第7話「成長」
それから、季節がいくつも巡った。
壊れた屋台は片づけられた。
焦げた柱は新しい木に替えられた。
崩れた壁は塗り直され、割れた石畳も少しずつ直されていった。
メーランの街には、また人の声が戻ってきた。
朝になれば店の戸が開く音がして、昼になれば広場に人が集まり、夕方になれば家々の煙突から夕餉の煙が上がる。
誰かが笑う。
誰かが怒る。
誰かが泣く。
誰かが、誰かの名前を呼ぶ。
街は生きていた。
傷を抱えたまま、それでも前へ進んでいた。
けれどミカゲの中で、あの日だけは少しも遠くならなかった。
何年経っても、豊穣祭の日の匂いは消えない。
甘く焼けた菓子の匂い。
人混みの熱。
灯りの眩しさ。
それから、悲鳴。
壊れる音。
水色の髪。
そのすべてが、今も胸の奥に刺さっている。
忘れたことなんて、一度もなかった。
忘れてやるものかと、何度も思った。
ミカゲは十三歳になっていた。
背は伸びた。
髪も少し長くなった。
子供らしい丸みは少しずつ消え、目つきは以前より鋭くなった。
それでも祖母は、時々ミカゲを見るたびに、困ったように笑った。
「あんたは本当に、顔だけ見れば母さんに似てきたね」
店の奥の台所で、祖母はそう言った。
鍋からは湯気が上がっている。
昼時を過ぎた店内は少し落ち着いていて、表の席では常連たちが茶を飲みながら話をしていた。
ミカゲは皿を拭いていた手を止める。
「顔だけ?」
「中身は父さんにも似てる。頑固なところとかね」
「頑固じゃないよ」
「そう言い張るところが頑固なんだよ」
祖母は呆れたように笑った。
その笑い方は、昔と変わらない。
けれど祖母の背中は、少し小さくなった。
前より咳をすることも増えた。
重い鍋を持つ時、ほんの少しだけ動きが遅くなる。
ミカゲはそれに気づいていた。
気づいていないふりをするほど、もう子供ではなかった。
「おばあちゃん、それ私が持つ」
「いいよ、これくらい」
「いいから」
ミカゲは祖母の横から鍋の取っ手を掴んだ。
祖母はしばらく抵抗するように眉を寄せたが、すぐに諦めて手を離した。
「まったく。最近は口も達者になって」
「おばあちゃんが無理するからでしょ」
「無理なんてしてないよ」
「してる」
「してない」
「してる」
二人で睨み合う。
先に目を逸らしたのは祖母だった。
「……あんた、本当に頑固だね」
「だから違うってば」
ミカゲが言うと、表の席から常連の男が笑った。
「いやぁ、ばあさん。そりゃあんたの負けだ。ミカゲちゃんの方が正しい」
「ほら」
「ほら、じゃないよ。あんたもすぐ人の言葉に乗るんじゃない」
祖母が男に向かって言い返すと、店内に小さな笑いが起きた。
穏やかな時間だった。
こんな時間が、嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
祖母の店は、ミカゲにとって残された居場所だった。
父と母はいない。
あの家にも、もう戻れない。
けれどここには祖母がいる。
祖母の料理を食べに来る人たちがいる。
ミカゲの名を呼んでくれる人たちがいる。
それは確かに、温かかった。
温かいからこそ、時々ひどく怖くなる。
温かいものは、奪われる。
あの日、そう知ってしまったから。
「ミカゲちゃん、皿ありがとな」
帰り際、常連の男が手を振った。
「また来てね」
ミカゲは自然にそう返した。
男は嬉しそうに笑って店を出ていく。
戸が閉まる。
その音を聞きながら、ミカゲは少しだけ息を吐いた。
また来てね。
そう言うたびに、胸の奥が少し痛む。
本当にまた来られるかなんて、誰にも分からない。
朝に笑っていた人が、夜には帰ってこないことを、ミカゲは知っている。
だから、何気ない言葉すら祈りになる。
また来て。
明日も生きて。
どこにも行かないで。
「ミカゲ」
祖母に呼ばれ、ミカゲは顔を上げた。
「今日はもういいよ。少し休みなさい」
「まだ片づけ残ってる」
「それくらい私がやる」
「だから無理しないでって」
「無理じゃない。あんた、今日は広場へ行く日だろう」
ミカゲの手が止まった。
