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第29話「晴れのち曇り」

 三年が過ぎた。


 メーランの店は、もう街の中に馴染んでいた。


 朝になると、戸の前を通る人が声をかける。


「今日は開くかい」


「開きます」


 ツカサが答える。


「じゃあ昼に行くよ」


「はい」


 そんなやり取りが、珍しくなくなった。


 店の暖簾は何度か洗われ、少し色が薄くなった。


 机には細かな傷が増えた。


 祖母の帳面には、ツカサの字とミカゲの字が少しずつ増えていった。


 誰が何を好きか。


 誰が最近、薄味を好むようになったか。


 どの子が苦手だった野菜を食べられるようになったか。


 雨の日に多めに仕込むもの。


 暑い日に出すもの。


 訓練でミカゲが疲れている日は、味を少し濃くすること。


 最後の一文を見つけた時、ミカゲは文句を言った。


「これ、私のこと書かなくていいじゃん」


「大事だから」


「常連扱い?」


「家の人扱い」


 ツカサはそう言って、帳面を閉じた。


 ミカゲは少し黙った後、顔を逸らした。


「それならいいけど」


 ツカサは少し笑った。


 三年前より、背が伸びた。


 ミカゲもツカサも、もう子どもとは言われにくくなっていた。


 ミカゲの髪は、手入れが行き届いていた。


 訓練のせいで傷みやすいのは変わらない。


 けれど、ツカサがずっと見ていた。


 油を選び、櫛を通し、絡んだ毛先を少しずつほどく。


 ミカゲは最初こそ照れていたが、最近はわりと当然のように椅子へ座るようになっていた。


「今日は雑じゃない?」


「昨日、訓練で砂をかぶったから」


「私のせい?」


「砂のせい」


「それはそう」


 ツカサは真面目に髪を梳く。


 ミカゲは鏡越しにその顔を見る。


「ツカサ、髪のことになると真剣すぎ」


「傷むから」


「またそれ」


「大事だから」


 その言葉も、もう何度も聞いた。


 けれど、ミカゲは毎回少しだけ嬉しくなった。


     ◇


 ツカサは、相変わらずもらったものを捨てられなかった。


 棚の奥の箱は、少し大きなものに変わった。


 前の箱では入りきらなくなったからだ。


 ミカゲがあげた髪紐。


 エイルがくれた菓子の包み。


 アルマが置いていった雨除けの布の端。


 グランが雑に渡した木剣の欠片。


 ライトからもらった、包帯を留める小さな金具。


 どれも、他の人なら忘れてしまうようなものだった。


 けれど、ツカサは取っていた。


「これ、グランさんの木剣の欠片でしょ」


 ある日、ミカゲが箱を覗いて言った。


「うん」


「あの人、訓練中に折ったやつじゃん」


「くれた」


「たぶん、ゴミだから捨てといてって意味だったと思う」


「でも、くれた」


「そう言われると強い」


 ミカゲは苦笑した。


「ツカサってほんと、もらったもの捨てないね」


「捨てない」


「もし変なものもらったら?」


「困る」


「捨てる?」


「……しまう」


「しまうんだ」


「もらったから」


 ツカサは少し困ったように言った。


 ミカゲは笑いながら、箱の蓋を閉じた。


「じゃあ、私があげるものはちゃんと選ばないとね」


「うん」


「そこは遠慮しないんだ」


「大事にしたいから」


 ツカサの声は静かだった。


 ミカゲはその横顔を見て、ふっと笑う。


「そっか」


 もらったものを捨てられない。


 誰かがくれたものを、なかったことにできない。


 そういうところが、ツカサにはあった。


 優しいというには、少し不器用すぎた。


 でも、ミカゲはその不器用さが好きだった。


     ◇


 グランの訓練は、三年経っても厳しかった。


 ミカゲはもう、ただ足を動かすだけで息を切らすことはなくなった。


 木剣の握りも安定している。


 受け流しも、少しずつ形になってきた。


「流す時に力を入れすぎるな」


 グランが言う。


「はい」


「相手の力を殺そうとするな。ずらせ」


「ずらす」


「そうだ。正面から受け止めるな。お前の体ごと持っていかれる」


 グランが木剣を振る。


