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第35話「残響」

 ツカサがいなくなってから、三日が過ぎた。


 店の暖簾は出ていない。


 戸は閉じたまま。


 それでも、朝になると誰かが様子を見に来た。


 食べ物を置いていく人。


 水を運んでくれる人。


 何か分かったら知らせると言う人。


 誰も長居はしなかった。


 ミカゲが、うまく返事をできないからだ。


 ありがとう。


 大丈夫です。


 何かあったらお願いします。


 そう言うだけで精一杯だった。


 大丈夫ではなかった。


 でも、大丈夫じゃないと言ったところで、ツカサが戻るわけではない。


 だからミカゲは、同じ言葉を繰り返した。


 朝。


 昼。


 夜。


 時間だけが進んでいく。


 ツカサはいない。


     ◇


 ミカゲは、寝台の端に座っていた。


 机の上には、櫛と髪油の瓶が置かれている。


 ツカサが最後に残していったもの。


 使う気になれなかった。


 でも、片づけることもできなかった。


 瓶の中の油は少しだけ残っている。


 布で丁寧に包まれていた。


 櫛も、髪の間を通しやすいように、きれいに拭かれていた。


 ツカサらしいと思った。


 いなくなる時でさえ、こういうことをする。


 ミカゲは自分の髪に触れた。


 指が少し引っかかる。


 ここ数日、きちんと梳いていなかった。


 結び直すだけ。


 水で軽く整えるだけ。


 それでも、まだ髪は大きく乱れてはいない。


 ツカサがずっと手入れしてくれていたからだ。


 訓練で汗をかいても。


 砂がついても。


 体調を崩して寝込んでも。


 ツカサは毎晩のように髪を梳いた。


 少し高い油を、必要なものだからと言って使った。


 綺麗でいてほしい。


 そう言った。


 あの時の声を思い出すと、胸が痛かった。


「どうして」


 ミカゲは呟いた。


「どうして、いなくなるの」


 返事はない。


 寝台の隣は空いている。


 夜になっても、台所から物音はしない。


 朝になっても、味噌汁の匂いはしない。


 店の帳面も開かれない。


 祖母がいなくなった時より、家の中が広かった。


 広すぎた。


 ミカゲは櫛に手を伸ばした。


 触れる。


 冷たかった。


 すぐに手を引いた。


 使えなかった。


 自分で梳いたら、ツカサが本当に戻ってこない気がした。


 そんなことに意味がないのは分かっている。


 櫛を使っても使わなくても、ツカサは帰ってきていない。


 でも、できなかった。


 人間の心、こういう時だけ無駄に器用で面倒。いや、本文には入れないけどさ。ほんと厄介。


     ◇


 昼前、ライトが店に来た。


 戸を叩く音は控えめだった。


「ミカゲ。私だ」


 ミカゲは少し遅れて立ち上がった。


 鍵を開ける。


 ライトは外に立っていた。


 灰色の外套をまとい、盾は背負っていない。


 今日は調査ではなく、見舞いに来たのだと分かった。


「入ってもいいか」


「はい」


 ミカゲは道を開けた。


 ライトが店に入る。


 店の中を見回して、少しだけ目を伏せた。


 閉じられた店。


 片づけられた椅子。


 使われていない台所。


 そこに、まだツカサの気配だけが残っている。


「何か、分かりましたか」


 ミカゲはすぐに聞いた。


 ライトは首を横に振った。


「まだ見つかっていない」


「そうですか」


 分かっていた。


 分かっていたのに、胸の奥がまた落ちる。


「西の森と街道を調べている。グランも動いている」


「はい」


「血の跡は途中で消えていた。争った跡は少ない。連れ去られた可能性も、自分で移動した可能性もある」


「自分で……」


 ミカゲの声が小さくなる。


 ライトはミカゲを見る。


「今は、どちらも捨てない方がいい」


「ツカサが、自分でいなくなったってことですか」


「可能性の話だ」


 ミカゲは俯いた。


 手を握る。


「なんで」


 小さな声だった。


「なんで、そんなことするの」


