第38話「前夜」
グランとライトが旧礼拝堂に着いた時、夜はもう深かった。
森の奥は静かだった。
虫の声も少ない。
風だけが、木々の間を抜けている。
旧礼拝堂は、崩れかけたままそこにあった。
割れた窓。
半分外れた扉。
苔のついた石壁。
昔、誰かが祈った場所。
今は、血の匂いがしていた。
グランは剣を抜いた。
ライトは盾を構える。
二人は目を合わせずに中へ入った。
礼拝堂の床には、黒い傷が走っていた。
石が裂けている。
柱が砕けている。
壁にも、刃物ではつかない跡がいくつも残っていた。
そして、奥に倒れている人影があった。
「フェリクス!」
グランが駆け寄る。
フェリクスは、壁にもたれるようにして倒れていた。
外套は血に濡れている。
腹部。
肩。
胸。
どれも浅くはない。
呼吸は、もうなかった。
それでも顔は、どこか笑っているように見えた。
グランは膝をついた。
「おい」
返事はない。
「ふざけんなよ」
声が低くなる。
「一人で行くなって、誰も言ってねえけどさ」
言っていない。
言う前に行った。
フェリクスらしい。
理屈で詰めて、最後に勝手に賭ける。
そういうやつだった。
腹が立つ。
腹が立つくらい、らしかった。
ライトは無言で周囲を確認していた。
足跡。
血。
影の痕跡。
フェリクスの風が暴れた跡。
そして、礼拝堂の外へ続く小さな足跡。
水色の髪が一本、割れた石の隙間に引っかかっている。
ライトはそれを見つめた。
声を出すまでに、少し時間がかかった。
「間違いない」
グランは顔を上げる。
「何が」
「ツカサがここにいた」
「……」
「フェリクスの声は、間違っていなかった」
グランの手が震えた。
剣を握る手。
何度も敵を斬ってきた手。
その手が、今は震えている。
「ツカサが」
言葉が途中で止まる。
祖母の店で、頭を下げていた子。
料理を作っていた子。
ミカゲの隣で、静かに笑っていた子。
人からもらったものを捨てられない子。
その子が。
エイルを殺した。
街の人を殺した。
フェリクスを殺した。
頭では、言葉が並んでいく。
でも、胸の中では何も繋がらなかった。
「何でだよ」
グランは呟いた。
誰にも答えられなかった。
◇
フェリクスの体は、礼拝堂の外へ運ばれた。
夜明けを待って街へ戻すことになった。
グランは、ずっと黙っていた。
ライトも、必要なこと以外は言わなかった。
フェリクスの手には、小さな紙切れが握られていた。
血で汚れている。
けれど、文字は読めた。
途中で途切れた走り書き。
ツカサ。
死の権能。
ミカゲの命。
善良な命。
関係あり。
それだけだった。
グランは紙を見て、歯を食いしばる。
「ミカゲの命……?」
ライトの表情が、さらに硬くなった。
「フェリクスは、何か掴んでいた」
「ツカサが人を殺した理由か」
「おそらく」
「ミカゲのためってことかよ」
グランの声が荒くなる。
「そんなの、あいつが知ったら」
言葉が詰まる。
ミカゲが知ったら。
ツカサが自分のために、エイルを殺した。
街の人を殺した。
フェリクスを殺した。
そんなことを知ったら。
何が残る。
怒りか。
絶望か。
それとも、自分を責めるのか。
どれも見たくなかった。
ライトは紙を畳んだ。
「まだ話せない」
「でも、ツカサが忌子だってのは聞こえただろ。ミカゲにも届いてた可能性がある」
「ある」
「なら隠せねえ」
「隠すとは言っていない」
ライトは低く言った。
「順番を間違えれば、壊れる」
「順番って何だよ」
「まず事実を確認する。次に、どう動くか決める。その上で伝える」
「悠長にしてる場合か」
「悠長ではない」
ライトの声も、いつもより硬かった。
「だからこそ、雑に言えない」
グランは拳を握った。
何かを殴りたかった。
でも、殴る相手はいない。
今、目の前にいるのはフェリクスの遺体だけだ。
殴れるものがあるなら、自分の判断の遅さくらいだった。
◇
朝になる前に、二人は街へ戻った。
フェリクスの遺体は布で包まれている。
夜番をしていた数人が、それを見て顔を青ざめさせた。
「風の英雄様まで……」
誰かが呟いた。
その声は、すぐに街中へ広がっていった。
エイルに続いて、フェリクスも死んだ。
英雄が二人、殺された。
街は静まり返った。
泣く声すら、小さかった。
泣けば、次に見つかるのが自分になる気がしたのかもしれない。