 ミカゲは受ける。


 正面からぶつけない。


 刃を滑らせるように、軌道を逃がす。


 体を入れ替える。


 木剣同士が軽く鳴った。


 グランの腕が外へ流れる。


「お」


 グランが少し笑った。


「今のは良かった」


「本当ですか」


「調子に乗るなよ」


「まだ何も言ってません」


「顔が言ってる」


 ミカゲは口を閉じた。


 グランは豪快に笑った。


「でも、良くなってる。続けろ」


「はい!」


 ミカゲの返事は明るかった。


 夕方の広場に、木剣の音が響く。


 いつか剣を抜かなくていい世界がいい。


 そう思いながら、ミカゲは剣を振った。


 矛盾している気もした。


 でも、それでよかった。


 守りたいものがあるから、握る。


 握らなくていい日を願いながら、握る。


 それが今のミカゲにできることだった。


     ◇


 エイルは相変わらず、ふらっと店に来た。


「お腹すいたー」


 戸を開けてすぐ、そんなことを言う。


 ミカゲは呆れたように笑った。


「癒しの英雄、またしぼんでるんですか」


「しぼみかけ」


「よくしぼみますね」


「私は繊細だからね」


「初めて聞きました」


「今言ったからね」


 エイルは席に座り、頬杖をついた。


 ツカサが水を出す。


「今日は何にしますか」


「おすすめ」


「魚と豆の煮込みです」


「じゃあそれ。あと、元気」


「元気?」


「最近ちょっと疲れてるから、元気出るやつ」


 ツカサは少し考える。


「香草を足します」


「頼もしいねえ」


 エイルは笑った。


 料理が出ると、一口食べて目を細める。


「うん。効く」


「薬ではないです」


「気持ちに効く」


「それなら」


 ツカサは小さく頷いた。


 ミカゲは向かいに座る。


「エイルさん、忙しいんですか?」


「まあね。季節の変わり目は体調崩す人が多いから」


「大丈夫ですか?」


「大丈夫大丈夫。エイルさんは丈夫だから」


「繊細なのに?」


「繊細で丈夫」


「便利ですね」


「そうなの」


 エイルは軽く笑った。


 その笑い方は、三年前とあまり変わらなかった。


 少し眠そうで、少しだらしなくて、でも目だけはよく見ている。


 ツカサが台所へ戻ると、エイルはミカゲに小声で言った。


「ツカサちゃん、最近ちゃんと休んでる?」


「前よりは」


「前よりは、ね」


「私もやってますから」


「うん。手つきが台所の子になってきた」


 ミカゲは少し得意げにした。


「でしょ」


「調子に乗って指切らないように」


「それ、皆言います」


「皆が言うことは、たぶん本当だよ」


 エイルは笑った。


 そして、台所のツカサをちらりと見る。


「あの子、まだ何でも抱えようとするところはあるけど」


「はい」


「でも、前より人に渡せるようになったね」


 ミカゲは少しだけ頷いた。


「少しずつです」


「それでいいよ」


 エイルは煮込みを口に運んだ。


「少しずつでいいことは、けっこうある」


     ◇


 その夜、店を閉めた後、ミカゲとツカサは街を歩いていた。


 昼間は少し暑かったが、夜になると風が涼しい。


 通りにはまだ灯りが残っている。


 酒場の方から笑い声が聞こえた。


 遠くで犬が吠えた。


 ミカゲは手に小さな包みを持っていた。


 エイルからもらった焼き菓子だった。


「これ、明日食べようか」


「うん」


「ツカサ、また欠片残さないでよ」


「残さない」


「ほんと?」


「包みだけ残す」


「それは許す」


 ミカゲは笑った。


 ツカサも少し笑う。


 こういう夜の散歩は、時々していた。


 店のこと。


 訓練のこと。


 街の人のこと。


 どうでもいいこと。


 話しながら歩く。


 ただそれだけの時間だった。


「今日、グランさんに褒められた」


 ミカゲが言う。


「流すやつ?」


「うん。前より良くなったって」


「すごい」


「でしょ」


「調子に乗ってる」


「今日は乗っていい日」


「そんな日があるんだ」


「ある」


 ミカゲは胸を張った。


 ツカサは横で笑っている。


