プロローグ「あなたの墓の前で」
どうして、ここに来たのだろう。
ミカゲは、石畳の小道をゆっくりと歩きながら、何度目かも分からない問いを胸の内で繰り返した。
風は穏やかだった。
陽は傾きかけていて、墓地の端に植えられた木々の影が、長く、静かに伸びている。名前も知らない白い花が、足元の隙間から顔を出していた。
古い墓地だった。
王都から少し離れた丘の上にある、誰かに語られることも少なくなった場所。立派な墓もあれば、もう刻まれた文字が読めなくなった石もある。祈る者のいなくなった墓は、ただそこに在り続けて、風と雨に削られていく。
ミカゲは、もう若くはなかった。
かつて剣を握っていた手は細くなり、指先には皺が刻まれている。背筋はまだ伸びていたが、歩く速度は昔のようにはいかない。白くなった髪を後ろでまとめ、黒い外套を羽織った姿は、どこにでもいる老女のようにも見えた。
けれど、その目だけは違っていた。
深く、静かで、どこか遠いものを見ているような目。
まるで長い長い夢の終わりから、まだ完全には目を覚ませずにいる者の目だった。
ここに来るつもりなどなかった。
朝、目を覚ました時から、胸の奥に小さなざわめきがあった。ただの思いつきではない。懐かしさとも違う。もっと曖昧で、もっと抗いがたい何か。
誰かに呼ばれたような気がした。
名前を呼ばれたわけではない。
声が聞こえたわけでもない。
それでも、ミカゲはここまで来てしまった。
丘を登り、門をくぐり、並ぶ墓石の間を歩いているうちに、足は自然とひとつの墓の前で止まった。
古い墓だった。
だが、荒れてはいなかった。花が供えられ、石は丁寧に拭かれている。誰かが今も、ここを訪れているのだと分かる。
刻まれた名を、ミカゲは見下ろした。
知らない名前だった。
少なくとも、そう思った。
けれど、胸の奥が小さく痛んだ。
なぜだろう。
知らないはずなのに。
会ったこともないはずなのに。
その墓の前に立った瞬間、指先がかすかに震えた。
「……どうして」
呟いた声は、風に溶けた。
ミカゲは墓石に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
触れてはいけない気がした。
触れたら、何かが戻ってきてしまうような気がした。
戻ってきてほしいような。
戻ってきてほしくないような。
そのどちらもが本当で、ミカゲはしばらく何もできずに立ち尽くした。
「あの」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには若い女性が立っていた。二十代半ばほどだろうか。腕には花を抱え、その隣には小さな女の子がいる。
女の子は、まだ六つか七つくらいに見えた。
水色の髪を高い位置で結んだ、ポニーテールの少女だった。
その髪が風に揺れた瞬間、ミカゲの喉がひゅ、と狭まった。
なぜか、息が詰まった。
少女は不思議そうにミカゲを見上げている。大きな目。少しきょとんとした顔。警戒というより、ただ知らない人を見つけた子供の素直な好奇心。
その顔に、誰かが重なった気がした。
けれど、すぐに消えた。
「すみません。もしかして、こちらのお墓にご用でしたか?」
若い女性が、気遣うように尋ねた。
ミカゲは答えようとして、言葉に詰まった。
用があるのか。
ないのか。
自分でも分からない。
「……分かりません」
正直に、そう答えた。
女性は少し驚いたように瞬きをした。
「分からない?」
「ええ。なぜか、ここに来なければならない気がして」
口にしてみると、ひどく頼りない理由だった。
けれど女性は笑わなかった。
ただ少しだけ表情を柔らかくして、墓石に視線を落とす。
「そうですか」
そして、抱えていた花を墓前に供えた。
少女もそれに倣って、小さな手を合わせる。ぎゅっと目を閉じて、真面目に祈っている。その仕草があまりにも一生懸命で、ミカゲは思わず目を細めた。
