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第27話「もしも君がどこかで」

 半分こ。


 そう決めてから、二人の朝は少しだけ変わった。


 ツカサが全部を先に終わらせることは、まだ多かった。


 癖のようなものだった。


 火を起こす。


 水を汲む。


 野菜を出す。


 気づけば、ミカゲが起きる前に手が動いている。


 けれど、最近はその途中で止まることがあった。


 包丁を手に取ってから、ツカサは少しだけ考える。


 それから、切っていない野菜を一つ残す。


 水桶を持ち上げてから、片方だけ残す。


 椀を並べながら、一つだけミカゲの手の届く場所に置く。


 大きな変化ではない。


 でも、ミカゲはそれに気づいた。


「これ、私の分?」


 朝、台所に入ったミカゲが、まな板の横に残された野菜を見て言った。


 ツカサは鍋を見ながら頷く。


「うん」


「切っていい?」


「うん。指、丸めて」


「分かってる」


「火に近づきすぎないで」


「分かってるって」


「包丁は急がないで」


「ツカサ」


「何?」


「心配しすぎ」


「してる」


「堂々と認めた」


「約束したから、取り上げない。でも心配はする」


 ミカゲは少し笑った。


「じゃあ、心配されながら切る」


「うん」


 ミカゲは包丁を握った。


 まだ不揃いだ。


 でも、前より少しましになった。


 一切れ切るたびに、ツカサが横目で確認しているのが分かる。


 ミカゲはわざと大きめに息を吐いた。


「見すぎ」


「見てない」


「見てる」


「少しだけ」


「少しじゃない」


「かなり」


「正直」


 ミカゲは笑って、野菜を切り続けた。


 台所に二人分の音が重なる。


 包丁の不揃いな音。


 鍋の蓋が揺れる音。


 火が小さく弾ける音。


 前より少しだけ、朝は賑やかになった。


     ◇


 その日は、店を昼過ぎで閉める予定だった。


 祖母の帳面に、買い足すものがいくつか書き込まれていた。


 油。


 豆。


 乾いた香草。


 布。


 針。


 糸。


 それから、髪の油も少しだけ。


 最後の文字を見つけた時、ミカゲは思わずツカサを見た。


「これも買うの?」


「うん」


「まだあるよ?」


「少しだけ」


「高いんじゃない?」


「必要なものだから」


 いつか聞いた言葉だった。


 ミカゲは自分の髪を触る。


 訓練の後、汗や土で絡むことはまだある。


 それでも、ツカサが丁寧に見てくれるおかげで、前ほどひどくはならない。


「私、そんなに気にしなくてもいいのに」


「私が気にする」


「ツカサが?」


「うん」


「私の髪なのに」


「ミカゲの髪だから」


 ツカサは当然のように言った。


 ミカゲは少し顔を赤くする。


「そういうの、さらっと言うよね」


「変?」


「変じゃないけど」


「じゃあ買う」


「結論早い」


 ツカサは帳面を閉じた。


「今日は一緒に行く?」


「行く」


 ミカゲはすぐに答えた。


「私も荷物持つ」


「重いものは」


「一緒に持つ」


 先に言われて、ツカサは少し黙った。


 それから、小さく頷く。


「うん」


     ◇


 昼過ぎ、二人は店を閉めて街へ出た。


 メーランの通りは、穏やかだった。


 雨の後の湿り気はもう薄れている。


 店先には野菜が並び、布屋の軒には色のついた反物が揺れている。


 鍛冶屋の方からは、金属を叩く音がした。


 遠くで子どもたちが走っている。


 ミカゲは少しだけ歩幅を大きくした。


「買い物、久しぶりな気がする」


「店のものは私が買いに行ってたから」


「それも今度から半分こ」


「全部?」


「行ける時は」


「訓練がある日は?」


「その日はツカサ。店が忙しい日は私」


「うん」


 ツカサは頷いた。


 以前なら、そこで「大丈夫、私が行く」と言っていたかもしれない。


 今は言わなかった。


 ミカゲはそれが少し嬉しかった。


 最初に向かったのは、乾物屋だった。


 店先には豆や香草が大きな袋に入って並んでいる。


