第30話「悪い夢」
エイルの手に、光が集まっていた。
何度も見た光だった。
擦りむいた膝を治してくれた光。
熱を出した子どもの額に触れていた光。
疲れた老人の痛みを和らげていた光。
店に来て、だらしなく頬杖をつきながら、それでも誰かが怪我をすればすぐに立ち上がる人の光。
そのはずだった。
でも今、その光はツカサへ向いている。
ミカゲを治すためではなく。
ツカサを討つために。
「エイルさん」
ツカサはもう一度呼んだ。
声は掠れていた。
「ミカゲを、助けて」
エイルの肩が震えた。
その顔は泣きそうだった。
けれど、足は引かなかった。
「助けたいよ」
エイルは言った。
「助けたいに決まってるじゃん」
いつもの軽い調子はなかった。
声の奥に、絞り出すような痛みがあった。
「でも、届かない」
「どうして」
「もう、命が離れてる」
ツカサはミカゲの手を握った。
まだ温かい。
温かいのに。
そこにいるのに。
「嘘」
「嘘ならよかった」
エイルは歯を食いしばった。
「ほんとに、嘘ならよかった」
ツカサは首を横に振った。
受け入れられなかった。
受け入れられるはずがなかった。
さっきまで話していた。
明日の洗濯の話をしていた。
焼き菓子を明日食べようと笑っていた。
髪の箱をからかっていた。
グランに褒められたと、少し得意げにしていた。
それが、終わるはずがない。
終わっていいはずがない。
「助けて」
ツカサは言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
エイルに。
目の前の癒しの英雄に。
ミカゲに。
それとも、もっと奥にいる何かに。
ツカサの頭の奥で、低い笑い声がした。
くくっ。
声が、近づいてくる。
湿った闇のような声。
呼んだか。
ツカサは息を止めた。
誰。
頭の奥に、何かがいる。
白い霧の向こうで、ずっと伏せていたものが顔を上げる。
黒い影が、内側から瞼をこじ開けるように広がっていく。
呼んだだろう、器。
「違う」
ツカサは小さく呟いた。
エイルが眉を寄せる。
「ツカサちゃん?」
ツカサは頭を押さえた。
違う。
呼んでいない。
知らない。
ナラクなんて知らない。
なのに、その名は頭の奥で形を持っていた。
ナラク。
死の英雄。
忌子。
終わらない死の声。
違う。
違う。
違う。
押し込めていたものが、ひび割れていく。
暗い村。
湿った土。
祈る声。
笑う声。
双子。
手。
小さな背中。
水色の髪。
ツバサ。
その名前が、頭の中で弾けた。
「っ、あ」
ツカサは息を吸えなくなった。
胸の奥を、誰かに掴まれたようだった。
思い出す。
小さな部屋。
自分は寝台にいた。
体は弱かった。
何度も熱を出した。
外で走るツバサの声を聞いていた。
料理をする母の背中を見ていた。
父の手。
ツバサの笑顔。
ツバサが言った。
お姉ちゃん。
ツカサの喉から、声にならない音が漏れた。
次の記憶は、赤黒かった。
村人たち。
儀式。
祈り。
ツバサ。
ツバサの命。
自分の体。
起き上がれた朝。
歩けた足。
軽い呼吸。
健康な体。
そして、いない妹。
「あ、ああ」
ツカサはミカゲの手を握りしめた。
もらった。
捨てられない。
捨てられるはずがない。
ツバサがくれた。
ツバサがいなくなった。
自分は生きている。
その意味が、遅れて心臓を貫いた。
シス村。
肉の塊。
壊れた家。
血。
歩いた道。
メーランの祭り。
笑い声。
ミカゲの両親。
倒れる人たち。
エーレ。
自分を人として見てくれた人。
自分が傷つけた人。
祖母。
優しくて、厳しくて、嘘をついた人。
ミカゲ。
ミカゲ。
ミカゲ。
全部が戻ってきた。
忘れていたのではない。
忘れないと、立っていられなかった。
「私が」
ツカサは唇を震わせた。
「私が、殺した」
エイルの表情が変わった。
ミカゲの両親。
シス村。
エーレ。
いろいろなものが、ツカサの中で繋がっていく。
自分が何だったのか。
何を抱えていたのか。
誰の命で立っていたのか。
そして、目の前でミカゲが死んでいること。
