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第31話「仮初の命」

 エイルの葬儀は、雨のない日に行われた。


 空は薄く晴れていた。


 雲はある。


 でも、降りそうではなかった。


 エイルらしくない天気だと、誰かが小さく言った。


 ミカゲは黒い服を着て、列の中に立っていた。


 まだ体は重い。


 長く立っていると、膝から力が抜けそうになる。


 それでも、座ろうとはしなかった。


 ツカサは隣にいた。


 手を伸ばせば触れられる距離。


 けれど、二人の間にはいつもより少しだけ隙間があった。


 ミカゲが離れたわけではない。


 ツカサが、少しだけ近づけなかった。


 棺の中のエイルは、眠っているようだった。


 白い上着ではなく、きれいな布をかけられている。


 髪は整えられていた。


 いつもの眠そうな顔ではない。


 頬杖をついて、だらっと笑うこともない。


 ミカゲは棺の前に立った。


 何か言おうとした。


 けれど、声が出なかった。


 昨日まであったはずのものが、急になくなっている。


 それがうまく飲み込めなかった。


「エイルさん」


 やっと名前を呼んだ。


 返事はない。


 ミカゲの目に涙が溜まる。


「ごめんなさい」


 ツカサの指先が、ぴくりと動いた。


 ミカゲは続けた。


「私、何も覚えてなくて」


 声が震えた。


「何もできなくて」


 ツカサは俯いた。


 違う。


 違う。


 ミカゲは悪くない。


 何度も言いたかった。


 でも、言えば何かが崩れそうだった。


 ミカゲは棺の前で、小さく頭を下げた。


「今まで、ありがとうございました」


 短い言葉だった。


 それ以上は、言えなかった。


 ツカサはその隣に立った。


 エイルの顔を見る。


 あの夜の声が戻ってくる。


 悪い子じゃないよ。


 ちゃんと苦しんで。


 忘れないで。


 ツカサは喉を鳴らした。


 手が震える。


 棺の縁に触れることさえ、できなかった。


「……ごめんなさい」


 声は小さかった。


 誰にも聞こえないくらい。


 でも、ミカゲには聞こえた。


 ミカゲは隣を見る。


 ツカサの顔は、白かった。


「ツカサ」


「うん」


「大丈夫?」


「大丈夫」


 すぐに返ってきた。


 その速さが、少し怖かった。


 ミカゲはそれ以上聞けなかった。


     ◇


 グランは、葬儀の端に立っていた。


 顔は険しかった。


 いつもの大きな声はない。


 拳を強く握り、棺の方を見ている。


 ライトはその隣にいた。


 腕を組み、静かに目を伏せている。


 アルマは少し離れた場所に立っていた。


 飄々とした軽さは、今日はなかった。


「エイルが死ぬなんてな」


 グランが低く言った。


 ライトは答えなかった。


「襲った連中は?」


「全員死亡」


「分かってる。誰だったかだ」


「死の英雄を崇拝する過激派の可能性が高い」


 ライトの声は冷静だった。


「ただ、不可解な点が多い」


「不可解?」


「男たちは全員、外傷が普通じゃない。剣や槍ではない」


 グランは眉を寄せる。


「魔法か」


「それに近い。けれど、魔法の痕跡では薄い」


「じゃあ何だ」


「分からない」


 ライトは短く答えた。


 グランは歯を食いしばる。


「ミカゲとツカサは?」


「ミカゲは記憶がない。ツカサは混乱している」


「無理もない」


「そうだな」


 ライトはツカサの方を見る。


 ツカサは棺の前から離れた後、ずっとミカゲの少し後ろに立っていた。


 誰かに話しかけられると、丁寧に答える。


 でも、目が合いきらない。


 手は袖の中で握りしめられている。


「ツカサの様子が悪い」


 ライトが言った。


