第33話「剣と盾」
街の空気が、日に日に重くなっていった。
朝になれば、誰かが死んでいる。
毎日ではない。
けれど、間が空くほど怖かった。
今日は大丈夫だった。
そう思った次の日に、路地で人が見つかる。
井戸の近くで。
診療所へ向かう道で。
畑へ続く小道で。
死んでいるのは、決まって誰かのために動いていた人だった。
夜遅くまで働いていた人。
薬を届けていた人。
迷子を送っていた人。
怪我人の世話をしていた人。
エイルの診療所を手伝っていた人もいた。
誰かが言った。
「善い人から死んでる」
それは噂になった。
噂はすぐに恐怖になる。
夜は早く戸が閉まるようになった。
子どもは外に出されなくなった。
店の明かりも、前より早く消える。
メーランの通りから、少しずつ声が減っていった。
◇
グランは、死体の前にしゃがんでいた。
殺されたのは、薬草を届けていた若い女だった。
彼女はエイルの診療所でよく働いていた。
癒しの英雄がいなくなった後も、残された薬や器具を整理し、困っている人に届けていた。
真面目で、よく頭を下げる人だった。
グランも何度か顔を合わせたことがある。
その人が、今は路地の隅に横たわっていた。
ライトは少し離れた場所で、周囲を見ている。
足跡。
壁。
血の飛び方。
倒れた位置。
無駄なものはほとんどない。
抵抗した痕跡も少ない。
「また同じか」
グランが低く言った。
「似ている」
ライトは短く答えた。
「似ている、じゃなくて同じだろ」
「断定するには足りない」
「お前はいつもそれだな」
「断定を間違えるよりはいい」
グランは舌打ちした。
苛立ちをぶつける相手がいない。
だから言葉が荒くなる。
ライトはそれを分かっていた。
だから、必要以上には咎めなかった。
グランは立ち上がる。
拳を握っていた。
「何なんだよ、これは」
声が低い。
「エイルが死んだ。次は街の連中だ。しかも、よりによってこういうやつばっかり」
ライトは遺体を見る。
その表情は動かない。
けれど、目は冷たくなかった。
「狙っているのかもしれない」
「善人をか」
「そう見える」
「胸糞悪いな」
「同感だ」
ライトは路地の奥を見る。
そこに残る空気は、魔法の痕跡とは違っていた。
もっと重い。
湿っている。
剣でもない。
普通の魔法でもない。
傷口も、刃物で切ったものとはどこか違う。
肉体を裂いているのに、傷の周りに奇妙な冷たさが残っている。
「忌子か」
グランが言った。
ライトはすぐには答えなかった。
「可能性はある」
「死の英雄を崇拝してた連中が絡んでた。エイルの時もそうだ。なら、死の忌子か?」
「死の英雄は欠番扱いだ。今の時代に継承者がいるかも分からない」
「でも文献にはあるんだろ」
「ある」
ライトは少しだけ目を伏せた。
「古いものだ。正確かも分からない」
「どんな記録だ」
「死の英雄は、戦場で多くの死を扱ったとされている。味方を救うために、敵を殺した。病の広がりを止めるために、死を断った。そういう断片がいくつか残っている」
「救ってたんだろ」
「最初の記録では」
ライトの声がわずかに低くなった。
「最後に残っている文献では、死の英雄は英雄としては書かれていない」
グランの眉が動く。
「どういう意味だ」
「名はほとんど削られている。功績も曖昧だ。ただ、最後の一文だけが残っている」
ライトは、少し間を置いた。
「その力は人々を救い、そして最後には人々に恐れられた、と」
グランは黙った。
路地の空気が、少し重くなる。
遺体のそばで話すには、あまりに嫌な文だった。
「それで終わりか」
「それで終わりだ」
「救ったとか、讃えられたとかは」
「ない」
「……最悪だな」
「そうだな」
ライトは遺体の傷を見た。
「今の事件と直接つながるとは限らない。ただ、死の力は昔から恐れられていた。それだけは分かる」
「恐れられて当然の力だったのか」
「それも分からない」
ライトは静かに答えた。
「力が恐ろしかったのか。使った者が恐ろしかったのか。恐れた者たちが、そう書き残しただけなのか」
「ややこしいな」
「記録とはそういうものだ」
「もっと分かりやすく残せよ、昔のやつら」
「同感だ」
珍しく、ライトが素直に同意した。
グランは息を吐く。
「でも、今ここで人が死んでる。それは事実だ」
「そうだ」
「なら止める」
「そのために調べている」
ライトは路地の端へ視線を向けた。
「犯人が忌子なら、器がいる」
「誰かの体に宿ってるってことか」
「おそらく」
「じゃあ、そいつは」
グランは言いかけて、止まった。
殺すべき敵。
