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第37話「風の英雄」

 旧礼拝堂の中は、冷えていた。


 夜の冷たさだけではない。


 石壁に染みついたような冷気。


 割れた窓から入る風が、床の埃を細く動かしている。


 その奥に、黒い外套の少女が立っていた。


 フードは深い。


 顔は見えない。


 けれど、フェリクスにはもう分かっていた。


 風は嘘をつかない。


 料理油の匂い。


 髪油の香り。


 ミカゲの家に残っていた、あの静かな生活の匂い。


 そして、現場に残っていた死の冷たさ。


 全部が、同じ場所からしている。


「こんばんは」


 フェリクスはもう一度言った。


 返事はなかった。


 少女は、こちらを見ている。


 フードの奥の目までは見えない。


 けれど、逃げようとはしていなかった。


「単刀直入に聞く」


 フェリクスは足を止めた。


 距離はまだある。


 近づきすぎれば死ぬ。


 それくらいは分かる。


「ツカサを知っているか」


 少女の指が、わずかに動いた。


 外套の端を握る。


 それだけ。


「答えないか」


 フェリクスは小さく息を吐いた。


「では質問を変える。君はツカサをどこへやった」


 少女は黙っている。


 沈黙。


 その沈黙が、答えに近かった。


 フェリクスは風を細く広げる。


 礼拝堂の中。


 割れた窓。


 床の血。


 壁に残る黒い傷。


 少女の周囲。


 どこへ伸ばしても、同じ気配が返ってくる。


 ツカサの気配と、忌子の気配。


 ほとんど重なっている。


「僕は、ひとつ嫌な仮説を立てている」


 フェリクスは静かに言った。


「ツカサは忌子に殺されたのではない。連れ去られたのでもない」


 少女の呼吸が、ほんの少しだけ乱れた。


「ツカサ自身が、忌子だ」


 その瞬間、礼拝堂の影が揺れた。


 床に落ちた黒が、水のように波打つ。


 フェリクスは即座に後ろへ下がった。


 黒い線が、彼のいた場所を走る。


 床の石が裂けた。


「なるほど」


 フェリクスは風をまとい、崩れた柱の上に着地する。


「正解に近いらしい」


 少女が一歩進む。


 フードの奥から、低い声が落ちた。


「帰ってください」


 その声を聞いた瞬間、フェリクスの目が細くなった。


 静かで、礼儀正しい声。


 聞き覚えがあった。


 祖母の店で水を出していた少女の声。


 エイルに料理を褒められて、少し困っていた少女の声。


 ミカゲの隣で、当たり前のように台所に立っていた少女の声。


「ツカサ」


 フェリクスは名前を呼んだ。


 少女の肩が震えた。


 ほんの一瞬。


 けれど、それで十分だった。


「やはり君か」


「帰って」


「無理だな」


「帰って」


「同じ言葉を繰り返しても、説得力は増えない」


「帰ってください」


「丁寧になった。だが無理だ」


 フェリクスは柱から降りた。


 風が彼の周りを巡る。


 逃げるため。


 避けるため。


 そして、伝えるため。


 勝つためではない。


 それはもう、最初から考えていなかった。


     ◇


 ツカサはフードを脱がなかった。


 顔を見せないまま、手を下げている。


 その指先から、黒い影が床へ垂れていた。


 血のようにも見える。


 煙のようにも見える。


 ただ、そこに触れた石だけが静かに死んでいく。


 苔が黒くなり、砕ける。


 小さな虫が動かなくなる。


 フェリクスはそれを見て、胸の奥が冷えるのを感じた。


 文献にあった死の英雄の記述。


 命を奪う。


 死を遅らせる。


 死者の気配を辿る。


 病の広がりを断つ。


 そのどれとも違うようで、どれにも似ている。


 死という一点だけが、あまりに濃い。


「君がエイルを殺したのか」


 フェリクスが聞いた。


 ツカサは答えない。


「母子を殺したのも」


 答えない。


「薬草を届けていた女性も」


 答えない。


「夜番の男も」


「やめて」


 声が落ちた。


 小さい。


 けれど、確かに震えていた。


 フェリクスは止めなかった。


「やめない」