「ツカサは? 今日何かあった?」


「魚屋さんが、味が安定したって」


「おお」


「でも、少し寂しいとも言われた」


「寂しい?」


「昔みたいに失敗しなくなったから、からかいにくいって」


「何それ」


「分からない」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 通りを曲がる。


 人通りが少し減った。


 家々の灯りもまばらになる。


 この道を抜ければ、店までは近い。


 ミカゲは空を見上げた。


 星が少し出ている。


「明日、晴れるかな」


「たぶん」


「洗濯したい」


「朝やる」


「半分こ」


「うん」


 何気ない会話。


 何度も繰り返してきたやり取り。


 だから、ミカゲはすぐには気づかなかった。


 道の先に、人影があることに。


     ◇


 三人いた。


 暗い外套を着ている。


 顔はよく見えない。


 けれど、通りを塞ぐように立っていた。


 ミカゲの足が止まる。


 ツカサも一歩遅れて止まった。


「こんばんは」


 ツカサが先に言った。


 返事はない。


 代わりに、真ん中の男がゆっくり顔を上げた。


 目が妙にぎらついていた。


「見つけた」


 男が言った。


 ミカゲは眉を寄せる。


「何ですか」


「死の御方の器」


 その言葉に、空気が変わった。


 ミカゲは反射的にツカサの前へ出る。


 ツカサは男たちを見ていた。


 死の御方。


 聞き慣れない言葉のはずだった。


 それなのに、胸の奥がざわついた。


 嫌な音がする。


 遠くで、何かが笑ったような気がした。


「何の話ですか」


 ミカゲの声は低かった。


 男はミカゲを見て、顔を歪める。


「お前ではない」


「は?」


「お前は邪魔だ」


 別の男が呟いた。


「器のそばに、余計な情がある」


「死の英雄に、そんなものは要らない」


「ナラク様の力は、人のぬくもりで曇ってはならない」


 ナラク。


 その名が落ちた瞬間、ツカサの指先が冷えた。


 知らない名前。


 知らないはずの名前。


 けれど、頭の奥で何かが軋んだ。


 暗い場所。


 誰かの声。


 くぐもった笑い。


 血の匂い。


 何かが、ほんの少しだけ動く。


 ツカサは息を止めた。


「ツカサ」


 ミカゲが横目で見る。


「下がって」


「でも」


「下がって」


 ミカゲの手は、腰の短剣に伸びていた。


 普段の訓練用ではない。


 護身のため、グランに持たされているものだった。


 男たちはそれを見て笑った。


「剣を持つか」


「その程度で」


「死に触れた器を守るつもりか」


 ミカゲは答えなかった。


 短剣を抜く。


 手が震えていないことを、少し遅れて自覚した。


 怖くないわけではない。


 でも、ツカサの前で震えるわけにはいかなかった。


「ツカサに何かするなら、私が相手します」


 男の目が細くなる。


「やはり邪魔だ」


 次の瞬間、左の男が動いた。


 速かった。


 ミカゲは短剣を構える。


 正面から受けない。


 流す。


 グランに何度も言われたことを思い出す。


 刃を滑らせ、体をずらす。


 男の腕を外へ逃がす。


 ミカゲは踏み込んだ。


 短剣の柄で、男の腹を打つ。


「ぐっ」


 男がよろめく。


 ミカゲはすぐに距離を取った。


 うまくいった。


 でも、相手は三人いる。


「ミカゲ!」


 ツカサの声がする。


「大丈夫!」


 ミカゲはそう返した。


 返した直後、背後の気配に気づく。


 遅い。


 真ん中の男が、いつの間にか横へ回っていた。


 ミカゲは振り向く。


 刃が光った。


     ◇


 音は、思ったより小さかった。


 布が裂けるような音。


 何かが深く入る音。


 ミカゲの体が止まる。


 ツカサは最初、それを理解できなかった。


 ミカゲの胸元に、刃が刺さっていた。


 男の手がそれを握っている。


 ミカゲの口が、少しだけ開いた。


「……え」


 短い声。


 それだけだった。


 ツカサの中で、何かが崩れた。