「当たり前だろ。エイルが死んだんだぞ」


「それだけではない」


 グランがライトを見る。


 ライトはそれ以上言わなかった。


 確証がないことを、軽く口にする気はなかった。


 ただ、見ていた。


 ツカサがミカゲに触れようとして、直前で手を止めるところを。


 ミカゲが泣くたびに、自分の息まで殺すところを。


 棺に近づいた時、エイルの顔を見るのではなく、自分の手を見ていたところを。


 ライトは目を細めた。


 何かがある。


 まだ、形にはならない。


 でも、見逃していいものではなかった。


     ◇


 葬儀の後、店はしばらく閉めることになった。


 街の人たちは無理をするなと言った。


 ミカゲも、いつものように反論しなかった。


 体が重かった。


 階段を上るだけで息が乱れる。


 食欲もない。


 寝ても、疲れが残る。


 ツカサはそれを見て、毎日食事を作った。


 消化のいいもの。


 温かいもの。


 少し味の濃いもの。


 ミカゲが食べやすいように、量を減らしたもの。


 何度も工夫した。


 けれど、ミカゲの体はあまり戻らなかった。


「ごめん、残す」


 ミカゲが椀を置く。


 半分も食べていない。


 ツカサはすぐに首を横に振った。


「いいよ」


「作ってくれたのに」


「残していい」


「でも」


「無理して食べる方がだめ」


 ツカサは椀を下げた。


 声は穏やかだった。


 でも、台所へ戻る手が少し震えていた。


 ミカゲはそれを見て、胸が痛くなる。


「ツカサ」


「何?」


「怒ってる?」


「怒ってない」


「ほんと?」


「うん」


 ツカサは振り返って、少し笑おうとした。


 笑えていなかった。


 ミカゲは布団の上で膝を抱える。


「私、何か変だよね」


 ツカサの動きが止まった。


「変じゃない」


「でも、体が戻らない」


「大きなことがあったから」


「覚えてないのに?」


 その言葉に、ツカサは答えられなかった。


 ミカゲは自分の胸元に手を置く。


 傷はない。


 痛みもない。


 でも、体の奥に重いものがある。


 知らない疲れが沈んでいる。


「エイルさんのことは悲しい。でも、それとは別に、体がずっと変」


 ミカゲは少し俯いた。


「寝てるだけだったのに」


「寝てるだけじゃなかった」


 ツカサは思わず言った。


 ミカゲが顔を上げる。


 ツカサは息を止めた。


 言ってしまった。


「ツカサ?」


「……具合が悪かったから」


「うん」


「だから、ただ寝てただけじゃない」


 苦しい言い訳だった。


 ミカゲはしばらくツカサを見ていた。


 けれど、追及はしなかった。


「そっか」


「うん」


「じゃあ、ちゃんと休む」


「うん」


 ツカサは台所へ戻った。


 椀の中の残った粥を見る。


 湯気はもう薄い。


 こんなものでは足りない。


 食べ物ではない。


 休息でもない。


 ミカゲの命は、別のもので繋がれている。


 ナラクの声が、静かに響く。


 減っているな。


 ツカサは椀を握った。


 指先が白くなる。


 分かるだろう。


 あれは借り物だ。


 尽きれば終わる。


「黙って」


 台所に小さな声が落ちた。


 誰にも聞こえない。


 聞こえてはいけない。


 足せ。


 命を。


 そうすれば、あの娘は生きる。


 ツカサは目を閉じた。


 耳を塞いでも、声は止まらない。


 ミカゲの咳が、奥の部屋から聞こえた。


 小さな咳。


 それだけで、ツカサの体は冷たくなった。


     ◇


 三日後、ミカゲは熱を出した。


 高くはない。


 けれど、下がらない。


 汗をかき、目を覚まし、また眠る。


 ツカサは水を替え、額を拭いた。


「ごめん」


