第2話「祭りの前夜」
メーランの街は、朝から少しだけ浮き足立っていた。
石畳の道には、いつもより多くの荷車が行き交っている。籠いっぱいの野菜。焼き菓子の入った木箱。色とりどりの布。まだ火の入っていない屋台の鉄板。
大人たちは忙しそうにしていたけれど、その顔はどこか楽しそうだった。
明日は、豊穣祭。
年に一度、街のみんなで食べて、歌って、英雄様に感謝する日だ。
ミカゲは、その言葉を聞いただけで朝から少し落ち着かなかった。
「お母さん、これ持てばいい?」
台所の入り口で、ミカゲは両手を胸の前にそろえて聞いた。
母は大きな鍋をかき混ぜながら、振り返って笑う。
「じゃあ、そこの小さい籠をお願い。落とさないようにね」
「うん!」
ミカゲは床に置かれていた籠を抱えた。
中には乾燥させた香草や、小さな包みがいくつも入っている。思ったより軽かったので、ミカゲは少しだけ胸を張った。
「これ、どこに持っていくの?」
「おばあちゃんのお店。明日の仕込みに使うんだって」
「じゃあ私が届ける」
「本当に? 途中で剣の英雄の本を読みに行ったりしない?」
母がからかうように言うと、ミカゲはむっとした。
「しないよ。今日はちゃんと届けるもん」
「今日は、ね」
「お母さん」
不満そうに名前を呼ぶと、母は楽しそうに笑った。
そこへ、隣の部屋から父が顔を出した。手には布袋を抱えている。中身は祭りで飾るための紙細工だった。
「ミカゲ、剣の英雄様もいいけどな。豊穣の英雄様にもちゃんと感謝しないとだぞ」
「してるよ」
「本当に?」
「してる」
ミカゲは即答した。
それから少し考えて、首をかしげる。
「でも、豊穣の英雄様って、剣の英雄様みたいに魔物を倒したりするの?」
父と母が、顔を見合わせた。
そのあと、父がゆっくりとしゃがんで、ミカゲと目の高さを合わせる。
「倒さないことの方が多いな」
「じゃあ、何をするの?」
「雨を降らせる」
「やっぱりそれだけなの?」
ミカゲは窓の外を見た。
今日の空はよく晴れている。雲は少しだけ、白く薄く流れていた。
「雨なら、なにもしなくてもたまに勝手に降るよ?」
「そうだな。でも、雨が降らない場所もある。降ってほしい時に降らないこともある。逆に、降りすぎて困ることもある」
父は布袋を床に置いて、手を広げた。
「畑の作物は、水がなければ育たない。作物が育たなければ、食べるものがなくなる。食べるものがなければ、人は生きていけない」
「うん」
「豊穣の英雄様はな、必要な場所に、必要な雨を届けてくれるんだ」
ミカゲは少しだけ目を丸くした。
「遠いところにも?」
「ああ。王都にある大きな魔法陣を使って、乾いた土地に雨を降らせる。カーレみたいな場所では、豊穣の英雄様の雨を待っている人がたくさんいるんだ」
「カーレって、すごく暑いところ?」
「そう。砂が多くて、水が貴重な場所だな」
父がそう言うと、母も鍋をかき混ぜながら頷いた。
「メーランで食べている野菜だって、どこかの雨に助けられて育ったものかもしれないわ。だから豊穣祭は、食べ物への感謝のお祭りでもあるの」
「そっか」
ミカゲは抱えている籠を見下ろした。
香草も、小さな包みの中身も、きっと誰かが育てたものだ。
それをおばあちゃんが料理にして、街の人が食べる。
そう考えると、祭りが少しだけ違って見えた。
「じゃあ、豊穣の英雄様もすごいね」
「もちろん。英雄様だからな」
「でも、剣の英雄様もすごいよ」
「そこは譲らないんだな」
父が笑う。
ミカゲは当然だと言わんばかりに頷いた。
「剣の英雄様は、かっこいいから」
「かっこいいだけで英雄にはなれないぞ」
「分かってるよ。強くて、優しくて、みんなを守るからかっこいいの」
そう言うと、父は少しだけ驚いたような顔をした。
それから、どこか嬉しそうに目を細める。
「そうか。ちゃんと分かってるんだな」
「分かってるもん」
ミカゲはそう言って、籠を抱え直した。
母が鍋の火を弱めて、ミカゲの髪を軽く撫でる。
「でも、ミカゲは英雄にならなくてもいいのよ」
「え?」
「強くならなきゃいけないわけでも、誰かを守らなきゃいけないわけでもないの」
母の手は温かかった。
ミカゲは黙って母を見上げる。
「ミカゲは、ミカゲの好きなものを好きでいて、楽しいことをたくさん見つけて、のんびり大きくなってくれたら、それでいいの」
「でも、剣の英雄様みたいになりたい」
「それもいいわ。なりたいものがあるのは素敵なことだから」
母は笑う。
「でも、なれなかったとしても、ミカゲが駄目な子になるわけじゃない。お母さんとお父さんは、ミカゲが元気で笑ってくれていたら、それが一番嬉しいの」
ミカゲは少しだけ照れくさくなった。
うまく返事ができなくて、抱えていた籠に顔を近づける。
香草の匂いがした。
「……じゃあ、私は元気に届けてくる」
「お願いね」
「寄り道は?」
父が聞く。
「しない」
「剣の英雄の本は?」
「帰ってから読む」
「えらい」
父が大げさに拍手をすると、ミカゲは少し得意になった。