すべてが一度に押し寄せた。
頭が壊れそうだった。
ナラクの声が、そこへ滑り込んでくる。
思い出したか。
その声は笑っていた。
よい。実にいい。
「黙って」
ツカサは震える声で言った。
エイルが一歩近づく。
「ツカサちゃん、何が」
言いかけて、エイルは顔を歪めた。
まただ。
何かが、エイルの表情を変えていく。
目の奥に、強制された敵意が灯る。
癒しの英雄の優しさが、内側から引き裂かれていく。
「来ないで」
ツカサは言った。
エイルが止まる。
でも、止まったのは一瞬だけだった。
「私は」
エイルは額を押さえた。
声が震えている。
「私は、君を」
その先を言おうとして、喉が詰まった。
涙が頬を伝う。
「違う。違うのに」
光が強くなる。
エイルの手が勝手に上がる。
「討たなきゃって、思う」
ツカサはミカゲを抱き寄せた。
ナラクの声が笑う。
それが忌子だ。
死を抱えたものは、世界から拒まれる。
善なるものほど、お前を憎む。
癒しの英雄ほど、よく効くだろう。
「やめて」
ツカサは首を横に振った。
エイルは苦しそうに笑った。
「ごめんね」
いつものエイルなら、そんな顔で笑わなかった。
軽く、だらしなく、少し眠そうに笑う人だった。
ケーキを持ってきてくれた。
縫い方を教えてくれた。
ミカゲの怪我を治してくれた。
喧嘩の途中で、ゆっくり戻しなさいと言ってくれた。
その人が、今、光を構えている。
「ごめん」
エイルはもう一度言った。
「止められない」
光が放たれた。
◇
ツカサの足元から、黒い影が立ち上がった。
癒しの光と、死の影がぶつかる。
夜の通りが一瞬、白と黒に割れた。
石畳が砕ける。
空気が震える。
ツカサはミカゲの体を庇うように抱えた。
光の熱が頬を焼く。
影がそれを飲み込む。
エイルは歯を食いしばった。
「逃げて」
誰に言ったのか分からない声だった。
ツカサにか。
近くの家から覗いている誰かにか。
それとも、自分自身にか。
黒い影が伸びる。
ツカサは止めようとした。
でも、影は意思を持ったように動く。
エイルの足元へ。
喉元へ。
心臓へ。
「だめ」
ツカサは叫んだ。
影は止まらない。
ナラクの声が、耳元で囁く。
殺せ。
「いや」
その女は善い。
善い命ほど、よく燃える。
「黙って」
その命を使えば、ミカゲは繋ぎ止められる。
ツカサの呼吸が止まった。
繋ぎ止める。
助けるではない。
戻すでもない。
それでも、ミカゲが生きるのなら。
エイルの光が、また膨らむ。
今度はさっきより強い。
ツカサだけを消そうとする光。
それでも、エイルの目は泣いていた。
「逃げてよ」
エイルが叫んだ。
「私に、こんなことさせないでよ!」
ツカサの胸が裂けた。
エイルも戦っている。
自分を殺そうとしているのに。
殺したくなくて、泣いている。
それでも、世界の何かに押されて、ツカサを討とうとしている。
ナラクが笑う。
ほら。
殺さねば、お前が死ぬ。
お前が死ねば、ミカゲは戻らない。
ツカサはミカゲを見た。
血に濡れた服。
動かない手。
閉じた瞼。
助けると、言った。
ミカゲがどこかで助けてと言ったなら、助けに行くと約束してくれた。
でも今、助けを呼ぶ声すらない。
死んでいるから。
自分が助けなければ。
誰も。
エイルの光が放たれる。
黒い影が跳ねた。
ツカサは叫んだ。
「やめて!」
止めるための声だった。
でも、影は別の意味で応えた。
黒い刃が、エイルの胸を貫いた。
◇
光が消えた。
エイルの体が揺れる。
白い上着に、黒い影の跡が滲んでいる。
ツカサは目を見開いた。
「エイル、さん」
エイルはゆっくりと膝をついた。
手から光がこぼれ落ちる。
癒しの英雄の光が、夜の石畳に散った。
ツカサはミカゲを抱いたまま動けなかった。
動いたら、現実になる気がした。
でも、現実はもうそこにあった。
エイルが倒れる。
ツカサはその瞬間、ようやく体を動かした。
ミカゲをそっと置き、エイルへ駆け寄る。
「エイルさん」
エイルはまだ息をしていた。
浅く。
細く。
ツカサを見る目は、もうさっきの敵意を失っていた。
