表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
早退させていただきます。もう、悪役令嬢キャラには疲れました  作者: おでこ
番外編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/41

第40話 「旅する少女と、丘の上の光」

いつも本作をお読みいただき、本当にありがとうございます!

おかげさまで、累計100万PVを突破することができました( ;∀;)


完結後もこうして多くの方に支えていただけていることが嬉しく、感謝の気持ちを込めて、番外編を更新させていただきます(*‘ω‘ *)/


 少女には、名前があった。



 でも、どこへ行っても、誰もそれを知らない。

 問われれば答えた。答えれば忘れられた。次の町では、また新しい人が同じことを聞いた。

 そのうち少女は、名前というものがどれほど軽いものかを知った。


 だから、この話の中で少女の名前は出てこない。


 必要がない。

 どこへでも行ける少女の話に、名前は要らなかった。



        ◇



 少女が旅に出たのは、春の初めのことだった。


 理由は、単純だった。


 息ができなかった。


 大きな出来事があったわけではない。誰かに酷いことをされたわけでも、何かを失ったわけでもない。ただ、毎朝目が覚めると、また同じ天井があった。同じ朝があった。同じ顔が、同じ言葉で、同じことを言った。


 「あなたは、ここにいればいい」


 悪意のある言葉ではなかった。愛情から来ていることも、わかっていた。

 でも、それがだんだん、息苦しくなっていった。


 「ここ」の外に、何があるのか。

 「ここ」の外に、自分がいられる場所があるのか。


 誰も教えてくれなかった。

 誰も、「ここ」の外へ連れて行ってくれなかった。


 だから、一人で行くことにした。



        ◇



 旅立つ前の夜、少女は町はずれの丘に登った。


 町の人間が「見晴らし台」と呼んでいる、少し開けた場所だった。特別なものは何もない。ただ、木が途切れて、空が広く見える。それだけの場所。


 少女はそこに立って、ゆっくりと遠くを眺めた。


 西に、山の稜線が続いていた。

 東に、川が光を反射して細く輝いていた。

 北に、森が広がっていた。南には、夕暮れの雲が低く流れていた。


 今まで何度も来た場所だった。でも今日は、違って見えた。


 (……あの山の向こうに、何があるんだろう)


 少女は目を細めた。

 稜線の向こうは、見えなかった。でも、何かがある。それだけは、確かだった。


 風が吹いた。草が揺れた。夕暮れの光が、足元まで長く伸びていた。


 少女はその光景を、ゆっくりと目に焼き付けた。


 いつか、帰ってきたとき。

 この丘から同じ景色を見るとき、自分はどんな顔をしているだろう。


 そう思いながら、目を閉じた。


 それから、目を開けて、丘を降りた。



        ◇



 翌朝、荷物をまとめた。


 大きな荷物は持たなかった。着替えと、少しのお金と、何も書いていない小さなノートだけ。地図は持たなかった。地図があれば、行き先を決めなければならなくなる。


 少女は行き先を決めていなかった。決めたくなかった。


 門の前で立ち止まった。

 後ろを振り返ったら、戻りたくなるかもしれないと思った。

 だから、振り返らなかった。


 前を向いて、歩き出した。



        ◇



 最初の町は、二日歩いた先にあった。


 名前も知らない小さな町だった。石畳が古くて、石に苔が生えていた。井戸のそばで老人が日向ぼっこをしていた。


「どこから来たんだい」


 老人が聞いた。


「南の方から」


「どこへ行くんだい」


「わかりません……」


 老人が少し笑った。


「それはいい旅だ」


 少女は、その言葉の意味がよくわからなかった。でも、悪い気分ではなかった。


 その夜、宿屋の主人が夕食を出してくれた。

 煮込んだ豆と、固いパンと、ハーブの香りのするスープ。

 慣れない味だった。でも、おいしかった。


 生まれた町と、違う味がした。

 その「違う」が、少し温かかった。



        ◇



 春の間、少女はいくつかの町を歩いた。


 ある町では、花市が開かれていた。色とりどりの花が並んで、見たことのない種類がたくさんあった。花屋の娘が「これは山の北側でしか咲かない花なの」と教えてくれた。北の山には、自分の知らない花がある。それだけのことが、なぜか胸に刺さった。


 別の町では、子供たちが水路で遊んでいた。

 少女も引っ張られて、一緒に入った。冷たかった。笑い声が出た。

 誰も、少女がどこから来たかを聞かなかった。ただ、一緒に笑った。


 そういう時間が、少女には新鮮だった。


 (……名前を聞かれなくても、いられる場所がある)


 誰かの娘でも、誰かの婚約者でもなく、ただそこにいるだけで、受け入れてもらえる場所。


 生まれた町にも、きっとそういう場所はあったはず。


 でも少女には、見つけることはできなかった。



        ◇



 夏になった。


 道が険しくなった。太陽が強くなった。荷物が重く感じた。


 山を越えようとした日、道に迷った。

 森の中で日が暮れかけて、少し焦った。


 そのとき、逆方向から歩いてきた行商人に声をかけた。


「この山を越えたいんですが……」


「今日は無理だ」


 行商人は断言した。


「日が暮れる。今夜は麓の小屋で休め。明日の朝、案内してやろう」


 少女は少し迷った。見知らぬ人についていくことへの、子供の頃から叩き込まれた警戒心があった。


 でも、行商人の顔を見た。疲れた顔だったが、悪い顔ではなかった。


「……お願いします」


 小屋に泊めてもらった。

 行商人の持っていた燻製の肉と、少女の持っていたパンを分け合って食べた。火を囲みながら、行商人は静かに話した。


「長いこと旅をしているが、一番いいのは、知らない道を行くことだ。

 怖いけどな。でも、知らない道にしか、知らないものはない」


 少女は炎を見ながら、その言葉を聞いていた。


 翌朝、行商人は約束通り山を案内してくれた。山頂の手前で、行商人は南の方角へ曲がった。


「お前さんは、まっすぐ行け。そうすれば次の町がある」


「ありがとうございました」


「気をつけてな」


 それだけだった。名前も聞かなかった。聞かれなかった。


 でも、少女の足取りは、昨日より少しだけ軽かった。



        ◇



 山を越えると、また違う景色があった。


 南側と、北側では、植物が全然違った。木の形が違う。花の色が違う。空気の匂いが違う。同じ山の、反対側なのに。


 (……山一つ越えただけで、こんなに変わる)


