第41話「忌子」
白い空間に、黒い影が落ちている。
ナラクはその中心に立っていた。
顔の半分は影に覆われている。
表情は読みにくい。
怒っているようにも見えた。
疲れているようにも見えた。
何も見ていないようにも見えた。
ツカサは、ツバサの手を握っていた。
ツバサの手は小さい。
体温はない。
それでも、その手を離したくなかった。
周囲には、たくさんの人影がいる。
死の力に関わった人たち。
ここに残り続けている人たち。
誰もナラクへ近づかない。
けれど、誰も目を逸らしきれない。
怖いから。
憎いから。
たぶん、どちらもあった。
「話そう」
ナラクは言った。
声は低かった。
「死の英雄が、どうして忌子になったのかを」
ツカサは唇を引き結んだ。
聞きたくないと思った。
でも、聞かなければならない気もした。
自分の中にいたもの。
ツバサの命を奪うきっかけになったもの。
エイルを殺し、フェリクスを殺し、街の人たちを殺した力。
その始まり。
ナラクは白い床へ視線を落とした。
床が揺れる。
水面のように光が広がった。
そこに、景色が映る。
古い時代の戦場だった。
◇
空が煙で黒くなっていた。
地面には倒れた兵が重なっている。
旗が折れている。
炎が上がっている。
その中を、一人の人物が歩いていた。
黒い髪。
まだ若い顔。
手には、刃のない黒い槍のようなものを持っている。
その人が腕を振ると、倒れていた兵の傷が止まった。
別の場所では、病に苦しむ者たちの呼吸が落ち着いた。
腐りかけていた水が澄んでいく。
死に近いものを、遠ざけているようだった。
ツカサはその光景を見つめた。
「あれが」
ナラクは答えなかった。
けれど、分かった。
あれが、死の英雄だった頃のナラク。
人々を殺すためではなく、死を遠ざけるために力を使っていた頃。
その力は強かった。
あまりに強かった。
戦場で死にかけた者を引き戻す。
病の広がりを止める。
敵の命を奪り、味方の命を繋ぐ。
死に触れ、死を操り、死を押し返す。
戦争の中では、必要とされた。
誰もがその力を求めた。
英雄と呼んだ。
救いだと言った。
床の景色が変わる。
戦争が終わった後の街。
人々が笑っている。
旗が掲げられ、鐘が鳴っている。
英雄たちが並び、人々が歓声を上げている。
剣。
盾。
癒し。
風。
豊穣。
そして、死。
ナラクもそこにいた。
けれど、その周囲だけ、少し距離があった。
歓声はある。
感謝もある。
でも、人々は近づきすぎない。
子どもが母親の後ろに隠れる。
兵が目を伏せる。
誰かが囁く。
あの力は、本当に必要なのか。
もう戦争は終わったのに。
あの人は、いつでも命を奪えるのではないか。
死を扱う者を、近くに置いていいのか。
声は小さい。
でも、数が増えていく。
ツカサの胸が重くなった。
ナラクは景色を見ている。
昔の自分を。
人々の視線を。
その横顔は、動かなかった。
「救った」
ナラクが言った。
静かな声だった。
「戦場で、何度も救った。死にかけた者を戻した。病を止めた。水を清めた。敵を殺して、味方を生かした」
言葉は淡々としている。
でも、その奥に何かがあった。
熱ではない。
燃え残った灰のようなもの。
「それでも、終われば残るのは恐れだけだった」
床の景色がまた変わる。
広い部屋。
石造りの議場。
人々が並んでいる。
その中央に、ナラクが立っていた。
手枷をつけられている。
周囲には兵がいる。
かつて救ったはずの人々が、遠巻きに見ている。
誰も助けない。
誰も庇わない。
ひそひそとした声だけがある。
危険だ。
力を封じるべきだ。
次に戦争が起きたら、あの力は国を滅ぼす。
平和な時代に、死の力はいらない。
ツカサは息が苦しくなった。
人々を救った力。
それが、平和になった途端に不要になった。
不要になっただけではない。
恐れられた。
残しておくべきではないものとして扱われた。
ナラクは、議場の中心で何も言っていない。
何も言えなかったのか。
言う気がなかったのか。
分からない。
ただ、目だけが暗かった。
景色の中で、判決が下る。
言葉までは聞こえない。
でも、意味は分かった。
処刑。
ナラクは殺される。
◇
白い空間で、誰かが小さく息を呑んだ。
歴代の宿主の一人だった。
中年の女性。
その目は、ナラクを憎んでいた。
でも、床に映る景色からは目を逸らせないでいる。
ナラクは続けた。
「恨んだ」
短い言葉だった。
ツカサはナラクを見る。
「当然だろう」
ナラクは少しだけ顔を上げた。