 ライトはすぐには答えなかった。


 答えられるはずがない。


 ツカサが何を抱えていたのか。


 どこまで壊れていたのか。


 ライトにも、まだ見えていない。


「理由があるのかもしれない」


「私に言えない理由ですか」


「そうかもしれない」


 ミカゲは唇を噛んだ。


「私、そんなに頼りなかったですか」


「ミカゲ」


「半分こって言ったのに」


 声が震える。


「無理するなって言ったのに。私にも言ってって。何かあるなら、ちゃんと話してって」


 ミカゲは机の上の櫛を見た。


「でも、何も言わずにいなくなった」


 ライトはその視線を追った。


 櫛。


 髪油の瓶。


 布の上に並べられたそれを見て、少しだけ目を細めた。


「それは」


「ツカサが残していったんです」


 ミカゲは言った。


「私の髪に使ってたものです」


「髪に」


「訓練で傷んだからって。高かったのに、必要だからって」


 ミカゲは自分の髪に触れた。


「毎日、梳いてくれました。体調崩してからも。昨日も、その前も」


 ライトはミカゲの髪を見た。


 少し乱れている。


 けれど、手入れの跡ははっきり残っていた。


 毛先は整えられている。


 乾燥しないように油が馴染んでいる。


 結び癖も、無理に引っ張らないように直されている。


 雑に扱われた髪ではない。


 何日か触れられていなくても、それは分かる。


 誰かが、時間をかけて整え続けた髪だった。


「ツカサは」


 ミカゲが呟く。


「私のこと、どうでもよくなったのかな」


 ライトの目が、少し鋭くなった。


 ミカゲは笑おうとした。


 失敗した。


「ごめんなさい。変なこと言ってるのは分かってます」


「変ではない」


「でも」


「不安なんだろう」


 ミカゲは黙った。


 それだけで答えだった。


「ツカサが何かを隠していたのは、たぶん本当だ」


 ライトは言った。


 ミカゲの肩が揺れる。


「隠し事もあった。言えなかったこともあった。君を置いて行った理由も、まだ分からない」


「はい」


「だが、君をどうでもいいと思っていたとは思えない」


 ミカゲは顔を上げた。


 ライトはミカゲの髪を見る。


「ここまで手をかけた髪を見れば分かる」


 声は静かだった。


「想っていない相手に、ここまではしない」


 ミカゲの目が揺れた。


「でも」


「義務でできることではない」


 ライトは机の上の櫛を手に取らなかった。


 ただ、見た。


「髪を整えるのは、時間がかかる。面倒でもある。相手の痛みや癖も見なければいけない。強く引けば痛い。雑に扱えば傷む。毎日続けなければ、こうは残らない」


 ミカゲは自分の髪を握った。


 少し震えている。


「ツカサは、君を見ていた」


 ライトは続けた。


「少なくとも、君の髪が傷んでいることに気づくくらいには。君が綺麗でいることを大事だと思うくらいには。君が気にしないところまで、気にするくらいには」


 ミカゲの視界が滲んだ。


「じゃあ、なんで」


「それは分からない」


 ライトは誤魔化さなかった。


「分からないものは、分からない。ただ、どうでもよくなったから去った、とは思わない」


「……はい」


「君がそこを疑い続けると、持たない」


 少し厳しい声だった。


 でも、責めてはいなかった。


「ツカサが何をしたのか。何をされたのか。何を考えたのか。それは探す。私たちも調べる。君も知るべき時が来るかもしれない」


 ライトはミカゲを見る。


「だが、愛されていなかったのではないか、という疑いだけで自分を削るな」


 ミカゲの目から涙が落ちた。


「ライトさん」


「何だ」


「私、ツカサに怒りたいです」


「怒ればいい」


「でも、帰ってきてほしいです」


「それも当然だ」


「見つけたら、怒って、泣いて、でも抱きしめたいです」


「そうしろ」


 ライトの返事は短かった。


 ミカゲは泣きながら、少しだけ笑った。


「止めないんですね」


「止める理由がない」


「グランさんなら慌てそう」


「慌てるだろうな」


「はあ!? 怒って抱きしめるってどういうことだ!? って言いそう」


