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第6話「傷心」

 泣き疲れる、という言葉の意味を、ミカゲはその日初めて知った。


 涙は、ずっと出続けるものだと思っていた。


 悲しいのだから。

 痛いのだから。

 怖いのだから。


 ならば涙なんて、尽きるはずがないと思っていた。


 けれど違った。


 泣いて、泣いて、喉が焼けるほど叫んで、祖母の胸元にしがみついて、それでも母も父も帰ってこないと知ったころ、ミカゲの目からはもう何も出なくなっていた。


 代わりに、体の奥に重たい石のようなものだけが残った。


 動くたびに、それが胸の中で沈む。


 息を吸うたびに、痛む。


 祖母の家は、店と繋がっていた。


 表には小さな食堂があって、奥に居間と台所があり、さらに奥に寝るための部屋がある。いつもなら、そこには温かい匂いが満ちていた。


 煮込んだ野菜の匂い。

 焼いた肉の匂い。

 甘い菓子の匂い。

 木の机に染み込んだ、何年分もの食事の匂い。


 ミカゲはその匂いが好きだった。


 父と母に手を引かれてここへ来て、祖母の作った料理を食べる時間が好きだった。母が「またお義母さんの味に負けちゃった」と笑い、父が「これは勝てないな」と頷き、祖母が「当然だよ」と得意げに笑う。


