第40話「継承の間」
ツカサの手は、まだ少しだけ温かかった。
ミカゲはその手を握っていた。
強く握れば、何かが戻ってくる気がした。
そんなことはないと分かっていた。
分かっているのに、離せなかった。
「ツカサ」
名前を呼ぶ。
返事はない。
胸の傷から流れた血は、土に染みている。
黒い影は消えていた。
忌子の気配も、少しずつ薄れている。
そこに残っているのは、ただ一人の少女の体だった。
水色の髪が、地面に広がっている。
いつもより乱れていた。
ツカサは、自分の髪をあまり気にしなかった。
ミカゲの髪ばかり見ていた。
ミカゲは震える手で、ツカサの髪に触れた。
土がついている。
血も少しついている。
指で払おうとして、うまくできなかった。
「ねえ」
声が漏れる。
「起きてよ」
ツカサは起きない。
いつもの朝なら、ミカゲより早く起きている。
台所に立っている。
包丁の音がする。
味噌汁の匂いがする。
振り返って、おはようと言う。
でも、今は何もない。
ミカゲはツカサの手を握ったまま、動けなかった。
グランは少し離れた場所で立ち尽くしている。
剣を下ろしていた。
ライトも盾を構えたまま、何も言わない。
まだ危険が残っているかもしれない。
そう判断しているのだと分かる。
でも、その目はツカサの体から離れなかった。
「ミカゲ」
ライトが静かに呼んだ。
「少し、離れろ」
「嫌です」
「まだ分からない」
「もう死んでます」
自分で言って、喉が詰まった。
死んでいる。
言葉にした瞬間、それが形を持った。
ミカゲは首を横に振った。
「でも、離したくない」
ライトはそれ以上、すぐには言わなかった。
グランが唇を噛む。
「……勝手すぎるだろ」
低い声だった。
怒っているのか、泣きそうなのか、分からなかった。
「何も言わねえで、勝手に殺して、勝手に死んで」
グランの手が震えている。
「何なんだよ、それ」
ツカサは答えない。
答えられない。
ミカゲはツカサの手を握り直した。
冷えていく。
少しずつ。
確かに。
「何かあったって、言ったのに」
ミカゲは呟いた。
「言えないって」
それが、ツカサの最後の本音だった。
たぶん。
たったそれだけ。
色々あった。
けど言えない。
ミカゲはその先を聞けなかった。
聞かせてもらえなかった。
問い詰めることも、怒ることも、抱きしめることもできないまま。
ツカサは、自分で終わらせた。
「ずるいよ」
ミカゲの声は小さかった。
「そんなの、ずるい」
朝の光が、木々の隙間から落ちていた。
明るい光だった。
それが、余計に苦しかった。
◇
ツカサは、目を開けた。
最初に見えたのは、白い床だった。
石でも木でもない。
水面のように薄く光っている。
けれど、濡れてはいない。
上も下も分からない場所だった。
空はない。
壁もない。
ただ、遠くまで白い光が続いている。
風はなかった。
匂いもなかった。
音も、ほとんどしない。
ツカサはしばらく、そのまま横たわっていた。
体が軽い。
痛みがない。
胸に手を当てる。
穴はなかった。
血もついていない。
けれど、貫いた感触だけは残っていた。
黒い刃が胸を通った瞬間。
ミカゲの叫び声。
グランの声。
ライトが止めようとした気配。
倒れる時に見えた朝の光。
全部、覚えている。
「私……」
声が出た。
白い場所に、小さく響く。
「死んだんだ」
そう言うと、不思議なくらい静かだった。
怖くないわけではない。
ただ、怖がる力がもう残っていなかった。
ツカサはゆっくり起き上がる。
自分の服を見る。
黒い外套ではなかった。
血で汚れた服でもない。
白い、簡素な衣を着ている。
誰かに着せられたようなものだった。
裸足で立つ。
床は冷たくない。
温かくもない。
歩いても、足音はしなかった。
遠くに、人影が見えた。
一人ではない。
何人もいる。
ぼんやりとした影が、白い光の中に立っている。
ツカサは足を止めた。
誰かがこちらを見る。
大人。
老人。
若い男。
女。
子ども。
顔ははっきりしない。
けれど、皆、同じような目をしていた。
疲れていた。
長く眠れていない人のようにも見えた。
長く待っていた人のようにも見えた。
その中から、一人が歩いてくる。
水色の髪の少女。
ツカサとよく似た顔。
けれど、表情は少しだけ柔らかい。
ツカサは息を止めた。
名前は、考えるより先に口から出た。
「ツバサ」
少女は、少しだけ笑った。
「お姉ちゃん」
その声を聞いた瞬間、ツカサの足から力が抜けそうになった。
懐かしかった。
懐かしすぎて、胸が痛かった。
思い出したくなかったわけじゃない。
でも、思い出せば壊れる。
だから、奥に押し込めていた。
その声が、今、目の前にある。
「ツバサ」
もう一度呼ぶ。
ツバサは近づいてきた。
そして、ためらいなくツカサを抱きしめた。
小さな腕だった。
体温はなかった。
でも、確かにそこにいる。
ツカサは動けなかった。
抱き返していいのか分からなかった。
触れたら、また何かを壊してしまいそうだった。
ツバサはツカサの胸に顔を押し当てる。
「遅かったね」
責めている声ではなかった。
ただ、待っていたような声だった。
ツカサの唇が震えた。
「ごめん」
「うん」
「ごめんね」
「うん」
「私、ツバサの命を」
「うん」
「もらったのに」
声が詰まる。
「こんなことに使った」
ツバサは何も言わなかった。
ツカサはようやく、ツバサの背に腕を回した。
強く抱きしめる。
離したら消えてしまいそうだった。
「捨てなかった」
ツカサは言った。
「捨てられなかった」
あの日。
