第1話「原罪」
ミカゲは、剣の英雄が好きだった。
どれくらい好きかと言えば、朝起きてすぐに枕元の本を開いて、夜眠る前にも同じ本を胸に抱いて寝てしまうくらいには好きだった。
分厚い本だった。
子供の手には少し重くて、角は何度も読んだせいで丸くなっている。表紙には、古い絵で描かれた六人の英雄がいた。
剣の英雄。
盾の英雄。
癒しの英雄。
風の英雄。
豊穣の英雄。
そして、死の英雄。
その中でミカゲが一番好きなのは、やっぱり剣の英雄だった。
細かいことはまだよく分からない。国をどう守ったとか、どんな戦いに勝ったとか、そういう難しい話は読んでいる途中で少し眠くなることもあった。
けれど、絵の中の剣の英雄は、いつだって真っ直ぐ立っていた。
誰かの前に立って、誰かを守るように剣を構えている。
それが、ミカゲにはたまらなく格好よかった。
「お母さん、見て。ここ」
ミカゲは食卓に本を広げ、指で挿絵を叩いた。
朝食のスープをよそっていた母は、振り返って柔らかく笑う。
「また剣の英雄?」
「うん。だって格好いいもん」
「昨日も同じところを見せてくれたわよ」
「昨日とは違うよ。今日はここ」
ミカゲが指差したのは、剣の英雄が巨大な魔物に立ち向かう絵だった。
ただし、古い本の絵なので、魔物はあまり怖く描かれていない。大きな影のようなものに、牙と爪を付け足したような姿をしていた。
それでもミカゲは真剣だった。
「ほら、ここ。みんなが逃げてるのに、剣の英雄だけ前に出てる」
「そうね」
「すごいよね」
「そうね。すごいわね」
母はそう言って、ミカゲの前にスープの器を置いた。
湯気がふわりと上がる。
野菜の甘い匂いがした。
ミカゲは本を閉じようとして、でももう一度だけ挿絵を見た。剣を構える英雄。背中を預ける人々。その前に立つ姿。
やっぱり格好いい。
いつか、自分も。
そう思いかけたところで、父が横から本を覗き込んだ。
「ミカゲは本当に剣の英雄が好きだなあ」
「うん。好き」
「じゃあ、将来は剣の英雄になるのか?」
父がからかうように言うと、ミカゲはぱっと顔を上げた。
「なれるかな?」
その声があまりにも真剣だったので、父は少しだけ困った顔をした。
母も、スープをよそう手を止める。
「……なりたいの?」
「うーん」
ミカゲは首を傾げた。
なりたい。
と、すぐ言えるほど簡単ではなかった。
剣の英雄は格好いい。憧れる。けれど、本の中の英雄は、いつも大変そうでもあった。戦って、傷ついて、誰かを守って、また戦っている。
それが本当に自分にできるのかは、分からない。
「なれるなら、なりたいかも」
だから、ミカゲはそう答えた。
父と母は顔を見合わせた。
少しだけ笑って、少しだけ寂しそうな顔をした。
「ミカゲ」
母が椅子に座り、ミカゲの頭を撫でた。
「英雄はね、すごい人たちよ。みんなのために頑張ってくれる、とても立派な人たち」
「うん」
「でも、お母さんはね。ミカゲがそんな大層なものにならなくてもいいと思ってる」
「大層?」
「すごすぎるってこと」
父が横から言った。
「英雄なんてものは、なるのも大変だし、なった後も大変だ。たくさんのものを背負わないといけない」
「背負う?」
「そうだな……重い荷物をずっと持つみたいなものかな」
ミカゲは自分の小さな手を見た。
重い荷物。
自分に持てるだろうか。
剣の英雄は、持てるから英雄なのかもしれない。
「だからな、ミカゲ」
父はミカゲの向かいに座ると、少しだけ真面目な顔で言った。
「お父さんは、ミカゲが好きなように育ってくれたらそれでいい」
「好きなように?」
「そう。剣が好きなら剣を習ってもいい。本が好きなら本を読めばいい。お菓子が好きならお菓子屋さんになってもいい」
「お菓子屋さん……」
ミカゲは少し想像した。
剣を持って魔物に立ち向かう自分。
それから、焼きたてのお菓子を並べている自分。
どちらも少しだけ楽しそうだった。
「でも、剣の英雄はお菓子屋さんじゃないよ」
「剣の英雄がお菓子を焼いたっていいだろう」
父が真顔で言った。
母が吹き出した。
ミカゲもつられて笑った。
「剣の英雄の焼いたクッキー?」
「すごく硬そうね」
「剣で切らないと食べられないかも」
「それはもうクッキーじゃないよ」
三人で笑った。
窓の外では、朝の光が通りを照らしていた。
メーランの街は、朝から賑やかだった。パン屋の焼き上がりを知らせる鐘が鳴り、隣の家のおばさんが洗濯物を干しながら誰かと話している。遠くからは、荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえた。
何も特別ではない朝だった。
ミカゲはスープを一口飲んで、ほっと息をつく。