 ミカゲはその真ん中で、口いっぱいに料理を頬張っていた。


 それが好きだった。


 好きだったはずなのに、今はその匂いが苦しかった。


 食べ物の匂いがする。

 生きている匂いがする。

 明日も誰かがここで食事をするのだと、当たり前みたいに語りかけてくる。


 それが、ひどく残酷だった。


「……ミカゲ」


 祖母の声がした。


 ミカゲは返事をしなかった。


 布団の中で、膝を抱えていた。


 部屋の扉は閉められている。昼なのか夜なのかも、よく分からない。外から人の声が聞こえるたびに、体が震えた。


 また誰かが叫んでいる気がした。


 また何かが壊れる音がした気がした。


 目を閉じると、水色の髪が揺れる。


 祭りの中にいた少女。


 人の悲鳴の中にいた少女。


 あの子が通ったあと、全部が壊れた。


 全部、なくなった。


「少しだけでも、食べなさい」


 祖母がそっと障子を開けた。


 盆の上には、粥が乗っていた。柔らかく煮込まれていて、湯気が立っている。小皿には、刻んだ漬物が少しだけ添えられていた。


 いつもなら、ミカゲは祖母の粥が好きだった。


 風邪を引いた時、母が連れてきてくれた。

 祖母が「食べられるだけでいい」と言って、匙で少しずつ冷ましてくれた。


 その時、母はミカゲの背を撫でていた。


 思い出した瞬間、胸の石が一気に膨らんだ。


「いらない」


 声は、掠れていた。


 自分の声ではないみたいだった。


「一口でいい」


「いらない」


「ミカゲ」


「いらないって言ってる!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 祖母は何も言わなかった。


 ただ、盆を持ったまま、少しだけ目を伏せた。


 その顔を見て、ミカゲの胸がさらに痛んだ。


 違う。

 祖母に怒りたいわけじゃない。

 祖母が悪いわけじゃない。


 悪いのは、あの子だ。


 あの水色の髪の少女。


 父と母を奪った、あの子だ。


「……ごめんなさい」


 小さく言った。


 祖母はゆっくり首を振った。


「謝らなくていい。怒っていい。泣いていい。食べたくないなら、今は食べなくてもいい」


 祖母は盆を畳の上に置いた。


「でも、ここに置いておくよ。食べたくなったら食べなさい」


 そう言って、障子を閉めようとする。


 ミカゲは布団の中から、祖母の背中を見ていた。


 小さくなった背中だった。


 いつもはもっと大きく見えた。

 店で鍋を振る祖母は、誰よりも強そうだった。


 なのに今は、とても疲れて見えた。


「……おばあちゃん」


 気づけば呼んでいた。


 祖母が振り返る。


「なに」


「お父さんと、お母さんは」


 言葉が喉で詰まった。


 聞きたいのに、聞きたくなかった。


 でも、聞かずにはいられなかった。


「……どこ?」


 祖母の顔が、痛みに歪んだ。


 その表情だけで、答えは分かってしまった。


 分かっていた。


 分かっていたのに、ミカゲはまだ、どこかで待っていた。


 母が扉を開けて、「ミカゲ」と呼んでくれることを。

 父が苦笑いしながら、「心配かけたな」と頭を撫でてくれることを。


 馬鹿みたいに、待っていた。


 祖母が静かに近づいてくる。


 畳に膝をつき、布団越しにミカゲの肩に触れた。


「帰っては、こない」


 やさしい声だった。


 やさしいからこそ、逃げ場がなかった。


「二人とも、もう帰ってこない」


 ミカゲの息が止まった。


 声は出なかった。


 涙も出なかった。


 ただ、胸の中にあった石が、もっと深く沈んだ。


 どこまでも、どこまでも沈んでいく。


 底がないみたいだった。


「……なんで」


 ようやく出た声は、それだけだった。


「なんで……」


 祖母は答えなかった。


 答えられるはずがなかった。


 ミカゲは布団を握りしめる。


「なんで、お父さんとお母さんなの」


 祖母の手が、肩から背中へ回った。


「なんで、私じゃなかったの」


「ミカゲ」


「だって、私、逃げた」


 その言葉を口にした瞬間、胃の奥がひっくり返るようだった。


 言ってはいけないと思っていた。

 でも、ずっとそこにあった。


 ミカゲは逃げた。


 怖くて。

 どうしようもなく怖くて。

 何もできなくて。


 父も母も探さずに、ただ隠れた。


「私だけ、隠れてた」


「違う」


 祖母の声が、少しだけ強くなった。


「逃げてよかったんだよ」


「でも」


「逃げて、生きたんだよ」


 祖母はミカゲを抱き寄せた。


 ミカゲの額が、祖母の肩に当たる。


「それでいい。あんたは生きた。それでいいんだ」


「よくない」


 ミカゲは首を振った。


「よくない……」


 生きた。


 自分だけが。


 その事実が、胸の奥でぐちゃぐちゃに絡まっていた。


 嬉しいはずがない。

 でも死にたかったわけでもない。

 父と母に会いたい。

 けれど会うということが、もう死ぬことと同じ意味なのだと、どこかで分かっている。


 分かっている自分が、嫌だった。


「お父さん……お母さん……」


 名前を呼ぼうとして、呼べなかった。


 呼べば、本当にいないことを認めてしまう気がした。


 祖母は何も言わず、ただ背中を撫で続けた。


 その手は、温かかった。


 温かいのに、母の手ではなかった。


 それがまた、悲しかった。


 数日が過ぎた。


 ミカゲはほとんど部屋から出なかった。


 祖母は無理に出ろとは言わなかった。


 食事を置いて、たまに声をかけて、夜になると隣の部屋で寝た。ミカゲが悪夢で飛び起きるたび、すぐに障子が開いた。


 祖母はいつも起きていた。


 本当に眠っているのか分からなかった。


 ミカゲが叫べば抱きしめた。

 震えれば背中を撫でた。

 何も言えなくなれば、黙ってそばにいた。


 それが、少しだけ苦しかった。


 祖母はやさしい。

 やさしいから、ミカゲは怒る場所を失っていく。


 怒りは、どこへも行けないまま、胸の底で濁っていった。


 ある夜、ミカゲは台所の方から物音を聞いた。


 眠れなかった。


