第39話「もう君を見れない」
朝は、いつも通りに来た。
それが、ミカゲには少し嫌だった。
店の戸を開ける音はしない。
台所から朝食の匂いもしない。
それでも、外は明るくなっていく。
鳥が鳴く。
荷車の音が遠くから聞こえる。
誰かが小声で話す。
昨日までと同じように、朝だけが来る。
ミカゲは鏡の前に座っていた。
髪は結んだ。
いつもより少しきつい。
櫛は机の上に置いてある。
髪油の瓶も、その横にある。
手を伸ばしかけて、やめた。
今日は使わなかった。
うまく使える気がしなかった。
短剣を腰に差す。
手が震えていた。
ミカゲはその手を、もう片方の手で押さえた。
「行かなきゃ」
声に出した。
そうしないと、立てない気がした。
戸の外では、グランとライトが待っている。
今日、ツカサに会うかもしれない。
ツカサではないかもしれない。
ツカサであってほしくない。
でも、フェリクスは言った。
忌子は、ツカサだ。
その声が、まだ耳に残っていた。
◇
グランは店の前で腕を組んでいた。
ライトは少し離れた場所に立ち、周囲を見ている。
二人とも、昨日より顔が固かった。
ミカゲが出てくると、グランが視線を向けた。
「準備は」
「できました」
「無理そうなら言え」
「言いません」
「言え」
「……はい」
グランは少しだけ息を吐いた。
いつものように何かを言い返す余裕は、なかった。
ライトが近づく。
「もう一度確認する。勝手に前に出ない。私たちの指示に従う。危険だと判断したら下がる」
「はい」
「ツカサが攻撃してきたら」
そこで、ライトは一度止まった。
ミカゲは顔を上げる。
「私たちは止める」
「……はい」
「傷つけることになるかもしれない」
「はい」
ミカゲは頷いた。
頷くしかなかった。
納得できたわけではない。
受け入れられたわけでもない。
ただ、進むために首を縦に動かしただけだった。
三人は北へ向かった。
街の人たちは、戸の隙間からそれを見ていた。
誰も声をかけなかった。
ミカゲも、誰とも目を合わせなかった。
◇
森の中は静かだった。
昨日と同じ道。
西の森から、さらに北へ。
古い礼拝堂の方角。
地面には、グランたちが昨日つけた足跡が残っている。
それとは別に、細い跡があった。
軽い足取り。
少女のものに見える。
けれど、ところどころで黒い痕が地面に染みていた。
草が枯れている。
小さな虫が動かなくなっている。
その跡を見るたびに、ミカゲの胸が冷えた。
ライトが前を見たまま言う。
「近い」
グランが剣に手をかける。
「分かるのか」
「空気が重い」
「俺にも分かる」
グランの声は低かった。
ミカゲは唇を噛んだ。
少し先に、古い礼拝堂が見えてきた。
昨日フェリクスが死んだ場所。
その前に、黒い外套の人影が立っていた。
小柄な体。
深く被ったフード。
細い指。
ミカゲの足が止まった。
喉が詰まる。
グランが一歩前に出る。
「止まれ」
人影は動かなかった。
ライトが盾を構える。
「フードを取れ」
返事はない。
黒い外套の裾が、風に揺れた。
グランは剣を抜いた。
「聞こえなかったか」
人影が、ゆっくりと顔を上げる。
それから、指がフードに触れた。
布が外れる。
水色の髪がこぼれた。
朝の光を受けて、淡く揺れる。
青ざめた顔。
疲れ切った目。
血の気のない唇。
ツカサだった。
ミカゲは息を忘れた。
「ツカサ」
名前がこぼれた。
ツカサは、ミカゲを見なかった。
グランとライトの方を見ている。
いや、見ているようで、どこも見ていない。
グランの剣先が、わずかに揺れた。
「本当に、お前なのか」
ツカサは答えなかった。
「エイルを殺したのも」