「やめて」


「君がやめなかったからだ」


 ツカサの影が、また揺れる。


 フェリクスは風で体を浮かせた。


 黒い刃が床を走る。


 避ける。


 柱が裂ける。


 石の破片が飛ぶ。


 フェリクスは風でそれを弾いた。


 細い傷が頬に入る。


 血が流れた。


「速いな」


 フェリクスは呟いた。


「そして、重い」


 ツカサは動かない。


 動いていないのに、影だけが襲ってくる。


 間合いがない。


 剣のように踏み込む必要もない。


 魔法のように詠唱もない。


 ただ、死が伸びてくる。


 面倒な力だ。


 フェリクスはそう思った。


 面倒などという言葉で済ませるには、少し危険すぎた。


「どうして殺している」


 フェリクスは聞いた。


 ツカサは答えない。


「善良な人間ばかりだ。何か条件があるのか。命の量か。質か。エイルの死とミカゲの回復に関係があるのか」


 その瞬間。


 ツカサの影が、明らかに膨らんだ。


 フェリクスは目を細める。


「当たりか」


「黙って」


「ミカゲを生かすためか」


「黙って」


「なるほど。だから善い人間を狙った。強い命、価値のある命、世界が惜しむ命。そういうものをミカゲに流している?」


「黙って!」


 ツカサが叫んだ。


 黒い影が爆ぜる。


 礼拝堂の床が割れた。


 フェリクスは風で後方へ飛ぶ。


 しかし、完全には避けきれなかった。


 黒い線が左腕を掠める。


 痛みは一瞬遅れて来た。


 肉を裂かれた痛みではない。


 もっと奥。


 血が冷えるような痛み。


 フェリクスは左腕を見る。


 指先が少し動きにくい。


「これは、嫌だな」


 彼は眉を寄せた。


「治療しにくそうだ」


「帰ってって言った」


 ツカサの声は荒くなっていた。


「帰ればよかったのに」


「帰ったら、君はまた殺す」


「……」


「違うのか」


 ツカサは答えない。


 フェリクスはゆっくり息を整えた。


 この場で彼女を止めるのは難しい。


 いや、難しいではなく無理だ。


 グランとライトがいても、勝てるか分からない。


 自分一人では、なおさら。


 それでも、ここで引けば手がかりが消える。


 ミカゲは何も知らないまま、ツカサを探し続ける。


 グランとライトは、忌子に連れ去られた少女を探す。


 その間にも、ツカサは殺す。


 誰かが死ぬ。


 ミカゲは生きる。


 そしてツカサは、もっと戻れなくなる。


 どこまでも最悪だ。


 よくもまあ、こんな綺麗に詰む。


     ◇


 フェリクスは、風を指先に集めた。


 戦うための風ではない。


 細く、薄く、遠くまで届く風。


 言葉を乗せるための風。


 王都の研究室で何度も試した。


 成功率は高くない。


 距離が伸びれば、声は崩れる。


 強い魔力の乱れがあれば、届かない。


 相手に遮られれば終わり。


 実戦で使うには、あまりに不安定だった。


 だからこそ、フェリクスは笑いそうになった。


 理詰めで進めて、最後はこれか。


 嫌になるほど自分らしい。


「ツカサ」


 フェリクスは言った。


「ミカゲは君を探している」


 ツカサの影が止まった。


「君が忌子に襲われたのかもしれないと、思っている」


「……」


「君が死んだかもしれないと怯えている」


「やめて」


「君が残した櫛を見て泣いていた」


「やめて」


「髪を梳かせた相手に、何も言わず消えられるのはきついだろうな」


「やめて!」


 黒い影が走る。


 フェリクスは右へ飛んだ。


 肩を掠める。


 血が散る。


 風で傷口を押さえる。


 まだ動ける。


 まだ喋れる。


「君は、彼女を守っているつもりか」


「私は」


 ツカサの声が震えた。


「私は、ミカゲを」


「生かしたい?」


 ツカサは黙った。


「なら、君が殺している人たちは何だ」


「……」


「ミカゲがそれを望むと思うか」


 ツカサは顔を上げた。


 フードの奥で、目が見えた。


 暗い中でも分かるほど、濁った目。


 泣き腫らしたような。


 眠っていないような。


 けれど、そこにはまだ、ツカサがいた。