 布団の中で目を開けたまま、じっと天井を見ていた。


 物音は小さかった。


 水を使う音。

 包丁がまな板に当たる音。

 火にかけた鍋が、ことこと鳴る音。


 祖母が仕込みをしているのだと分かった。


 店は、しばらく閉めていた。


 祭りの日の惨劇で、街は大きく傷ついた。食堂に来る人もいない。来られる人も少ない。誰もが誰かを失っていた。


 それでも祖母は、台所に立っていた。


 ミカゲは布団から出た。


 足音を立てないように廊下を歩き、台所の入り口に立つ。


 祖母は背中を向けていた。


 鍋の前で、静かに手を動かしている。


 その肩が、小さく震えていた。


 泣いているのだと、すぐに分かった。


 ミカゲは声をかけられなかった。


 祖母が泣いているところを、初めて見た。


 いつも強かった。

 いつも笑っていた。

 父にも母にも遠慮なく物を言って、ミカゲには少し甘くて、店では誰よりも頼もしかった。


 その祖母が、泣いていた。


 声も出さずに。


 鍋をかき混ぜながら。


 ミカゲは、その場から逃げるように部屋へ戻った。


 布団にもぐって、耳を塞いだ。


 祖母も失ったのだ。


 娘か息子か、どちらにせよ、大切な家族を。

 ミカゲの父と母を。


 自分だけが悲しいわけじゃない。


 そんな当たり前のことに、今さら気づいた。


 でも、気づいたところで、何もできなかった。


 翌朝、祖母はいつも通りだった。


 目元は少し赤かったが、ミカゲには何も言わなかった。


「今日は少し外に出るかい」


 祖母はそう言った。


 ミカゲは首を振ろうとした。


 けれど、台所で泣いていた祖母の背中が頭に残っていて、うまく拒めなかった。


「……少しだけ」


 祖母は頷いた。


 外に出ると、街はまだ傷だらけだった。


 壊れた屋台。

 焦げた柱。

 崩れた壁。

 布を被せられたままの場所。


 祭りの飾りが、ところどころに残っていた。


 色とりどりの布。

 踏み潰された花。

 割れた器。


 楽しかったものが壊れているのは、ただ壊れたものを見るよりも苦しかった。


 ミカゲは祖母の手を握った。


 昔なら、恥ずかしいと言ってすぐ離していたかもしれない。


 でも今は、離したら自分もどこかへ落ちていきそうだった。


 街の人たちが、二人に気づく。


 誰も大きな声は出さなかった。


 ただ、静かに頭を下げる人がいた。

 泣きそうな顔でミカゲを見る人がいた。

 祖母に「大丈夫か」と声をかける人がいた。


 大丈夫な人なんて、一人もいないのに。


 それでも皆、大丈夫かと聞く。


 ミカゲはそれが不思議だった。


 少し歩いたところで、壊れた広場が見えた。


 豊穣祭の日、たくさんの人が笑っていた場所。


 そこでミカゲは足を止めた。


 脳裏に、水色の髪がよぎる。


 体が震えた。


 祖母がすぐに気づき、しゃがみ込んで顔を覗く。


「戻ろうか」


 ミカゲは答えなかった。


 広場を見ていた。


 あの子は、どこへ行ったのだろう。


 どうして、あんなことをしたのだろう。


 父と母を殺して、街を壊して、それで今どこかで普通に生きているのだろうか。


 ご飯を食べているのだろうか。

 眠っているのだろうか。

 誰かに名前を呼ばれているのだろうか。


 そんなのは、許せないと思った。


 胸の底に沈んでいた濁りが、ゆっくり熱を持つ。


 怖い。

 悲しい。

 寂しい。


 その全部が、少しずつ形を変えていく。


 まだ言葉にはならない。


 けれど確かに、そこにあった。


「……おばあちゃん」


「うん」


「私、強くなりたい」


 祖母の表情が固まった。


「強くなって、どうするんだい」


 ミカゲは広場を見つめたまま、答えられなかった。


 まだ、言葉にできなかった。


 できなかったけれど、祖母には伝わってしまったのかもしれない。


 祖母はとても悲しそうな顔をした。


「ミカゲ」


 祖母は、ミカゲの両肩に手を置いた。


「今は、生きることだけ考えなさい」


「……生きること?」


「食べて、眠って、朝を迎える。それだけでいい」


「それだけじゃ」


「それだけでいいんだよ」


 祖母の声は、少し震えていた。


「あんたはまだ、子供なんだから」


 子供。


 その言葉が、ひどく遠かった。


 昨日までなら、そうだったのかもしれない。


 父に抱き上げられて。

 母に髪を結ってもらって。

 祖母の料理を食べて。

 剣の英雄の本を読んで。


 自分は子供だった。


 でも、あの日に全部終わった。


 子供のままでいられる場所は、もう燃えてしまった。


 ミカゲは祖母の手をそっと外した。


「帰る」


 それだけ言って、歩き出した。


 祖母は少し遅れてついてきた。


 その日は、粥を少しだけ食べた。


 美味しいとは思わなかった。


 けれど、飲み込んだ。


 祖母は何も言わなかった。


 ただ、ミカゲが一口食べるたびに、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 夜。


 ミカゲは布団の中で、目を閉じた。


 眠るのが怖かった。


 夢を見るから。


 夢の中では、いつも祭りの日に戻る。


 人が叫ぶ。

 何かが壊れる。

 父と母の声が聞こえる気がする。


 そして最後に、必ず水色の髪が揺れる。


 ミカゲは布団の中で、小さく拳を握った。


 怖い。


 それでも、忘れてはいけないと思った。


 父の顔を。

 母の声を。

 祖母の泣いていた背中を。

 壊れた街を。

 あの少女の姿を。


 忘れたら、全部なくなってしまう気がした。


 自分だけが生き残った意味まで、消えてしまう気がした。


「……返して」


 誰にも聞こえない声で、ミカゲは呟いた。


 涙は出なかった。


 その代わり、胸の奥にある傷だけが、静かに熱を持っていた。


 傷は塞がらない。


 塞がる気配もない。


 けれどその痛みだけが、ミカゲに教えていた。


 まだ、自分は生きているのだと。

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