そう言うのは簡単だった。
けれど、器という言葉が引っかかった。
誰かの体。
誰かの人生。
誰かの顔。
それでも、人を殺しているなら止めなければならない。
剣を握る理由は、いつも綺麗な言葉だけでは済まない。
「……確認がいるな」
グランは低く言った。
ライトが頷いた。
「確認する。だが、止まらないなら討つ」
「分かってる」
グランは拳を握った。
「エイルの仇でもある」
その言葉に、ライトは少しだけ目を伏せた。
エイル。
だらしなく笑って、すぐに人の世話を焼いて、眠そうな顔で誰かの痛みに手を伸ばしていた人。
その人はもういない。
癒しの英雄が殺された。
それだけで、この街には大きな穴が空いている。
「仇だけで動くな」
ライトは言った。
グランが睨むように見る。
「分かってる」
「分かっていない顔をしている」
「してるだろうな」
グランは隠さなかった。
「腹が立ってる。めちゃくちゃにな」
「怒るなとは言っていない」
「じゃあ何だよ」
「怒りで見落とすな」
ライトはグランを見る。
「犯人は、ただ殺しているだけではない。選んでいる」
「善いやつを?」
「おそらく」
「何のために」
「分からない」
「またそれか」
「分からないものを分かったふりはしない」
グランは息を吐いた。
大きく、乱暴に。
「悪い」
「謝る必要はない」
「ある。お前に当たった」
「慣れている」
「慣れるな」
「無茶を言う」
少しだけ、いつもの調子が戻りかけた。
けれど、すぐに消えた。
遺体の前では、長く続かなかった。
◇
遺体は丁寧に運ばれた。
街の人たちは、離れた場所から見ていた。
近づきたい人もいる。
けれど、怖くて足が出ない。
泣いている人もいた。
怒っている人もいた。
誰もが、次は自分かもしれないと思っていた。
グランは人々の前に立った。
声を張る。
「夜は一人で出歩くな。用があるなら、必ず複数人で動け。戸締まりをしろ。知らない声には応じるな」
いつもの明るい声ではない。
剣の英雄としての声だった。
街の人たちは黙って聞いていた。
「俺たちが調べる。必ず止める」
誰かが小さく頷いた。
誰かが祈るように手を組んだ。
グランはその顔を見て、奥歯を噛んだ。
必ず止める。
そう言った。
言ったからには、止めなければならない。
エイルはもう戻らない。
でも、次を止めることはできるはずだった。
できなければ、剣の英雄など名乗る意味がない。
◇
ミカゲはその知らせを、店の中で聞いた。
また一人、殺された。
エイルの診療所を手伝っていた人。
その名前を聞いた瞬間、ミカゲは椅子から立ち上がった。
「私、グランさんのところに行く」
ツカサが顔を上げる。
「だめ」
「行く」
「まだ体が戻ってない」
「戻ってる」
「戻ってない」
「でも、じっとしてられない」
ミカゲの声は震えていた。
怒りで。
悔しさで。
恐怖で。
「エイルさんの近くにいた人まで殺されてる。これ以上、誰かが死ぬのを待つなんて嫌だ」
ツカサは黙った。
待っているわけではない。
殺しているのは自分だ。
止めたいのなら、自分を止めればいい。
そう言えたら、どれだけ楽だろう。
言えない。
言えば、ミカゲは自分を見る。
今までと同じ目では、もう見ない。
「危ない」
ツカサはそれだけ言った。
「分かってる」
「分かってない」
「分かってるよ」
「分かってない」
ツカサの声が強くなった。
ミカゲは一瞬、怯んだ。
ツカサはすぐに目を伏せる。
「ごめん」
「ツカサ」
「でも、行かないで」
小さな声だった。
ミカゲはその声で、怒りの色を少し薄めた。
ツカサが怖がっている。
それは分かった。
エイルが死んだ。
その後も人が死んでいる。
ツカサが怯えるのも当然だった。
でも、それでも。
「私は、ツカサを守りたい」
ミカゲは言った。
ツカサの顔が歪む。
「街の人も。エイルさんが大事にしてた人たちも。もう死なせたくない」
「ミカゲが死んだら、意味がない」
「死なないために強くなる」
「訓練でどうにかなる相手じゃないかもしれない」
「それでも、何もしないよりはいい」
ミカゲは真っ直ぐだった。
真っ直ぐすぎた。
ツカサはその目を見ていられなかった。
この目が、いつか自分に向く。
犯人を見る目で。
忌子を見る目で。
「お願い」
ツカサはもう一度言った。
「今は、行かないで」
ミカゲは唇を噛んだ。
しばらく黙る。
「……今日は行かない」
ツカサは顔を上げた。
「でも、ずっとは無理」
「うん」
「明日、グランさんに話す」
「うん」
止めきれない。
それは分かっていた。
ミカゲはそういう子だ。
