第32話「偽善」
店は、五日後に再開した。
休んでいた間、戸の前には何度も人が来た。
大丈夫か。
何かいるものはないか。
無理をするな。
そんな声が、戸越しに残っていった。
ミカゲはそのたびに申し訳なさそうな顔をした。
ツカサはそのたびに、丁寧に頭を下げた。
再開した日の朝、店の暖簾を出す手は少し重かった。
ミカゲはまだ本調子ではない。
でも、ずっと閉めているのも落ち着かなかった。
家の中にいると、エイルのことばかり考えてしまう。
店を開ければ少しは動ける。
そう言ったのはミカゲだった。
ツカサは最初、反対した。
「まだ休んだ方がいい」
「でも、もう動ける」
「完全じゃない」
「少しずつでいいじゃん」
「無理しない?」
「する前にツカサが止めるでしょ」
そう言われて、ツカサは黙った。
止める。
それはできる。
でも、止められないものの方が多すぎた。
ミカゲの命が減っていくこと。
ナラクの声。
自分の手が、次に誰を殺すのか。
それは、止められない。
ツカサは結局、昼だけ開けることにした。
短い時間。
品数も少なく。
無理をしない。
そう決めてから、暖簾を出した。
◇
最初に来たのは、魚屋の男だった。
店に入るなり、少しだけ気まずそうに頭をかいた。
「開いたか」
「はい」
ツカサが答える。
ミカゲは奥から顔を出した。
「いらっしゃい」
「おう。体、平気か」
「だいぶ」
「だいぶ、か。なら座ってろ」
「お客さんに言われた」
「客だから言うんだよ」
男は席についた。
いつもの場所だった。
ツカサが水を出す。
「今日は粥と魚の汁だけです」
「それでいい」
「味は」
「濃いめ」
「分かっています」
ツカサは台所へ戻った。
魚屋は少しだけ店の中を見回した。
エイルがよく座っていた席で、視線が止まる。
そこには誰もいない。
ミカゲもそれを見てしまった。
胸が痛くなる。
「……エイルさん、いつもあそこ座ってたね」
ミカゲがぽつりと言った。
魚屋は目を伏せた。
「ああ」
「お腹すいたって入ってきて」
「あの人、英雄なのに妙に気安かったからな」
「うん」
ミカゲは少し笑おうとした。
うまくいかなかった。
ツカサは台所で、汁をよそる手を止めていた。
聞こえている。
全部。
エイルの席。
エイルの声。
エイルの笑い方。
癒しの英雄も食べないとしぼむ。
その言葉が、鍋の湯気の中に浮かんで消える。
ツカサは椀を持った。
手が震えないように、両手で支える。
「お待たせしました」
魚屋の前に置く。
男は一口飲んだ。
そして、少しだけ眉を上げる。
「うまい」
「ありがとうございます」
「少し薄いな」
「すみません」
「責めてない」
男はゆっくりと汁を飲んだ。
「今日のは、これでいい」
ツカサは返事をしなかった。
ただ、頭を下げた。
今日の味が薄いのは、手加減したからではない。
味が分からなかったからだ。
◇
昼の間に、何人かの常連が来た。
皆、声を抑えていた。
いつものように笑おうとして、途中で止める。
エイルの話を避けようとして、結局ふとした瞬間に名前が出る。
そのたびに店の空気が少し揺れた。
でも、誰も責めなかった。
誰も急がなかった。
ミカゲが座ったまま水を出そうとすると、客の方が立ち上がって取りに行った。
「座ってろって」
「でも」
「今日は俺らが働く日だ」
「お客さんなのに?」
「細かいこと言うな」
ミカゲは困ったように笑った。
ツカサはそれを見ていた。
街の人たちは優しい。
祖母が死んだ時もそうだった。
ツカサを受け入れてくれた時もそうだった。
エイルが死んだ今も、こうして手を伸ばしてくれる。
だからこそ、ツカサは顔を上げられなかった。
この人たちは知らない。
エイルを殺したのが自分だと。
ミカゲが生きている理由が、誰かの命だと。
昨日の夜、路地で母子が死んだことも。
知らない。
ツカサは台所で包丁を握った。
切る。
煮る。
よそう。
運ぶ。
礼を言う。
何でもない顔をして。
いつも通りの店をやる。
それが、吐き気がするほど苦しかった。
◇
夕方前、店を閉めた。
ミカゲは疲れたのか、椅子に座ったまま息を吐いた。
「やっぱり、ちょっと疲れた」
「だから言った」