祖母は、何でもないように言う。
「行ってきなさい」
「……別に、今日じゃなくてもいい」
「今日だよ」
祖母は静かに言った。
「今日だから行くんだろう」
ミカゲは何も言えなかった。
今日は、豊穣祭の日だった。
あの日から四年が経っていた。
祭りそのものは、翌年から形を変えた。
以前のように大きく騒ぐことはしない。
屋台も出るし、祈りも捧げる。
豊穣の英雄への感謝も変わらない。
けれど夜には、広場で亡くなった人々のために灯りを置く。
それが、この街の新しい豊穣祭になった。
生きていることに感謝する日。
失った人を思い出す日。
ミカゲにとっては、どちらでもあった。
そして、どちらでもなかった。
「……行ってくる」
ミカゲは布巾を置いた。
祖母は小さく頷く。
「暗くなる前には帰っておいで」
「分かってる」
「それから」
「なに」
「無茶はしないこと」
ミカゲは一瞬だけ黙った。
祖母の目は、まっすぐだった。
全部分かっている目だった。
ミカゲは視線を逸らす。
「しないよ」
「本当かい」
「……たぶん」
「たぶん、か」
祖母は小さく笑った。
けれど、その笑みは少し寂しそうだった。
ミカゲは店を出た。
外は夕方に近かった。
街には柔らかい光が差している。
豊穣祭の日だから、人通りはいつもより多い。けれど昔ほどの騒がしさはない。笑い声も、どこか控えめだった。
広場へ向かう途中、ミカゲは何度も足を止めそうになった。
あの日、自分が走った路地。
隠れた木箱の陰。
転んで膝を擦りむいた石畳。
視界の端に入るたび、呼吸が浅くなる。
それでも歩いた。
逃げたくなかった。
逃げたことを責められたことはない。
祖母も、街の人も、誰もミカゲを責めなかった。
むしろ、生きていてよかったと言ってくれた。
けれどミカゲ自身だけが、ずっと自分を許せずにいた。
怖くて逃げた。
隠れた。
父と母を助けられなかった。
その事実は変わらない。
広場に着くと、すでに多くの灯りが置かれていた。
小さな硝子の器に入れられた火。
風に揺れながらも、消えずに燃えている。
ミカゲはその中に、自分の分の灯りを置いた。
父と母のための灯り。
火は小さかった。
こんな小さなものでは、何も照らせない気がした。
あの二人がいる場所まで届くはずもない。
それでも、置かずにはいられなかった。
「……お父さん、お母さん」
声に出すと、胸が痛んだ。
「私、まだ生きてるよ」
それ以上の言葉は出なかった。
元気だよ、とは言えなかった。
大丈夫だよ、とも言えなかった。
強くなったよ、とも言えなかった。
まだ何もできていない。
まだ何も返せていない。
ミカゲは膝の上で拳を握った。
その時だった。
「また来ていたんだね」
背後から声がした。
振り返ると、灰色の髪の青年が立っていた。
背は高く、細身で、落ち着いた雰囲気をしている。片手には分厚い本を抱えていて、腰には細い杖のようなものを下げていた。
フェリクス。
風の英雄。
王都に名を登録されている英雄の一人であり、同時に学者でもある。
この街にも時折訪れる。
あの日の事件について調べるために。
水色の髪の少女を探すために。
ミカゲは立ち上がった。
「フェリクスさん」
「さん付けされるほど偉くはないけどね。まあ、悪い気はしない」
フェリクスは灯りの列を見た。
「今年も増えたな」
「……増えた?」
「ああ。街の外からも来ている。あの日、家族を失った人はこの街の人間だけじゃない。祭りに来ていた商人や旅人もいたからね」
「そっか」
ミカゲは灯りを見つめた。
知らない誰かの灯り。
知らない誰かの悲しみ。
あの日壊れたのは、自分の家族だけではない。
分かっている。
分かっているのに、時々忘れそうになる。
自分の痛みでいっぱいになって、他の誰かの痛みが見えなくなる。
「調査、進んでるんですか」
ミカゲが聞くと、フェリクスの表情が少し硬くなった。
「正直に言うなら、芳しくない」
「……まだ見つからない?」
「確たる足取りはない。あの日以降、似た容姿の少女を見たという証言はいくつかある。だが、どれも曖昧だ。水色の髪なんて目立つはずなのにね」