グランは広場に立った。
剣を腰に差し、顔を上げる。
いつものような明るさはない。
それでも、声はよく通った。
「今日から、夜の外出を完全に禁じる」
人々が息を呑む。
「水汲みも、見回りも、店の片づけも、日が沈む前に終わらせろ。どうしても必要なことがあれば、俺かライトに言え。勝手に動くな」
誰かが震える声で聞いた。
「犯人は、分かったんですか」
グランは答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙だけで、人々の顔が強張る。
ライトが一歩前に出た。
「忌子の可能性が高い」
ざわめきが走る。
「今はそれ以上、確かなことは言えない」
「ツカサちゃんは」
別の声がした。
「ツカサちゃんは見つかったんですか」
グランの喉が詰まる。
ライトが答える。
「まだだ」
嘘ではなかった。
見つけたのは、痕跡だけだ。
そして、名前だけだ。
ツカサ本人を捕まえたわけではない。
それでも、限りなく嘘に近い答えだった。
ライトの横顔は、いつもより冷たく見えた。
◇
ミカゲは、店の中で二人を待っていた。
一睡もしていない。
目は赤い。
髪は、昨日ライトが梳いたまま少し乱れていた。
それでも、櫛は机の上に置いたままだった。
戸が叩かれる。
「ミカゲ」
グランの声だった。
ミカゲはすぐに鍵を開けた。
グランとライトが立っている。
二人の顔を見た瞬間、ミカゲの胸が冷えた。
フェリクスはいない。
「フェリクスさんは」
グランは答えられなかった。
ライトが静かに言った。
「亡くなった」
ミカゲの顔から、血の気が引いた。
「え」
「旧礼拝堂で見つかった」
「そんな」
ミカゲは戸の枠を掴んだ。
立っていないと倒れそうだった。
「昨日、声が」
言いかけて、止まる。
聞こえた。
聞いてしまった。
フェリクスの声。
血の混じった声。
忌子は、ツカサだ。
ミカゲは震える唇で言った。
「昨日の声は、何ですか」
グランの顔が歪む。
ライトは黙っていた。
「聞こえました」
ミカゲは二人を見る。
「フェリクスさんの声が。忌子は、ツカサだって」
グランが目を逸らした。
その反応だけで、ミカゲは息ができなくなった。
「違いますよね」
誰もすぐに答えなかった。
「違うって、言ってください」
声が震える。
「ツカサが、そんなわけない」
ライトは静かに言った。
「フェリクスは、そう伝えた」
「だから、違うって」
「私たちは、ツカサが旧礼拝堂にいた痕跡を見つけた」
ミカゲの指が戸枠に食い込む。
「でも、それは」
「水色の髪もあった」
「それだけで」
「死の権能の痕跡と、ツカサの痕跡が重なっていた」
「違う!」
ミカゲは叫んだ。
店の中に声が響く。
グランが一歩動きかけて、止まった。
「違う……違うよ」
ミカゲは首を振る。
「ツカサは、そんなことしない」
エイルを殺した。
街の人を殺した。
フェリクスを殺した。
そんな言葉とツカサの顔が結びつかない。
結びつけたくない。
だって、ツカサは。
料理を作る。
髪を梳く。
もらったものを捨てられない。
少し高い髪油を、必要だからと言って使う。
ミカゲの膝の怪我に、すぐ気づく。
人に頭を下げる。
自分のことより、誰かのことばかり気にする。
そんな子が。
「ミカゲ」
グランが低く呼んだ。
「俺も、信じたくない」
その声は、ひどく苦しかった。
「でも、フェリクスは命を賭けて伝えた」
「じゃあ、フェリクスさんが間違えたんです」
ミカゲは即答した。
子どものような言い方だった。
自分でも分かっていた。
でも、そう言うしかなかった。
「フェリクスさんだって、間違えます」
「ミカゲ」
「ツカサは忌子に襲われたんです。何かされて、痕跡が混ざっただけで」
言いながら、苦しい。
言葉が自分でも薄く聞こえる。
それでも止められない。
「だって、ツカサがそんなことする理由がない」
ライトの目がわずかに揺れた。
グランも、何かを言いかけて黙った。
理由。
フェリクスの紙。
ミカゲの命。
善良な命。
それを、今はまだ言えなかった。
言えば、目の前の少女は自分の命まで憎み始める。
「今は、分からないことが多い」
ライトは言った。
「だから確認する必要がある」
「確認って」
「ツカサに会う」
ミカゲの目が揺れた。
「会えるんですか」
「向こうから来る可能性もある。こちらから探す可能性もある」