「ミカゲ」


 声が出た。


 でも、自分の声ではないみたいだった。


 男が刃を抜く。


 ミカゲの体が傾く。


 ツカサは荷物を落とした。


 焼き菓子の包みが石畳に転がる。


 ツカサは駆け寄り、倒れるミカゲを受け止めた。


 温かい。


 温かすぎる。


 手が赤く濡れる。


「ミカゲ」


 呼ぶ。


 ミカゲはツカサを見ていた。


 目が揺れている。


 何か言おうとしている。


 でも、声にならない。


「大丈夫」


 ツカサは言った。


 何も大丈夫ではなかった。


「大丈夫だから」


 ミカゲの唇が震える。


 血が滲む。


 ツカサは片手で傷を押さえた。


 止まらない。


 押さえても、止まらない。


「誰か」


 ツカサは叫ぼうとした。


 でも、声がうまく出ない。


「誰か、エイルさんを」


 通りは静かだった。


 少し奥の方から、酒場の笑い声が聞こえる。


 遠い。


 全部が遠い。


「ミカゲ、見て」


 ツカサは必死に言った。


「私を見て」


 ミカゲの目が、少しだけ焦点を結ぶ。


 ツカサを見る。


 その目が、何かを探しているようだった。


 約束。


 夕方の帰り道。


 助けてと言ったなら。


 私が助けに行くよ。


 その記憶が、ツカサの頭の中で弾けた。


「助ける」


 ツカサは震える声で言った。


「助けるから」


 ミカゲの手が、ほんの少しだけ動いた。


 ツカサの袖を掴もうとして、届かない。


 ツカサはその手を握った。


「大丈夫」


 また言った。


 それ以外、何も言えなかった。


 ミカゲの指から、少しずつ力が抜けていく。


「だめ」


 ツカサは首を振った。


「だめ、ミカゲ」


 呼吸が浅くなる。


 小さくなる。


 消えそうになる。


 そして。


 止まった。


     ◇


 世界から音が消えた。


 ツカサはミカゲを抱いたまま、動かなかった。


 手の中にある体は、まだ温かい。


 でも、呼吸がない。


 名前を呼んでも、返事がない。


 ミカゲ。


 ミカゲ。


 ミカゲ。


 何度呼んでも、戻ってこない。


 男たちの声がした。


「これでいい」


「情は断たれた」


「器は本来の形へ戻る」


 その言葉が、遠くから聞こえる。


「ナラク様は死を望まれる」


「死の英雄は、人と共にいてはならない」


「器よ、目覚めよ」


 ナラク。


 また、その名。


 ツカサの内側で、何かが笑った。


 くく、と。


 低く。


 冷たく。


 知らない声。


 でも、どこかで聞いたことがあるような声。


 いい。


 声がした気がした。


 いい絶望だ。


 ツカサの呼吸が止まる。


 違う。


 誰。


 誰の声。


 頭の奥が割れそうに痛む。


 白い壁の向こうで、何かが動いている。


 押し込めていたものが、指をかけている。


 ツカサはミカゲの顔を見た。


 閉じかけた瞼。


 血の気を失っていく唇。


 さっきまで笑っていた。


 明日の洗濯の話をしていた。


 焼き菓子を明日食べようと言っていた。


 明日。


 明日があったはずだった。


 ツカサの中で、何かが黒く滲んだ。


「返して」


 小さな声だった。


 男たちは聞き取れなかったように顔を傾ける。


「何だ」


「ミカゲを」


 ツカサは顔を上げた。


 その目は、いつもの色ではなかった。


 底のない暗さがあった。


「返して」


 空気が沈んだ。


 男の一人が息を呑む。


「おお」


 真ん中の男が恍惚とした声を漏らした。


「目覚めが」


 言葉は最後まで続かなかった。


 男の喉が、黒い線に裂けた。


 音もなく。


 血が噴き出す。


 男は何が起きたのか分からない顔のまま倒れた。


 残りの二人が後ずさる。


「な」


「ナラク様」


 ツカサはミカゲをそっと石畳に寝かせた。


 その動きだけは、ひどく丁寧だった。


 まるで眠っている人を起こさないように。


 それから、立ち上がる。


 足元に、黒い影のようなものが広がっていた。


 影は水のように石畳を這い、倒れた男の血を飲むように揺れる。


