「うん」
「でも、まだ怖い」
「うん」
「どうやって任せたらいいかも、よく分からない」
「じゃあ、少しずつでいいよ」
ミカゲはすぐに言った。
「今日から全部じゃなくていい。包丁も、火も、少しずつ教えて」
「うん」
「危なかったら危ないって言って。でも、全部取り上げないで」
「うん」
「疲れてたら、休んで。私がやるから」
「ミカゲも疲れてたら?」
「その時は、二人で休む」
ツカサは瞬きをした。
「店は?」
「閉める」
「お客さんが」
「たまには閉める」
「でも」
「でもじゃない」
ミカゲは少しだけむっとした顔をした。
「ツカサが倒れるよりまし」
ツカサは何か言おうとして、やめた。
それから、小さく頷く。
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんはだめ」
「……本当に」
ミカゲは少し笑った。
ツカサも、ほんの少しだけ笑った。
その笑いはまだ弱い。
でも、昨日の夜より近かった。
◇
味噌汁は少し薄かった。
野菜は硬いものと柔らかいものが混ざっていた。
麦飯は少し冷めていた。
焼き魚はなかった。
焼くのが怖かったからだ。
代わりに、昨日の余りの煮物が小皿に乗っている。
二人は机に向かい合って座った。
「いただきます」
声が重なる。
ミカゲは味噌汁を飲んだ。
自分で作ったのに、少し不安だった。
「……薄い」
自分で言った。
ツカサも一口飲む。
「うん」
「うんって」
「薄い」
「そこは少し慰めてよ」
「でも、野菜の味は分かる」
「それ慰め?」
「本当」
ツカサはもう一口飲んだ。
「おいしい」
ミカゲは目を丸くした。
「薄いって言ったじゃん」
「薄いけど、おいしい」
「どっち」
「どっちも」
ツカサは椀を両手で持った。
湯気が顔の前で揺れる。
「私のために作ってくれたから」
ミカゲは箸を止めた。
顔が熱くなる。
「そういうの、急に言うのずるい」
「そう?」
「そう」
ミカゲは味噌汁を飲んだ。
やっぱり薄い。
野菜も少し硬い。
でも、ツカサが食べている。
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
「次はもう少し濃くする」
「うん」
「野菜も揃える」
「うん」
「火も強くしすぎない」
「うん」
「ツカサ、教えてね」
「教える」
「怒らない?」
「怒らない」
「ほんと?」
「危なかったら止める」
「それはいい」
「でも、取り上げない」
ツカサははっきり言った。
ミカゲはそれを聞いて、少しだけ笑う。
「約束」
「うん」
二人はまた食べた。
いつもの朝食より、時間がかかった。
味も整っていない。
けれど、ツカサは一口ずつ丁寧に食べた。
ミカゲはそれを見ていた。
「ねえ」
「何?」
「昨日、床で寝たでしょ」
ツカサの手が止まった。
「うん」
「寒くなかった?」
「少し」
「ばか」
「ごめん」
「今日から戻って」
ミカゲは味噌汁の椀を見ながら言った。
ツカサはすぐには答えなかった。
ミカゲは顔を上げる。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ戻って」
「うん」
短い返事だった。
でも、ちゃんと届いた。
ミカゲは少しだけ肩の力を抜いた。
◇
朝食の後、二人は台所に立った。
店の仕込みはまだ残っている。
いつもならツカサが一人で始める。
今日は、ミカゲも隣に立った。
「まず何する?」
ミカゲが聞く。
「野菜を切る」
「やる」
「ゆっくり」
「分かってる」
「指を丸めて」
「こう?」
「もっと」
「こう?」
「うん」
ツカサはミカゲの手元を見る。
口を出したくなる。
包丁を取り上げたくなる。
自分でやった方が早い。
自分でやった方が綺麗にできる。
そう思う。
思った瞬間、ツカサは自分の手を握った。
取り上げない。
そう約束した。
ミカゲは不器用に野菜を切る。
一切れが大きい。
次は小さすぎる。
でも、指は切っていない。
ツカサは息を吐いた。
「大丈夫」
「どっちに言ってる?」
ミカゲが聞く。
「両方」
「私とツカサ?」
「うん」
ミカゲは少し笑った。
