第36話「手がかり」
フェリクスがメーランに着いたのは、ツカサが消えてから五日目の昼だった。
風の英雄。
王都の学者。
整った顔に、感情の薄い目。
細身の外套を揺らしながら街道を歩いてくる姿は、旅人というより、どこか場違いな客人のようだった。
けれど、門の前で足を止めた瞬間、その目つきが変わった。
通りの音。
閉じられた戸。
歩く人の速さ。
声の小ささ。
風に混じる鉄の匂い。
フェリクスは、それらをひとつずつ拾うように見ていた。
出迎えに来たグランが、腕を組む。
「遅い」
「王都から急いで来たんだぞ。礼くらい言え」
「急いできた顔じゃねえだろ」
「風の英雄が普通に走ると思っているのか。君は本当に剣以外を信用していないな」
「うるせえ」
いつもなら、そこで少し言い合いが続く。
けれど、グランの顔に余裕はなかった。
フェリクスも、それ以上は軽口を重ねなかった。
「ライトは?」
「店にいる。ミカゲのところだ」
「ツカサは」
グランの表情が硬くなった。
「まだ見つかってない」
「そうか」
フェリクスは短く答えた。
王都へ届いた報告は、かなり削られていた。
癒しの英雄エイル死亡。
メーランにて連続殺人。
死に関わる権能の可能性。
少女一名、行方不明。
死の英雄に関する文献調査を要請。
たったそれだけ。
それだけで、フェリクスは来た。
来るしかなかった。
◇
宿の一室に、地図と紙束が広げられた。
グラン。
ライト。
フェリクス。
三人が卓を囲む。
ミカゲは店に残している。
本人は来ると言ったが、ライトが止めた。
ツカサのことが絡むなら、確かな話になるまで聞かせるべきではない。
そう判断した。
グランは不満そうだったが、反対はしなかった。
フェリクスは現場の印を見て、眉を寄せた。
「被害者は全部で」
「エイルを含めて九人」
ライトが答える。
「過激派の死体は別?」
「別だ」
「最初の夜は状況が混ざっているな」
「そうだ。過激派たちは刃物を持っていた。だが、その後の連続殺人とは傷が違う」
フェリクスは紙に印を写していく。
エイルが殺された場所。
母子。
薬草を届けていた女。
夜番の男。
その他の被害者。
ひとつずつ、点が増える。
「被害者の共通点は、善良であること。周囲から信頼されていること。夜間に外へ出ていたこと」
「善良なんて、調査項目としては曖昧だ」
グランが言う。
「曖昧だが、無視はできない」
フェリクスは即答した。
「殺人に目的があるなら、犯人にとっては曖昧じゃない可能性がある」
「ライトも似たこと言ってたな」
「彼女はまともだからな」
「俺はまともじゃねえのか」
「今それを検討する時間が惜しい」
「お前な」
グランが噛みつきかけたが、ライトが短く言った。
「続けて」
フェリクスは頷いた。
「死の英雄の文献も見た。残っている記録は少ない。意図的に削られている可能性が高い」
「やっぱりか」
「最後の文献には、君が報告に書いた通りの一文があった」
フェリクスは紙束の一枚を指で叩いた。
「その力は人々を救い、そして最後には人々に恐れられた」
グランは苦い顔をする。
「それだけか」
「それだけだ。名前もない。最後の戦場も、死因も、継承先もない。英雄の記録としては不自然なくらい、空白が多い」
「隠されたってことか」
「または、消された」
部屋が少し静かになった。
フェリクスは淡々と続ける。
「死の英雄の権能は、死に関わるものだ。ただ、文献ごとに記述が揺れている。命を奪う。死を遅らせる。死者の気配を辿る。病の広がりを断つ。どこまで事実か分からない」
「今回の犯人は、命を奪ってる」
グランが言った。
「そうだな」
「じゃあ死の英雄か」
「早い」
フェリクスは短く返した。
「死に似た魔術。禁術。別の忌子。模倣犯。可能性はいくつもある」