 ミカゲがかすれた声で言う。


「謝らないで」


「ツカサ、寝てないでしょ」


「寝てる」


「嘘」


「少しは」


「少しって、どれくらい」


「少し」


「答えになってない」


 ミカゲは弱く笑った。


 その笑顔が、いつもより薄い。


 ツカサは布を絞る手に力を入れた。


「エイルさんがいたら、怒られてたね」


 ミカゲがぽつりと言った。


 ツカサは固まった。


「休みなさいって」


「うん」


「あの人、だらっとしてるのに、そういうところちゃんとしてたから」


「うん」


 ツカサはそれしか言えない。


 ミカゲは天井を見る。


「会いたいな」


 静かな声だった。


 ツカサの胸に、黒いものが落ちる。


 ミカゲはエイルに会いたい。


 当然だ。


 エイルは優しかった。


 大事な人だった。


 でも、その人はもういない。


 ツカサが殺した。


 そして、その命でミカゲは息をしている。


 ミカゲは何も知らない。


「ツカサ」


「何?」


「手、握ってて」


 ツカサは一瞬、動けなかった。


 ミカゲが目だけを向ける。


「だめ?」


「だめじゃない」


 ツカサは手を伸ばした。


 ミカゲの手を握る。


 熱があった。


 けれど、弱い。


 指先に力がない。


 ミカゲは少し安心したように目を閉じる。


「ありがと」


「うん」


 手を握っているだけで、分かった。


 減っている。


 体温ではない。


 脈でもない。


 もっと奥の、見えない火のようなもの。


 それが細くなっている。


 ナラクの声が笑う。


 猶予は長くない。


 ツカサは唇を噛んだ。


 血の味がした。


     ◇


 夜、ツカサは外に出た。


 ミカゲは眠っている。


 街は静かだった。


 店の戸に、休業を知らせる札が下がっている。


 風がそれを小さく揺らした。


 ツカサは外套を羽織り、路地へ歩いた。


 行くあてはなかった。


 ただ、家の中にいると息ができなかった。


 頭の奥で、ナラクがずっと囁いている。


 殺せ。


 命を足せ。


 ミカゲを生かせ。


 聞きたくない。


 聞こえないふりをしたい。


 けれど、ミカゲの熱い手の感触が残っている。


 細くなっていく命の気配が、指先に貼りついている。


 ツカサは路地の壁に手をついた。


「嫌だ」


 小さく言った。


 誰もいない夜道に、声が吸われる。


「もう、嫌だ」


 返事はない。


 代わりに、遠くから笑い声が聞こえた。


 酒場ではない。


 もっと近い。


 曲がり角の向こう。


 ツカサは顔を上げた。


 母親らしき女性と、小さな子どもが歩いていた。


 子どもは眠そうに母親の手を握っている。


 もう片方の手には、小さな布包みを抱えていた。


「落とさないでね」


 母親が言う。


「うん」


「本当に?」


「うん。これ、もらったから」


 子どもは眠そうな声で言った。


「すてない」


 ツカサの足が止まった。


 もらったから。


 捨てない。


 小さな言葉が、胸の奥に刺さる。


 ツバサの命。


 ミカゲとの約束。


 エイルの最後の言葉。


 全部が、同じ場所で絡まった。


 母親は子どもの頭を撫でた。


「えらいね」


 子どもは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見た瞬間、ナラクが囁いた。


 善い命だ。


 ツカサは息を止めた。


 違う。


 やめて。


 あれは違う。


 関係ない。


 ミカゲを救える。


 声は静かだった。


 やめて。


 ツカサは後ずさった。


 でも、足は止まらなかった。


 ミカゲに色々もらったのに、何も返せない。


 ツバサからもそう。

 