 ツカサは帳面を確認しながら、必要なものを選んだ。


「この豆、前より少し小さい」


 ツカサが呟く。


 店主が苦笑した。


「雨の前に少し乾きすぎてな。でも煮れば悪くないよ」


「水に浸す時間を長めにします」


「よく分かってるじゃないか」


「お婆ちゃんの帳面にありました」


「あの人は細かかったからね」


 店主は少し懐かしそうに笑った。


 ツカサは袋を受け取る。


 少し重い。


 すぐに自分で持とうとした手を、途中で止めた。


 ミカゲが横から手を出す。


「片方」


「うん」


 二人で袋を持った。


 重さは半分になった。


 歩きにくさは少し増えた。


 でも、ミカゲは笑っていた。


「なんか変」


「歩きづらい?」


「うん。でもいい」


「いいんだ」


「一人で持つよりいい」


 ツカサは袋の反対側を持ったまま、少しだけ笑った。


「うん」


     ◇


 次に布屋へ向かった。


 ミカゲの訓練着の裾を直すための布と糸が必要だった。


 店先には色とりどりの布が並んでいる。


 ミカゲは少し目を輝かせた。


「この赤、綺麗」


「強すぎない?」


「強いのがいいんじゃん」


「訓練着に使うには目立つ」


「ちょっとだけなら?」


「ちょっとだけなら」


 ツカサは布を手に取り、厚みを見る。


 ミカゲは隣で別の布を持った。


「これは?」


「薄い。すぐ破れる」


「これは?」


「高い」


「これは?」


「柄が多い」


「注文が多い」


「服に使うから」


 ツカサは真面目な顔で言った。


 布屋の女性が笑う。


「ちゃんと見てるねえ」


「すぐ破れると困るので」


「この子の訓練着?」


「はい」


「なら、こっちがいいよ。丈夫で、動きやすい」


 女性が布を出してくれる。


 落ち着いた色の布だった。


 ミカゲは少し口を尖らせる。


「地味」


「丈夫」


 ツカサが言う。


「でも地味」


「少しだけ赤を足す?」


 ツカサが赤い糸を手に取った。


 ミカゲの顔が明るくなる。


「いいの?」


「補強のところに使うなら」


「やった」


「目立ちすぎないように」


「そこは任せる」


「うん」


 ツカサは糸と布を選んだ。


 ミカゲはその横で、楽しそうに赤い糸を見ていた。


 その様子を見て、布屋の女性が目を細める。


「仲がいいね」


 ミカゲは即答した。


「はい」


 ツカサは少しだけ耳を赤くした。


「即答なんだ」


 女性が笑う。


「仲いいので」


「ミカゲ」


「本当でしょ」


「本当だけど」


「じゃあいいじゃん」


 ツカサは何も言い返せず、布を受け取った。


     ◇


 油屋へ行く途中、小さな男の子が道端でしゃがみ込んでいた。


 手には木で作られた小さな車のおもちゃ。


 車輪が外れている。


 男の子は必死に直そうとしているが、うまくはまらない。


 周りの子どもたちは先に走っていってしまったらしく、通りの向こうから名前を呼ぶ声が聞こえていた。


「どうしたの?」


 先に声をかけたのはツカサだった。


 ミカゲは少し遅れて足を止める。


 男の子が顔を上げた。


「とれた」


 車輪を見せる。


 ツカサはしゃがみ込んだ。


「見てもいい?」


「うん」


 ツカサは車のおもちゃを受け取り、車輪の軸を確認した。


 木の留め具が少し緩んでいる。


「少しだけ直せるかも」


「ほんと?」


「たぶん」


 ミカゲがすかさず言う。


「たぶんはだめ」


 ツカサは顔を上げた。


 男の子はきょとんとしている。


 ミカゲは笑った。


「直せるって言ってあげたら?」


 ツカサは少し考えた。


「直す」


 男の子の顔がぱっと明るくなった。


 ツカサは買ったばかりの糸を少しだけ出し、軸の隙間に巻いた。


 それから車輪をはめ直す。


 何度か回して、外れないか確かめる。


「これで、しばらくは大丈夫」


「ありがとう!」


 男の子はおもちゃを抱えて立ち上がった。


 そして、走り出す前にツカサを見た。


「お姉ちゃん、すごいね」


 ツカサは少しだけ目を瞬かせた。


「すごくないよ」


「すごいよ!」