「逃げるのが上手いんじゃないですか」
「かもしれない。あるいは、本人に逃げている自覚すらないのかもしれない」
ミカゲは眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
「ただの推測だよ」
フェリクスは本の表紙を指で叩いた。
「事件の中心にいた少女が、正常な意識を保っていたとは限らない。記憶がない、意思がない、何かに操られている。可能性だけならいくらでもある」
「だから?」
ミカゲの声が、思ったより冷たくなった。
フェリクスがこちらを見る。
「だから、仕方なかったって言いたいんですか」
「言ってない」
「操られてたなら許せって?」
「それも言ってない」
「じゃあ何が言いたいんですか」
自分でも、声が尖っているのが分かった。
フェリクスは怒らなかった。
ただ少し困ったように息を吐く。
「君が聞いたから、分かっている範囲を言っただけだ。僕個人の感情なら、許せるかどうかは被害者が決めればいいと思っている」
「……なら私は許さない」
「うん」
フェリクスはすぐ頷いた。
「それでいい」
意外だった。
ミカゲは言葉に詰まる。
フェリクスは灯りを見ながら続けた。
「許せないものを無理に許す必要はない。怒りは悪じゃない。悲しみも悪じゃない。ただ、それに飲まれて何も見えなくなると、たいてい面倒なことになる」
「面倒って」
「僕は学者だからね。感情も大事な観測対象だ」
軽く言っているようで、その声は真面目だった。
ミカゲは拳を握る。
「私は、あの子を探したい」
「知っている」
「見つけたい」
「うん」
「見つけて、聞きたい。なんであんなことをしたのか。どうしてお父さんとお母さんが死ななきゃいけなかったのか」
言葉が震える。
「それで……」
その先を言おうとして、祖母の顔が浮かんだ。
強くなって、どうするんだい。
あの日、そう聞かれた。
ミカゲは答えられなかった。
今なら答えられる気がした。
答えられてしまうのが、少し怖かった。
「それで?」
フェリクスが促す。
ミカゲは唇を噛んだ。
「……分からない」
嘘だった。
本当は分かっている。
でも、言葉にしたら戻れない気がした。
フェリクスは少しだけ目を細めた。
「なら、まだ言わなくていい。言葉にすると、人はそれに縛られる」
「フェリクスさんにも、そういうのあるんですか」
「あるよ」
即答だった。
「僕は、知らないことを知らないままにされるのが嫌いだ」
「それだけ?」
「それだけで十分人生が面倒になる」
ミカゲは少しだけ笑いそうになった。
笑えなかったけれど、ほんの少しだけ息が抜けた。
フェリクスはそれに気づいたのか、肩をすくめる。
「まあ、君があの少女を探したいなら、情報は共有する。王都も、英雄たちも、彼女を放置するつもりはない」
「英雄たち……」
ミカゲはその言葉を繰り返した。
英雄。
幼いころ、ミカゲはその言葉が好きだった。
特に剣の英雄の物語が好きだった。
大きな剣を持って、人々を守る英雄。
どんな敵にも怯まず、前へ進む英雄。
子供のころは、ただかっこいいと思っていた。
今は、違う。
守る力があることが、どれだけ遠いかを知っている。
何もできなかった自分が、その遠さを一番よく知っている。
「剣の英雄も、探してるんですか」
「ああ。グランも当然動いている。もっとも、彼は現場に出ると少々暑苦しいけど」
「暑苦しい?」
「会えば分かる。たぶん三秒で分かる」
フェリクスは真顔で言った。
ミカゲは今度こそ少し笑った。
ほんの小さく。
それだけでも、フェリクスは満足そうだった。
「ミカゲ」
名前を呼ばれて、ミカゲは顔を上げる。
「君はまだ十三歳だ」
「それ、おばあちゃんにも言われます」
「いい祖母だね」
「……うん」
「だから、これも大人として言っておく。焦るな。傷は急いで治すと、変な形で固まる」
「癒しの英雄みたいなこと言うんですね」
「エイルの受け売りだよ。僕は人の体に関しては専門外だから」
フェリクスは少し笑った。
「ただし、傷を見ないふりして腐らせるのもよくない。君が何をしたいのか、何を許せないのか、少しずつ考えればいい」