「救えと言われた。殺せと言われた。勝てと言われた。終わらせろと言われた。終われば、消えろと言われた」
声が低くなる。
「だから恨んだ」
床の景色が暗くなる。
処刑場。
雨は降っていない。
乾いた空。
人々の視線。
処刑台の上のナラク。
かつて英雄と呼ばれた人。
その首が落ちる。
ツカサは思わず目を背けた。
でも、景色は消えなかった。
首が落ちた瞬間、黒い影が広がった。
血のように。
煙のように。
ナラクの体から何かが剥がれ、床を這い、人々の足元へ伸びる。
人々が悲鳴を上げる。
誰かが倒れる。
誰かの命が抜ける。
そこから先は、景色が乱れた。
黒。
赤。
叫び声。
誰かの泣く声。
そして、ナラクの声。
許さない。
許さない。
許さない。
何度も。
何度も。
ツバサがツカサの手を強く握った。
ツカサも握り返す。
床の景色がまた変わる。
今度は、見知らぬ少年だった。
まだ幼い。
その体の中に、黒い影が宿る。
少年は泣いている。
やめてと叫んでいる。
でも、手が勝手に動く。
人を殺す。
大切な人を傷つける。
周囲の人々が少年を恐れる。
少年は逃げる。
最後には、自分の首に刃を当てる。
景色が途切れる。
次。
若い女。
誰かの妻だったのかもしれない。
腹に手を当てて泣いている。
その周囲に、倒れた人がいる。
黒い影が伸びる。
女は何度も謝る。
最後には、崖から身を投げる。
次。
老人。
次。
子ども。
次。
兵士。
次。
母親。
次。
知らない誰か。
何度も。
何度も。
誰かに宿り、誰かに殺させ、誰かを壊した。
そして、その宿主は最後に自分で死んだ。
どの顔も、周囲にいる人影と重なっていく。
ツカサは理解した。
ここにいる人たちは、ただ死の力に関わった人ではない。
ナラクに宿られた人たち。
忌子にされた人たち。
自分と同じように、人を殺し、自分で死んだ人たち。
その人たちが、ここにいる。
ずっと。
ナラクと同じ場所に。
◇
「やめて」
ツバサが言った。
小さな声だった。
でも、白い空間に響いた。
ナラクはツバサを見る。
ツバサの目には、はっきりと憎しみがあった。
「もう見せないで」
ツバサの声は震えている。
「お姉ちゃんに、これ以上見せないで」
ナラクはしばらく黙っていた。
それから、床の景色が消えた。
白い光だけが戻る。
ツバサはナラクを睨んでいた。
「あなたのせいで、私は死んだ」
ツカサの胸が痛んだ。
ツバサは続ける。
「お姉ちゃんも、あんなことになった」
ナラクは何も言わない。
「私たちは、あなたの復讐の道具じゃない」
白い空間が静まり返る。
周囲の宿主たちも、ナラクを見ていた。
憎しみ。
怒り。
諦め。
その全部が、静かに向けられている。
誰かが呟いた。
「私の子は、まだ小さかった」
別の誰かが言った。
「私は夫を殺した」
若い男が、拳を握る。
「俺は村を焼いた」
老人が、かすれた声で言う。
「頼んでいない。誰も、頼んでいない」
ナラクは、それらを聞いていた。
反論しなかった。
怒鳴り返しもしなかった。
ただ、聞いていた。
ツカサはナラクの顔を見る。
そこには、勝ち誇った顔などなかった。
何かを諦めたような顔。
責められることに慣れすぎた顔。
けれど、後悔だけでもない。
まだ奥に、消え残った恨みがある。
人を恨んでいる。
人に捨てられたことを。
殺されたことを。
用済みだと見られたことを。
それは確かにある。
でも、それだけではなかった。
その恨みは、きっと長い時間の中で薄れていった。
薄れていったはずなのに。
それでも、ナラクは止まらなかった。
止まれなかった。
自分で作った復讐の形に縛られている。
自分で吐いた呪いに押され続けている。
終わりたいのに、終われない。
そんな顔だった。
「……最初は」
ナラクが口を開いた。
誰も言葉を挟まない。
「最初は、確かに復讐だった」
声は低い。
「自分を殺した者たちが憎かった。恐れた者たちが憎かった。助けを求めておきながら、平和になった途端に目を逸らした者たちが憎かった」
ツカサは黙って聞いた。
「だから、殺した」
ナラクは言った。
「殺させた」
周囲の人影たちが、強く息を呑む。
怒りが濃くなる。
ナラクは目を伏せた。
「だが、何も終わらなかった」
その声は、少しだけ掠れていた。
「誰を殺しても、何人殺しても、何も戻らない。何も満たされない。恨みは薄れた。顔も忘れた。名も忘れた。何を奪われたのかさえ、遠くなった」
ナラクは自分の手を見る。
黒い影が指先からこぼれる。
「それでも、止まらない」