 男の子はそう言って、通りの向こうへ走っていった。


 ミカゲはその背中を見送り、隣のツカサを見る。


「すごいじゃん」


「糸を巻いただけ」


「それができるのがすごいんだって」


「そう?」


「そう」


 ミカゲは袋を持ち直した。


「ツカサって、困ってる人見つけるの早いよね」


「そうかな」


「早いよ。さっきの子、私気づかなかった」


「見えたから」


「見えたら助けるの?」


「できるなら」


 ツカサは何でもないことのように言った。


 ミカゲはその横顔を見た。


 静かで、いつも通りで、少しだけ不思議な子。


 大げさなことは言わない。


 自分がいいことをしたとも思っていない。


 ただ、困っているものを見つけて、手が届くなら手を伸ばす。


 それがツカサだった。


     ◇


 油屋で、髪の油を買った。


 ツカサは小さな瓶を一つ選んだ。


 以前と同じものより、少しだけ安いものだった。


 ミカゲはそれに気づく。


「前のじゃないの?」


「これも悪くない」


「安い方にした?」


「少しだけ」


「私の髪、前のじゃなくてもいいの?」


 意地悪で聞いたわけではない。


 ただ、少しだけ気になった。


 ツカサは瓶を見たまま答えた。


「前の方がいい」


「じゃあ」


「でも、今は店のものも買ったから」


 ツカサはもう一本の油を見た。


 少し高い瓶。


 手を伸ばして、止める。


 ミカゲはそれを見ていた。


「じゃあ、今日は安い方」


「うん」


「次、私も少し出す」


「ミカゲが?」


「訓練の手伝いとか、店の手伝いとか、ちゃんと増やす。そしたら、その分」


「でも」


「半分こ」


 その言葉で、ツカサは黙った。


 ミカゲは笑う。


「私の髪でしょ」


「うん」


「でも、ツカサが気にするんでしょ」


「うん」


「じゃあ、半分こ」


 ツカサは少しだけ迷ってから、小さく頷いた。


「分かった」


 結局、その日は安い方の油を買った。


 でも、ミカゲは不満ではなかった。


 瓶を袋に入れながら、少しだけ嬉しかった。


 自分の髪を、二人で選んだような気がしたから。


     ◇


 買い物を終えて帰る途中、通りの端で荷物を落とした老人がいた。


 袋から芋が転がり、石畳の上にいくつか散らばる。


 ツカサはすぐに動いた。


 ミカゲも今度は遅れなかった。


 二人で芋を拾う。


「すまないねえ」


 老人が腰を押さえながら言う。


「大丈夫ですか?」


 ミカゲが聞く。


「ああ、腰が少しね」


 ツカサは袋の破れを見た。


「ここ、裂けています」


「古い袋だからなあ」


「少し縫えます」


「今ここで?」


「簡単に」


 ツカサは糸と針を出そうとする。


 その手を、ミカゲが止めた。


 ツカサが顔を上げる。


「私が芋を持つ。ツカサは袋」


 ツカサは少しだけ驚いた顔をした。


 それから、頷く。


「うん」


 ミカゲは芋を腕に抱える。


 思ったより重い。


「うわ、重」


「大丈夫?」


「大丈夫。ちょっとだけ」


「無理しないで」


「してない」


 ツカサは袋の裂け目を簡単に縫った。


 外での応急処置だから、きれいではない。


 でも、芋を入れて運ぶには十分だった。


 老人は何度も礼を言った。


「本当に助かったよ」


「いえ」


 ツカサは首を横に振る。


「お気をつけて」


 ミカゲも笑って手を振った。


 老人が去った後、ミカゲは腕を回す。


「重かった」


「持ちすぎ」


「でも持てた」


「うん」


「ツカサ、任せたね」


「うん」


「偉い」


 ミカゲが少し得意げに言う。


 ツカサは困ったように笑った。


「私が褒められるの?」


「褒められるの」


「そう」


「あと、私も偉い」


「うん。偉い」


 ツカサが素直に言ったので、今度はミカゲが少し照れた。


「そこは普通に言うんだ」


「本当だから」


「……ありがと」


 二人はまた歩き出した。


 荷物は多い。


 でも、片方だけが持っているわけではなかった。


     ◇


 少し遠回りをして、祖母の墓へ向かった。