「おいしい」
「よかった」
「お母さんのスープ、好き」
「じゃあ、おかわりもあるわよ」
「いる」
元気よく器を差し出すミカゲを見て、父はまた笑った。
「英雄になる前に、まずは朝ごはんをちゃんと食べないとな」
「食べるよ。剣の英雄もいっぱい食べてたと思う」
「そうか?」
「強いから」
「なるほど。強い人はいっぱい食べる」
「うん」
ミカゲは大きく頷いた。
その理屈が正しいかどうかは分からなかったけれど、ミカゲの中ではもう決まっていた。
剣の英雄は、きっとよく食べる。
だって強いから。
朝食を終えると、父は仕事へ向かう準備を始めた。
母は皿を片付けながら、ミカゲに言う。
「今日はおばあちゃんのお店に行くんでしょう?」
「うん!」
ミカゲの祖母は、街で小さな料理屋をしている。
大きなお店ではないけれど、昼時には近所の人たちでいっぱいになる。ミカゲはその店が好きだった。
煮込み料理の匂い。
木の椅子がきしむ音。
お客さんたちの笑い声。
祖母が「いらっしゃい」と言う時の、少し低くて優しい声。
どれもミカゲにとっては、安心するものだった。
「おばあちゃんの邪魔をしちゃだめよ」
「しないよ」
「本当に?」
「ちょっとしかしない」
「ちょっとはするのね」
母が呆れたように笑った。
ミカゲは本を胸に抱えた。
「剣の英雄の話、してくる」
「おばあちゃん、また聞かされるのか」
父が靴紐を結びながら言った。
「またじゃないよ。今日は違うところ」
「そうかそうか」
父は立ち上がると、ミカゲの頭にぽんと手を置いた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
「お父さんが帰ってくるまでに、英雄になっていないようにな」
「分かんないよ」
「え、困るな」
「もしなってたら、剣でおかえりってする」
「怖いなあ」
父は笑って、家を出ていった。
母はその背中を見送ってから、ミカゲの髪を軽く整えた。
「夕方には帰ってくるのよ」
「うん」
「寄り道しすぎないこと」
「うん」
「知らない人についていかないこと」
「うん」
「本を読みながら歩かないこと」
「……うん」
「今、少し間があったわね」
「なかったよ」
母は疑うように目を細めたが、すぐに笑った。
「気をつけてね」
「はーい」
ミカゲは元気よく返事をして、家を飛び出した。
空は青く、風は穏やかだった。
街の石畳を踏むたび、胸に抱いた本が少し揺れる。ミカゲは走り出したいのを我慢しながら、祖母の店へ向かった。
途中、何度も本を開きたくなった。
けれど母に言われたばかりなので、今日は我慢した。
少しだけ。
ほんの少しだけ、角を曲がるところで開いたけれど、それは読んだうちに入らないと思う。
祖母の店に着くと、ちょうど仕込みの最中だった。
扉を開けた瞬間、野菜と肉を煮込む匂いがミカゲを包み込む。
「おばあちゃん!」
「おや、ミカゲ。今日も元気だね」
祖母は鍋の前で振り返った。
白い髪を後ろでまとめ、袖をまくっている。皺のある手は忙しそうに動いていたが、ミカゲを見る目はいつも優しかった。
「またその本かい」
「うん。今日はここ」
「はいはい。手を洗ってから見せておくれ」
「はーい」
ミカゲは言われた通りに手を洗い、それから椅子に座って本を開いた。
祖母は作業の合間に、ミカゲの話を聞いてくれた。
剣の英雄がどれだけ格好いいか。
盾の英雄がどれだけ頑丈そうか。
癒しの英雄はきっと優しい人だとか。
風の英雄は空を飛べるのかとか。
豊穣の英雄が雨を降らせる話はすごいとか。
死の英雄のところになると、ミカゲは少しだけ声を落とした。
「死の英雄って、どこにいるのかな」
祖母は包丁を動かす手を止めた。
「さあねえ」
「本には、永らく行方が分からないって書いてある」
「そうだね」
「死の英雄なのに?」
「英雄にも、色々あるんだよ」
「色々?」
「人にはそれぞれ事情があるってことさ」
ミカゲには少し難しかった。
けれど祖母がそう言うなら、そうなのだろうと思った。
「でも、剣の英雄はいるよね」
「いるとも」
「会えるかな」
「さあ。ミカゲがもう少し大きくなったら、会えるかもしれないね」
「本当?」
「本当かどうかは分からないけど、そう思っていた方が楽しいだろう?」
「うん!」
ミカゲは嬉しくなって、本を抱きしめた。
剣の英雄に会えるかもしれない。
それだけで、今日一日が特別なものになった気がした。
昼になると、店は忙しくなった。
ミカゲは隅の席で大人しくしているつもりだったが、祖母に頼まれて水を運んだり、空いた皿を下げたりした。
「ミカゲちゃん、偉いねえ」
近所のおじさんにそう言われて、ミカゲは胸を張った。
「私は剣の英雄になるかもしれないから」