「考えたら、何か変わるんですか」
「変わるかもしれない。変わらないかもしれない」
「どっちですか」
「さあ。研究とはそういうものだ」
「ずるい」
「よく言われる」
フェリクスは踵を返した。
「僕はそろそろ行くよ。王都への報告がある」
「また来ますか」
「来る。まだ調べることがあるからね」
少し歩いてから、フェリクスは振り返った。
「それと、もし剣を学びたいなら、グランに頼むといい」
ミカゲの心臓が跳ねた。
「……なんで」
「顔に書いてある」
「書いてない」
「書いてあるよ。君は思ったより分かりやすい」
フェリクスは淡々と言った。
「ただ、剣を握るなら理由は考えた方がいい。誰かを守るためなのか、誰かを殺すためなのか。あるいは、その両方なのか」
ミカゲは答えられなかった。
フェリクスはそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、また」
灰色の髪が夕風に揺れる。
フェリクスは灯りの並ぶ広場を後にした。
ミカゲは一人、そこに残った。
火が揺れている。
小さな光が、いくつもいくつも並んでいる。
父と母の灯りも、その中にある。
ミカゲは自分の手を見た。
まだ小さい手だった。
皿を拭くことはできる。
鍋を持つこともできる。
祖母の手伝いくらいなら、少しはできる。
でも、この手では何も守れなかった。
あの日も。
これからも。
何もしなければ、きっとまた奪われる。
祖母も。
店も。
この街も。
また誰かが笑っている場所を、あの水色の髪の少女が壊すかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥の傷が熱を持った。
痛みが、形になる。
悲しみが、刃のように細く研がれていく。
「……理由」
ミカゲは呟いた。
剣を握る理由。
守るため。
殺すため。
その両方。
どれが正しいのかは分からなかった。
けれど一つだけ、はっきりしていることがあった。
もう、逃げるだけは嫌だった。
怖くても。
震えても。
何もできないまま、隠れているだけは嫌だった。
ミカゲは灯りの前で、深く息を吸った。
「お父さん、お母さん」
声は小さかった。
けれど今度は、喉で消えなかった。
「私、強くなる」
火が揺れた。
返事のようにも見えた。
ミカゲはしばらく灯りを見つめた後、ゆっくりと広場を離れた。
帰り道、祭りの音が聞こえた。
控えめな笑い声。
祈りの歌。
鍋の中身をかき混ぜる音。
生きている街の音。
ミカゲは歩いた。
祖母の店へ向かって。
まだ、何も終わっていない。
何も分かっていない。
あの少女がどこにいるのかも。
なぜあの日、すべてを壊したのかも。
それでも、ミカゲの中では何かが静かに決まっていた。
言葉にすれば、きっと祖母は悲しむ。
だからまだ言わない。
言わないまま、胸の奥に沈めておく。
いつか剣を握る、その日まで。
店に戻ると、祖母が戸口で待っていた。
「遅かったね」
「ごめん」
「寒くなかったかい」
「平気」
祖母はミカゲの顔をじっと見た。
何かを察したような顔だった。
けれど、何も聞かなかった。
「ご飯、温め直すよ」
「うん」
ミカゲは店に上がった。
台所から、祖母の料理の匂いがした。
温かい匂い。
生きている匂い。
昔は苦しかったその匂いを、今は少しだけ受け入れられる。
けれど、忘れたわけではない。
忘れられるはずがない。
ミカゲは席に座り、祖母の背中を見つめた。
その背中を守れるくらい、強くなりたいと思った。
そして同時に。
あの日の水色の髪を思い出す。
その姿を、見つけ出したいと思った。
胸の中で、二つの願いが絡まっている。
守りたい。
奪い返したい。
許せない。
失いたくない。
それらはまだ、ひとつの形にはならない。
けれど、確かにミカゲの中で育っていた。
傷は塞がらない。
塞がらないまま、深く根を張っていく。
いつかそれが何になるのか、ミカゲにはまだ分からなかった。
ただ、その夜に食べた祖母の料理は、少しだけ温かかった。