「私も行きます」
「それはまだ」
「行きます」
ミカゲは遮った。
声は震えていた。
でも、目はまっすぐだった。
「ツカサが本当にそこにいるなら、私が聞きます」
「危険だ」
「分かってます」
「相手が忌子なら」
「それでも」
ミカゲは拳を握った。
「ツカサが、私の知らないところで何かを抱えているなら、私が聞かなきゃいけない」
グランは苦しそうに目を伏せた。
「聞いてどうする」
「分かりません」
ミカゲは言った。
正直だった。
「でも、聞かないまま討つなんてできません」
討つ。
その言葉を自分で言って、ミカゲは唇を噛んだ。
言いたくなかった。
けれど、英雄たちがこれから何をしなければならないか。
それくらいは分かってしまった。
グランとライトは、ツカサを探しているのではない。
もう、討伐対象として追わなければならない。
フェリクスが死んだから。
エイルが死んだから。
街の人が死んだから。
たとえ相手がツカサでも。
「お願いです」
ミカゲは頭を下げた。
「私を、連れて行ってください」
グランは何も言えなかった。
ライトもすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、ライトが口を開く。
「条件がある」
「はい」
「勝手に前に出ない」
「はい」
「私たちの指示に従う」
「はい」
「ツカサが攻撃してきた場合、私たちは君を守るために動く。その結果、ツカサを傷つけることがある」
ミカゲの顔が強張る。
それでも頷いた。
「……はい」
「その場で泣き崩れるな」
「はい」
「立っていろ」
厳しい言葉だった。
でも、必要だった。
ミカゲは涙をこらえ、頷いた。
「立ちます」
グランが小さく息を吐いた。
「本当は連れて行きたくねえ」
「はい」
「でも、置いてったら勝手に来るだろ」
「……はい」
「そこは否定しろよ」
「すみません」
グランは頭をかいた。
いつものような調子に戻そうとしたのかもしれない。
でも、うまくいかなかった。
「準備しろ。今日は休め」
「今日、行かないんですか」
「フェリクスを弔う。街の警備も固める。動くのは明日だ」
「明日」
ミカゲは呟いた。
その一日が、果てしなく遠く感じた。
◇
その日の午後、フェリクスの遺体は街の広場に運ばれた。
エイルの時と同じように、静かな葬送になった。
だが、空気はもっと重かった。
英雄が二人、死んだ。
その事実が、誰の顔にも張りついている。
ミカゲは少し離れた場所に立っていた。
フェリクスとは、そこまで長く話していない。
それでも、彼はツカサを探すために来た。
そして死んだ。
最後に残した言葉が、ツカサの名前だった。
ミカゲは手を合わせた。
何を祈ればいいのか分からなかった。
フェリクスさん、ごめんなさい。
ツカサを見つけてくれてありがとう。
でも、間違いであってください。
そんな、都合のいい願いばかり浮かんだ。
祈りというより、逃げ道を探しているみたいだった。
グランは、フェリクスの前に立っていた。
拳を握りしめている。
「お前、ほんと勝手だよな」
小さな声だった。
周りには聞こえない。
「一人で行って、一人で見つけて、一人で伝えて、勝った顔して死にやがって」
グランの声が震えた。
「馬鹿じゃねえの」
ライトが隣に立つ。
何も言わない。
グランは深く息を吸った。
「でも、届いた」
その言葉に、ライトが小さく頷く。
「届いた」
「なら、無駄にはしねえ」
「そうだな」
グランは顔を上げた。
泣いてはいなかった。
でも、その目は赤かった。
◇
夕方、ミカゲは店に戻った。
明日の準備をするためだった。
準備といっても、できることは少ない。
短剣を確認する。
服を動きやすいものに替える。
髪を結ぶ。
それだけ。
机の上には、櫛と髪油の瓶がある。
ミカゲはしばらくそれを見つめた。
手を伸ばす。
櫛を取る。
自分で髪を梳いた。
少し引っかかった。
「痛」
小さく呟く。
ツカサなら、そこで手を止めた。
絡まったところを指でほどいて、それからもう一度ゆっくり通した。
ミカゲは真似をした。
うまくできなかった。
それでも、もう一度やった。
髪油を少しだけ取る。
量が分からない。
多すぎるとべたつく。
少なすぎると意味がない。
ツカサは、いつも迷わなかった。
ミカゲの髪の癖を知っていたから。
「ねえ」
ミカゲは鏡に向かって呟いた。