 完全な怪物ではない。


 それが一番厄介だった。


「望まないよ」


 ツカサは言った。


 声は静かだった。


「ミカゲは、望まない」


「なら」


「でも、死ぬの」


 フェリクスは黙った。


「望まなくても、ミカゲは死ぬ」


 ツカサの手が震えている。


「放っておいたら、死ぬ。朝になって、目を覚まさなくなる。息が止まる。体が冷たくなる」


「それを止めるために殺している」


「うん」


 短い返事だった。


 あまりに幼い。


 あまりに重い。


「エイルを殺したのも?」


 ツカサの肩が震えた。


「……うん」


「彼女は君を気にかけていた」


「知ってる」


「ケーキを持ってきていた」


「知ってる」


「縫い方も教えていた」


「知ってる!」


 ツカサの声が割れた。


「知ってるよ」


 その声は、もう怒りではなかった。


 ただ痛かった。


「知ってる。全部、覚えてる。だから、忘れられない。だから、吐いた。だから、眠れない。でも、ミカゲが死ぬのは嫌だった」


 フェリクスは息を止めた。


 言葉を失いかける。


 けれど、失わなかった。


「それでも、止める」


 ツカサが静かに言った。


「止めないで」


「無理だ」


「止めないで」


「無理だ」


「お願い」


 その言葉に、フェリクスは少しだけ目を細めた。


 助けを求める声ではなかった。


 見逃してほしい声だった。


 このまま罪を重ねさせてほしい声。


 最悪な願いだ。


 そして、切実だった。


「僕は英雄だ」


 フェリクスは言った。


「そんな願いは聞けない」


 ツカサは目を伏せた。


「そう」


 影が静かに広がる。


「じゃあ、ごめんなさい」


     ◇


 次の攻撃は、速かった。


 フェリクスは風で避ける。


 右。


 上。


 後ろ。


 黒い刃が壁を裂く。


 床を砕く。


 割れた窓から、夜風が吹き込む。


 フェリクスはその風を掴んだ。


 礼拝堂の外へ飛ぶ。


 ツカサの影が追ってくる。


 木々の間を、黒い線が走る。


 枝が落ちる。


 葉が枯れる。


 フェリクスは空中で体勢を変えた。


 風の刃を放つ。


 ツカサの外套を裂く。


 布が舞った。


 フードが少し外れる。


 水色の髪が、夜にこぼれた。


 フェリクスは見た。


 見てしまった。


 ツカサだった。


 もう疑いようがなかった。


「確認完了」


 彼は小さく言った。


 その瞬間、黒い影が腹部を貫いた。


 息が止まる。


 体が木に叩きつけられる。


 肺から空気が抜けた。


 フェリクスは膝をつく。


 血が口の端から落ちる。


 内側が冷たい。


 まずい。


 これはまずい。


 死ぬ傷だ。


 冷静に判断できる程度には、まだ頭が動いていた。


 ありがたいことに、人体は壊れる時まで仕事をさせてくる。労働環境が終わっている。


 ツカサが近づいてくる。


 フードはもう半分脱げていた。


 水色の髪。


 青ざめた顔。


 泣きそうな目。


 血に濡れた指。


「なんで」


 ツカサが呟く。


「なんで、逃げないの」


「逃げたら、負けだからな」


 フェリクスは咳き込んだ。


 血が混じる。


「僕は勝ち筋のない勝負は嫌いだ」


「じゃあ」


「でも、勝ち方はいろいろある」


 フェリクスは笑った。


 痛みで顔が歪む。


 それでも笑った。


「君をここで倒すのは無理だ」


 ツカサは黙っている。


「でも、伝えれば勝ちだ」


 フェリクスの周囲に、風が集まる。


 細い風。


 音を乗せる風。


 命を削るように、彼の魔力が流れていく。


 ツカサの目が見開かれた。


「やめて」


「それは聞けない」


「やめて!」


 黒い影が伸びる。


 フェリクスの肩を貫く。


 痛みで視界が白くなる。


 それでも、風は途切れなかった。


 彼は歯を食いしばる。


 声を作る。


 喉が血で詰まりそうになる。


 それでも、言った。


「グラン」


 風が走る。


「ライト」


 夜の森を抜ける。


「聞こえるなら」


 街へ。


 宿へ。


 閉じた窓の隙間へ。