いつもの目に、少し戻っていた。
眠そうで。
優しくて。
ひどく悲しい目。
「ごめんね」
エイルが言った。
ツカサは首を横に振る。
「違う」
「怖かったね」
「違う、私が」
「ツカサちゃん」
エイルは少しだけ笑った。
血が唇に滲む。
「ミカゲちゃんを」
ツカサは息を呑んだ。
「お願い」
「嫌」
即座に出た。
エイルの目が少し揺れる。
「嫌です」
ツカサはエイルの傷を押さえた。
血が止まらない。
癒しの英雄は、自分を癒せないのか。
それとも、もう力が残っていないのか。
ツカサには分からなかった。
「死なないで」
ツカサは言った。
「死なないでください」
エイルは困ったように笑う。
「それは、難しいなぁ」
「嫌です」
「困ったねぇ」
いつもの口調に、少しだけ似ていた。
それが余計に痛かった。
エイルは震える手を上げようとした。
ツカサはその手を取る。
エイルの指は冷え始めていた。
「ツカサちゃん」
「はい」
「君、悪い子じゃないよ」
ツカサの顔が歪んだ。
「そんなこと、言わないで」
「言うよ」
「私、あなたを」
「うん」
エイルは頷いた。
「でも、悪い子じゃない」
ツカサは声を出せなかった。
「ただ」
エイルは呼吸を整えるように、少し間を空けた。
「これから、悪い夢みたいなことが、いっぱい起きるかもしれない」
ツカサは震えた。
「それでも」
エイルの目が、ミカゲの方を見る。
「ミカゲちゃんのこと、好きなら」
「好きです」
ツカサはすぐに言った。
涙が落ちた。
「好きです。大事です。いないと嫌です」
「うん」
エイルは少しだけ笑った。
「じゃあ、ちゃんと苦しんで」
その言葉は優しかった。
でも、許しではなかった。
「忘れないで」
ツカサは頷けなかった。
頷く資格がないと思った。
エイルは、最後に小さく息を吐いた。
「救えないね」
もう一度、そう言った。
さっきとは違う声だった。
乾いた笑いではなく。
自分自身へ向けた、悔しさのようだった。
エイルの手から力が抜けた。
ツカサの手の中で、指が落ちる。
癒しの英雄は、静かに動かなくなった。
◇
ツカサはしばらく、エイルの前に座っていた。
何も考えられなかった。
ミカゲが死んだ。
エイルが死んだ。
自分が殺した。
助けてくれた人を。
差し入れをくれた人を。
縫い方を教えてくれた人を。
ミカゲを治そうとしてくれた人を。
自分を悪い子じゃないと言ってくれた人を。
殺した。
ナラクの声が、静かに響く。
よい命だった。
「黙れ」
ツカサは低く言った。
あの女の命なら、足りる。
「黙って」
ミカゲを繋ぎ止められる。
その言葉で、ツカサは顔を上げた。
繋ぎ止める。
それは救いではない。
きっと、まともなことでもない。
それでも。
ミカゲが生きるなら。
ツカサは立ち上がった。
足元がふらつく。
ミカゲの方へ歩く。
ミカゲは石畳に横たわっていた。
顔色は白い。
胸は動かない。
ツカサはその横に膝をつく。
手を握る。
冷たくなり始めている。
「ミカゲ」
呼ぶ。
返事はない。
黒い影が、ツカサの腕を伝った。
エイルの命を含んだもの。
見るだけで吐き気がした。
それでも、ツカサは腕を引かなかった。
これを拒めば、ミカゲは死んだまま。
受け入れれば、エイルの死を使うことになる。
どちらも嫌だった。
どちらも、選びたくなかった。
それでも、ツカサの手はミカゲから離れなかった。
「ごめんなさい」
誰に謝ったのか分からなかった。
ミカゲに。
エイルに。
ツバサに。
祖母に。
自分が殺したすべてに。
「ごめんなさい」
黒い影が、ミカゲの胸元へ沈んだ。
傷口が、ゆっくり閉じていく。
ツカサは息を止めた。
閉じる。
血が止まる。
肌に、ほんの少し色が戻る。
でも、すぐには目を開けない。
「ミカゲ」
ツカサは震える手で、ミカゲの頬に触れた。
少しだけ温かい。
さっきより。
少しだけ。
ツカサは泣きながら笑いかけた。
「ミカゲ」
ミカゲの胸が、小さく動いた。
息。
浅い呼吸。
ツカサはその場に崩れ落ちそうになった。