白い空間に、その言葉だけが残った。
「何かが動かす。呪いと呼んでもいい。怨念と呼んでもいい。私自身と呼んでもいい」
ナラクの声が沈む。
「もう、どれが始まりだったのかも分からない」
ツカサの背筋が冷たくなる。
ナラク本人でさえ、自分を動かしているものが分からない。
恨み。
呪い。
力。
過去。
自分自身。
その全部が絡まりすぎて、ほどけなくなっている。
「死の英雄は、もういない」
ナラクは静かに言った。
「残ったのは、死に縛られたものだけだ」
誰かが吐き捨てるように言った。
「忌子」
ナラクは否定しなかった。
別の誰かが続ける。
「ナラク」
その名が、白い空間に落ちた。
死の英雄ではない。
忌子。
ナラク。
人を救った英雄の名前が歪んだのか。
怨念につけられた名なのか。
それは分からない。
でも、その瞬間、ツカサは理解した。
死の英雄は、忌子に変わった。
そして、その忌子を人々はナラクと呼んだ。
ナラクは、自分ではそう言わなかった。
ただ、否定もしなかった。
◇
ツカサは胸元を握った。
痛くもないはずの胸が重い。
「じゃあ」
声が出るまでに時間がかかった。
「私の中にいたのは」
「私だ」
ナラクは答えた。
「死の英雄の力でもあり、忌子でもあるものだ」
「ツバサに宿っていたのも」
「ああ」
ツバサの手が震える。
ツカサはその手を握り返した。
「シス村の人たちは」
「死の英雄を崇めていたつもりだったのだろう」
ナラクの声には、何の慰めもなかった。
「だが、宿ったのは英雄ではない」
ツバサの顔が歪む。
「だから、お姉ちゃんに移された」
ナラクは何も言わない。
沈黙が肯定だった。
ツカサは息が苦しくなる。
ツバサに宿ったもの。
ツバサの命と一緒に自分へ渡されたもの。
それが、ナラク。
忌子。
自分はずっと、その力で生きていた。
その力でミカゲを生かした。
その力で人を殺した。
「私が、選んだことでもある」
ツカサは言った。
ツバサが顔を上げる。
「お姉ちゃん」
「ナラクだけのせいじゃない」
声は震えていた。
「私が、ミカゲを生かしたくて殺した。私が、言えなくて嘘をついた。私が、自分で死んだ」
ナラクを庇いたいわけではない。
憎くないわけでもない。
でも、全部をナラクのせいにしたら、自分がしたことまで嘘になる気がした。
エイルの顔。
フェリクスの笑い。
街の人たち。
それを、誰かのせいだけにはできなかった。
ナラクはツカサを見る。
少しだけ、目が細くなった。
「だから、最高の器かもしれないと思った」
ツカサはその言葉に、嫌悪で顔を歪めた。
「やめて」
「だが、お前も同じ道を選んだ」
ナラクの声には責める響きはない。
ただ、事実だけがある。
「自分で死んだ」
ツカサは黙った。
その通りだった。
耐えられなかった。
言えなかった。
見られたくなかった。
そして、自分で胸を貫いた。
歴代の宿主たちと同じように。
ツバサがツカサの腕にしがみつく。
「もういい」
ツバサは言った。
「お姉ちゃんは、ここにいればいい」
ツカサはツバサを見る。
「ここに?」
「うん」
ツバサの声は必死だった。
「もう戻らなくていい。もう痛いことしなくていい。ミカゲちゃんのことも、世界のことも、もう置いていい」
「ツバサ」
「だって、お姉ちゃんはもう死んだんだよ」
ツバサの目に涙はない。
でも、泣いているように見えた。
「ここにいよう」
その言葉は優しかった。
あまりにも優しくて、ツカサの胸に深く刺さった。
「私と一緒にいよう。ずっと待ってたんだよ」
ツカサは答えられなかった。
ツバサと一緒にいたい。
今度こそ。
何も殺さず。
何も隠さず。
ただ、隣にいたい。
それは、ツカサがずっと欲しかったものだった。
白い空間は静かだった。
ナラクも、周囲の宿主たちも、何も言わない。
ツバサはツカサの手を握っている。
その手を握り返せば、ここに残れる気がした。
もう何も見なくていい。
ミカゲの泣き顔も。
エイルの死体も。
フェリクスの血も。
自分が殺した人たちも。
ここにいれば、全部から目を逸らせる。
ツカサは目を閉じた。
ミカゲの声が、耳の奥に残っている。
何かあったんでしょ?
うん。
色々、あった。
けど言えない。
そして、自分は死んだ。
何も言わずに。
何も終わらせずに。
ツカサはツバサの手を握ったまま、立ち尽くしていた。
白い光の中で、黒い影だけが静かに揺れている。
ナラクは、何も言わなかった。
ただ、終われなかったものの顔で、ツカサを見ていた。