祈りを終えると、少女はぱっと顔を上げた。
「おばあちゃん、今日も来たよ」
墓に向かって、明るく言う。
おばあちゃん。
ミカゲはその言葉を聞いて、静かに視線を落とした。
この墓の主は、この子の祖母なのだ。
そう理解した瞬間、胸の奥にあった痛みが、ほんの少しだけ形を持った。
「あなたの……お祖母様ですか」
「はい」
若い女性が頷いた。
「私の祖母です。この子にとっては、曾祖母ですね」
「……そう」
ミカゲは墓石を見つめた。
知らない名前。
知らない人生。
けれど、なぜだろう。
その人が笑っていたような気がした。
台所に立っていたような気がした。
誰かの髪を梳いていたような気がした。
小さな手で、不器用に皿を並べていたような気がした。
何も知らないはずなのに。
知らない光景ばかりが、瞼の裏で水面のように揺れた。
「見ますか?」
若い女性が言った。
ミカゲは顔を上げる。
「写真、ありますよ。祖母の若い頃のものです」
女性は鞄から、小さな写真入れを取り出した。
古びた写真だった。
色は少し褪せている。けれど、そこに写る少女の姿は、はっきりと分かった。
水色の髪をポニーテールにした少女が、笑っていた。
心の底から嬉しそうに。
少し照れたように。
誰かに向けて、まっすぐに。
その手には皿があった。料理を乗せた皿。隣にいる誰かへ差し出しているようにも見える。
ミカゲは、その写真を見た瞬間、呼吸を忘れた。
世界から音が消えた。
風も。
鳥の声も。
隣で何かを話す少女の声も。
すべてが遠くなった。
水色の髪。
穏やかな笑顔。
細い指。
少し不器用そうな立ち姿。
知っている。
知らない。
知っているはずがない。
それなのに。
ミカゲの目から、涙が一筋こぼれた。
「あぁ……」
自分でも驚くほど、かすれた声だった。
「よく、笑ってるね……」
写真の中の少女は、幸せそうだった。
何も背負っていないわけではないだろう。
何も失わなかったわけでもないだろう。
けれど、それでも笑っていた。
誰かに料理を作って。
誰かに喜んでほしくて。
自分の居場所を、ちゃんとそこに持っている顔だった。
ミカゲは胸を押さえた。
苦しい。
なのに、暖かい。
悲しい。
なのに、救われる。
こんな感情を、なんと呼べばいいのか分からなかった。
若い女性が、戸惑ったようにミカゲを見つめている。
「失礼ですが……祖母をご存じだったんですか?」
ミカゲはすぐには答えられなかった。
知っている。
そう言い切るには、あまりにも記憶は遠い。
知らない。
そう言い切るには、あまりにも涙が止まらない。
少女が、ミカゲの外套の裾を小さく引いた。
「おばあちゃんの、おともだち?」
その声に、ミカゲはゆっくりと膝を折った。
少女と目線を合わせる。
水色の髪が揺れている。
かつて見たことのあるような、ないような色。
ずっと探していたような色。
ミカゲは震える手を伸ばしかけて、けれど触れなかった。
代わりに、微笑もうとした。
うまく笑えたかは分からない。
「……そうだね」
ミカゲは言った。
声が震えていた。
「信じられない話かもしれないけど……」
写真の中の少女が、笑っている。
墓前に供えられた花が、風に揺れる。
忘れていたはずの何かが、遠い場所から戻ってくる。
剣を握った理由。
雨の日の匂い。
誰かが作ってくれた朝食。
水色の髪に触れた指先。
助けて、と言えなかった声。
助けに行くと誓った言葉。
そして、絶望の果てに見た虹。
ミカゲは墓石を見つめた。
そこに眠る人へ。
かつて、どこかで確かに出会った人へ。
どんなに世界が違っても、忘れてはいけなかった人へ。
ゆっくりと、息を吸う。
そして、静かに語り始めた。
「私にとって彼女は――」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでも気になっていただけましたら、続きも読んでいただけると嬉しいです。