自分で終わらせようとして。
でも、できなかった。
ツバサからもらった命だったから。
人からもらったものを、捨てられなかった。
それなのに。
「でも、汚した」
声が崩れる。
「たくさん殺した。エイルさんも、フェリクスさんも、街の人も」
「うん」
「ミカゲにも、何も言えなかった」
「うん」
「最後まで、嘘ついた」
「うん」
「ごめん」
謝るたびに、胸の奥が空っぽになっていく気がした。
それでも、他に言葉がなかった。
「ごめんね、ツバサ」
ツバサは少しだけ顔を上げた。
「お姉ちゃん」
ツカサは黙る。
「ここは、謝る場所じゃないよ」
ツカサはツバサを見る。
「じゃあ、何の場所?」
ツバサはツカサから少し離れた。
それから、周りにいる人影たちを見た。
白い光の中に、たくさんの影が立っている。
誰も近づいては来ない。
でも、皆こちらを見ていた。
「継承の間」
ツバサは言った。
その言葉に、白い床がかすかに揺れた。
水面に波紋が広がるように、光が広がっていく。
ツカサは足元を見る。
「継承……」
「死の英雄の力が、次へ渡る場所」
ツバサの声は静かだった。
「それから、死の力に関わった人たちが残っている場所」
ツカサは周囲の影を見る。
大人。
老人。
子ども。
皆、静かに立っている。
その視線が、ツカサの胸に刺さる。
責めているのか。
憐れんでいるのか。
何も思っていないのか。
分からなかった。
「この人たちは」
「ずっとここにいる人たち」
「死の英雄の?」
ツバサはすぐには答えなかった。
少しだけ目を伏せる。
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「私も、全部は知らない」
ツカサは口を閉じた。
ツバサも全部を知っているわけではない。
それが少しだけ、現実味を帯びていた。
ここは夢のような場所なのに、都合よく何もかも教えてくれる場所ではないらしい。
迷惑なところだけ現実に似ている。
ツカサは白い床を見た。
「私は、ここでどうなるの」
「分からない」
ツバサは正直に答えた。
「でも、お姉ちゃんは死の力を持って死んだから、ここに来たんだと思う」
「死の力……」
ツカサの胸が重くなる。
死の英雄。
忌子。
ナラク。
自分の中にいたもの。
人を殺した力。
ミカゲを生かした力。
言葉にするだけで、吐き気がする。
けれど、ここでは吐くこともできなかった。
「ツバサは、ずっとここにいたの?」
「うん」
「一人で?」
「一人じゃないよ」
ツバサは周りを見た。
でも、その言い方は少し寂しかった。
ツカサは何も言えなかった。
ツバサは笑った。
無理に笑ったようには見えない。
でも、明るい笑いでもなかった。
「お姉ちゃんが来るの、待ってた」
ツカサの胸が締めつけられる。
「待たなくてよかったのに」
「待つよ」
「私なんか」
「お姉ちゃんだから」
短い言葉だった。
それだけで、ツカサは何も言えなくなる。
ツバサは、ツカサの手を握った。
小さな手。
懐かしい手。
「来てくれて、嬉しい」
ツカサは唇を噛んだ。
嬉しいと言われる資格があるのか分からなかった。
でも、その手を振りほどくこともできなかった。
◇
白い空間の奥で、何かが揺れた。
光の中に、黒い影が落ちる。
そこだけ、別の場所のように暗かった。
周囲の人影たちが、少しずつ目を伏せる。
ツバサの手に、わずかに力が入った。
ツカサは顔を上げる。
黒い影の奥から、声がした。
「……来たか」
低い声だった。
楽しそうではなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、長く同じものを見続けた人の声だった。
疲れているようにも聞こえた。
飽きているようにも聞こえた。
ツカサはその声を知っていた。
頭の奥で何度も響いた声。
殺せと囁いた声。
ミカゲを生かせると告げた声。
逃げ場のない夜に、ずっとそばにあった声。
「ナラク」
ツカサが言う。
影の中から、人の形が現れる。
男とも女ともつかない姿。
ぼろぼろの外套。
長い髪。
顔の半分は影に覆われている。
目だけが、暗く見えた。
ナラクはツカサを見ていた。
笑ってはいなかった。
「お前も、そこに来たか」
その声に、ほんの少しだけ諦めが混じっていた。
「最高の器かもしれないと思った」
ナラクは静かに言う。
「だが、結局は同じだったな」
ツカサは何も言えなかった。
同じ。
その言葉の意味は、まだ分からない。
けれど、胸の奥に冷たく落ちた。
ツバサがツカサの手を握ったまま、ナラクを見ている。
ナラクはゆっくり歩いてくる。
足音はない。
白い床に、黒い影だけが伸びる。
「ツカサ」
ナラクは名前を呼んだ。
「お前は、自分で死んだ」
ツカサの胸が痛む。
貫いたはずのない胸が、痛んだ気がした。
「……うん」
小さく答える。
ナラクは目を伏せた。
「また、終わらなかった」
その言葉だけを残して、白い空間に沈黙が広がった。
ツカサはナラクを見る。
ツバサの手は震えている。
周囲の人影たちは、誰も声を出さない。
ここが何なのか。
自分が何を継いでいたのか。
なぜナラクがそんな顔をするのか。
まだ、何も分からない。
ただ、終わったと思っていたものが、終わっていない。
それだけは分かった。
ナラクが、静かに告げた。
「話そう」
白い光の中で、黒い影が揺れた。
「死の英雄が、どうして忌子になったのかを」
ツカサは息を止めた。
ツバサの手を握り返す。
そして、ナラクの方を見た。
白い空間は、音を失ったように静かだった。