沈黙。
「フェリクスを殺したのも」
沈黙。
「街の人たちを殺したのも」
ツカサは、少しだけ目を伏せた。
それから言った。
「私です」
短い声だった。
グランの顔が歪む。
「何でだ」
「忌子だからです」
ツカサは淡々と言った。
「私は忌子だから、人を殺しました」
「そういうことを聞いてるんじゃねえ」
「そういうことです」
「違うだろ」
グランの声が荒くなる。
「エイルを殺して、フェリクスを殺して、善い人間ばっかり狙って、それで何もないわけねえだろ!」
ツカサは動かない。
「殺したかったから殺しました」
その言葉に、空気が止まった。
ミカゲの指が震える。
ライトの目が細くなる。
グランは、怒ることすら一瞬忘れたような顔をした。
「……は?」
「殺したかったから、殺しました」
ツカサは同じ調子で繰り返した。
「忌子なので」
「嘘つけ」
グランが低く言った。
「そんな顔で言うな」
「嘘じゃありません」
「嘘だろ」
「違います」
「じゃあ何で震えてる」
ツカサの指先が、ほんの少し震えていた。
外套の端を握る指。
白くなるほど強く握っている。
ツカサはそれを隠すように手を下げた。
「関係ありません」
「関係あるだろ!」
グランが一歩踏み出す。
ライトが腕で止めた。
「グラン」
「止めんな」
「前に出るな」
「分かってる!」
分かっていない声だった。
グランは歯を食いしばり、剣を握り直す。
ライトはツカサを見ていた。
冷静な目。
けれど、表情は硬い。
「ツカサ」
ライトが呼ぶ。
「フェリクスは、君がミカゲの命と関係して人を殺していると書き残した」
ツカサの肩が、わずかに揺れた。
ミカゲはライトを見た。
「ミカゲの、命……?」
ライトは答えなかった。
今、詳しく話す場面ではない。
ツカサが静かに口を開く。
「関係ありません」
「本当に?」
「ありません」
「ではなぜ、善良な人間ばかり狙った」
「殺しやすかったからです」
「嘘だ」
ライトは即座に言った。
声は静かだった。
責めるよりも、確認に近い。
「君は、殺しやすい相手だけを選んだわけではない。夜番の男は武器を持っていた。薬草を届けていた女性は人目のある道を通っていた。母子も、発見されやすい場所だった」
ツカサは黙っている。
「合理的ではない」
「私は、合理的に殺したわけじゃありません」
「なら、なぜ」
「忌子だからです」
同じ言葉。
同じ逃げ道。
ライトは口を閉じた。
それ以上は無理だった。
ツカサは答える気がない。
嘘だと分かる。
誰が聞いても薄い。
けれど、死者がいる。
血がある。
フェリクスの声がある。
ツカサ本人が認めている。
どうしようもなかった。
◇
ミカゲは、ずっとツカサを見ていた。
水色の髪。
青ざめた顔。
痩せた頬。
血のついた外套。
いつもきちんと整えていた指先が、傷だらけになっている。
ツカサはミカゲを見ない。
一度も。
それが、いちばん痛かった。
「ツカサ」
ミカゲが呼ぶ。
ツカサは反応しない。
「ツカサ」
二度目。
ツカサの睫毛が、ほんの少し揺れた。
でも、顔は向けない。
「私を見て」
声は大きくなかった。
ツカサは動かなかった。
ミカゲは一歩だけ前に出ようとする。
ライトが手で止めた。
ミカゲは止まった。
ちゃんと、約束を守った。
「本当に、殺したかったの?」
ツカサは答えた。
「うん」
即答だった。
ミカゲの胸が裂けそうになる。
「エイルさんも?」
「うん」
「フェリクスさんも?」
「うん」
「街の人たちも?」
「うん」
「私に、黙って?」
「うん」
言葉だけが並んでいく。
どれも軽かった。
軽すぎた。
ツカサの声は、空っぽに聞こえた。