 もらってばかりで、自分はまた何もできない。


 母子は路地の先へ向かう。


 人通りはない。


 夜は深い。


 誰も見ていない。


 ツカサの影が、足元で揺れた。


「やめて」


 声にならない。


 自分に言っているのか、ナラクに言っているのか分からない。


 手が震える。


 黒い影が、石畳を這う。


 子どもが振り返った。


「お姉ちゃん?」


 ツカサは立ち尽くした。


 子どもの目は、何も知らない目だった。


 母親が子どもを引き寄せる。


「どうかしましたか?」


 その声は警戒していた。


 それでも、まだ優しかった。


 ツカサは口を開いた。


 謝ろうとした。


 逃げてと言おうとした。


 でも、その前に、奥の部屋で眠るミカゲの顔が浮かんだ。


 熱で赤くなった頬。


 弱い手。


 会いたいな、と言った声。


 エイルの命では、足りなくなっている。


 次がいる。


 嫌だ。


 嫌だ。


 嫌だ。 


 「ごめんなさい…!ごめんなさい…!ごめんなさい…!ごめんなさい…!」


 黒い影が、伸びた。


 ミカゲのために。


 「ごめんなさい…!!」


 泣く権利なんてあるはずないのに、嗚咽が混じった。


     ◇


 音はほとんどなかった。


 悲鳴は短かった。


 夜の路地に、何かが倒れる音だけが残った。


 ツカサは立っていた。


 足元に、二つの命が横たわっている。


 母親の手は、最後まで子どもの方へ伸びていた。


 子どもの手には、布包みが握られていた。


 ツカサはそれを見た。


 もらったもの。


 捨てないと言っていたもの。


 指が動きそうになった。


 拾おうとした。


 でも、触れなかった。


 触れたら、何かが本当に終わる気がした。


 もう終わっているのに。


 黒い影が、二人の命を吸い上げるように揺れる。


 ツカサは壁に手をついた。


 吐いた。


 今度は、少しだけ胃の中のものが出た。


 涙も出た。


 親子の最期の顔を思い出してしまう。


 何も罪もない親子を。


 殺した。


 ナラクは満足そうに笑っている。


 よい。


 これでしばらく保つ。


「……しばらく」


 ツカサは呟いた。


 永遠ではない。


 治ったわけではない。


 助かったわけではない。


 しばらく。


 ミカゲの命は、誰かの命を足して、しばらく繋がるものになった。


 ツカサは震える手で、自分の口元を拭った。


 逃げるように路地を出る。


 走った。


 家へ。


 ミカゲのいる場所へ。


     ◇


 家に戻ると、ミカゲはまだ眠っていた。


 ツカサは音を立てないように近づいた。


 寝台の横に膝をつく。


 ミカゲの額に触れる。


 熱が下がっていた。


 さっきまでの重さが、少し消えている。


 呼吸も穏やかだった。


 ツカサはその場で固まった。


 本当に効いている。


 本当に、命が足された。


 あの母子は死んだ。


 その代わりに、ミカゲの熱が下がった。


 ツカサは口元を押さえた。


 また吐き気が込み上げる。


 でも、ここでは吐けない。


 ミカゲが起きてしまう。


 ミカゲは目を閉じたまま、小さく息をした。


「……ツカサ」


 寝言のような声だった。


 ツカサの体が震えた。


「いるよ」


 かすれた声で答える。


 ミカゲは眠ったまま、少しだけ眉を緩めた。


 安心したように。


 それだけで、ツカサは崩れそうになった。


 人を殺した。


 母親と子どもを殺した。


 それでも、ミカゲが安心した顔をした。


 その顔を見て、よかったと思ってしまった。


 一瞬でも。


 ほんの一瞬でも。


 よかったと思ってしまった。


 ツカサは自分の胸を押さえた。


 苦しい。


 息ができない。


 でも、泣き声は飲み込んだ。


 ミカゲを起こしたくなかった。


     ◇


 翌朝、ミカゲは少し元気になっていた。


 まだ完全ではない。


 けれど、昨日より顔色がいい。


 粥も、半分以上食べられた。


「なんか、楽になったかも」


 ミカゲは不思議そうに言った。


 ツカサは台所で立ったまま、椀を見ていた。


「よかった」


 声は少し遅れた。


「ツカサ?」


「うん」


「どうしたの」


「何でもない」


「顔、白いよ」


「寝てないから」


「寝て」


「うん」


「絶対寝て」


「うん」


 ミカゲは眉を寄せる。


「また全部自分でやろうとしてる?」


「してない」


「ほんと?」


「うん」


 嘘だった。


 全部、自分でやるしかない。


 ミカゲには言えない。


 誰にも言えない。


 命が減れば、人を殺す。


 ミカゲが弱れば、また誰かを選ぶ。


 それを、ツカサがやる。


 誰にも渡せない。


 渡してはいけない。


 ミカゲは椀を置き、少しだけ笑った。


「でも、よかった。体が軽いと、ちょっと安心する」


「うん」


「エイルさんに怒られないように、ちゃんと休む」


 ツカサの指が震えた。


「うん」


「ツカサもだよ」


「うん」


 ミカゲは布団に戻った。


 少し眠そうに目を閉じる。


 その顔は穏やかだった。


 ツカサは椀を持って台所へ戻った。


 水を出す。


 椀を洗う。


 手を洗う。


 何度も洗う。


 洗っても、何も落ちない。


 ミカゲは生きている。


 エイルも、あの母子も死んだ。


 ツカサは水の中で、手を握った。


 これは仮初の命だ。


 誰かの命で、少しずつ繋いだもの。


 それでも、ミカゲは笑った。


 それでも、ミカゲは生きている。


 ツカサは唇を噛んだ。


 泣くこともできなかった。


 泣けば、少しでも許される気がしてしまうから。


 台所の隅に、昨日洗った血のついた服がまだ置いてある。


 水は薄く赤く濁っていた。


 ツカサはそれを見ないようにした。


 けれど、見ないようにしたものほど、消えてはくれなかった。

 

 お母さん、お父さん、ツバサ、エーレさん、祖母さん、ごめんなさい。


 私は、罪のない人を殺した。

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