「本当に、ツカサなの?」
鏡の中の自分は答えない。
髪だけが、ツカサの手の記憶をまだ少し残している。
「明日、会ったら聞くから」
声が震えた。
「嘘でもいいから、違うって言ってよ」
涙が落ちた。
でも、ミカゲは櫛を置かなかった。
最後まで髪を梳いた。
明日、ツカサに会う。
もし会えたなら。
ひどい顔だと思われたくなかった。
そんなことを考えている自分が、少し嫌だった。
でも、そう思ってしまった。
◇
夜、グランとライトは街の見回りをしていた。
明日に備えて、できる限りの警備を固める。
人々には外出禁止を伝えた。
怪しい動きがあれば知らせるようにも言った。
ただ、二人とも分かっていた。
もしツカサが本気で動けば、普通の人には止められない。
だから、明日で決めるしかない。
「ミカゲを連れて行くの、本当にいいのか」
グランが言った。
「よくはない」
ライトが答える。
「だよな」
「だが、置いて行く方が危険だ」
「分かってる」
グランは空を見上げた。
雲は薄い。
月がぼんやり見える。
「ツカサ、何で言わなかったんだろうな」
「言えなかったのだろう」
「俺たちにか」
「ミカゲに」
グランは黙った。
それは分かる。
分かってしまう。
大事な相手ほど、言えないことがある。
失望されたくない。
怖がられたくない。
憎まれたくない。
だから隠す。
隠して、手遅れになる。
何も珍しい話ではない。
でも、珍しくないからといって、痛みが減るわけではなかった。
「殺さずに済むと思うか」
グランが聞いた。
ライトはすぐには答えなかった。
「分からない」
「お前の分からない、嫌いだわ」
「私も嫌いだ」
「じゃあ分かるって言え」
「嘘は言わない」
「知ってる」
グランは小さく笑った。
力のない笑いだった。
「エイルなら、何とかなるよーんって言ったかな」
「言ったかもしれない」
「フェリクスなら、根拠は? って言ったな」
「言う」
「いねえんだな、もう」
「……ああ」
二人はしばらく歩いた。
街は静かだった。
明かりの消えた窓が並んでいる。
その奥で、人々は眠れずにいる。
エイルがいない。
フェリクスがいない。
ツカサが忌子かもしれない。
明日、ミカゲはその子に会いに行く。
どれも悪い話だった。
悪い話を並べて、それでも進むしかない。
まったく、人間社会は罰ゲームの段取りだけ妙に丁寧だ。
◇
森の奥。
旧礼拝堂からさらに離れた場所で、ツカサは一人座っていた。
フェリクスの血は、もう手から拭った。
でも、匂いが残っている気がした。
何度洗っても落ちない。
手を見るたびに、フェリクスの顔が浮かぶ。
笑っていた。
最後まで。
僕の勝ちだ、と言っていた。
本当に勝ちだった。
あの声は、たぶん届いた。
グランにも。
ライトにも。
ミカゲにも。
「言っちゃった」
ツカサは呟いた。
誰に向けた言葉でもない。
ナラクの声が低く笑う。
とうとう知られたな。
ツカサは答えなかった。
知られた。
ミカゲは知った。
忌子はツカサだと。
明日、来るかもしれない。
グランとライトが。
ミカゲも。
ミカゲが来る。
その想像だけで、胸が痛んだ。
会いたい。
会いたくない。
声を聞きたい。
見られたくない。
ツカサは膝を抱えた。
体がひどく重い。
死の力を使うたびに、命が削れていく。
それでも、まだ足りない。
ミカゲを生かすには、まだ必要だった。
けれど、これ以上メーランで殺せば、もう言い逃れはできない。
もう十分に言い逃れなどできないのに、それでも考えてしまう。
どうすれば、ミカゲが生きるか。
どうすれば、ミカゲに見られずに済むか。
どうすれば、誰も自分を止められなくなるか。
答えは出ない。
ただ、朝は来る。
どれだけ願っても、夜は終わる。
ツカサは外套を握りしめた。
明日、ミカゲが来るなら。
言わなければならない。
嘘を。
ひどい嘘を。
ミカゲが自分を止められるように。
ミカゲが自分を憎めるように。
自分の中に、まだツカサが残っていると知られないように。
ツカサは目を閉じた。
「ごめんね」
小さく呟く。
ミカゲに。
エイルに。
フェリクスに。
街の人たちに。
もう何度目か分からない謝罪だった。
謝罪だけは増えていく。
償いは、ひとつも追いつかない。
夜は静かだった。
遠くで、風が鳴った。
ツカサはその音を聞きながら、明日を待った。