「でも、現場の冷たさは普通じゃなかった」
ライトが言う。
「その報告は読んだ。そこは大事だ」
フェリクスは卓上に薄い布を広げた。
そこには、現場から採った土や布の欠片が小瓶に分けられていた。
「風は、匂いと熱を覚える」
彼は小瓶の栓を開けた。
指先に淡い風がまとわりつく。
部屋の空気が、わずかに動いた。
「完全な再現はできない。ただ、似た気配を探すことはできる」
「便利だな」
グランが呟く。
「便利に見えるだけだ。手がかりが汚れていれば失敗する。風は何でも教えてくれる都合のいい先生じゃない」
「文句多いな」
「学問は文句から始まる」
「嫌な学問だな」
フェリクスは無視した。
風が、小瓶の中の空気をすくう。
血の匂い。
湿った土。
死の冷たさ。
それらが薄く広がり、彼の周りを巡った。
フェリクスの目が細くなる。
「同じだ」
ライトが顔を上げる。
「何が」
「少なくとも、連続殺人の現場には同じ気配が残っている。エイルの現場にも近いものがある」
「過激派の死体は?」
「違うものも混じっている。あの日は複数の血と力が重なっている。ただ、中心にある冷たさは同じだ」
「なら、犯人は一人か」
「一人、または一つ」
その言い方に、グランが黙った。
忌子。
器。
その言葉が、口に出さなくても部屋にあった。
◇
フェリクスは、次にツカサの家を見た。
祖母の店。
閉ざされた暖簾。
使われていない台所。
机の上の櫛と髪油。
もらいものの箱。
そこには、干した果物の包みも入っていた。
ミカゲは奥の椅子に座っていた。
フェリクスが来ると、立ち上がろうとする。
「座っていていい」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなさそうな人の大丈夫ほど信用できないものはない」
ミカゲは少しだけ言葉に詰まった。
ライトが横から言う。
「座っていろ」
「……はい」
ミカゲは座り直した。
フェリクスは部屋の中を見た。
ただ見るだけではない。
空気の流れ。
埃の動き。
布に残った匂い。
戸の開き方。
裏口の隙間。
それらを風で撫でる。
「ここから出たのは、ツカサ本人で間違いない」
ミカゲの顔が揺れた。
「自分で、ですか」
「少なくとも、裏口までは自分の足で歩いている。引きずられた跡はない」
「その後は」
「外で痕跡が乱れている」
「乱れている?」
「血の匂いが少し。外套の繊維。森の土。それから、死の冷たさに近いもの」
ミカゲの手が膝の上で握られる。
「じゃあ、やっぱり忌子に」
「その可能性はある」
フェリクスは言い切らなかった。
ミカゲはそれでも、すがるように顔を上げた。
「ツカサは、生きてますか」
部屋の中が静かになった。
グランが目を伏せる。
ライトも、すぐには何も言わなかった。
フェリクスはミカゲを見た。
「分からない」
ミカゲの唇が震えた。
「ただ、死体は見つかっていない。大量の血もない。即死した痕跡はない」
「じゃあ」
「生きている可能性はある」
ミカゲは小さく息を吸った。
それだけで、崩れそうな体を繋いだようだった。
「探します」
「そのために来た」
フェリクスは短く答えた。
それから、机の上の櫛を見た。
「これは?」
「ツカサが、私の髪に使っていたものです」
「なるほど」
フェリクスは櫛には触れなかった。
代わりに、風だけを通す。
淡い風が櫛の歯の間を抜けた。
髪油の香り。
ミカゲの髪の匂い。
ツカサの指先の残り香。
それから、ほんの少しだけ夜の冷たさ。
フェリクスの眉が、わずかに動いた。
「ツカサは、この櫛を最後に触っている」
「はい」
「出る直前だな」
ミカゲは櫛を見る。
「置いていったんです」
「持っていかずに?」
「はい」
「もらいものの箱も」
「はい」
ミカゲの声が少し震えた。