「でも、開けてよかった」
「そう?」
「うん」
ミカゲはエイルの席を見た。
「寂しかったけど」
「うん」
「でも、店に人がいるのはいいね」
ツカサは片づけの手を止めた。
「うん」
「エイルさんも、たぶん来たと思う」
ミカゲは少しだけ笑った。
「お腹すいたーって」
ツカサは返事をしなかった。
できなかった。
ミカゲはその沈黙を、悲しみだと思ったのだろう。
「ごめん」
「何で」
「思い出させた」
「思い出さなくても、忘れてない」
ツカサの声は静かだった。
ミカゲは頷いた。
「そうだね」
その言葉が、ツカサの胸に刺さった。
忘れていない。
忘れられない。
エイルの最後の顔も。
母子の倒れた姿も。
子どもが握っていた布包みも。
全部。
「ツカサ」
「何?」
「今日はもう休も」
「片づけが」
「半分こ」
ミカゲが立ち上がろうとする。
ツカサはすぐに止めた。
「ミカゲは座ってて」
「またそれ」
「体が戻ったら」
「戻ったら本当にやらせる?」
「うん」
「約束?」
「約束」
ツカサはそう言った。
約束。
その言葉が、もう重かった。
守れるものと、守れなかったものが、胸の中で絡まっていた。
◇
夜、ミカゲは早めに眠った。
昼の店だけで、体力を使ったのだろう。
寝息は穏やかだった。
熱はない。
顔色も悪くない。
昨日の夜に奪った命が、確かに効いている。
ツカサは寝台の横で、その事実を確かめてしまった。
そして、自分を嫌悪した。
安心したからだ。
ミカゲが眠れていることに、心から安心した。
その安心の底に、二つの死体が沈んでいる。
ツカサは立ち上がった。
そっと部屋を出る。
台所へ向かい、水を飲む。
喉は乾いているのに、飲むたびに吐き気がした。
ナラクの声は、今日は静かだった。
満たされているからだ。
あの母子の命で。
ツカサは水桶に映った自分の顔を見た。
ひどい顔だった。
目の下に影がある。
唇の色も悪い。
それでも、外に出れば人は言う。
無理をするな。
大丈夫か。
ミカゲを支えてやれ。
優しい言葉ばかりだった。
それを受け取るたびに、腹の底が冷たくなる。
「偽善者」
ツカサは小さく呟いた。
誰かを助けるふりをして。
料理を作って。
水を出して。
ありがとうと言われて。
その裏で、人を殺している。
それでも、店を開ける。
ミカゲのために粥を作る。
髪を梳く。
手を握る。
どれも本当だった。
本当だから、余計に汚かった。
◇
翌日、街に噂が広がった。
路地で母子が殺されていた。
犯人は分からない。
エイルを殺した事件と関係があるのではないか。
死の英雄を崇拝する連中の残党かもしれない。
そんな噂だった。
ミカゲはそれを聞いて、顔色を変えた。
「また?」
店は休みにしていた。
客ではなく、近所の女性が知らせに来たのだ。
「怖いねえ。夜は出ない方がいいよ」
「はい」
ツカサが答えた。
声は普通だった。
普通に聞こえるように、何度も喉の奥で整えた声だった。
女性が帰った後、ミカゲはしばらく黙っていた。
「エイルさんの時と、同じ人たちかな」
「分からない」
ツカサは答えた。
「小さい子も?」
「……うん」
「ひどい」
ミカゲは拳を握った。
「何でそんなこと」
ツカサは黙った。
何で。
理由はある。
ミカゲを生かすため。
でも、それを理由にしていいはずがない。
母親も、子どもも、ミカゲのために死ぬ理由なんてなかった。
「許せない」
ミカゲの声が震えた。
ツカサは顔を上げられなかった。
「そんなことするやつ、絶対に」
ミカゲは言葉を切った。
そして、少しだけ目を伏せる。
「私がもっと強かったら」
「ミカゲ」
「エイルさんのことも、その人たちのことも」
「違う」
ツカサの声が強くなった。
ミカゲが驚いて見る。
「ミカゲのせいじゃない」
「でも」
「違う」
ツカサは繰り返した。
その言葉だけは、どうしても譲れなかった。
ミカゲのせいではない。
絶対に。
ミカゲは何も悪くない。
悪いのは。
ツカサは自分の手を握った。
悪いのは、この手だ。
「ツカサ?」
ミカゲの声で、ツカサは我に返った。
「ごめん」
「ううん」
ミカゲは少し不安そうに見ていた。
「ツカサ、最近おかしいよ」
「そうかな」
「うん」
