第4話「惨劇」
最初は、何が起きたのか分からなかった。
悲鳴が聞こえた。
怒鳴り声が聞こえた。
何かが壊れる音がした。
それでもミカゲは、しばらく動けなかった。
祭りの音がまだ残っていたからだ。
笛の音。太鼓の音。人の笑い声。屋台の呼び込み。子供たちのはしゃぐ声。
それらが、悲鳴と一緒になって耳に入ってくる。
だから、頭がうまく理解してくれなかった。
楽しいはずの日だった。
豊穣祭だった。
みんなが笑っていた。
さっきまで、お父さんが隣にいた。
お母さんも笑っていた。
ミカゲは甘い焼き菓子を食べて、口元に蜜をつけて、父に拭ってもらった。
それなのに。
今、誰かが叫んでいる。
「逃げろ!」
その声が、ひどく近くで聞こえた。
次の瞬間、人の波が崩れた。
広場にいた大人たちが一斉に走り出す。誰かが転び、誰かがそれを助けようとして、また別の誰かに押される。屋台の台が倒れて、果物が石畳に転がった。
ミカゲは突き飛ばされて、尻もちをついた。
手から木剣が離れる。
「あ……」
拾わなきゃ。
父に買ってもらったものだ。
そう思ったのに、伸ばした手の前を、誰かの足が踏みつけていった。
木剣が割れる音がした。
ミカゲはそれを見た。
折れた木剣。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
「立て! 早く!」
見知らぬ大人がミカゲの腕を掴んだ。
けれど、その人もすぐに後ろを振り返り、顔色を変えた。
そしてミカゲの腕から手を離して、走っていってしまった。
ミカゲはその場に座り込んだまま、ゆっくりと視線を上げた。
広場の奥に、人影があった。
小さな人影だった。
子供だ。
ミカゲと同じくらいの年の、女の子。
水色の髪が揺れていた。
その子は、ゆっくり歩いていた。
周りの混乱なんて見えていないみたいに。
祭りの真ん中を、ひとりだけ違う場所にいるみたいに。
その足元で、石畳が黒くひび割れた。
近くにいた男の人が、何かを叫んでその子に向かっていった。
次の瞬間、男の人の身体が大きく弾かれて、屋台に叩きつけられた。
ミカゲは息を呑んだ。
分からない。
何が起きているのか。
あの子が何をしているのか。
どうしてみんなが逃げているのか。
何も分からない。
ただ、怖かった。
怖くて、怖くて、喉がきゅっと閉まった。
「お父さん……」
声がかすれた。
「お母さん……」
返事はない。
探さなきゃ。
そう思った。
さっきまで、近くにいたはずなのだ。
少し歩けば見つかるはずなのだ。
でも、足が動かない。
膝が震えて、立ち上がれない。
あの水色の髪が、こちらを向いた気がした。
目が合ったのかは分からない。
けれど、その瞬間、ミカゲの身体は勝手に動いた。
立ち上がって、走った。
父と母を探すためではなかった。
助けを呼ぶためでもなかった。
ただ、逃げた。
人混みの間を抜ける。
誰かにぶつかる。
転びそうになる。
それでも走る。
振り返ってはいけないと思った。
見たら終わる。
そんなことだけが、頭の中にあった。
ミカゲは狭い路地に飛び込んだ。
そこは、祭りの飾り布が届かない暗い場所だった。さっきまであんなに明るかった街の裏側に、こんな影があることを初めて知った。
壁に手をつきながら奥へ進む。
足音が聞こえる。
悲鳴が聞こえる。
何かが壊れる音が、さっきよりも大きく響いている。
街が壊れている。
そんな言葉が、なぜか頭に浮かんだ。
街って、壊れるものなのだろうか。
家も、店も、道も、人も、全部。
全部、壊れてしまうものなのだろうか。
「やだ……」
ミカゲは小さく呟いた。
「やだ、やだ……」
路地の奥に、木箱が積まれている場所があった。
ミカゲはその隙間に身体をねじ込んだ。
膝を抱える。
口を手で押さえる。
息がうるさい。
自分の息が、誰かに聞こえてしまう気がした。
外では、まだ音がしていた。
走る音。
倒れる音。
叫ぶ音。
泣く音。
どれが誰の声なのか分からない。
父の声が混じっているかもしれない。
母の声が混じっているかもしれない。
そう思った瞬間、ミカゲは飛び出しそうになった。