守りたいものがあると、自分を後回しにする。
ツカサと同じように。
だからこそ、怖かった。
◇
その夜、グランとライトは宿の一室で地図を広げていた。
メーランの街図。
殺害現場に印がついている。
エイルが殺された通り。
母子が見つかった路地。
薬草を届けていた女が倒れていた場所。
他にもいくつか。
点は街の中に散っているように見えた。
けれど、ライトはその散り方を見ていた。
「犯人は街をよく知っている」
ライトが言った。
「よそ者じゃないってことか」
「断定はできない。ただ、逃げ道の選び方が自然すぎる」
「街のやつか」
「もしくは、街に長くいる者」
グランは地図を睨んだ。
「被害者に共通点は?」
「善良。周囲から信頼されていた。夜に単独、または少人数で動いていた」
「善良ってのは調査項目としてふざけてるな」
「ふざけているのは犯人だ」
ライトの声は冷たかった。
グランは少し目を見開いた。
ライトは普段、感情をあまり表に出さない。
そのライトの声に、はっきり怒りがあった。
「怒ってるな」
「怒っている」
「珍しく素直だ」
「エイルが殺された」
ライトは地図から目を離さない。
「彼女は多くの人を救った。今殺されているのも、人を助けていた人たちだ」
「……ああ」
「それを狙う理由があるなら、犯人は命の価値を見ている」
「価値?」
「善い命ほど意味がある。そう考えている可能性」
グランの顔が険しくなる。
「儀式か」
「それに近いかもしれない」
「死の英雄の過激派どもがやりそうなことだな」
「だが、過激派たちは最初の夜に死んでいる」
「残党は?」
「可能性はある」
ライトは印の一つに指を置いた。
「ただ、殺し方が違う。過激派たちは刃物を使っていた。これは違う」
「死の力か」
「そう見える」
グランは椅子に背を預けた。
「死の英雄、か」
その名前は、部屋の中に重く落ちた。
王都では、今も英雄は五人として扱われることが多い。
剣。
盾。
癒し。
風。
豊穣。
死の英雄の名は、古い文献の奥に押し込められている。
誰も日常で語らない。
語る必要がないからではない。
語りたくない者が多かったからだ。
ライトは小さく息を吐いた。
「文献を取り寄せる必要がある」
「フェリクスに頼むか」
「そうだな。あいつなら、嫌な顔をしながら喜んで調べる」
「分かる」
グランは少しだけ顔をしかめた。
「でも、俺は文献より目の前の犯人だ」
「両方いる」
「分かってる」
グランは真剣を横に置いた。
「次に出たら、止める」
「出る前に見つけたい」
「それができりゃ一番いいけどな」
「やるしかない」
ライトは地図を見下ろした。
「死の英雄の最後が、恐れられて終わった理由も。今の事件の理由も。分からないままでは、同じものを見落とす」
「同じもの?」
「恐れだけで見れば、器を見落とす。器だけを見れば、被害者を見落とす」
グランは黙った。
「両方見る必要がある」
「……難しいこと言うな」
「難しいことをしている」
「だよな」
グランは額を押さえた。
「エイルがいたら、こういう時に茶でも入れてただろうな」
「そして勝手に菓子も出す」
「食いながら人の話聞くんだよな」
「聞いていないようで聞いている」
「ほんと、腹立つくらい便利なやつだったな」
「便利と言ったら怒られる」
「だな」
二人は少し黙った。
エイルのいない沈黙だった。
◇
夜の街を、二人は歩いた。
グランが前。
ライトが少し後ろ。
盾を背負い、周囲を見ている。
通りの灯りは少ない。
戸は閉まっている。
人の気配も薄い。
それでも、どこかに息遣いがある。
怯えて眠れない人たちの気配。
窓の隙間からこちらを見る視線。
グランはそれに気づきながら、何も言わなかった。
怖がるなとは言えない。
実際、怖いのだから。
「エイルなら」
グランがぽつりと言った。
「何?」
「こういう時、何て言ったかなって」
ライトは少しだけ黙った。
「夜更かしは肌に悪い、とか」
「言いそうだな」
「それから、君の顔が怖いと文句を言う」
「それも言いそうだ」
グランは小さく息を吐いた。
「もっとちゃんと飯食っとけばよかった」
「何の話だ」
「あいつが店に来た時、よく俺の分も食ってた」
「君が譲っていた」
「腹減ってるって言われると、何か渡しちまうだろ」
「君はそういうところがある」
「悪いか」
「悪くない」
ライトの返事は短かった。
でも、少し柔らかかった。
グランは前を向いたまま言った。
「俺たち、止められるよな」
「止める」
「答えになってるようでなってないな」