戻った。
生きている。
ミカゲが生きている。
その事実に縋りついた瞬間、背後にあるエイルの体が視界の端に入った。
喜びが、すぐに腐った。
ツカサは口元を押さえた。
吐き気が込み上げる。
石畳の上に、体を折る。
何も出なかった。
ただ、喉が焼けるように痛かった。
◇
その後のことは、あまり覚えていない。
誰かの悲鳴。
駆けつけた人々。
倒れた男たち。
エイルの亡骸。
ミカゲを抱き上げる自分の腕。
どうやって家まで戻ったのかも、はっきりしなかった。
ただ、ミカゲを置いていけなかった。
エイルも置いていきたくなかった。
でも、人が来た。
人々はエイルを見つけた。
ツカサは何かを言った気がする。
言えなかった気もする。
気づけば、家の奥の部屋にいた。
ミカゲを寝台に寝かせていた。
服は着替えさせた。
血のついた服は、桶の中に沈んでいる。
手は何度洗っても赤い気がした。
ミカゲは眠っていた。
呼吸はある。
脈もある。
顔色も少しずつ戻っている。
ツカサは寝台の横に座り、ずっと見ていた。
少しでも目を離したら、また死んでしまいそうだった。
夜が明ける。
窓の外が白くなる。
鳥の声がする。
いつもの朝の音。
ツカサはそれを聞いて、心のどこかが壊れたような気がした。
いつもの朝が来てしまった。
エイルが死んだのに。
ミカゲが一度死んだのに。
自分が殺したのに。
朝が来た。
ミカゲの睫毛が震えた。
ツカサは息を止める。
「……ツカサ?」
ミカゲが目を開けた。
かすれた声。
いつもの声。
ツカサの視界が滲んだ。
「ミカゲ」
「どうしたの」
ミカゲはぼんやりと瞬きをした。
それから、少し顔をしかめる。
「なんか、体重い」
「動かないで」
「うん」
ミカゲは素直に頷いた。
天井を見つめる。
しばらくして、眉を寄せた。
「あれ」
ツカサの心臓が跳ねる。
「昨日、私……寝ちゃった?」
ミカゲは困ったように笑った。
「散歩から帰ってきた記憶、ないんだけど」
ツカサは息ができなかった。
覚えていない。
ミカゲは覚えていない。
刺されたことも。
倒れたことも。
エイルが駆けつけたことも。
一度、呼吸が止まったことも。
何も。
「ツカサ?」
ミカゲが不安そうに呼ぶ。
ツカサはようやく息を吸った。
「疲れてたんだと思う」
声は、自分でも驚くくらい静かだった。
「途中で、具合が悪くなって」
「私が?」
「うん」
「そっか……ごめん。迷惑かけた?」
「かけてない」
すぐに答えた。
それだけは、嘘ではなかった。
ミカゲは少し安心したように息を吐く。
「よかった」
よくない。
何もよくない。
ツカサは膝の上で手を握った。
爪が掌に食い込む。
痛みがあって、少しだけ現実に戻れた。
「今日、店どうする?」
ミカゲが聞く。
いつもの朝みたいに。
少し寝坊した日のように。
体調を崩しただけの日のように。
ツカサは喉の奥が焼けるように痛くなった。
「休む」
「え、でも」
「休む」
少し強い声になった。
ミカゲは驚いたように目を瞬かせる。
ツカサはすぐに視線を落とした。
「ミカゲ、まだ体が重いんでしょ」
「うん。でも」
「今日は休む」
「……分かった」
ミカゲは素直に引いた。
それから、少しだけ笑う。
「ツカサが店休むって言うの、珍しいね」
「うん」
「成長?」
「そうかも」
ツカサは笑おうとした。
でも、うまくできなかった。
ミカゲはそれを、体調を心配しているせいだと思ったのかもしれない。
「大丈夫だよ」
ミカゲは言った。
「ちょっと重いだけだから」
その言葉に、ツカサの中で何かが軋んだ。
ちょっと。
重いだけ。
ミカゲは何も知らない。
自分の命が、誰かの命で繋がれていることを知らない。
エイルの死が、体の奥に沈んでいることを知らない。
知らないまま、いつもの顔で笑っている。
ツカサは頷いた。
「うん」
それしか言えなかった。
◇
昼前に、知らせが届いた。
エイルが死んだ。
夜中、街の外れの通りで襲撃があった。
犯人らしき男たちも死んでいた。
何が起きたのか、詳しくは分からない。
