表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
53/59

第36話「手がかり」

 フェリクスがメーランに着いたのは、ツカサが消えてから五日目の昼だった。


 風の英雄。


 王都の学者。


 整った顔に、感情の薄い目。


 細身の外套を揺らしながら街道を歩いてくる姿は、旅人というより、どこか場違いな客人のようだった。


 けれど、門の前で足を止めた瞬間、その目つきが変わった。


 通りの音。


 閉じられた戸。


 歩く人の速さ。


 声の小ささ。


 風に混じる鉄の匂い。


 フェリクスは、それらをひとつずつ拾うように見ていた。


 出迎えに来たグランが、腕を組む。


「遅い」


「王都から急いで来たんだぞ。礼くらい言え」


「急いできた顔じゃねえだろ」


「風の英雄が普通に走ると思っているのか。君は本当に剣以外を信用していないな」


「うるせえ」


 いつもなら、そこで少し言い合いが続く。


 けれど、グランの顔に余裕はなかった。


 フェリクスも、それ以上は軽口を重ねなかった。


「ライトは?」


「店にいる。ミカゲのところだ」


「ツカサは」


 グランの表情が硬くなった。


「まだ見つかってない」


「そうか」


 フェリクスは短く答えた。


 王都へ届いた報告は、かなり削られていた。


 癒しの英雄エイル死亡。


 メーランにて連続殺人。


 死に関わる権能の可能性。


 少女一名、行方不明。


 死の英雄に関する文献調査を要請。


 たったそれだけ。


 それだけで、フェリクスは来た。


 来るしかなかった。


     ◇


 宿の一室に、地図と紙束が広げられた。


 グラン。


 ライト。


 フェリクス。


 三人が卓を囲む。


 ミカゲは店に残している。


 本人は来ると言ったが、ライトが止めた。


 ツカサのことが絡むなら、確かな話になるまで聞かせるべきではない。


 そう判断した。


 グランは不満そうだったが、反対はしなかった。


 フェリクスは現場の印を見て、眉を寄せた。


「被害者は全部で」


「エイルを含めて九人」


 ライトが答える。


「過激派の死体は別?」


「別だ」


「最初の夜は状況が混ざっているな」


「そうだ。過激派たちは刃物を持っていた。だが、その後の連続殺人とは傷が違う」


 フェリクスは紙に印を写していく。


 エイルが殺された場所。


 母子。


 薬草を届けていた女。


 夜番の男。


 その他の被害者。


 ひとつずつ、点が増える。


「被害者の共通点は、善良であること。周囲から信頼されていること。夜間に外へ出ていたこと」


「善良なんて、調査項目としては曖昧だ」


 グランが言う。


「曖昧だが、無視はできない」


 フェリクスは即答した。


「殺人に目的があるなら、犯人にとっては曖昧じゃない可能性がある」


「ライトも似たこと言ってたな」


「彼女はまともだからな」


「俺はまともじゃねえのか」


「今それを検討する時間が惜しい」


「お前な」


 グランが噛みつきかけたが、ライトが短く言った。


「続けて」


 フェリクスは頷いた。


「死の英雄の文献も見た。残っている記録は少ない。意図的に削られている可能性が高い」


「やっぱりか」


「最後の文献には、君が報告に書いた通りの一文があった」


 フェリクスは紙束の一枚を指で叩いた。


「その力は人々を救い、そして最後には人々に恐れられた」


 グランは苦い顔をする。


「それだけか」


「それだけだ。名前もない。最後の戦場も、死因も、継承先もない。英雄の記録としては不自然なくらい、空白が多い」


「隠されたってことか」


「または、消された」


 部屋が少し静かになった。


 フェリクスは淡々と続ける。


「死の英雄の権能は、死に関わるものだ。ただ、文献ごとに記述が揺れている。命を奪う。死を遅らせる。死者の気配を辿る。病の広がりを断つ。どこまで事実か分からない」


「今回の犯人は、命を奪ってる」


 グランが言った。


「そうだな」


「じゃあ死の英雄か」


「早い」


 フェリクスは短く返した。


「死に似た魔術。禁術。別の忌子。模倣犯。可能性はいくつもある」


「でも、現場の冷たさは普通じゃなかった」


 ライトが言う。


「その報告は読んだ。そこは大事だ」


 フェリクスは卓上に薄い布を広げた。


 そこには、現場から採った土や布の欠片が小瓶に分けられていた。


「風は、匂いと熱を覚える」


 彼は小瓶の栓を開けた。


 指先に淡い風がまとわりつく。


 部屋の空気が、わずかに動いた。


「完全な再現はできない。ただ、似た気配を探すことはできる」


「便利だな」


 グランが呟く。


「便利に見えるだけだ。手がかりが汚れていれば失敗する。風は何でも教えてくれる都合のいい先生じゃない」


「文句多いな」


「学問は文句から始まる」


「嫌な学問だな」


 フェリクスは無視した。


 風が、小瓶の中の空気をすくう。


 血の匂い。


 湿った土。


 死の冷たさ。


 それらが薄く広がり、彼の周りを巡った。


 フェリクスの目が細くなる。


「同じだ」


 ライトが顔を上げる。


「何が」


「少なくとも、連続殺人の現場には同じ気配が残っている。エイルの現場にも近いものがある」


「過激派の死体は?」


「違うものも混じっている。あの日は複数の血と力が重なっている。ただ、中心にある冷たさは同じだ」


「なら、犯人は一人か」


「一人、または一つ」


 その言い方に、グランが黙った。


 忌子。


 器。


 その言葉が、口に出さなくても部屋にあった。


     ◇


 フェリクスは、次にツカサの家を見た。


 祖母の店。


 閉ざされた暖簾。


 使われていない台所。


 机の上の櫛と髪油。


 もらいものの箱。


 そこには、干した果物の包みも入っていた。


 ミカゲは奥の椅子に座っていた。


 フェリクスが来ると、立ち上がろうとする。


「座っていていい」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃなさそうな人の大丈夫ほど信用できないものはない」