「じゃあ、私も大丈夫」
「うん」
包丁の音はまだ不揃いだった。
でも、台所に二人分の音があった。
ツカサが鍋を見る。
ミカゲが野菜を切る。
ツカサが味を調える。
ミカゲが椀を並べる。
途中で椀を一つ落としそうになって、二人で慌てて受け止めた。
「危なかった」
「危なかった」
二人の声が重なって、少しだけ笑った。
その笑い声が、店の中に戻ってきた。
◇
昼前、エイルが店に顔を出した。
手には小さな包みを持っている。
「やってるかね、お嬢ちゃんたち」
ミカゲが振り返る。
「エイルさん」
「今日はケーキじゃないよ。残念でした」
「まだ何も言ってません」
「顔が言ってた」
「そんな顔してました?」
「してたしてた」
エイルはにこにこしながら席に座った。
そして、すぐに台所の様子を見た。
ミカゲが包丁を持っている。
ツカサが隣で見ている。
エイルは少し目を細めた。
「おや」
「何ですか?」
ミカゲが聞く。
「進展した顔」
「顔で分かるんですか」
「だいたいね」
エイルは包みを机に置いた。
「これは塗り薬。手をぶつけたり、水仕事で荒れたりした時用」
ミカゲは自分の指を見る。
「なんで分かったんですか」
「初心者が台所に立つと、だいたいどこかぶつける」
「すごい」
「経験です」
エイルは胸を張った。
ツカサが小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
エイルは二人を見比べる。
「喧嘩した?」
二人が同時に黙った。
エイルは満足そうに頷く。
「した顔」
「顔で分かりすぎです」
ミカゲが少しむっとする。
「仲直りは?」
エイルが聞く。
ツカサとミカゲは顔を見合わせた。
少しだけ気まずい。
でも、昨日ほど遠くない。
「……途中です」
ミカゲが答えた。
「いいね」
「いいんですか?」
「途中って大事だよ。すぐ全部きれいに戻そうとすると、また同じところで転ぶ」
エイルは頬杖をついた。
「ゆっくり戻しなさいな」
ツカサは小さく頷いた。
「はい」
「で、今日はミカゲちゃんも台所?」
「はい」
「怪我しないようにね」
「ツカサにも言われました」
「ツカサちゃん、取り上げなかった?」
ツカサは少しだけ目を伏せた。
「取り上げてません」
「えらい」
エイルは軽く言った。
ツカサは驚いたように顔を上げた。
「えらい?」
「えらいよ。心配な相手を見守るのって、助けるより疲れるからね」
ツカサは何も言わなかった。
ミカゲが隣で少し笑う。
「ツカサ、何回か手が出そうになってた」
「ミカゲ」
「でも止めてた」
「えらいえらい」
エイルは本当に軽い調子で言った。
でも、その軽さがちょうどよかった。
ツカサは困ったように視線を落とした。
耳が少し赤い。
◇
昼の営業は、いつもより少しだけ遅れて始まった。
仕込みに時間がかかったからだ。
けれど、店の戸を開けると、いつもの客が入ってきた。
「今日は遅かったな」
魚屋の男が言う。
ミカゲは少し緊張しながら頭を下げた。
「すみません。私が手伝ってて」
「ほう」
男は台所を覗き込む。
「嬢ちゃんが?」
「はい」
「じゃあ今日は味が変わるか?」
ミカゲが少し固まる。
ツカサが隣から言った。
「少し変わります」
「正直だな」
「でも、食べられます」
「そこはおいしいって言え」
男は笑って席に座った。
ミカゲは口を尖らせる。
「食べられますって」
「おいしいかは、食べてもらわないと分からないから」
「真面目」
「うん」
ツカサは真面目な顔で頷いた。
ミカゲは思わず笑った。
その日、出した汁は少し味にばらつきがあった。
野菜の大きさも揃っていない。
それでも、客は文句を言わなかった。
「今日は元気な味だな」
魚屋の男が言う。
「元気な味って何ですか」
ミカゲが聞く。
「細かいことを気にしてない味」
「それ、褒めてます?」
「半分な」
「半分」
ミカゲは少し不満そうにした。
ツカサは横で小さく笑っていた。
野菜を届ける女性も、椀の中を見て微笑んだ。
「大きいのと小さいのがあるね」
「すみません」
「いいのよ。最初はそんなものよ」
「最初」
「これから覚えればいいの」