「エイルさんが死んだから」
その名前を、自分で口にした。
胸の中で何かが裂けた。
「それだけ」
ミカゲは納得しきれない顔だった。
でも、それ以上は聞かなかった。
優しいから。
踏み込まないでいてくれるから。
その優しさに、ツカサはまた傷ついた。
◇
ミカゲの体は、その後しばらく安定した。
熱は下がった。
食事も少しずつ戻った。
短い時間なら店にも立てる。
笑うことも増えた。
ただ、夜になると少し息が苦しそうになる日があった。
ナラクはそのたびに囁いた。
減っている。
ツカサは眠れなくなった。
夜、ミカゲが眠った後、外に出る。
誰かを探す。
善い命を。
強い命を。
よく燃える命を。
そう囁く声を、聞きながら歩く。
最初の母子の後、ツカサは何度も吐いた。
泣いた。
手を洗った。
眠れなかった。
それでも、二度目は一度目より早かった。
三度目は、もっと早かった。
慣れたわけではない。
苦しくなくなったわけでもない。
ただ、ミカゲの命が減る感覚を知ってしまった。
それが何より怖かった。
だから、ツカサは夜に出る。
悪い人間を選べればよかった。
誰かを傷つけている人。
奪っている人。
殺されても仕方ないと、自分に言い聞かせられる人。
でも、ナラクは笑った。
善い命ほど、よく燃える。
ミカゲを長く保ちたければ、選べ。
選ぶな。
選べ。
ツカサはその声に耐えきれず、結局、誰かを殺した。
人に優しくしていた老人。
迷子の子どもを家まで送っていた青年。
夜遅くまで薬を届けていた女性。
エイルの診療所を手伝っていた人。
善い人ばかりだった。
そのたびにミカゲの顔色は戻った。
そのたびに街の噂は増えた。
誰かが殺された。
まただ。
どうして良い人ばかり。
犯人は何を考えている。
ミカゲは怒った。
泣いた。
剣を握った。
「私、もっと訓練する」
ある朝、ミカゲが言った。
ツカサは椀を置く手を止めた。
「まだ体が」
「戻ってきた」
「でも」
「こんなの、放っておけない」
ミカゲの目は真剣だった。
「エイルさんを殺したやつも、今も人を殺してるやつも、同じかもしれない」
「違うかもしれない」
「それでも」
ミカゲは拳を握った。
「誰かが止めなきゃ」
ツカサは息ができなかった。
ミカゲは自分を止めようとしている。
知らないまま。
犯人を憎んでいる。
それがツカサだと知らないまま。
「忌子かもしれないって、グランさんが言ってた」
ミカゲの声が少し低くなる。
「死の英雄を崇拝する人たちが絡んでたなら、何か変な力かもしれないって」
ツカサは顔を上げた。
「忌子」
「うん」
ミカゲは唇を噛む。
「もしそうなら、私が倒す」
その言葉は、真っ直ぐだった。
ツカサの胸を、真っ直ぐに貫いた。
「ミカゲが?」
「うん」
「危ない」
「危なくても」
「やめて」
ツカサの声が震えた。
ミカゲは少し驚く。
「ツカサ」
「やめて」
「でも」
「お願い」
ツカサは俯いた。
「危ないこと、しないで」
ミカゲはしばらく黙っていた。
そして、少しだけ柔らかい声で言った。
「ツカサを守るためでもあるんだよ」
それが、一番きつかった。
ツカサは口を開いた。
何か言おうとした。
でも、何も出なかった。
ミカゲは続ける。
「ツカサも、街の人も、もう誰もあんなふうになってほしくない」
ツカサは胸の奥が潰れるようだった。
守られている。
自分が殺しているのに。
ミカゲは自分を守ろうとしている。
ツカサは小さく頷いた。
「うん」
それ以外、言えなかった。
◇
その日の夜、ツカサはミカゲの髪を梳いた。
前より少し細くなった気がした。
体調を崩していたせいかもしれない。
ツカサはいつもより丁寧に櫛を通した。
「痛い?」
「平気」
「引っかかる」
「最近、寝てばっかだったからかな」
「ちゃんと戻す」
「うん。お願い」
ミカゲは鏡越しにツカサを見る。
「ツカサの手、やっぱり落ち着く」
ツカサの手が止まった。
「そう?」
「うん」
「汚いかもしれない」
気づけば、そう言っていた。
ミカゲは振り返ろうとした。
「え?」
ツカサはすぐに櫛を動かした。
「何でもない」
「今、汚いって言った?」
「髪が絡んでるって」
「そう?」
「うん」