 ミカゲは少しだけ言葉に詰まった。


 ライトが横から言う。


「座っていろ」


「……はい」


 ミカゲは座り直した。


 フェリクスは部屋の中を見た。


 ただ見るだけではない。


 空気の流れ。


 埃の動き。


 布に残った匂い。


 戸の開き方。


 裏口の隙間。


 それらを風で撫でる。


「ここから出たのは、ツカサ本人で間違いない」


 ミカゲの顔が揺れた。


「自分で、ですか」


「少なくとも、裏口までは自分の足で歩いている。引きずられた跡はない」


「その後は」


「外で痕跡が乱れている」


「乱れている?」


「血の匂いが少し。外套の繊維。森の土。それから、死の冷たさに近いもの」


 ミカゲの手が膝の上で握られる。


「じゃあ、やっぱり忌子に」


「その可能性はある」


 フェリクスは言い切らなかった。


 ミカゲはそれでも、すがるように顔を上げた。


「ツカサは、生きてますか」


 部屋の中が静かになった。


 グランが目を伏せる。


 ライトも、すぐには何も言わなかった。


 フェリクスはミカゲを見た。


「分からない」


 ミカゲの唇が震えた。


「ただ、死体は見つかっていない。大量の血もない。即死した痕跡はない」


「じゃあ」


「生きている可能性はある」


 ミカゲは小さく息を吸った。


 それだけで、崩れそうな体を繋いだようだった。


「探します」


「そのために来た」


 フェリクスは短く答えた。


 それから、机の上の櫛を見た。


「これは?」


「ツカサが、私の髪に使っていたものです」


「なるほど」


 フェリクスは櫛には触れなかった。


 代わりに、風だけを通す。


 淡い風が櫛の歯の間を抜けた。


 髪油の香り。


 ミカゲの髪の匂い。


 ツカサの指先の残り香。


 それから、ほんの少しだけ夜の冷たさ。


 フェリクスの眉が、わずかに動いた。


「ツカサは、この櫛を最後に触っている」


「はい」


「出る直前だな」


 ミカゲは櫛を見る。


「置いていったんです」


「持っていかずに?」


「はい」


「もらいものの箱も」


「はい」


 ミカゲの声が少し震えた。


「ツカサは、人からもらったものを捨てられません。小さな包みでも、紐でも、全部取っておく子です」


 フェリクスは箱を見た。


 ふたが閉まらないほど詰まった箱。


 その中に、干した果物の包みが置かれている。


「なら、置いていったこと自体が異常だ」


「はい」


「自分で出たとしても、普通の外出ではない」


「そう、ですよね」


「そうだ」


 フェリクスは淡々と答えた。


 その冷静さが、今のミカゲには少しだけ助けになった。


「西の森へ行く」


 フェリクスは言った。


「そこで痕跡を拾う」


     ◇


 西の森には、グランとライトとフェリクスが向かった。


 ミカゲも行くと言った。


 グランは強く止めた。


 今度は、ミカゲもすぐには引かなかった。


「ツカサの手がかりなら、私も」


「だからこそだ」


 グランは言った。


「お前が一番無茶する」


「しません」


「今、嘘ついたな」


 ミカゲは黙った。


 グランは少しだけ声を落とす。


「見つかったら知らせる。絶対にだ」


「……約束ですか」


「ああ」


「破ったら怒ります」


「おう。怒れ」


「本気で怒ります」


「分かった」


 ミカゲは唇を噛んだ。


「お願いします」


 グランは頷いた。


「任せろ」


 その言葉だけを残して、三人は森へ入った。


     ◇


 森の中は静かだった。


 葉擦れの音。


 鳥の声。


 遠くの水音。


 何もなければ、穏やかな森だった。


 フェリクスは足を止め、目を閉じた。


 風が広がる。