「未来は保証できない」
「そういうところだぞ」
「だが、止めるために動くことはできる」
グランは少しだけ口元を緩めた。
「お前らしい」
その時、遠くで小さな音がした。
何かが落ちたような音。
二人は同時に止まった。
グランの手が剣にかかる。
ライトは盾を構えた。
「向こうだ」
グランが走り出す。
ライトも続く。
角を曲がる。
狭い路地。
倒れた籠。
転がった果物。
そして、路地の奥に人影があった。
黒い外套。
細い体。
こちらに背を向けている。
足元には、誰かが倒れていた。
「止まれ!」
グランの声が路地に響く。
人影が動いた。
一瞬だけ、こちらを振り返る。
顔は見えない。
フードの奥に、影が落ちている。
ただ、白い頬だけが見えた。
そして、足元の影が揺れた。
「グラン!」
ライトが叫ぶ。
黒い線が走った。
グランは剣を抜き、咄嗟に受ける。
重い。
刃ではない。
でも、刃のように鋭い。
剣を通して、冷たさが腕に伝わる。
「っ、何だこれ!」
ライトが前に出る。
盾で黒い線を弾く。
金属音ではなく、鈍い沈むような音がした。
人影はその隙に後ろへ下がる。
「逃がすか!」
グランが踏み込む。
しかし、路地の奥で影が広がった。
視界が一瞬、黒く塞がれる。
グランは剣を振る。
黒い幕が裂ける。
その向こうには、もう誰もいなかった。
足元に倒れていた人だけが残っている。
ライトがすぐに駆け寄った。
脈を確認する。
首を横に振った。
「間に合わない」
グランは壁を殴った。
「くそ!」
拳から血が滲む。
ライトは倒れた人の顔を見た。
中年の男だった。
近所の夜番をしていた者だ。
誰かが外に出ないよう、見回っていたのだろう。
また、人を守ろうとしていた人が死んだ。
ライトは目を閉じた。
短く息を吐く。
「見たか」
グランが低く聞く。
「顔は見えなかった」
「でも、体格は」
「若い。女の可能性がある」
グランの表情が固まった。
「女」
「断定はしない」
「黒い外套。小柄。死の影みたいな力」
「忌子の可能性は高い」
ライトは静かに言った。
「かなり」
グランは剣を握りしめた。
腕がまだ冷たい。
影を受けたところから、体の奥に嫌な感覚が残っている。
「あれが、エイルを」
「可能性は高い」
グランは歯を食いしばる。
「殺す」
短い言葉だった。
ライトがグランを見る。
「グラン」
「分かってる。怒りで見落とすな、だろ」
「そうだ」
「でも、あれは放っておけない」
「同意する」
ライトは盾を下ろさなかった。
「次に遭遇したら、私が受ける。君は斬る準備を」
「分かった」
「ただし、相手が誰かを確認する」
「忌子だろ」
「忌子でも、器がいる」
グランは黙った。
器。
その言葉が重く落ちる。
忌子は、ただの怪物ではない。
誰かの体に宿るもの。
誰かの人生を使って現れるもの。
それでも、人を殺すなら止めなければならない。
それがどんな顔をしていても。
「確認して、それでも止まらないなら」
ライトが言った。
「討つ」
グランは頷いた。
◇
翌朝、街はさらに静かになった。
また人が死んだ。
しかも、英雄たちが巡回していた夜に。
その噂は、早かった。
ミカゲはそれを聞いて、顔を青くした。
「グランさんたちがいても?」
知らせに来た男は、頷いた。
「犯人らしき影は見たらしい。でも逃げられたって」
「そんな」
ツカサは台所にいた。
手元の椀を落としそうになった。
グランとライトに見られた。
顔は見られていないはず。
でも、近づいている。
もう、遠くない。
ミカゲが立ち上がる。
「私、行く」
「ミカゲ」
ツカサの声は弱かった。
「今日は止めないで」
ミカゲは振り返る。
目に迷いはなかった。
「グランさんに話してくる。私も何かできることがあるかもしれない」
「危ない」
「分かってる」
「本当に分かってる?」
「分かってる」
ミカゲは短剣を腰に差した。
まだ本調子ではない。
でも、歩ける。
剣を握れる。
何もしない理由にはできなかった。
「ツカサは家にいて」
その言葉に、ツカサは息を詰めた。
「外、危ないから」
ミカゲは心配そうに言った。
「戸締まりして。誰が来ても、私が戻るまで開けないで」
守られている。
また。
自分が犯人なのに。
ツカサは頷いた。
「うん」
「すぐ戻るから」
「うん」
ミカゲは店を出ていった。
戸が閉まる。
足音が遠ざかる。
ツカサはしばらく動かなかった。
頭の奥で、ナラクが笑う。
近づいているな。
ツカサは両手で耳を塞いだ。
もう、遅いかもしれない。
全部が崩れる音が、少しずつ近づいていた。




