第42話「この世界の明日へ」
ツバサの手は、小さかった。
ツカサはその手を握ったまま、白い空間に立っていた。
ここにいよう。
ツバサはそう言った。
その言葉は、あまりにも優しかった。
ここなら、もう誰も殺さなくていい。
誰にも嘘をつかなくていい。
ミカゲに見られなくていい。
責められなくていい。
料理を作る必要もない。
店を開ける必要もない。
朝を迎える必要もない。
ただ、ツバサと一緒にいられる。
何もない場所で。
何も起きないまま。
ツカサは少しだけ、そうしていたいと思った。
思ってしまった。
けれど、白い空間の奥で、光が揺れた。
水面に波紋が広がるように、床が淡く光る。
ツカサは顔を上げた。
「何……?」
ツバサの手が、少し強くなる。
ナラクは何も言わなかった。
周囲にいた宿主たちも、静かにその光を見ている。
白い床の上に、小さな影が浮かび上がった。
少年だった。
六つくらいの男の子。
柔らかそうな髪。
小さな手。
丸い頬。
その目は、綺麗だった。
何も知らない目だった。
恐れも、恨みも、諦めもない。
ただ、誰かに愛されて育ってきた子の目。
その子の後ろに、ぼんやりと景色が見えた。
小さな家。
木の食卓。
湯気の立つ皿。
父親らしき人が笑っている。
母親らしき人が、少年の口元についたものを拭っている。
少年は照れたように笑って、また食べている。
声は聞こえない。
それでも、幸せそうだった。
温かい食事。
家族の手。
当たり前に呼ばれる名前。
眠る前にかけられる布団。
ツカサの胸が、音もなく痛んだ。
少年は何も言わない。
こちらを見ているようで、見ていない。
そこにいるだけだった。
意思のある人間というより、次に渡される場所として現れた存在。
それが、余計に苦しかった。
「この子が」
ツカサの声は掠れた。
ナラクは答えない。
答えなくても分かった。
次の継承者。
ツカサが手を伸ばせば、死の力が渡る。
忌子が渡る。
ナラクが渡る。
この子の人生に。
この子の家族に。
この子の明日に。
ツカサは少年を見つめた。
自分が握っている手の中に、ツバサの感触がある。
目の前には、何も知らない男の子がいる。
そして、内側には分かってしまう感覚があった。
継承しなければならない。
それが、この場所の役目。
死の英雄の力は、次へ渡る。
忌子も、次へ渡る。
自分がここで終わるためには、その子の手を握ればいい。
それだけでいい。
そうすれば、ツカサは終われる。
何もない場所で、ツバサといられる。
地上に戻らなくて済む。
もうミカゲに会わなくて済む。
すべてがばれた世界へ帰らなくて済む。
エイルを殺した自分。
フェリクスを殺した自分。
街の人たちを殺した自分。
ミカゲに嘘をついた自分。
そんな自分が、またあの街に立つ必要がなくなる。
好きだった料理も、もう作れない。
店にも戻れない。
ミカゲの隣にもいられない。
帰ったところで、あるのはもっと深い地獄だけだった。
ツカサは少年へ、ゆっくり手を伸ばした。
少年は動かない。
逃げない。
何も知らないから。
それがどういう意味なのか、知らないから。
ツカサの指先が、少年の手に触れそうになる。
その時、ナラクが静かに言った。
「悪くなかった」
ツカサは止まった。
ナラクは、ツカサを見ていた。
その目に、楽しげな色はなかった。
ただ、遠くを見るような諦めがあった。
「お前は、悪くなかった」
もう一度、ナラクは言う。
「もしかしたら、という淡い夢くらいは見られた」
白い空間は静かだった。
ツカサはナラクの言葉を聞いた。
それは褒め言葉ではなかった。
慰めでもなかった。
期待が外れた後の、静かな別れの言葉だった。
結局、何も変わらなかった。
最高の器かもしれないと思ったツカサも、自分で死んだ。
死の英雄は忌子になり。
忌子はナラクになり。
誰かに宿り。
誰かを殺させ。
宿主は壊れて、自分で死ぬ。