 細い糸のように。


 木々の間を抜け、草の上を這い、土の窪みに触れる。


 グランは黙って待った。


 こういう時、フェリクスを急かしても意味がない。


 それくらいは知っている。


 ライトは周囲を警戒していた。


 盾はすぐに構えられる位置にある。


「ここだ」


 フェリクスが目を開けた。


 木の根元。


 ツカサが一晩過ごした跡。


 草が少し潰れている。


 火を使った跡はない。


 寒い夜だったはずだ。


 それでも、火は焚いていない。


 見つかるのを恐れたのか。


 火を使う余裕がなかったのか。


 そこから北へ、足跡が続いている。


 小さな足跡。


 軽い。


 途中までは、はっきり残っていた。


「ここから先が問題だ」


 ライトが言う。


 足跡は途中で薄れ、やがて消えている。


 硬い土。


 落ち葉。


 風で流れた匂い。


 普通なら、ここで終わりだった。


 フェリクスはしゃがみ込んだ。


 地面に手をかざす。


 風が土を撫でる。


 彼の髪がわずかに揺れた。


「二つある」


「二つ?」


 グランが聞く。


「ツカサの足跡。もう一つ、別の移動の痕跡」


「犯人か」


「足跡ではない。影が滑ったような痕跡だ」


 グランの顔が険しくなる。


「昨夜見たやつか」


「おそらく同じ系統だ」


「じゃあ、ツカサはここで襲われた?」


「可能性はある」


 フェリクスは、少し先の木の幹を見る。


 そこに、薄い傷があった。


 刃物ではない。


 黒い何かが掠めたような傷。


 ライトが膝をつき、地面を見る。


「血は少ないな」


「そうだ」


「争った跡も短い」


「そう見える」


 グランの顔が歪む。


「連れ去られたのか」


「その可能性はある」


 フェリクスは答えた。


 嘘ではない。


 ただ、全てではなかった。


 ここに残っている気配は、妙に近い。


 ツカサの痕跡と、死の冷たさが離れていない。


 追う者と追われる者なら、もう少し乱れが出る。


 争ったなら、もっと風が荒れる。


 だが、ここにはそれが少ない。


 まるで。


 フェリクスはそこまで考えて、言葉を止めた。


 まだ早い。


 証拠が足りない。


 足りない証拠で人を刺すほど、彼は雑な学者ではない。


 雑な学者ほど迷惑なものもない。しかも本人は世界を救ってる顔をする。地獄の事務処理か。


     ◇


 さらに森の奥へ進むと、小さな廃屋があった。


 昔、炭焼き小屋として使われていた場所らしい。


 今は屋根の一部が崩れ、壁も傷んでいる。


 誰も住んでいないはずだった。


 けれど、風はそこへ向かっていた。


 フェリクスが手で二人を止める。


「中に痕跡がある」


 グランは剣に手をかけた。


 ライトは盾を構える。


 三人は静かに近づいた。


 小屋の中は暗い。


 古い木の匂い。


 湿った土。


 それに混じって、血の匂いがあった。


 中に入ると、布が落ちていた。


 黒い外套の端。


 乾いた血。


 そして、包帯。


 雑に巻かれた跡のある布。


「誰かがここにいた」


 ライトが言う。


「最近だ」


 フェリクスは小屋の隅へ向かった。


 そこに、小さな跡がある。


 膝をついた跡。


 壁に手をついた跡。


 吐いたような跡もあった。


 グランが顔をしかめる。


「傷を負ってたのか」


「おそらく」


「ツカサか」


 フェリクスは落ちていた包帯に風を通した。


 ほんの少し、料理油の匂い。


 髪油の香り。


 ミカゲの家にあったものと同じ。


「ツカサの可能性が高い」


 グランが息を詰めた。


「生きてたんだな」


「ここにいた時点では」


「それで十分だ」