 ツカサ自身にも、何が起きているのか分からなかった。


 でも、止める気はなかった。


 止める理由もなかった。


「返して」


 もう一度言う。


 男たちは逃げようとした。


 遅かった。


 黒い影が伸びる。


 刃のように。


 糸のように。


 腕に絡み、足を裂き、喉を潰す。


 悲鳴が上がった。


 通りに響く。


 遠くの笑い声が止まる。


 戸が開く音がする。


 誰かがこちらを見る気配がする。


 ツカサには何も届かなかった。


 男たちは倒れた。


 息をしていない。


 それでも、ツカサの中の黒いものは収まらない。


 足りない。


 誰かが囁く。


 まだ足りない。


 違う。


 ツカサは頭を押さえた。


 違う。


 ミカゲを返して。


 それだけ。


 それだけなのに。


 黒い影が、倒れた男たちの周りで揺れていた。


 夜の通りに、血の匂いが満ちていく。


     ◇


 誰かが走ってくる音がした。


 軽い足音。


 それから、息を切らした声。


「ミカゲちゃん!」


 エイルだった。


 白い上着を羽織ったまま、髪も乱れている。


 誰かの悲鳴を聞いて走ってきたのだろう。


 エイルは状況を見て、顔色を変えた。


 倒れた男たち。


 血に濡れた石畳。


 立ち尽くすツカサ。


 そして、ツカサの足元に横たわるミカゲ。


「どいて!」


 エイルが叫ぶ。


 ツカサは反応できなかった。


 エイルはミカゲのそばに膝をつき、傷を見た。


 手をかざす。


 柔らかい光が灯る。


 けれど、すぐにエイルの表情が凍った。


「嘘」


 小さな声だった。


 ツカサの喉が震える。


「エイルさん」


 エイルは返事をしない。


 もう一度、強く光を灯す。


 癒しの権能が、夜の通りを照らした。


 傷口が少しだけ閉じようとする。


 でも、命の気配が戻らない。


 エイルの額に汗が浮く。


「戻って」


 エイルが呟く。


「戻って、ミカゲちゃん」


 ツカサはその声を聞いていた。


 祈るような声。


 必死な声。


 でも、ミカゲは目を開けない。


 ツカサの中で、また何かが笑った。


 癒しでは届かない。


 その声が囁く。


 死は、死でしか覆せない。


 ツカサはゆっくり顔を上げた。


「何」


 自分でも、誰に聞いたのか分からなかった。


 エイルが振り返る。


「ツカサちゃん?」


 その瞬間、エイルの目が変わった。


 ほんの一瞬前まで、ミカゲを救おうとしていた目。


 それが、ツカサを見た途端に強張る。


 怯えではない。


 怒りでもない。


 もっと深い場所から引きずり出されたような、拒絶。


 エイルの手が震える。


「……何、これ」


 ツカサは動けなかった。


 エイルの視線が、ツカサの足元の影を見る。


 倒れた男たちを見る。


 そして、ツカサを見る。


「ツカサちゃん」


 エイルの声がかすれる。


 その表情は、ツカサが今まで見たことのないものだった。


 優しかった人の顔から、優しさが剥がれていく。


 無理やり、何かに塗り潰されるように。


「君は」


 エイルは立ち上がった。


 癒しの光が、その手に集まる。


 けれど、それは治すための光ではなかった。


 ツカサはミカゲのそばに膝をついたまま、エイルを見上げる。


 分からない。


 何が起きているのか、分からない。


 ミカゲが死んだ。


 男たちが死んだ。


 ナラクという名が頭の奥で響いている。


 エイルが、自分を見る目を変えた。


 全部が、一つの悪い夢みたいだった。


「エイルさん」


 ツカサは呼んだ。


 助けを求めるように。


 縋るように。


 でも、エイルは苦しそうに笑った。


 乾いた、ひび割れた笑いだった。


「はは……」


 その目に、涙が滲んでいた。


「救えないね」


 夜の通りに、癒しの英雄の光が膨れ上がる。


 ツカサはミカゲの冷え始めた手を握った。


 まだ、離せなかった。

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