第3話「豊穣祭」
朝、ミカゲはいつもより早く目を覚ました。
まだ部屋の中は薄暗い。窓の外から差し込む光も、ほんの少し青みがかっている。けれど、遠くから聞こえる人の声で、街がもう起きているのが分かった。
今日は豊穣祭。
そう思った瞬間、ミカゲは布団を跳ねのけた。
「お母さん!」
寝室から飛び出すと、台所にはもう母がいた。湯気の立つ鍋の前で、いつものように忙しそうに手を動かしている。
母は振り返って、少しだけ驚いた顔をした。
「あら、早い」
「寝坊しなかった」
「えらいえらい」
母は笑って、ミカゲの寝癖を指で直した。
「でも、顔を洗ってきなさい。英雄様に感謝する日なのに、その髪で行くつもり?」
ミカゲは自分の髪を触った。
たしかに、片側だけ変に跳ねている。
「これは……剣の英雄様っぽいかも」
「剣の英雄様に失礼よ」
母にそう言われ、ミカゲはむっとしながらも洗面へ向かった。
顔を洗い、髪を整えて戻ると、父が玄関先で何かを抱えていた。
昨日作っていた紙細工だ。
結局、花には見えなかった。
「お父さん、それ持っていくの?」
「もちろんだ。努力の結晶だからな」
「魔物なのに?」
「花だ」
「魔物の花?」
「ミカゲ、今日の君は手厳しいな」
父は大げさに肩を落とした。
母が台所で笑っている。
ミカゲもつられて笑った。
朝食は簡単なものだった。焼いたパンと、野菜のスープ。それでも、今日は全部が特別に思えた。いつもと同じ家で、いつもと同じ食卓なのに、外から聞こえる祭りの音が、心を少しずつ浮かせていく。
「いただきます」
ミカゲが言う。
「いただきます」
父と母の声が返ってくる。
その声を聞くと、胸の奥がぽかぽかした。
食事を終えると、母は布で包んだ料理をいくつか籠に詰めた。祖母の店に持っていくものだ。父は紙細工を抱え、ミカゲは昨日より少し大きな籠を任された。
「重くない?」
「平気」
「無理しないでね」
「平気だってば」
ミカゲは籠を抱えて胸を張った。
外に出ると、メーランの街は昨日とはまるで違っていた。
通りには色鮮やかな布が張られ、屋台からは焼いた肉や甘い菓子の匂いが漂っている。笛や太鼓の音があちこちから聞こえ、子供たちの笑い声が石畳の上を跳ねていた。
いつもの街なのに、今日は街そのものが笑っているみたいだった。
「すごい……!」
ミカゲは思わず声を上げた。
父が隣で得意げに頷く。
「豊穣祭だからな」
「毎年こんなにすごかった?」
「毎年すごいよ。ミカゲが毎年はしゃぎすぎて覚えてないだけ」
「そんなことない」
「去年は焼き菓子を両手に持ったまま転んだ」
「それは覚えてる」
「覚えてるんじゃないか」
父が笑う。
母がミカゲの肩に手を置いた。
「今日は転ばないようにね」
「転ばないよ」
そう言いながら、ミカゲの目はもう屋台に向いていた。
串に刺さった焼き肉。蜜のかかった果物。丸く焼かれた甘い菓子。見たことのない色の飲み物。
全部食べたい。
全部見たい。
全部、今日のうちに覚えておきたい。
そう思うくらい、街はきらきらしていた。
祖母の店に着くと、店先にはすでに何人かの客がいた。祖母は忙しそうに料理を並べている。
「おばあちゃん!」
「おや、来たね。助かるよ」
ミカゲは籠を差し出した。
祖母が中身を確認して、満足そうに頷く。
「うん、これで昼の分も足りるね」
「私も手伝う」
「じゃあ、まずはそこの皿を並べておくれ。落としたら大変だから、ゆっくりね」
「うん」
ミカゲは真剣に頷いた。
皿を一枚ずつ持って、台の上に並べる。途中で父が紙細工を店先に飾ろうとして、祖母に首をかしげられていた。
「これは何だい?」
「花です」
「……そうかい」
祖母はそれ以上聞かなかった。
母は横を向いて肩を震わせていた。
「お母さん、笑ってる」
「笑ってないわ」
「笑ってる」
「ちょっとだけ」
ミカゲも笑った。
そのあと、店の手伝いは思ったより忙しかった。
皿を運ぶ。水を出す。空いた器を下げる。熱い鍋には触らないように言われていたから、それ以外のできることを一生懸命やった。
街の人たちは、ミカゲを見るたびに声をかけてくれた。
「えらいねえ、ミカゲちゃん」
「おばあちゃんのお手伝いか?」
「将来は店を継ぐのかな?」
「違うよ。私は剣の英雄様みたいになるの」
そう言うと、みんな笑った。
馬鹿にするような笑いではなかった。
子供の夢を聞いた大人たちの、優しい笑いだった。
「そりゃ頼もしい」
「じゃあ、メーランは安泰だ」
「英雄様になったら、この店も守っておくれよ」
ミカゲは少し照れながら頷いた。
「うん。守る」
その言葉を聞いた祖母が、少しだけ目を細めた。
昼を過ぎると、街はさらに賑やかになった。
広場では楽団が演奏を始め、人々が手を叩いていた。子供たちは木で作られた小さな剣を持って遊び、大人たちは酒を飲みながら笑っている。
父はミカゲに、小さな木彫りの剣を買ってくれた。
「本物じゃないぞ」
「分かってる」
「人に向けない」
「分かってる」
「振り回さない」
「分かってる」
「じゃあ、なぜ今ちょっと構えた?」
ミカゲはそっと剣を下ろした。
「構えただけ」