「ツカサは、人からもらったものを捨てられません。小さな包みでも、紐でも、全部取っておく子です」
フェリクスは箱を見た。
ふたが閉まらないほど詰まった箱。
その中に、干した果物の包みが置かれている。
「なら、置いていったこと自体が異常だ」
「はい」
「自分で出たとしても、普通の外出ではない」
「そう、ですよね」
「そうだ」
フェリクスは淡々と答えた。
その冷静さが、今のミカゲには少しだけ助けになった。
「西の森へ行く」
フェリクスは言った。
「そこで痕跡を拾う」
◇
西の森には、グランとライトとフェリクスが向かった。
ミカゲも行くと言った。
グランは強く止めた。
今度は、ミカゲもすぐには引かなかった。
「ツカサの手がかりなら、私も」
「だからこそだ」
グランは言った。
「お前が一番無茶する」
「しません」
「今、嘘ついたな」
ミカゲは黙った。
グランは少しだけ声を落とす。
「見つかったら知らせる。絶対にだ」
「……約束ですか」
「ああ」
「破ったら怒ります」
「おう。怒れ」
「本気で怒ります」
「分かった」
ミカゲは唇を噛んだ。
「お願いします」
グランは頷いた。
「任せろ」
その言葉だけを残して、三人は森へ入った。
◇
森の中は静かだった。
葉擦れの音。
鳥の声。
遠くの水音。
何もなければ、穏やかな森だった。
フェリクスは足を止め、目を閉じた。
風が広がる。
細い糸のように。
木々の間を抜け、草の上を這い、土の窪みに触れる。
グランは黙って待った。
こういう時、フェリクスを急かしても意味がない。
それくらいは知っている。
ライトは周囲を警戒していた。
盾はすぐに構えられる位置にある。
「ここだ」
フェリクスが目を開けた。
木の根元。
ツカサが一晩過ごした跡。
草が少し潰れている。
火を使った跡はない。
寒い夜だったはずだ。
それでも、火は焚いていない。
見つかるのを恐れたのか。
火を使う余裕がなかったのか。
そこから北へ、足跡が続いている。
小さな足跡。
軽い。
途中までは、はっきり残っていた。
「ここから先が問題だ」
ライトが言う。
足跡は途中で薄れ、やがて消えている。
硬い土。
落ち葉。
風で流れた匂い。
普通なら、ここで終わりだった。
フェリクスはしゃがみ込んだ。
地面に手をかざす。
風が土を撫でる。
彼の髪がわずかに揺れた。
「二つある」
「二つ?」
グランが聞く。
「ツカサの足跡。もう一つ、別の移動の痕跡」
「犯人か」
「足跡ではない。影が滑ったような痕跡だ」
グランの顔が険しくなる。
「昨夜見たやつか」
「おそらく同じ系統だ」
「じゃあ、ツカサはここで襲われた?」
「可能性はある」
フェリクスは、少し先の木の幹を見る。
そこに、薄い傷があった。
刃物ではない。
黒い何かが掠めたような傷。
ライトが膝をつき、地面を見る。
「血は少ないな」
「そうだ」
「争った跡も短い」
「そう見える」
グランの顔が歪む。
「連れ去られたのか」
「その可能性はある」
フェリクスは答えた。
嘘ではない。
ただ、全てではなかった。
ここに残っている気配は、妙に近い。
ツカサの痕跡と、死の冷たさが離れていない。
追う者と追われる者なら、もう少し乱れが出る。
争ったなら、もっと風が荒れる。
だが、ここにはそれが少ない。
まるで。
フェリクスはそこまで考えて、言葉を止めた。
まだ早い。
証拠が足りない。
足りない証拠で人を刺すほど、彼は雑な学者ではない。
雑な学者ほど迷惑なものもない。しかも本人は世界を救ってる顔をする。地獄の事務処理か。
◇
さらに森の奥へ進むと、小さな廃屋があった。
昔、炭焼き小屋として使われていた場所らしい。
今は屋根の一部が崩れ、壁も傷んでいる。
誰も住んでいないはずだった。
けれど、風はそこへ向かっていた。
