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第5話「お前が剣を握った理由」

 夜になっても、街は眠らなかった。


 眠れるはずがなかった。


 どこかで誰かが泣いていた。


 どこかで誰かが名前を呼んでいた。


 返事のない名前を、何度も、何度も。


 壊れた家の前に座り込む人がいた。黒く焦げた屋台の横で、何かを探し続けている人がいた。怪我人を運ぶ大人たちの足音が、石畳の上を慌ただしく行き来していた。


 豊穣祭の飾りは、まだ街のあちこちに残っていた。


 赤や黄色の布。


 花で編まれた輪。


 豊かな実りに感謝するために吊るされた麦の束。


 それらが、壊れた街の上で、何も知らないふりをして揺れていた。


 ミカゲは祖母の腕の中にいた。


 抱きしめられているのに、寒かった。


 身体の奥がずっと冷えている。


 涙はもう出ないと思ったのに、気づけばまた頬を濡らしていた。


「……おばあちゃん」


 声を出すと、喉が痛かった。


 何度も泣いたからだ。


「お父さんと、お母さんは……」


 祖母はすぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 ミカゲは祖母の服を握った。


 指先に力を込める。


 込めても、込めても、何も戻ってこない。


「見たい」


 祖母の腕が、わずかに強くなった。


「ミカゲ」


「見たい」


 もう一度言った。


 自分でも驚くくらい、平たい声だった。


 泣き叫ぶと思っていた。


 嫌だと暴れると思っていた。


 でも、そうはならなかった。


 ただ見なければいけないと思った。


 見ないと、全部が嘘になる気がした。


 今日の朝まで父と母がいたことも。


 祭りで笑っていたことも。


 もういないということも。


 全部、ぼやけて、夢みたいになってしまう気がした。


 祖母はしばらくミカゲを抱きしめていた。


 やがて、小さく息を吐いた。


「……手を離しちゃだめだよ」


 ミカゲは頷いた。


 祖母の手は震えていた。


 それをミカゲは、初めて見た。


 祖母はいつも強かった。


 店では大きな鍋を片手で持ち上げるし、怒る時は近所の大人だって背筋を伸ばす。父が冗談を言って叱られて、母が笑って、ミカゲも笑った。


 その祖母の手が、今は震えていた。


 ミカゲはその手を握った。


 握られているのは自分の方なのに、なぜか支えているような気がした。


 二人は壊れた通りを歩いた。


 瓦礫の横を通る。


 倒れた看板の横を通る。


 踏み潰された焼き菓子が、石畳に張りついていた。


 ミカゲはそれを見た。


 昼間、自分が食べたものと同じだった。


 甘くて、蜜がついていて、父が口元を拭ってくれた。


 思い出した瞬間、胃の中がひっくり返りそうになった。


 でも吐かなかった。


 吐けなかった。


 胸の中に詰まっているものが大きすぎて、それ以外は何も出てこなかった。


 やがて祖母が足を止めた。


 そこは広場から少し外れた道だった。


 大きな木のそば。


 祭りの日には、人が多くなった時の待ち合わせ場所に使われるところだ。


 朝、父が言っていた。


 もしはぐれたら、あの木のところにおいで。


 母も頷いていた。


 でも、ミカゲはそこへ行けなかった。


 逃げて、隠れて、震えていた。


 祖母の手に、力がこもる。


 ミカゲは一歩前に出た。


 そして、見た。


 父と母がいた。


 並んでいた。


 眠っているようには見えなかった。


 眠っているなら、起こせばいい。


 揺すればいい。


 名前を呼べば、父は困ったように笑って起きるはずだった。


 母は眉を下げて、そんな顔しないの、と言うはずだった。


 でも、違った。


 違うと分かってしまった。


 ミカゲは口を開けた。


 声は出なかった。


 父の手が、少し前に伸びていた。


 誰かを探すように。


 誰かを掴もうとするように。


 母の身体は、そのすぐ近くにあった。


 同じ方向へ向かおうとしていたように見えた。


 ミカゲの足元がぐらりと揺れた。


「……私を」


 言葉が落ちた。


「探してたの?」


 祖母は答えなかった。


 でも、ミカゲは分かった。


 父と母は、自分を探していた。


 最後まで。


 ミカゲは、逃げた。


 隠れた。


 口を押さえて、震えていた。


 父と母が名前を呼んでいたかもしれないのに。


 助けを求めていたかもしれないのに。


 それでも、自分だけが隠れていた。


 生きていた。


「……ごめんなさい」


 膝が折れた。


 石畳に手をつく。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 祖母が背中に手を置いた。


 何かを言おうとして、やめた。


 ミカゲは父の手を見つめた。


 その手は、もう動かない。


 あんなに大きくて、あんなに温かくて、ミカゲの頭をくしゃくしゃに撫でた手が。


 母の声も聞こえない。


 朝、髪を整えてくれた指も、もう動かない。


 ミカゲは自分の髪に触れた。


 母が結んでくれた髪は、逃げている間に乱れていた。


 それが、ひどく許せなかった。


 壊れていく。


 全部が。


 大事だったものが、手の中で粉々になっていく。


 なのに、自分は何もできなかった。