その言葉に、ミカゲは少し安心した。
ツカサも、その隣で静かに頷いた。
これから。
その言葉が、今は少しだけ温かかった。
◇
夕方、店を閉めたあと、二人は並んで片づけをした。
ミカゲが皿を洗う。
ツカサが拭く。
途中で泡が飛んで、ミカゲの頬についた。
ツカサがそれを見て、少し笑った。
「何?」
「泡」
「え、どこ?」
「ここ」
ツカサが指で示す。
ミカゲは自分で拭こうとして、反対側を拭いた。
「違う」
「こっち?」
「違う」
「もう取って」
ミカゲが顔を寄せる。
ツカサは少しだけ迷ってから、布巾の端で泡を拭いた。
「取れた」
「ありがと」
「うん」
二人は少しだけ黙った。
近い距離。
昨日は遠かった距離。
まだ完全に戻ったわけではない。
でも、戻ろうとしている。
ミカゲは皿を洗いながら言った。
「今日、訓練休む」
ツカサが驚いて顔を上げる。
「いいの?」
「うん」
「グランさんは?」
「今日は休むって言いに行く。朝から台所で疲れたし」
「ごめん」
「違う」
ミカゲはすぐに首を横に振った。
「私がやりたくてやった」
「でも」
「でもじゃない」
ツカサは口を閉じた。
ミカゲは少し笑う。
「今日は二人で片づけて、二人で早く寝る」
「うん」
「明日は、私が野菜を切る」
「うん」
「魚はまだ怖い」
「それは私がやる」
「火は少し教えて」
「うん」
「水は私が運ぶ」
「それは前から」
「でも、前より偉そうに運ぶ」
「偉そうに?」
「私の仕事だから」
ツカサは少しだけ目を丸くした。
それから、柔らかく笑う。
「うん。お願い」
ミカゲは満足そうに頷いた。
◇
夜、二人は同じ寝台に入った。
床の布団は畳んだ。
いつもの場所に戻っただけなのに、少し緊張した。
部屋の灯りを消すと、隣の体温が近くなる。
昨夜は遠かった。
今日は近い。
でも、何もなかったことにはならない。
それでいい気がした。
「ツカサ」
「何?」
「昨日、怒ってごめん」
「私も、ごめん」
「うん」
「水を運ぶだけじゃ嫌って言われて、最初は少し分からなかった」
「うん」
「でも、今日、朝ご飯を作ってもらって、分かった気がする」
「何が?」
「嬉しかった」
ツカサの声は小さかった。
「私のために、ミカゲが何かしてくれるの」
ミカゲは暗い天井を見つめた。
「うん」
「嬉しいのに、昨日まで止めてた」
「うん」
「ごめん」
「もういいよ」
「うん」
少し沈黙があった。
それから、ツカサが言った。
「でも、危ない時は止める」
「それはいいってば」
「本当に?」
「本当」
「火が強すぎたら?」
「言って」
「包丁の持ち方が危なかったら?」
「言って」
「重い鍋を持とうとしたら?」
「一緒に持つ」
ツカサは黙った。
ミカゲは横を向く。
暗くて表情はよく見えない。
「一緒に持つの」
「……うん」
「半分こ」
ミカゲは言った。
朝、魚を分けた時よりも、少しだけ重い言葉だった。
「全部半分は無理かもしれないけど、できるところは半分こ」
ツカサはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷く気配がした。
「半分こ」
「うん」
「ミカゲが訓練で疲れた時は?」
「ツカサが少し多め」
「私が店で疲れた時は?」
「私が少し多め」
「二人とも疲れた時は?」
「寝る」
ツカサが少し笑った。
「店は?」
「閉める」
「お客さんが困る」
「たまには困ってもらう」
「ひどい」
「ツカサが倒れるよりまし」
ミカゲはそう言って、少しだけ布団を引き上げた。
「これも半分こ」
「布団?」
「うん。ツカサ、そっち取りすぎ」
「ミカゲが引っ張った」
「じゃあ戻す」
二人で布団を少し直す。
肩が触れた。
どちらも離れなかった。
ミカゲは目を閉じる。
隣に呼吸がある。
昨日より近い。
喧嘩をした。
泣きそうになった。
言いすぎた。
言えなかったこともある。
それでも、同じ布団の中に戻ってきた。
「おやすみ、ツカサ」
「おやすみ、ミカゲ」
声は静かだった。
夜も静かだった。
けれど、昨日の静けさとは違った。
空いた距離を、少しずつ埋めるように。
二人は並んで、朝を待った。