 買い物の途中でミカゲが言い出したのだ。


 ツカサはすぐに頷いた。


 墓地は街の外れにある。


 静かで、風がよく通る場所だった。


 草が少し伸びていたので、ミカゲはしゃがんで抜いた。


 ツカサも隣で小さな花を供える。


 買い物の途中で見つけた、白い花だった。


「お婆ちゃん、こんにちは」


 ミカゲが言った。


「店、ちゃんとやってるよ」


 ツカサは少しだけ背筋を伸ばした。


「昨日は雨でした。でも、雨宿りの人に汁を出しました」


「アルマさんも来たよ。豊穣の英雄」


「エイルさんもよく来ます」


「グランさんには相変わらず怒られてる」


「ミカゲは少し包丁を使えるようになりました」


「少しね」


「少し」


 二人は墓の前で、そんなふうに話した。


 祖母がそこに座って聞いているような気がした。


 怒りながら。


 笑いながら。


 相槌を打ちながら。


 ミカゲは墓石に触れた。


 冷たい。


 でも、寂しいだけではなかった。


「昨日、喧嘩した」


 ミカゲはぽつりと言った。


 ツカサが隣で少しだけ固まる。


「でも、仲直りしてる途中」


「途中です」


 ツカサも小さく言った。


「半分こにすることにした」


「全部は無理かもしれません」


「でも、できるところから」


「はい」


 ミカゲは墓に向かって笑った。


「だから、怒らないでね」


 風が草を揺らした。


 返事はない。


 でも、ミカゲは少しだけ肩の力を抜いた。


     ◇


 帰り道、空は夕方の色になっていた。


 荷物は少し重い。


 けれど、二人で持っているから歩けた。


 ミカゲは隣のツカサを見る。


 今日一日、ツカサは何度も人を助けた。


 男の子のおもちゃを直した。


 老人の袋を縫った。


 荷物を分けた。


 店のために必要なものを選んだ。


 祖母の墓に花を供えた。


 どれも、小さなことだった。


 でも、ミカゲには大きく見えた。


「ツカサってさ」


「何?」


「本当に優しいよね」


 ツカサは少し困った顔をした。


「そうかな」


「そうだよ」


「できることをしてるだけ」


「それが優しいんだって」


「分からない」


「分かってなくてもいいよ」


 ミカゲは前を向いた。


 通りの向こうには、二人の店がある。


 まだ少し遠い。


 でも、帰る場所だった。


「ツカサは、何でもできるね」


「何でもはできない」


「それももう聞いた」


「本当だから」


「でも、私から見たら、すごいよ」


 ツカサは黙った。


「料理もできて、裁縫もできて、困ってる人にも気づいて、ちゃんと助けられる」


「ミカゲだって」


「私はまだまだ」


「でも、剣を頑張ってる」


「それは、ツカサを守りたいから」


 言ってから、ミカゲは少しだけ足を止めた。


 ツカサも止まる。


 夕方の風が二人の間を通った。


 ミカゲはツカサを見る。


「でもさ」


「うん」


「こんなにすごいツカサでも、どうにもならない時があるかもしれないじゃん」


 ツカサは首を傾げた。


「どうにもならない時?」


「うん」


「あるかな」


「あるかもしれない」


 ミカゲは荷物を持ち直した。


 手に少し汗が滲んでいる。


「私だって、今は弱いし、全部守れるわけじゃないけど」


 そこで一度、言葉を切る。


 この先を言うのは、少しだけ照れくさかった。


 でも、言いたかった。


「もしも君がどこかで」


 ミカゲはツカサの目を見る。


「助けてって言ったのなら」


 その瞬間。


 ミカゲの目の奥に、ほんの一瞬だけ淡い緑が灯った。


 夕方の光に混じるほどの、小さな光。


 ツカサは気づかなかった。


 ミカゲ自身も、ただ視界の端が少し明るくなったように感じただけだった。


「私が助けに行くよ」


 風が止まった。


 ツカサはミカゲを見ていた。


 少し驚いたように。


 少し困ったように。


 そして、ほんの少し嬉しそうに。


「そんな時が来るかな」


 ツカサは小さく笑った。


「来ない方がいいよ」


「うん」


「でも、来たら」


 ミカゲはもう一度言った。


「絶対行く」


 ツカサは返事をしなかった。