「言う」


 ライトはわずかに頷いた。


 その言い方が妙に真面目で、ミカゲは少しだけ息を吐いた。


 笑いに近いものだった。


 久しぶりに、胸がほんの少しだけ動いた。


     ◇


 ライトは台所へ行き、湯を沸かした。


 ミカゲが慌てて立ち上がる。


「私がやります」


「座っていろ」


「でも」


「君は三日、まともに食べていない顔をしている」


 言い返せなかった。


 ライトは棚を開ける。


 保存食を見つけ、粥を作り始めた。


 動きは慣れている。


 ツカサのように細やかではない。


 祖母のように手早くもない。


 でも、無駄がなかった。


「ライトさん、料理できるんですね」


「最低限は」


「意外です」


「盾を持つ者が、自分の食事を他人に任せきりでは困る」


「そういう理由なんですね」


「他にもある」


「他にも?」


「グランが鍋を焦がす」


 ミカゲは一瞬きょとんとした。


 それから、少し吹き出した。


「焦がすんですか」


「豪快に」


「似合う」


「本人は火力が悪いと言う」


「言いそう」


 ライトは淡々と粥をかき混ぜた。


 ミカゲは椅子に座ったまま、その背中を見ていた。


 ツカサとは違う背中だった。


 でも、誰かが台所に立っている音がするだけで、少し呼吸が楽になった。


 粥が置かれる。


 湯気が立っている。


「食べろ」


「はい」


 ミカゲは匙を持った。


 一口食べる。


 薄い味。


 でも、温かい。


「おいしいです」


「味は薄い」


「でも、おいしいです」


「そうか」


 ライトはそれ以上言わなかった。


 ミカゲは少しずつ食べた。


 途中で喉が詰まりそうになる。


 でも、飲み込んだ。


 ツカサがいたら、もっと柔らかく作っただろう。


 ミカゲの好きな味にしただろう。


 そんなことを考える。


 考えて、泣きそうになる。


 でも、匙は置かなかった。


 食べなければ、探せない。


 ツカサが戻ってきた時に、立っていられない。


 ミカゲは半分ほど食べた。


 それだけで、ライトは何も言わずに頷いた。


     ◇


 食後、ライトはミカゲの髪を見た。


「梳くか」


 ミカゲは目を瞬かせた。


「え」


「自分でできないなら、私がやる」


「あ、でも」


「嫌ならいい」


「嫌じゃないです」


 ミカゲは小さく言った。


「ただ、ツカサ以外にやってもらうの、変な感じで」


「そうか」


 ライトは無理に近づかなかった。


 ミカゲは机の上の櫛を見た。


 手を伸ばす。


 今度は、触れた。


 冷たい。


 でも、さっきほど怖くなかった。


「お願いします」


 ミカゲは櫛をライトに渡した。


 ライトは受け取り、ミカゲの後ろに立つ。


 髪に櫛を通す。


 最初は少し引っかかった。


 ライトはすぐに手を止めた。


「痛いか」


「少し」


「すまない」


「大丈夫です」


「大丈夫ではない時にも言う言葉だ」


 ミカゲは少し笑った。


「グランさんみたい」


「不本意だ」


「仲良いですよね」


「悪くはない」


「それ、仲良いって意味ですよ」


「解釈は任せる」


 ライトは慎重に櫛を通した。


 慣れていない手つき。


 でも、雑ではない。


 ツカサとは違う。


 ツカサの手は、もっと静かで、迷いが少なくて、ミカゲの髪の癖を全部知っていた。


 ライトの手は少し硬い。


 それでも、丁寧だった。


 ミカゲは鏡を見た。


 そこに映る自分は、少しやつれている。


 目も赤い。


 髪だけが、まだツカサの残した手入れを覚えている。


「ツカサ、怒るかな」


 ミカゲが呟いた。


「何に」


「私が、髪ぐちゃぐちゃにしてたら」


「怒るかもしれない」


「やっぱり」


「だが、心配が先だろう」


「うん」


 ミカゲは目を伏せた。


「帰ってきたら、怒られたいです」


「そのためにも、整えておけ」


「はい」


 ライトは少しだけ髪油を取った。


 多すぎない量。


 ミカゲの毛先に馴染ませる。