 逃げただけだった。


 隠れただけだった。


 泣いただけだった。


 ふと、昼間の光景が頭の中に浮かんだ。


 水色の髪の少女。


 壊れた街を歩いていた小さな背中。


 何も言わずに、何も見ずに、ただ去っていった。


 あの子が来た。


 あの子が壊した。


 あの子が、父と母を奪った。


 胸の奥で、何かが鳴った。


 小さな音だった。


 でも、確かだった。


 ぱきり、と。


 何かが割れた音。


 ミカゲはゆっくりと顔を上げた。


 涙で視界が滲んでいた。


 それでも、父と母の姿だけははっきり見えた。


 見えてしまった。


「……どこ」


 祖母がミカゲを見る。


「ミカゲ?」


「あいつ、どこに行ったの」


 声が震えていた。


 泣いているからではなかった。


 寒いからでもなかった。


 違うものが、身体の中で震えていた。


「ミカゲ、今は――」


「あいつはどこに行ったの!」


 叫んだ。


 喉が裂けるように痛んだ。


 祖母が息を呑む。


 ミカゲは立ち上がった。


 足元はふらついていた。


 でも立った。


 立たなければいけないと思った。


 泣いているだけでは、何も戻らない。


 謝っているだけでは、誰も帰ってこない。


 なら。


 なら、自分は。


 その時、足元に何かが落ちているのが見えた。


 折れた木剣だった。


 昼間、父に買ってもらったものとは違う。


 誰か別の子供が落としたものだろう。


 先端が欠けて、泥と血で汚れていた。


 ミカゲはそれを拾った。


 軽かった。


 ただの木だ。


 こんなもので、誰かを倒せるはずがない。


 あの水色の髪の少女に届くはずがない。


 それでも、ミカゲは握った。


 握るしかなかった。


「ミカゲ」


 祖母の声は、今まで聞いたことがないほど低かった。


「それを握って、どうするつもりだい」


 ミカゲは答えなかった。


 木剣を握る手に、力を込める。


 爪が掌に食い込む。


 痛い。


 でも、その痛みがちょうどよかった。


 胸の痛みに比べたら、こんなものは痛みですらなかった。


「殺す」


 言葉は、自然に出た。


 祖母の顔が強張った。


「ミカゲ」


「あいつを殺す」


「やめなさい」


「嫌だ」


「ミカゲ!」


 祖母が肩を掴んだ。


 ミカゲは振り払わなかった。


 ただ、顔だけを上げた。


 壊れた街の向こう。


 水色の髪の少女が消えていった方角。


 何も見えない。


 もう姿はない。


 それでも、ミカゲは睨んだ。


 父と母を奪ったものが、その先にいる気がした。


「あいつには……」


 声が震えた。


 けれど、今度は止まらなかった。


「あいつには、私と同じか……それ以上の絶望を味わわせて……」


 祖母の手が、肩の上で震えた。


 ミカゲは続けた。


「殺してやる……!」


 言い終えた瞬間、風が吹いた。


 祭りの飾り布が、破れた音を立てて揺れた。


 祖母は何も言わなかった。


 その顔には、悲しみだけではないものが浮かんでいた。


 恐れ。


 そう呼ぶしかないもの。


 ミカゲは、それを見ても止まれなかった。


 止まりたくなかった。


 もしここで止まったら、父と母の死がただの悲しい出来事になる。


 誰かに奪われて、自分は泣いて、時間が過ぎて、いつか薄れていく。


 そんなのは嫌だった。


 許せなかった。


 忘れるなんて、もっと嫌だった。


 だから握った。


 折れた木剣を。


 弱い自分の手で。


 祖母がゆっくりとミカゲを抱きしめた。


 今度は強くなかった。


 壊れものに触れるみたいな抱き方だった。


「……そんなものを、握らなくていいんだよ」


 祖母の声が、耳元で震える。


「お前はまだ、そんなものを背負わなくていい」


 ミカゲは祖母の胸に顔を押しつけた。


 温かかった。


 でも、その温かさの中に戻れなかった。


 もう戻れない場所があると、分かってしまった。


「じゃあ、どうしたらいいの」


 ミカゲは小さく聞いた。


「お父さんとお母さんは、帰ってくるの?」


 祖母は答えなかった。


「私がいい子にしてたら、帰ってくるの?」


 答えはない。


「泣かずにいたら?」


 答えはない。


「忘れたら?」


 祖母の腕に力が入った。


 ミカゲは笑いそうになった。


 笑えるはずもないのに。


「無理だよ」


 木剣を握る手は、まだ離せなかった。


「忘れられないよ」


 祖母は何も言わずに、ただミカゲの背を撫でた。


 遠くで鐘が鳴った。


 夜を告げる鐘ではなかった。


 死者を悼む鐘だった。


 一度。


 また一度。


 壊れた街に、重く響いていく。


 その音を聞きながら、ミカゲは目を閉じた。


 父の手を思い出す。


 母の声を思い出す。


 甘い焼き菓子の味を思い出す。


 そして、水色の髪を思い出す。


 胸の奥に落ちた黒い種が、少しだけ根を伸ばした気がした。


 まだ小さい。


 まだ名前もない。


 けれど、それは確かにそこにあった。


 祖母に抱きしめられながら。


 死者を悼む鐘を聞きながら。


 ミカゲは折れた木剣を、ずっと握りしめていた。

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