「振り回す一歩手前だな」
母が呆れたように笑った。
ミカゲは木剣を胸に抱えた。
それは安っぽい木剣だったけれど、ミカゲにとっては宝物みたいだった。
剣の英雄様も、最初はこんなふうに何かを握ったのだろうか。
誰かを守りたいと思って、剣を取ったのだろうか。
そんなことを考えていると、広場の中央で大きな鐘が鳴った。
人々の声が少しずつ静まっていく。
広場の壇上に、王都から来た使者が立っていた。白い衣をまとい、豊穣の紋章が入った旗を掲げている。
「本日は豊穣祭。実りに感謝し、明日への恵みを願う日である」
使者の声が広場に響く。
「遠くカーレの地にも、豊穣の英雄アルマ様の雨が届き、多くの命が今年も明日へ繋がれた」
その言葉に、人々が拍手を送った。
ミカゲも父と母に倣って手を叩いた。
「アルマ様って、豊穣の英雄様?」
「そうだよ」
母が小さな声で教えてくれる。
「雨を降らせる人?」
「ええ。たくさんの人を助けている人」
ミカゲは壇上の旗を見た。
豊穣の英雄。
剣を振るわなくても、誰かを守れる英雄。
それもやっぱり、すごいことなのだと思った。
式が終わると、広場はまた一気に賑やかになった。
演奏が再開され、屋台の声が飛び交う。
父がミカゲの手を引いた。
「何か食べるか?」
「食べる!」
「何がいい?」
「えっと……全部」
「全部は無理だな」
「じゃあ、あれと、あれと、あれ」
「指が多い」
父は笑いながら、ミカゲが指差した屋台へ向かった。
母は祖母の店をもう少し手伝ってから合流すると言った。ミカゲは父と一緒に、甘い焼き菓子を買った。
外はさくっとしていて、中には果物の甘い煮詰めたものが入っている。
ひと口食べた瞬間、ミカゲは目を輝かせた。
「おいしい!」
「よかったな」
「お母さんにもあげる」
「その前に全部食べないようにな」
「食べないよ」
そう言いながら、ミカゲはもう一口食べた。
父は笑って、ミカゲの口元についた蜜を指で拭った。
「ほら、ついてる」
「ん」
「まったく」
父の手は大きくて温かかった。
それからしばらくして、母も合流した。
三人で屋台を見て回り、祖母の店に戻って少し休み、また広場へ行く。
何度も笑った。
何度も手を繋いだ。
何度も名前を呼ばれた。
その日、ミカゲは世界に自分の居場所があることを、当たり前のように信じていた。
夕方が近づくころ、広場では子供向けの小さな催しが始まった。
木で作られた輪を投げて、棒に入れる遊び。的に布玉を当てる遊び。小さな景品がもらえるらしい。
ミカゲは木剣を抱えたまま、目を輝かせた。
「やりたい!」
父が笑う。
「じゃあ、行っておいで」
「一人で?」
「すぐそこだ。お父さんたちはここで見てるから」
ミカゲは広場の端にある遊び場を見た。
本当にすぐそこだった。
人は多かったけれど、見えなくなるほどではない。
「行ってくる!」
「走らないのよ」
「うん!」
ミカゲはそう返事をして、人の間を抜けた。
輪投げは思ったより難しかった。
一回目は外れた。
二回目も外れた。
三回目で、ようやく一番近い棒に輪がかかった。
「入った!」
ミカゲが振り返る。
けれど、そこに父と母の姿は見えなかった。
「あれ?」
人が増えていた。
さっきまでよりも、広場の真ん中に人が集まっている。誰かが大きな声で呼び込みをしていて、その周りに人垣ができていた。
ミカゲは背伸びをした。
父の頭を探す。
母の服を探す。
けれど、似たような背丈の大人ばかりで、うまく見つけられない。
「お父さん?」
声を出してみる。
祭りの音に紛れて、返事は聞こえなかった。
ほんの少し、不安になった。
でも、すぐそこにいるはずだ。
そう思って、ミカゲは人の流れに沿って歩いた。
右へ行けばさっきの屋台がある。
左へ行けば祖母の店へ戻れる。
そう思っていたのに、祭りの景色はどこも似ていて、さっきまで自分がどちらから来たのか分からなくなった。
ミカゲは木剣をぎゅっと抱えた。
「……お母さん?」
もう一度呼ぶ。
やっぱり、返事はなかった。
広場の向こうで、大きな拍手が起こった。
誰かが笑っている。
誰かが歌っている。
誰かが名前を呼んでいる。
その全部が混ざって、ミカゲの声だけが小さくなっていく。
その時、遠くで何かが倒れるような音がした。
祭りの音に紛れて、一瞬だけ。
がしゃん、と。
ミカゲは顔を上げた。
周りの大人たちも何人か、同じ方向を見た。
けれど、すぐにまた笑い声が戻ってくる。
屋台の荷物でも崩れたのかもしれない。
誰かが転んだだけかもしれない。
ミカゲもそう思おうとした。
けれど、胸の奥が少しだけざわざわした。
「お父さん……?」
今度は、少し大きな声で呼んだ。
その声に、返事はなかった。
代わりに、広場の奥から、短い悲鳴が聞こえた。
ミカゲは立ち止まった。
木剣を抱える手に、力が入る。
祭りの音は、まだ続いていた。
けれどその中に、今までとは違う音が混ざり始めていた。
走る足音。
ざわめき。
誰かの怒鳴り声。
もう一度、悲鳴。
ミカゲは人混みの中で、ひとり立ち尽くした。
「……お母さん?」
返事は、なかった。