 その代わり、荷物を持つ手に少しだけ力を入れた。


「じゃあ」


「うん」


「その時は、呼ぶ」


 ミカゲはぱっと顔を明るくした。


「約束?」


「約束」


「言ったね」


「言った」


「忘れないでよ」


「うん」


 ツカサは頷いた。


「忘れない」


 それは、何気ない約束だった。


 夕方の帰り道。


 買い物袋を二人で持って。


 祖母の墓へ寄った後の、静かな通り。


 そこで交わした、少女二人の約束だった。


 ミカゲは少しだけ満足そうに笑う。


「じゃあ、帰ろ」


「うん」


 二人はまた歩き出した。


 店の方へ。


 帰る場所の方へ。


     ◇


 その夜、ツカサはミカゲの髪を梳いた。


 買ってきた新しい油を、ほんの少しだけ手に取る。


 前のものより香りは薄い。


 けれど、悪くはなかった。


 ミカゲは椅子に座り、少し眠そうにしている。


「今日、結構歩いたね」


「うん」


「荷物も重かった」


「うん」


「でも楽しかった」


「私も」


 ツカサは櫛を通す。


 毛先が少し絡んでいた。


 ゆっくり解く。


「痛い?」


「平気」


「本当に?」


「本当」


 ミカゲは目を閉じた。


 ツカサの手は丁寧だった。


 急がない。


 引っ張らない。


 絡んだところを、少しずつほどいていく。


「ねえ、ツカサ」


「何?」


「今日の約束、覚えてる?」


「助けてって言ったら?」


「うん」


「覚えてる」


「よし」


「ミカゲ」


「ん?」


「ミカゲも」


 ツカサは手を止めずに言った。


「もし、助けてほしい時があったら呼んで」


 ミカゲは少し目を開ける。


「私も?」


「うん」


「ツカサが来てくれる?」


「行く」


「絶対?」


「絶対」


 ミカゲは椅子に座ったまま、少し笑った。


「じゃあ、私も呼ぶ」


「うん」


「でも、たぶん先にツカサが気づくよね」


「そうかも」


「やっぱり」


 ミカゲは笑った。


 ツカサも少しだけ笑う。


 櫛が髪を通る音が、部屋に静かに響いた。


 今日買った油の香りが、ほんの少しだけ残る。


 強くはない。


 でも、近づけば分かる。


 ツカサは髪を整え終えると、ミカゲの肩に手を置いた。


「終わった」


「ありがと」


「うん」


 ミカゲは立ち上がって、鏡を覗いた。


「いい感じ?」


「うん」


「ほんと?」


「うん。綺麗」


 ミカゲはまた顔を赤くした。


「だから、そういうのさらっと言う」


「言わない方がいい?」


「言っていい」


「じゃあ言う」


「うん」


 二人は顔を見合わせて、少し笑った。


     ◇


 寝る前、ミカゲは祖母の帳面を開いた。


 今日買ったものを、ツカサが横で書き込む。


 油。


 豆。


 香草。


 布。


 針。


 赤い糸。


 髪の油。


 ミカゲは最後に、小さく付け足した。


 半分こで持った。


 ツカサがそれを見る。


「それ、帳面に書くこと?」


「書くこと」


「仕入れと関係ない」


「あるよ」


「どこが?」


「大事なことだから」


 ミカゲは真面目な顔で言った。


 ツカサは少しだけ困ったように笑う。


「じゃあ、いい」


「よし」


 帳面を閉じる。


 灯りを消す。


 二人は同じ寝台に入った。


 昨日よりも、自然に。


 隣の体温がある。


 布団は半分ずつ。


 少しだけミカゲの方が多く取って、ツカサが何も言わずに譲った。


 ミカゲはすぐに気づいて、少し戻した。


「半分こ」


「うん」


 暗い部屋で、二人の声が小さく響く。


「おやすみ、ツカサ」


「おやすみ、ミカゲ」


 その夜、ミカゲは夢を見なかった。


 ただ、眠る前に少しだけ思った。


 もしもツカサがどこかで助けてと言ったなら。


 どれだけ遠くても、きっと行く。


 どんな場所でも。


 どんな夜でも。


 その約束は、まだ軽くて温かかった。


 だからこそ、胸の奥に静かに残った。

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