 眠れない英雄たちの耳元へ。


 フェリクスは最後の力で、声を乗せた。


「忌子は、ツカサだ」


 風が放たれた。


 その瞬間、フェリクスは笑った。


 乾いた笑いだった。


 喉に血が絡む。


 それでも、笑いは止まらない。


「はは」


 ツカサが固まる。


「ははは……っ」


 フェリクスは片手で腹を押さえながら、壊れたように笑った。


「届いた」


 確信があった。


 風は届いた。


 少なくとも、誰かには。


「悪いね」


 彼はツカサを見上げた。


「僕の勝ちだ」


 ツカサの顔が歪んだ。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 どちらにもなれない顔だった。


「……ごめんなさい」


 ツカサは小さく言った。


「ごめんなさい、フェリクスさん」


「謝る相手が多すぎるな、君は」


 フェリクスは苦しげに笑った。


「順番待ちが大変そうだ」


 ツカサは何も言えなかった。


 黒い影が、静かに彼の胸を貫いた。


 フェリクスの体が揺れる。


 風が弱くなる。


 森の音が遠くなる。


 最後に見えたのは、水色の髪だった。


 血と夜に濡れた、少女の髪。


 フェリクスは、もう一度だけ笑った。


「いいから……ゴリ押しだ」


 誰に向けた言葉かも分からない。


 けれど、彼らしい言葉だった。


 風の英雄フェリクスは、そのまま動かなくなった。


     ◇


 宿の窓が、突然鳴った。


 眠っていなかったグランが顔を上げる。


「何だ」


 次の瞬間、風が部屋に飛び込んできた。


 窓は閉じている。


 それでも、風はすり抜けた。


 グランの耳元で、血の混じった声が響く。


 グラン。


 ライト。


 聞こえるなら。


 忌子は、ツカサだ。


 グランは椅子を蹴って立ち上がった。


「は?」


 隣の部屋から、ライトが飛び込んでくる。


 顔色が変わっていた。


「聞こえたか」


「お前もか」


「フェリクスの声だった」


 グランの表情が凍る。


「場所は」


「北」


 ライトはすぐに盾を掴んだ。


「旧礼拝堂の方角だ」


「くそっ!」


 グランは剣を取る。


 頭が追いつかない。


 ツカサ。


 忌子。


 フェリクス。


 全部が繋がる前に、体が動いた。


 フェリクスが命を賭けて送った声。


 それが意味することを、考えないわけにはいかなかった。


 けれど、考えている時間はなかった。


「行くぞ!」


「分かっている」


 二人は宿を飛び出した。


 夜の街を駆ける。


 誰かが窓を開ける音がした。


 けれど、二人は振り返らなかった。


     ◇


 店の中で、ミカゲも目を覚ました。


 眠れていたわけではない。


 ただ、横になっていただけだった。


 耳元を風が通った。


 聞き間違いのような声。


 フェリクスの声。


 血の混じった、切れ切れの声。


 忌子は、ツカサだ。


 ミカゲは起き上がった。


 何を言われたのか、すぐには分からなかった。


 分かりたくなかった。


「……何?」


 部屋は静かだった。


 机の上には、櫛と髪油の瓶。


 箱には、ツカサが残したものが詰まっている。


 ミカゲは立ち上がった。


 足が震える。


「今の、何」


 誰も答えない。


 外で、グランたちが走る音がした。


 ミカゲは戸へ向かう。


 鍵に手をかける。


 開けようとして、止まる。


 ライトの声が頭をよぎる。


 待て。


 ツカサを助けるために、今は待て。


 でも。


 今、何と言った。


 忌子は、ツカサだ。


「違う」


 ミカゲは呟いた。


「違う」


 もう一度言った。


 でも、声は震えていた。


 ツカサがいない。


 フェリクスの声がした。


 グランたちが走っていった。


 そして、その言葉だけが部屋に残っている。


 忌子は、ツカサだ。


 ミカゲは戸の前で立ち尽くした。


 開けることも、戻ることもできなかった。


 机の上の櫛が、灯りを受けて小さく光っていた。

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