中身を全部抜いて、形だけ残した声。
ミカゲは、その声を知っている気がした。
ツカサが本当のことを言わない時の声。
何かを飲み込んで、平気なふりをする時の声。
「そっか」
ミカゲは呟いた。
グランがミカゲを見る。
ライトも少しだけ振り返る。
ミカゲは泣いていなかった。
泣けなかった。
ただ、ツカサを見ていた。
ツカサは、やっぱりミカゲを見ない。
だから、ミカゲはそれ以上問い詰めなかった。
責めなかった。
理由を並べろとも言わなかった。
ただ、小さく聞いた。
「何かあったんでしょ?」
森の音が止まったように感じた。
グランも、ライトも、何も言わなかった。
ツカサは動かない。
長い沈黙。
長すぎる沈黙。
風が外套を揺らす。
ツカサの指が、また震えた。
それから。
「うん」
かすれた声が落ちた。
ミカゲの目が揺れる。
ツカサはまだ、ミカゲを見ない。
「色々……あった……」
それだけだった。
グランが息を呑む。
ライトの目が険しくなる。
ミカゲは、何も言わずに待った。
ツカサは唇を震わせた。
「けど、言えない」
声が消えそうだった。
「言えないんだ」
ミカゲは一歩も動かなかった。
問い詰めなかった。
どうして。
何が。
私のせいなの。
誰に何をされたの。
そういう言葉は、喉まで来ていた。
でも、出さなかった。
ツカサが言えないと言ったから。
そして、言えないと言うツカサの顔が、もう限界だったから。
「そっか」
ミカゲはもう一度言った。
今度は少しだけ、声が震えた。
「言えないんだ」
ツカサは頷かなかった。
否定もしなかった。
◇
黒い影が、ツカサの足元で揺れた。
グランが剣を構える。
ライトも盾を前に出す。
「ツカサ」
グランの声は低い。
「動くな」
ツカサは静かに息を吸った。
「ごめんなさい」
その言葉に、グランの表情が変わる。
「おい」
ツカサの右手に、黒い影が集まった。
刃の形になる。
細く、短い。
剣というより、杭に近い。
ライトが叫ぶ。
「止めろ!」
ツカサは、その刃を自分の胸に向けた。
ミカゲの視界が白くなる。
「ツカサ!」
グランが踏み込む。
ライトが盾を投げるように前へ出る。
でも、間に合わなかった。
ツカサは迷わず、自分の心臓を貫いた。
音は小さかった。
あまりにも小さかった。
体が揺れる。
血が外套の内側から広がる。
黒い影が、足元でほどけていく。
ツカサの膝が折れた。
ミカゲは走り出そうとした。
ライトが止めた。
まだ影が残っている。
危険かもしれない。
分かっている。
分かっているのに。
「離して!」
ミカゲが叫ぶ。
「ツカサ!」
ツカサは倒れた。
地面に横たわる。
水色の髪が土に広がる。
黒い影は、ゆっくり消えていった。
グランが駆け寄り、剣を構えたまま膝をつく。
ライトも近づく。
危険がないことを確認してから、ミカゲを離した。
ミカゲは転ぶように走った。
ツカサのそばに膝をつく。
手を伸ばす。
でも、触れる直前で止まった。
胸から血が流れている。
顔は白い。
息は、もうほとんどない。
「ツカサ」
ミカゲが呼ぶ。
ツカサの瞼が、少しだけ動いた。
それでも、目は開かなかった。
「ツカサ」
もう一度。
返事はなかった。
ツカサの手が、かすかに動く。
何かを探すように。
けれど、何も掴まなかった。
そのまま、力が抜けた。
ミカゲはその手を取った。
冷えていく前の、まだ少し温かい手だった。
「何で」
声が落ちる。
「何で、言えないの」
ツカサは答えない。
もう、答えられない。
ミカゲはその手を握ったまま、動けなかった。
グランも、ライトも、何も言わなかった。
森の中に、朝の光だけが差していた。