そしてまた、次へ渡る。
何も終わらない。
ツカサが死んでも、終わらない。
この子に渡れば、この子が苦しむ。
この子がいつか誰かを殺す。
この子がいつか、ミカゲを殺すかもしれない。
そうでなくても、仮初の命が尽きて、ミカゲが死ぬかもしれない。
もしミカゲが生き延びても、ずっと先で、大人になったミカゲの大切な人が忌子に殺されるかもしれない。
ミカゲの子ども。
友人。
愛した人。
誰かの朝。
誰かの食卓。
誰かの家族。
この地獄がある限り、どこかでまた壊れる。
ツカサは少年を見た。
何も知らない綺麗な目。
それから、ツバサを見た。
自分のために命を失った妹。
そして、ナラクを見た。
終わりたいのに終われないもの。
最後に、自分の手を見た。
人を殺した手。
ミカゲの髪を梳いた手。
服を縫った手。
料理を作った手。
ツバサからもらった命を、自分で貫いた手。
ツカサは少年の手を握りかけた。
ほんの少し触れる。
冷たくはなかった。
温かくもなかった。
まだ何も始まっていない手だった。
その瞬間、ツカサは歯を食いしばった。
そして、その手を払いのけた。
「受け入れるな!」
声が、白い空間に響いた。
少年は何も言わない。
けれど、光が揺れた。
ツバサが目を見開く。
ナラクも、初めてはっきりとツカサを見た。
「受け入れちゃだめだ」
ツカサは叫んだ。
声が震えていた。
でも、止まらなかった。
「こんなの、受け入れちゃだめだ!」
白い床に波紋が広がる。
歴代の宿主たちが息を呑む。
「愛されて生まれてきた子が、愛されて育った子が、何も知らないままこんなものを渡されるなんて、だめだ」
ツカサの頭に、両親の顔が浮かんだ。
病弱だった自分のそばにいてくれた母。
ツバサと一緒に笑ってくれた父。
食べられない自分に、いつか一緒に食べようと言ってくれた声。
自分も、愛されていた。
ツバサも、愛されていた。
それなのに。
終わりは、あんなだった。
「呪われても、忌み嫌われても、それでも必死に生きた人の終わりが、こんな何もない場所でいいわけない」
周囲の宿主たちが、静かにツカサを見る。
「誰かを殺して、自分を殺して、それで次の子に渡して終わりなんて、そんなの、だめだ」
ツカサはナラクを見る。
ナラクは動かなかった。
でも、その目だけが揺れていた。
「あなたも」
ツカサは言った。
「ずっと待っていたんでしょ」
ナラクの影が、わずかに震える。
「望んじゃいけない。言えるはずもない。自分よりもっとこの世界に罪を刻んで、自分の罪を上書きして、自分を救うんじゃなくて、この永遠の地獄を終わらせてくれる誰かを」
ツカサは一歩、ナラクへ近づいた。
「ずっと」
ナラクは何も言わない。
否定しない。
怒らない。
ただ、その顔が少しだけ歪んだ。
痛みのように。
憎しみのように。
安堵のように。
どれともつかない表情だった。
「私は、あなたを許さない」
ツカサは言った。
「ツバサを巻き込んだことも、私に宿ったことも、たくさんの人を壊したことも」
ナラクは黙っている。
「でも、終わらせる」
ツカサの声が低くなる。
「あなたが背負う地獄も、忌子の仕組みも、それを生み出したこの世界も、全部」
言った瞬間、何かが胸の奥で形になった。
方法。
終わらせる方法。
思いついてしまった。
雨。
アルマが教えてくれた雨。
豊穣の英雄の力。
王都の魔法陣。
世界中へ広がる雨の道。
それを使えば、おそらく
この世界に、ナラク以上の罪を刻める。
未来永劫、誰も上書きできないような、大罪を。
思いついてしまった。
口には出さなかった。
誰にも言わなかった。
ツバサにも。
ナラクにも。
自分の中だけに沈めた。
沈めたまま、ツカサはナラクを見た。
「最後だ」
白い空間が震える。
「私に力を貸せ」
ナラクの影が広がる。
「私を現世に戻せ」
ツカサの目は、もう迷っていなかった。
「全部、終わらせてやる」