でも、できなかった。
足が動かなかった。
外に出たら、あの水色の髪の少女がいる。
そう思うだけで、身体が動かなかった。
「ごめんなさい……」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
「ごめんなさい……」
涙が出た。
声を出したら見つかるかもしれないから、ミカゲは手で口を押さえたまま泣いた。
泣いて。
震えて。
ただ隠れていた。
どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
祭りの音は、いつの間にか消えていた。
笛も、太鼓も、笑い声もない。
代わりに残っていたのは、遠くで何かが燃えるような音と、時々聞こえる誰かの呻き声だけだった。
ミカゲは、ゆっくりと木箱の隙間から顔を出した。
路地には誰もいなかった。
恐る恐る外へ出る。
足が震えて、うまく歩けない。
壁に手をつきながら、ミカゲは広場の方へ戻った。
見慣れた街ではなかった。
飾り布は破れ、屋台は倒れ、石畳には黒いひびが走っていた。甘い菓子の匂いも、焼いた肉の匂いも、もうしなかった。
焦げた匂い。
土と血の匂い。
そんな、知らない匂いがした。
ミカゲは口元を押さえた。
「お父さん……」
声は小さかった。
「お母さん……」
返事はなかった。
探さなきゃ。
今度こそ探さなきゃ。
そう思って一歩踏み出した時だった。
広場の向こう側に、水色の髪が見えた。
少女がいた。
背中を向けて、ふらふらと歩いている。
何かを探しているようにも見えた。
何も見ていないようにも見えた。
その小さな背中が、壊れた街の中を進んでいく。
ミカゲは声を出せなかった。
ただ、見た。
あの子だ。
あの子がいた。
あの子が来てから、全部壊れた。
お祭りも。
街も。
ミカゲの木剣も。
父と母の声も。
全部。
少女は振り返らなかった。
やがて、その姿は壊れた通りの向こうへ消えていった。
ミカゲは追いかけなかった。
追いかけられなかった。
足が動かなかった。
ただ胸の奥に、熱いものが生まれた。
怖い。
怖い。
怖い。
それなのに、その奥に別のものがあった。
黒くて、熱くて、触れたら火傷しそうなもの。
名前はまだ知らなかった。
言葉にもできなかった。
けれど、それは確かにミカゲの中に落ちた。
小さな種みたいに。
深く。
深く。
その時、後ろから名前を呼ばれた。
「ミカゲ!」
振り返ると、祖母がいた。
息を切らして、顔を真っ青にして、それでもミカゲを見つけた瞬間、泣きそうに顔を歪めた。
「ミカゲ……!」
祖母は駆け寄ってきて、ミカゲを強く抱きしめた。
痛いくらいだった。
でも、その痛さで初めて、ミカゲは自分がまだ生きているのだと分かった。
「よかった……よかった、無事で……」
「おばあちゃん……」
ミカゲは祖母の服を掴んだ。
「お父さんは?」
祖母の身体が、ほんの少し固まった。
「お母さんは?」
返事はなかった。
ミカゲは顔を上げた。
祖母は何かを言おうとして、言えなかった。
その目を見て、ミカゲは分かってしまった。
分かりたくなかった。
でも、分かってしまった。
「……やだ」
声が漏れた。
「やだ」
祖母はミカゲをさらに強く抱きしめた。
「ミカゲ……」
「やだ、やだ、やだ……」
父はさっきまでいた。
母も笑っていた。
父はミカゲの口元についた蜜を拭ってくれた。
母は走らないのよと言った。
祖母の店で、みんなで笑った。
朝、いただきますと言った。
返事があった。
あったのだ。
そこに、ちゃんと。
「どうして……?」
ミカゲの声は震えていた。
「どうして……?」
祖母は答えなかった。
答えられなかった。
ミカゲは祖母の胸に顔を押しつけた。
涙が止まらなかった。
怖かった。
寒かった。
苦しかった。
胸の中がぐちゃぐちゃで、どこが痛いのかも分からなかった。
「返して……」
小さな声だった。
祖母の服を握る指に、力がこもる。
「返してよ……」
壊れた街の中で、ミカゲはただ泣いた。
祭りの飾りが、風に揺れていた。
もう誰も笑っていなかった。