 グランは布を握りそうになって、やめた。


 証拠を壊すわけにはいかない。


 フェリクスはさらに小屋の奥を見た。


 木の床に、爪で引っかいたような跡がある。


 文字ではない。


 ただの線。


 苦しみながらつけた跡に見えた。


 その横に、小さな赤い染み。


 そして、黒い影の残り。


 フェリクスはそこに指を近づけ、すぐに引いた。


 冷たい。


 生きているように冷たい。


「これは」


 彼の声が少し低くなった。


「死の権能にかなり近い」


 ライトの目が細くなる。


「忌子か」


「少なくとも、ただの魔術ではない」


 グランは小屋の外を見る。


「どっちへ行った」


 フェリクスは風を放った。


 小屋の隙間から風が抜ける。


 北。


 さらに北。


 山道へ向かう方角。


 そして、その途中で一度だけ、別の匂いが混じる。


 血。


 夜。


 外套。


 それから、わずかに甘い果物の香り。


 老人が渡した干した果物。


 ツカサが落とした包みと同じ匂い。


 フェリクスは目を開けた。


「北へ行っている」


「追えるか」


「途中までは」


 グランはすぐに歩き出そうとした。


 ライトが腕を伸ばして止める。


「待て」


「何でだよ」


「罠の可能性がある」


「今さらかよ」


「今さらだからだ」


 ライトの声は鋭かった。


「相手は英雄二人の前から逃げた。こちらの動きも読んでいるかもしれない」


 フェリクスも頷いた。


「それに、ここから先は風の痕跡が薄い。闇雲に追えば見失う」


 グランは歯を食いしばった。


「じゃあどうする」


「一度戻る」


 フェリクスが言った。


 グランが振り返る。


「戻る?」


「ミカゲに報告する。人員を増やす。周辺の古い建物を調べる。旧礼拝堂、廃倉庫、坑道跡。候補を絞る」


「その間に逃げられたら」


「もう逃げている」


 フェリクスの声は冷静だった。


「今ここで走っても、追いつける根拠はない」


「っ」


「焦って足跡を踏み荒らせば、次の手がかりを消す」


 グランは拳を握った。


 何か言いたげだったが、言わなかった。


 ライトが静かに頷く。


「戻ろう」


「……分かった」


 グランは苦々しく答えた。


     ◇


 夕方前、三人は店に戻った。


 ミカゲはすぐに立ち上がった。


「何か、分かりましたか」


 グランは一瞬、言葉に詰まった。


 ライトが代わりに答える。


「ツカサが森の小屋にいた痕跡があった」


 ミカゲの目が大きくなる。


「生きてたんですか」


「少なくとも、その時点では」


 フェリクスが言った。


 ミカゲは胸元を押さえた。


 泣きそうな顔だった。


 でも、泣かなかった。


「今は」


「北へ向かった痕跡がある」


「じゃあ、探しに」


「今日はこれ以上動かない」


 グランが言った。


 ミカゲは目を見開いた。


「どうしてですか」


「罠かもしれない。相手が忌子なら、下手に追う方が危ない」


「でもツカサが」


「だからだ」


 グランの声が強くなる。


「お前が行って、ツカサが目の前にいたらどうする」


「助けます」


「相手が忌子だったら」


「それでも」


「お前が人質になったら、ツカサも俺たちも動けなくなる」


 ミカゲは息を呑んだ。


 その言葉は卑怯だった。


 でも、正しかった。


 ライトも続ける。


「君が行きたいのは分かる。だが、今は待て」


「待つのは」


 ミカゲの声が震える。


「もう、嫌です」


「それでもだ」


 ライトの声は静かだった。


「ツカサを助けるために、今は待て」


 ミカゲは俯いた。


 握った拳が震えている。


「……見つけたら、絶対に知らせてください」


「約束する」