「おお、それはすごい」
「でもお菓子屋さんになるかもしれない」
「それもすごいな」
「剣で切らないと食べられないクッキーを作るかも」
「それは歯が折れそうだ」
おじさんが大げさに顎を押さえると、周りのお客さんたちが笑った。
ミカゲも笑った。
祖母も、鍋をかき混ぜながら笑っていた。
その日は、ずっと穏やかだった。
お客さんが来て、帰っていく。
誰かがくだらない話をして、誰かがそれに笑う。
祖母が料理を出し、ミカゲが少しだけ手伝う。
夕方になる頃には、店の中に差し込む光が赤くなっていた。
「そろそろ帰りなさい」
祖母が言った。
「えー」
「えーじゃない。お母さんと約束したんだろう」
「うん」
「また明日おいで」
「明日も来ていい?」
「もちろん」
ミカゲはぱっと笑った。
祖母はその頭を撫でる。
「転ばないようにね」
「転ばないよ」
「本を読みながら歩かない」
「……読まないよ」
「今、間があったね」
「なかったよ」
今日二度目のやり取りに、ミカゲは少しだけ口を尖らせた。
祖母は楽しそうに笑う。
ミカゲは本を抱え直して、店を出た。
夕方の街は、朝とは少し違う匂いがした。
夕飯の支度をする家々から、焼いた魚や煮込みの匂いが漂ってくる。空は茜色で、遠くの屋根の上に鳥がとまっていた。
ミカゲは家に向かって歩いた。
途中で、広場の方から子供たちの笑い声が聞こえた。
少しだけ足を止める。
帰らないといけない。
母と約束した。
でも、少しだけなら。
ミカゲは広場の方を見た。
それから、自分の家の方を見る。
もう一度、広場を見る。
「……ちょっとだけ」
そう言って、ミカゲは走り出した。
家に帰った時、空はもうかなり暗くなっていた。
扉を開けると、母がすぐに振り返った。
「ミカゲ」
「ただいま!」
「おかえり。遅かったわね、どこか行ってたの?」
母は怒っているというより、少し心配していた顔だった。
ミカゲは靴を脱ぎながら、首を傾げる。
「あれ? どこだっけ? まあいいや、それよりね!」
ミカゲはぱっと顔を輝かせた。
「おばあちゃんのお店でね、私、水を運んだんだよ! そしたら偉いって言われた!」
「あら、そうなの」
「あとね、剣で切らないと食べられないクッキーの話したら、みんな笑ってた!」
「またその話をしたの?」
「だって面白いもん」
母は小さく息をついて、それから笑った。
「手を洗ってきなさい。夕飯にするわよ」
「はーい」
ミカゲは洗面所へ向かいながら、今日あったことを次々に話した。
祖母の店のこと。
おじさんが顎を押さえていたこと。
剣の英雄にいつか会えるかもしれないこと。
死の英雄はどこにいるのか、祖母にも分からなかったこと。
母は台所で相槌を打ちながら聞いてくれた。
しばらくして、父も帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり!」
ミカゲは駆け寄って、父の腰に抱きついた。
「今日は英雄になったか?」
「まだ」
「まだか」
「でも水を運んだ」
「それは英雄への第一歩だな」
「でしょ」
ミカゲは得意げに胸を張った。
夕飯の席でも、ミカゲはずっと話し続けた。
剣の英雄のこと。
祖母の店のこと。
明日も行っていいと言われたこと。
お菓子屋さんになる可能性もあること。
父と母はそれを聞きながら、時々笑って、時々頷いた。
食卓の上には、温かい料理が並んでいた。
窓の外では夜が深くなっていく。
家の中には灯りがあり、スープの匂いがあり、父の笑い声と母の優しい声があった。
ミカゲはその全部が好きだった。
剣の英雄は格好いい。
いつか会ってみたい。
いつか、自分も誰かを守れるようになりたい。
けれど今は、父と母と一緒にご飯を食べて、明日も祖母の店に行って、また本を読んで、たくさん話して、たくさん笑えたらそれでよかった。
それがずっと続くのだと、ミカゲは当たり前みたいに思っていた。
夜、眠る前。
ミカゲは布団の中で、また本を開いた。
剣の英雄が、誰かを守るように立っている。
その姿を見ながら、ミカゲは小さく呟いた。
「やっぱり、格好いいなあ」
隣の部屋から、母の声がした。
「ミカゲ、もう寝なさい」
「はーい」
ミカゲは返事をして、本を閉じた。
胸の上に本を置き、目を閉じる。
明日もきっと、同じように朝が来る。
父がいて、母がいて、祖母の店があって、街の人たちが笑っていて、剣の英雄の本がある。
それだけで、ミカゲの世界は十分すぎるほど満たされていた。
だからミカゲは、何も知らないまま眠った。
自分がその日、どこへ行っていたのかも。
そこで何が始まっていたのかも。
何も知らないまま。
ただ、いつも通りの明日を信じていた。