そんな言葉で、街の人は震えながら伝えた。
ミカゲは寝台の上で固まった。
「エイルさんが?」
声が小さかった。
ツカサは隣に立っていた。
頷くしかなかった。
「嘘」
ミカゲは呟いた。
「昨日、店に来てたのに」
そう。
来ていた。
元気を出すものを頼んだ。
煮込みを食べた。
繊細で丈夫だと、くだらないことを言っていた。
「嘘でしょ」
ミカゲの声が震える。
ツカサは何も言えない。
「なんで」
ミカゲは起き上がろうとした。
体に力が入らず、少しふらつく。
ツカサは反射的に支えた。
「動かないで」
「だって、エイルさんが」
「動かないで」
「でも」
「お願い」
ツカサの声が震えた。
ミカゲはその声で止まった。
そして、ツカサの顔を見た。
「ツカサ」
「お願い」
ツカサはミカゲの肩を支えたまま、俯いた。
「今は、動かないで」
ミカゲは唇を噛んだ。
涙が目に溜まっていく。
「エイルさん」
その名前が部屋に落ちた。
ツカサの胸を刺した。
「昨日、私、何してたんだろ」
ミカゲが呟いた。
ツカサは息を止めた。
「エイルさんがそんなことになってたのに、私、寝てたの?」
「違う」
思わず言った。
ミカゲが顔を上げる。
ツカサはすぐに口を閉じた。
「違うって?」
「体調が悪かったから」
言葉を選ぶ。
選べば選ぶほど、ひどい嘘になる。
「仕方なかった」
ミカゲは涙をこぼした。
「仕方なくないよ」
「ミカゲのせいじゃない」
「でも」
「ミカゲのせいじゃない」
ツカサは繰り返した。
それだけは本当だった。
ミカゲのせいではない。
全部、自分のせいだ。
ミカゲは顔を覆った。
声を殺して泣き始める。
ツカサはその隣にいた。
慰める資格なんてなかった。
それでも、手を伸ばした。
ミカゲの背に触れる。
その瞬間、自分の手が汚れている気がした。
エイルを貫いた影。
ミカゲを繋ぎ止めた影。
手は洗った。
何度も洗った。
でも、落ちていない。
ミカゲは何も知らず、その手を拒まなかった。
それが、何より苦しかった。
◇
ミカゲはしばらく泣いて、また眠った。
体がまだ戻りきっていないのだろう。
呼吸は穏やかだった。
ツカサは寝台の横で、しばらくその顔を見ていた。
目を閉じているミカゲは、昨夜と少し似ていた。
胸が動いていることだけが違った。
その違いのために、エイルは死んだ。
ツカサは立ち上がった。
台所へ向かう。
何か作らなければ。
ミカゲは起きたら、少しでも食べた方がいい。
店は休む。
でも、朝食も昼食も、何もないわけにはいかない。
火を起こす。
水を。
鍋を。
包丁を。
ツカサは棚に手を伸ばした。
その瞬間、昨夜の光景がよみがえった。
エイルの胸を貫いた黒い影。
血。
手の中で落ちた指。
悪い子じゃないよ。
ちゃんと苦しんで。
ツカサは口元を押さえた。
今度は、間に合わなかった。
台所の隅に膝をつき、吐いた。
胃の中はほとんど空だった。
酸っぱいものだけが喉を焼く。
涙が勝手に落ちた。
息ができない。
胸が痛い。
頭の奥で、ナラクが静かに笑っている。
これからだ。
ミカゲは生きている。
だが、命は借り物だ。
減れば、また足さねばならぬ。
「やめて」
ツカサは床に手をついた。
声にならない声で言う。
「やめて」
ミカゲを生かしたいのだろう。
ナラクの声は優しかった。
ひどく、ひどく優しかった。
ならば殺せ。
ツカサは耳を塞いだ。
塞いでも、声は内側から響いた。
ツカサは床にうずくまった。
これは悪い夢だ。
そう思った。
目が覚めたら、昨日の夜に戻る。
ミカゲと散歩している。
焼き菓子を持っている。
エイルは店に来て、いつものように頬杖をついている。
癒しの英雄も食べないとしぼむ、と笑う。
ミカゲがそれに呆れる。
ツカサは料理を出す。
それだけの朝に戻る。
戻るはずだ。
戻ってほしい。
でも、床の冷たさも、喉の痛みも、手についた赤い気配も、全部が本物だった。
ツカサは台所の隅で震えながら、何度も思った。
これは悪い夢だ。
これは悪い夢だ。
これは悪い夢だ。
それでも、朝は終わらなかった。