 グランが言った。


「ツカサがいたら、連れて帰る」


「怪我してたら」


「できる限りの処置はする」


 フェリクスが答えた。


「僕は癒しの英雄ではないけどね」


「お願いします」


 ミカゲは頭を下げた。


 深く。


 グランはそれを見て、目を逸らした。


 軽く請け負える願いではない。


 でも、請け負わない選択もなかった。


     ◇


 夜。


 宿の一室で、フェリクスは一人、紙を広げていた。


 地図。


 現場の記録。


 風が拾った匂いの線。


 死の冷たさが残る場所。


 ツカサの足跡。


 黒い影の痕跡。


 それらを何度も見直す。


 グランとライトは休ませた。


 休めと言ったところで、ほとんど眠らないだろう。


 それでも、今は二人を動かさない方がいい。


 フェリクスはペン先で地図を叩いた。


 西の森。


 炭焼き小屋。


 北へ続く道。


 古い礼拝堂。


 廃倉庫。


 坑道跡。


 候補は三つ。


 だが、風の流れが一番歪んでいる場所は、ひとつだけだった。


 北の旧礼拝堂。


 フェリクスは目を細めた。


 そこへ行けば、何か分かる。


 ただし、グランとライトを連れて行けば、相手は逃げるかもしれない。


 ミカゲに知らせれば、止めても来る。


 そして、もしフェリクスの嫌な予感が当たっているなら。


 あの場にミカゲを連れていくのは、残酷すぎる。


 フェリクスは紙を畳んだ。


 外套を羽織る。


 窓を開けると、夜風が部屋に入ってきた。


「まったく」


 小さく呟く。


「理屈で詰められるところまで詰めたら、最後は博打か」


 自分で言って、少しだけ笑った。


 ひどい話だ。


 学者が一番嫌うはずの不確定要素に、自分の足で踏み込もうとしている。


 でも、勝ち筋があるなら行くしかない。


 フェリクスは机に一枚だけ紙を残した。


 北の旧礼拝堂。


 もし戻らなければ、そこを探せ。


 短く、それだけ書いた。


 それから、風を指先に集める。


 窓の外へ身を滑らせるように出た。


 夜の街は静かだった。


 メーランの灯りは少ない。


 閉じた戸の奥で、人々は息を潜めている。


 フェリクスはその上を、風に乗って進んだ。


 北へ。


 旧礼拝堂へ。


 ひとりで。


     ◇


 旧礼拝堂は、森のさらに奥にあった。


 崩れかけた石壁。


 割れた窓。


 半分外れた扉。


 昔は祈りの場所だったのだろう。


 今は、夜の影が溜まっているだけに見えた。


 フェリクスは少し離れた木の上に降り立つ。


 風を細く伸ばした。


 中に誰かがいる。


 黒い外套。


 小柄な体。


 息は浅い。


 だが、確かに生きている。


 フェリクスの喉が、わずかに鳴った。


 風が、相手の周りをかすめる。


 髪油の香り。


 血の匂い。


 料理油。


 ミカゲの家の匂い。


 そして、死の冷たさ。


 混ざっている。


 もう、ほとんど分けられないほどに。


 フェリクスは目を閉じた。


「最悪だな」


 小さく呟いた。


 礼拝堂の奥で、人影が動く。


 こちらに気づいたのか。


 フードの少女が、ゆっくりと顔を上げた。


 フェリクスは木の上から降りた。


 足音を殺さず、正面へ歩く。


 逃げられないように。


 こちらから、姿を見せる。


「こんばんは」


 声は静かだった。


「少し話をしようか」


 フードの奥で、少女の息が止まった。


 フェリクスは風を指先にまとわせる。


 まだ名前は呼ばない。


 呼んでしまえば、戻れなくなる気がした。


 礼拝堂の中で、黒い影が静かに揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