ナラクはしばらく黙っていた。
とても長い沈黙だった。
周囲の宿主たちも、何も言わなかった。
ツバサだけが、ツカサの腕を掴む。
「お姉ちゃん」
その声に、ツカサは振り返った。
ツバサは怯えていた。
ツカサがどこへ行こうとしているのか、分かっているわけではない。
何をするつもりなのかも、分かっていない。
それでも、分かることはあった。
ツカサは、もう戻れないところへ行こうとしている。
きっと世界は壊れる。
ツカサは憎まれる。
誰にも許されない。
ずっと苦しむ。
そんな場所へ、自分から歩いていこうとしている。
「行かないで」
ツバサの声は小さかった。
「もういいよ。ここにいようよ。お姉ちゃん、もう死んだんだよ」
「うん」
「なのに、また苦しみに行くの?」
「うん」
「何のために?」
ツカサは少しだけ黙った。
ミカゲの顔が浮かぶ。
朝食を食べて笑っていた顔。
髪を梳かれて照れていた顔。
ケーキで分かりやすく喜んだ顔。
何かあったんでしょ、と小さく聞いた顔。
ツカサは、ツバサの手をそっと握った。
「ただ、どうしても一人だけ」
声は静かだった。
「たった一人だけでも、救いたい人がいる」
ツバサは何も言えなかった。
「その人が、これから生きる世界を」
ツカサは白い空間の先を見る。
そこには何もない。
でも、ツカサには見えていた。
ミカゲが生きる明日。
ミカゲが朝を迎える世界。
そのために、何を失うのか。
もう分かっている。
ツバサの手が震えた。
「お姉ちゃんの目、嫌だ」
ツバサが呟いた。
ツカサは返事をしなかった。
自分でも分かった。
今の自分の目は、いつもの目ではない。
ミカゲの髪を梳いていた時の目ではない。
料理を味見していた時の目でもない。
ただ、強い。
強く、強く、強く。
もう止まらない目。
ツバサはその目を見て、言葉を失った。
止めたい。
けれど、ツカサが選んだことを否定したくない。
でも、その選択がきっとツカサを壊す。
それが分かるから、何も言えない。
ナラクが、ゆっくりと手を上げた。
黒い影が白い空間を裂いていく。
細い亀裂。
その向こうから、現世の匂いがした。
土。
血。
朝の空気。
ミカゲの声の残響。
「行けば、戻れない」
ナラクが言った。
「分かってる」
「今より深い地獄だ」
「分かってる」
「お前は、世界に憎まれる」
「分かってる」
「救われない」
ツカサは少しだけ、ナラクを見た。
「それも、分かってる」
ナラクは目を伏せた。
そして、静かに言った。
「なら、行け」
黒い裂け目が開く。
ツカサはツバサの手を離した。
ツバサが、すぐにまた掴もうとする。
けれど、途中で止まった。
「お姉ちゃん」
ツカサは振り返る。
ツバサの顔は泣きそうだった。
でも、涙は出ない。
この場所に涙があるのかも分からない。
「ちゃんと、帰ってきて」
その言葉に、ツカサは答えられなかった。
帰る場所が残るかどうかも分からない。
自分が帰ってきていいのかも分からない。
だから、嘘は言わなかった。
「ごめんね」
それだけ言った。
ツバサの顔が歪む。
「また謝った」
「うん」
ツカサは少しだけ笑おうとした。
うまくできなかった。
それから、裂け目の方を向く。
少年の姿は、まだ白い光の中にいた。
何も知らない綺麗な目で、こちらを見ている。
ツカサはその子に向かって、小さく言った。
「渡さない」
そして、黒い裂け目へ足を踏み入れた。
◇
胸の痛みが戻ってくる。
血の匂い。
土の冷たさ。
朝の光。
誰かの叫び声。
遠くに、ミカゲの声がある。
ツカサは沈んでいく。
白い空間が遠ざかる。
ツバサの手の感触が消える。
ナラクの影が、自分の中へ戻ってくる。
嫌悪はあった。
憎しみもあった。
それでも、必要だった。
終わらせるために。
ミカゲが生きる世界を救いたい。
たとえそのために、自分が何を失うとしても。
ツカサは目を閉じた。
そして、現世へ落ちた。