「このくらいか」


「たぶん」


「ツカサなら、もっと上手いだろうな」


「はい」


 即答だった。


 ライトは怒らなかった。


「なら、戻ってきたら本人に直させろ」


 ミカゲの目から、また涙が落ちた。


「はい」


     ◇


 夕方、グランが戻ってきた。


 店に入るなり、ミカゲを見て少しだけ安心した顔をした。


「飯食ったか」


「食べました」


「本当か」


「ライトさんが作ってくれました」


「ライトが?」


 グランがライトを見る。


「焦げてないか」


「君と一緒にするな」


「はあ!? 俺だって焦がさねえ時は焦がさねえよ!」


「焦がす時点で比較対象に入るな」


「お前なあ!」


 いつものやり取りだった。


 ミカゲはそれを見て、少しだけ息が緩んだ。


 でも、すぐにグランの顔が真面目に戻る。


「西の街道で、これが見つかった」


 グランは布包みを取り出した。


 干した果物の包みだった。


 老人がツカサに渡したもの。


 包み紙は皺になっていた。


 中身はそのまま。


 血はついていない。


 泥だけが少しついていた。


 ミカゲは震える手で受け取った。


「ツカサの……」


「たぶん、そうだ」


 グランの声は重い。


「街の外れの木の近くに落ちてた。そこで一晩過ごした跡がある」


「一晩」


「火は使ってない。足跡はそこから北へ続いてたが、途中で消えてる」


「生きてるんですか」


「分からない」


 その答えに、ミカゲの顔が歪んだ。


 でも、グランは嘘をつかなかった。


「ただ、包みがそこにあったってことは、そこまでは行った」


「これ、捨てたのかな」


 ミカゲは包みを握った。


 ツカサがもらったものを捨てた。


 信じたくなかった。


 でも、そこに落ちていた。


 ライトが静かに言う。


「落とした可能性もある」


「ツカサが?」


「限界だったなら」


 ミカゲは包みを見つめた。


 中身は食べられていない。


 きっと食べられなかったのだ。


 受け取ったのに。


 持っていったのに。


 どこかで落とした。


 拾う余裕もなく。


 ミカゲは胸が締めつけられた。


「ツカサ」


 名前を呼ぶ。


 返事はない。


 包みだけが、手の中にある。


     ◇


 その夜、ミカゲは包みを箱に入れた。


 ツカサのもらいものの箱。


 ふたはもう閉まらなかった。


 ミカゲは無理に閉めなかった。


 干した果物の包みを、一番上に置く。


「預かってるから」


 小さく言う。


「帰ってきたら、返すから」


 机の上には、櫛と髪油の瓶。


 髪はライトが整えてくれた。


 ツカサほどではない。


 でも、乱れてはいない。


 ミカゲは鏡を見る。


 そこにいる自分は、まだ泣きそうな顔をしている。


 でも、朝より少しだけ目に力が戻っていた。


 ツカサはどこかにいる。


 生きているかもしれない。


 死んでいるかもしれない。


 忌子に襲われたのかもしれない。


 自分で消えたのかもしれない。


 何も分からない。


 分からないことばかりだった。


 でも、一つだけ、ライトが言った。


 想っていない相手に、ここまではしない。


 ミカゲは髪に触れた。


 指先に、まだ油の香りが少し残っている。


 ツカサの手の残響みたいだった。


「信じるから」


 ミカゲは呟いた。


「怒るけど」


 涙が落ちた。


「でも、信じるから」


 夜はまだ長い。


 ツカサは帰ってこない。


 それでもミカゲは、櫛を机の引き出しにはしまわなかった。


 明日も使う。


 ツカサが戻ってきた時、ひどい顔だと言われるかもしれない。


 寝癖してる、と言われるかもしれない。


 髪、絡んでる、と静かに怒られるかもしれない。


 その時のために。


 ミカゲは灯りを消さず、寝台に横になった。


 隣は空いている。


 それでも、目を閉じた。


 眠れなくても。


 朝を迎えなければ、探しに行けない。

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