ミカゲは少し怪しむように鏡を見る。
でも、深くは聞かなかった。
「ツカサ」
「何?」
「無理してない?」
「してない」
「ほんとに?」
「うん」
「私には言ってよ」
ツカサは返事ができなかった。
櫛を持つ手が震えそうになる。
ミカゲは静かに言った。
「半分こ、でしょ」
その言葉が、ひどく遠かった。
「うん」
ツカサはやっと答えた。
「半分こ」
嘘だった。
もう半分こにはできない。
これは渡せない。
渡したら、ミカゲが壊れる。
自分だけが持つしかない。
ツカサはミカゲの髪に油を馴染ませた。
香りが薄く広がる。
何度も繰り返してきた夜の時間。
大事で、温かくて、守りたかったもの。
その手で、人を殺している。
ツカサは櫛を置いた。
「終わった」
「ありがと」
ミカゲは鏡を見て、少し笑った。
「やっぱりツカサにやってもらうと綺麗」
「うん」
「自分でうんって言うんだ」
「綺麗だから」
ミカゲは少し照れた。
「またさらっと言う」
「本当だから」
その言葉も本当だった。
ミカゲは綺麗だった。
生きていてほしかった。
笑っていてほしかった。
そのために、ツカサは人を殺した。
人を殺して、ミカゲの髪を梳く。
それを偽善と呼ばずに、何と呼べばいいのか分からなかった。
◇
夜更け。
ミカゲが眠った後、ツカサはまた外套を羽織った。
戸を開ける前に、棚の奥の箱が目に入った。
もらったものを入れた箱。
古い瓶。
赤い糸。
髪紐。
菓子の包み。
グランの木剣の欠片。
ライトの金具。
エイルの菓子の包みも、そこにある。
ツカサは箱に触れなかった。
触れたら、開けてしまう。
開けたら、きっと動けなくなる。
外へ出る。
夜の街は静かだった。
でも、今のツカサには静かすぎた。
どこかに、命の気配がある。
ナラクが囁く。
次は誰にする。
ツカサは歩いた。
涙は出なかった。
出てくれれば、まだよかった。
泣いている間は、人を殺せない気がしたから。
でも、もう涙は出なかった。
ただ、胸の奥が冷えていた。
路地を曲がる。
遠くに、小さな灯りが見えた。
誰かが歩いている。
夜道を急ぐ、見知らぬ人。
ツカサは足を止めた。
行かないで、と心のどこかで思った。
でも、声にはしなかった。
声にすれば、逃げてくれるかもしれない。
逃げられたら、ミカゲの命が減る。
それが怖かった。
ツカサは自分の手を見た。
何も持っていない。
でも、もう十分だった。
足元の影が、静かに揺れる。
黒い刃が、夜に溶けた。
◇
翌朝。
ミカゲは少しだけ顔色がよかった。
朝食を食べながら、昨日より声が明るい。
「今日、グランさんのところ行けるかな」
「まだ早い」
「軽くだけ」
「だめ」
「厳しい」
「体が戻ってから」
「ツカサ、最近ほんと過保護」
「前から」
「自覚あったんだ」
ミカゲは少し笑った。
ツカサも笑おうとした。
うまくできたかは分からなかった。
外では、また誰かが走る音がした。
慌ただしい声。
人が集まる気配。
また、見つかったのだろう。
昨夜の人が。
ミカゲはその音に気づき、顔を曇らせた。
「また何かあったのかな」
「分からない」
ツカサは椀を持ったまま答えた。
手は震えていなかった。
それが、何より嫌だった。
ミカゲは窓の方を見る。
「早く、止めなきゃ」
ツカサは何も言えなかった。
味噌汁の湯気が上がる。
温かい朝食。
隣にいるミカゲ。
外で見つかる死体。
全部が同じ朝の中にあった。
ツカサは箸を置いた。
「ミカゲ」
「ん?」
「今日も、髪を見る」
「朝から?」
「うん」
「昨日やってもらったのに」
「少し絡んでる」
「ほんと?」
「うん」
嘘だった。
ただ、触れて確かめたかった。
ミカゲがここにいることを。
生きていることを。
ミカゲは少し呆れたように笑った。
「じゃあ、お願い」
「うん」
ツカサは櫛を取りに立った。
窓の外の声は、少しずつ大きくなっている。
誰かが泣いている。
誰かが怒っている。
誰かが犯人を探している。
その中で、ツカサは櫛を握った。
今日もミカゲの髪を整える。
今日も誰かの命で、ミカゲは息をする。
それでも、ツカサは手を止められなかった。
偽善でも。
罪でも。
もう、戻れなかった。