フェリクスが手で二人を止める。
「中に痕跡がある」
グランは剣に手をかけた。
ライトは盾を構える。
三人は静かに近づいた。
小屋の中は暗い。
古い木の匂い。
湿った土。
それに混じって、血の匂いがあった。
中に入ると、布が落ちていた。
黒い外套の端。
乾いた血。
そして、包帯。
雑に巻かれた跡のある布。
「誰かがここにいた」
ライトが言う。
「最近だ」
フェリクスは小屋の隅へ向かった。
そこに、小さな跡がある。
膝をついた跡。
壁に手をついた跡。
吐いたような跡もあった。
グランが顔をしかめる。
「傷を負ってたのか」
「おそらく」
「ツカサか」
フェリクスは落ちていた包帯に風を通した。
ほんの少し、料理油の匂い。
髪油の香り。
ミカゲの家にあったものと同じ。
「ツカサの可能性が高い」
グランが息を詰めた。
「生きてたんだな」
「ここにいた時点では」
「それで十分だ」
グランは布を握りそうになって、やめた。
証拠を壊すわけにはいかない。
フェリクスはさらに小屋の奥を見た。
木の床に、爪で引っかいたような跡がある。
文字ではない。
ただの線。
苦しみながらつけた跡に見えた。
その横に、小さな赤い染み。
そして、黒い影の残り。
フェリクスはそこに指を近づけ、すぐに引いた。
冷たい。
生きているように冷たい。
「これは」
彼の声が少し低くなった。
「死の権能にかなり近い」
ライトの目が細くなる。
「忌子か」
「少なくとも、ただの魔術ではない」
グランは小屋の外を見る。
「どっちへ行った」
フェリクスは風を放った。
小屋の隙間から風が抜ける。
北。
さらに北。
山道へ向かう方角。
そして、その途中で一度だけ、別の匂いが混じる。
血。
夜。
外套。
それから、わずかに甘い果物の香り。
老人が渡した干した果物。
ツカサが落とした包みと同じ匂い。
フェリクスは目を開けた。
「北へ行っている」
「追えるか」
「途中までは」
グランはすぐに歩き出そうとした。
ライトが腕を伸ばして止める。
「待て」
「何でだよ」
「罠の可能性がある」
「今さらかよ」
「今さらだからだ」
ライトの声は鋭かった。
「相手は英雄二人の前から逃げた。こちらの動きも読んでいるかもしれない」
フェリクスも頷いた。
「それに、ここから先は風の痕跡が薄い。闇雲に追えば見失う」
グランは歯を食いしばった。
「じゃあどうする」
「一度戻る」
フェリクスが言った。
グランが振り返る。
「戻る?」
「ミカゲに報告する。人員を増やす。周辺の古い建物を調べる。旧礼拝堂、廃倉庫、坑道跡。候補を絞る」
「その間に逃げられたら」
「もう逃げている」
フェリクスの声は冷静だった。
「今ここで走っても、追いつける根拠はない」
「っ」
「焦って足跡を踏み荒らせば、次の手がかりを消す」
グランは拳を握った。
何か言いたげだったが、言わなかった。
ライトが静かに頷く。
「戻ろう」
「……分かった」
グランは苦々しく答えた。
◇
夕方前、三人は店に戻った。
ミカゲはすぐに立ち上がった。
「何か、分かりましたか」
グランは一瞬、言葉に詰まった。
ライトが代わりに答える。
「ツカサが森の小屋にいた痕跡があった」
ミカゲの目が大きくなる。
「生きてたんですか」
「少なくとも、その時点では」
フェリクスが言った。
ミカゲは胸元を押さえた。
泣きそうな顔だった。
でも、泣かなかった。
「今は」
「北へ向かった痕跡がある」
「じゃあ、探しに」
「今日はこれ以上動かない」
グランが言った。
ミカゲは目を見開いた。
「どうしてですか」
「罠かもしれない。相手が忌子なら、下手に追う方が危ない」
「でもツカサが」
「だからだ」
グランの声が強くなる。
「お前が行って、ツカサが目の前にいたらどうする」