家を出ると、外の空気はいつもより賑やかだった。
通りの向こうでは、男たちが祭りの飾りを吊るしている。子供たちはその下を走り回り、大人に怒られていた。屋台を組み立てている人もいる。鉄板の上にはまだ何もないのに、もう焼けた肉の匂いがする気がした。
ミカゲは籠を抱えて歩いた。
明日はきっと楽しい。
おばあちゃんの店にも人がたくさん来るだろう。母の作った料理も並ぶかもしれない。父はきっと、また何か変なことを言って笑わせてくる。
それから、時間があったら剣の英雄の本を読もう。
祭りの日に読む剣の英雄は、いつもより少しかっこよく見える気がする。
そんなことを考えながら、ミカゲは祖母の店へ向かった。
店の前では、祖母が椅子に座って、豆の筋を取っていた。
「おばあちゃん!」
ミカゲが呼ぶと、祖母は顔を上げた。
「おや、ミカゲ。おつかいかい?」
「うん。お母さんから」
ミカゲは籠を差し出した。
祖母は中を覗いて、満足そうに頷く。
「助かるよ。これがないと明日の味が締まらないからね」
「明日、いっぱい人来る?」
「来るだろうねえ。豊穣祭だから」
「私も手伝う?」
「手伝ってくれるのかい?」
「うん。お皿運ぶくらいならできる」
祖母は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お願いしようかね。ただし、熱いものには触らないこと」
「分かってる」
「走らないこと」
「分かってる」
「つまみ食いしないこと」
「……分かってる」
「今の間は何だい」
祖母が目を細めると、ミカゲは顔をそらした。
その様子を見て、祖母は声を出して笑った。
「まあ、明日は特別だ。少しくらいなら味見させてあげるよ」
「ほんと?」
「少しだけだよ」
「やった」
ミカゲは小さく跳ねた。
祖母は豆の筋を取りながら、ふと空を見上げた。
「今年も無事に祭りができそうだねえ」
「うん」
「食べられることも、笑えることも、当たり前じゃないからね」
ミカゲには、その言葉の全部はまだ分からなかった。
けれど、祖母の声がいつもより少しだけ静かだったから、なんとなく大事なことなのだと思った。
「じゃあ、明日はちゃんと感謝する」
「いい子だ」
祖母はミカゲの頭を撫でた。
ミカゲは少しだけ照れながらも、その手を避けなかった。
帰り道、夕方の光が街を橙色に染めていた。
準備中の屋台には布がかけられ、飾りは風に揺れている。誰かが遠くで笛の練習をしていた。音は少し外れていたけれど、それすら明日の楽しさの一部みたいだった。
家に帰ると、父が紙飾りと格闘していた。
「ただいま」
「おかえり、ミカゲ。どうだ、これは花に見えるか?」
父が掲げた紙細工は、花というより潰れた鳥に見えた。
ミカゲは真剣に見つめてから言った。
「……魔物?」
「ひどいな」
母が台所で吹き出した。
「あなた、不器用なんだから無理しないで」
「いや、これはこれで味がある」
「魔物の?」
「ミカゲまで」
父は肩を落としたが、すぐに笑った。
ミカゲも笑った。
母も笑っていた。
その日の夕食は、明日の仕込みの残りを使った少しだけ豪華なものだった。
温かいスープ。焼いた野菜。柔らかいパン。香草の匂いが部屋いっぱいに広がっている。
ミカゲは両手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
父と母の声が返ってくる。
それが、ミカゲは好きだった。
自分の声に、誰かの声が返ってくること。
同じ食卓に、同じ匂いがあって、同じ温かさがあること。
夕食のあと、ミカゲは剣の英雄の本を開いた。
父はまだ紙細工を諦めていなかった。母は明日のために布を畳んでいる。
ページの中で、剣の英雄は大きな魔物の前に立っていた。
怖くないのかな、とミカゲは思った。
もし自分だったら、足が震えるかもしれない。
でも、それでも誰かを守るために立てたら。
それはきっと、すごくかっこいい。
「ミカゲ、そろそろ寝なさい」
母に言われて、ミカゲは本から顔を上げた。
「もうちょっと」
「明日は早いわよ」
「あと一ページ」
「そのあと一ページが十ページになるんだよなあ」
父が横から言った。
ミカゲは本を閉じた。
「分かった。寝る」
「あら、今日は聞き分けがいい」
「明日、寝坊したくないから」
ミカゲがそう言うと、母は優しく笑った。
寝室に向かう前に、ミカゲは窓の外を見た。
夜の街は、まだ少し明るかった。
祭りの準備をしている人たちの声が、遠くから聞こえる。笑い声も、荷車の音も、風に揺れる飾りの音も。
全部が、明日へ向かっていた。
「明日、楽しみだね」
ミカゲが言うと、父が頷いた。
「ああ。きっといい日になる」
母も頷いた。
「そうね。きっと楽しい日になるわ」
ミカゲは笑った。
「うん」
それから布団に入って、目を閉じた。
明日は豊穣祭。
美味しいものを食べて、たくさん笑って、剣の英雄の話もして。
きっと、忘れられない一日になる。
ミカゲはそう思いながら、眠りに落ちた。