「助けます」
「相手が忌子だったら」
「それでも」
「お前が人質になったら、ツカサも俺たちも動けなくなる」
ミカゲは息を呑んだ。
その言葉は卑怯だった。
でも、正しかった。
ライトも続ける。
「君が行きたいのは分かる。だが、今は待て」
「待つのは」
ミカゲの声が震える。
「もう、嫌です」
「それでもだ」
ライトの声は静かだった。
「ツカサを助けるために、今は待て」
ミカゲは俯いた。
握った拳が震えている。
「……見つけたら、絶対に知らせてください」
「約束する」
グランが言った。
「ツカサがいたら、連れて帰る」
「怪我してたら」
「できる限りの処置はする」
フェリクスが答えた。
「僕は癒しの英雄ではないけどね」
「お願いします」
ミカゲは頭を下げた。
深く。
グランはそれを見て、目を逸らした。
軽く請け負える願いではない。
でも、請け負わない選択もなかった。
◇
夜。
宿の一室で、フェリクスは一人、紙を広げていた。
地図。
現場の記録。
風が拾った匂いの線。
死の冷たさが残る場所。
ツカサの足跡。
黒い影の痕跡。
それらを何度も見直す。
グランとライトは休ませた。
休めと言ったところで、ほとんど眠らないだろう。
それでも、今は二人を動かさない方がいい。
フェリクスはペン先で地図を叩いた。
西の森。
炭焼き小屋。
北へ続く道。
古い礼拝堂。
廃倉庫。
坑道跡。
候補は三つ。
だが、風の流れが一番歪んでいる場所は、ひとつだけだった。
北の旧礼拝堂。
フェリクスは目を細めた。
そこへ行けば、何か分かる。
ただし、グランとライトを連れて行けば、相手は逃げるかもしれない。
ミカゲに知らせれば、止めても来る。
そして、もしフェリクスの嫌な予感が当たっているなら。
あの場にミカゲを連れていくのは、残酷すぎる。
フェリクスは紙を畳んだ。
外套を羽織る。
窓を開けると、夜風が部屋に入ってきた。
「まったく」
小さく呟く。
「理屈で詰められるところまで詰めたら、最後は博打か」
自分で言って、少しだけ笑った。
ひどい話だ。
学者が一番嫌うはずの不確定要素に、自分の足で踏み込もうとしている。
でも、勝ち筋があるなら行くしかない。
フェリクスは机に一枚だけ紙を残した。
北の旧礼拝堂。
もし戻らなければ、そこを探せ。
短く、それだけ書いた。
それから、風を指先に集める。
窓の外へ身を滑らせるように出た。
夜の街は静かだった。
メーランの灯りは少ない。
閉じた戸の奥で、人々は息を潜めている。
フェリクスはその上を、風に乗って進んだ。
北へ。
旧礼拝堂へ。
ひとりで。
◇
旧礼拝堂は、森のさらに奥にあった。
崩れかけた石壁。
割れた窓。
半分外れた扉。
昔は祈りの場所だったのだろう。
今は、夜の影が溜まっているだけに見えた。
フェリクスは少し離れた木の上に降り立つ。
風を細く伸ばした。
中に誰かがいる。
黒い外套。
小柄な体。
息は浅い。
だが、確かに生きている。
フェリクスの喉が、わずかに鳴った。
風が、相手の周りをかすめる。
髪油の香り。
血の匂い。
料理油。
ミカゲの家の匂い。
そして、死の冷たさ。
混ざっている。
もう、ほとんど分けられないほどに。
フェリクスは目を閉じた。
「最悪だな」
小さく呟いた。
礼拝堂の奥で、人影が動く。
こちらに気づいたのか。
フードの少女が、ゆっくりと顔を上げた。
フェリクスは木の上から降りた。
足音を殺さず、正面へ歩く。
逃げられないように。
こちらから、姿を見せる。
「こんばんは」
声は静かだった。
「少し話をしようか」
フードの奥で、少女の息が止まった。
フェリクスは風を指先にまとわせる。
まだ名前は呼ばない。
呼んでしまえば、戻れなくなる気がした。
礼拝堂の中で、黒い影が静かに揺れていた。