 少女はそれを不思議に思った。


 生まれた町だけで生きていたら、一生知らなかったことだった。


 ノートを出した。

 何も書いていなかったノートに、初めて何かを書いた。


 「山の北側と南側では、花の色が違う」


 メモと簡単な絵だけ書いて、ノートを閉じた。


 旅の記録というほどのものではなかった。でも、誰かに伝えたくなった。誰かに見せたくなった。


 そのとき、少女は初めて思った。


 (……一人で見ている景色が、少しだけ、もったいない気がする)


 すぐにその考えを横に置いた。一人で旅に出たのだから、当然のことだった。


 でも、その「もったいない」は、ずっと消えなかった。



        ◇



 秋になった。


 葉が色づいていた。赤と黄と、まだ少し緑が混じった森を、少女は歩いた。


 旅を始めて半年以上が経っていた。


 最初の頃は、毎日が新鮮だった。歩くたびに発見があって、出会いがあって、それだけで一日が満ちた。でも今は、少し違った。


 新鮮さに慣れ始めていた。


 それは悪いことではなかった。慣れたからこそ、見えてくるものがある。最初の頃は気づかなかった細部が、今は目に入る。空の色の変わり方。道端の草の名前。宿屋の主人の顔の疲れ方。


 旅の目が、少しずつ育っていた。


 ある日、街道で一人の老婆と並んで歩くことになった。老婆は重い荷物を背負っていた。少女が「少し持ちます」と申し出ると、老婆は最初断って、それから素直に渡してくれた。


「お嬢さんは、一人旅かい」


「ええ」


「どこまで行くんだい」


「わかりません……」


 老婆は少し間を置いた。


「わからないままで、怖くないかい」


 少女は少し考えた。


「最初は怖かったです。でも今は、わからないままで歩いていると、わかるものが増えていく気がして」


 老婆がまた間を置いた。それから、ゆっくり言った。


「それが旅だね」


 短い言葉だった。でも、少女の中に、すとんと落ちた。


 それが旅だ。


 わからないから、歩く。歩くから、わかる。歩くほどに、わかることが増えていく。


 次の分かれ道で、老婆と別れた。


 名前も知らない人だった。


 でも、その「それが旅だね」という一言は、ずっと残った。



        ◇



 冬になった。


 道が凍り始めた。風が強くなった。宿の炉端が、どこへ行っても一番温かい場所になった。


 旅に出て、初めての冬だった。


 寒い、と思った。


 単純に、体が冷えた。防寒の準備が足りなかった。膝が痛くなった。足の指が、夜になるとじんじんした。


 ある夜、宿屋のベッドの中で、少女は天井を見た。


 (……帰ろうか)


 そう思った。


 驚いた。旅に出てから、一度も帰りたいと思わなかった。でも今、この冬の夜に、初めてそう思った。


 あの町が、遠かった。丘の向こうで、今夜どんな空が出ているか。炉端に誰が座っているか。夕食に何が出ているか。


 (……あそこには、私の場所がある)


 でも。


 (……本当に、そうだったか)


 少女は目を閉じた。


 帰れば、また「ここにいればいい」という言葉が待っている。それが悪意でないことも、愛情からであることも、わかっている。でも、それだけでは足りなかった。だから出てきた。


 帰る場所と、いられる場所は、違う。


 帰る場所は、ある。


 でも、いられる場所は、まだ見つかっていない。


 (……もう少し、歩こう)


 少女は目を開けた。


 もう少し。もう少しだけ歩いたら、何かが見えるかもしれない。そう思った。確証はなかった。でも、その「かもしれない」だけが、今の少女の足を動かしていた。



        ◇



 冬を越えた。


 また春が来た。


 旅に出てから、二度目の春だった。


 最初の春とは、少し違って見えた。花の名前を知っていた。土の匂いが何を意味するかを知っていた。山の手前で止まらず、越え方を知っていた。


 ノートにも色々な記録が付いていた。


 少女は変わっていた。自分ではよくわからなかったが、変わっていた。


 ある朝、川沿いの道を歩いていると、川のそばに一人で釣りをしている人がいた。


 視線が合った。

 相手が少し頷いた。


 少女も頷き返した。


 それだけだった。

 でも、少し進んで振り返ると、相手もこちらを見ていた。


 (……変な人だ)


 少女はそう思った。悪い意味ではなかった。ただ、不思議な人だと思った。


 振り返らずに歩こうとした。でも、もう一度だけ振り返った。


 相手は、まだこちらを見ていた。


 そして、また少し歩いたとき、後ろから声がかかった。


「……あの道、知っているか」


 少女は立ち止まった。


 振り返ると、相手が立ち上がっていた。


「どの道ですか」


「川沿いをまっすぐ行くと、崖で行き止まりになる。でも、途中に一か所だけ、渡れるところがある」


「……どこですか」


「案内しようか」


 少女は、少しの間、相手を見た。


 見知らぬ人だった。

 でも、悪い顔をしていない。山の行商人と同じ顔だった。嘘をついている顔ではなかった。


「……お願いします」


 それが、二人が初めて並んで歩いた瞬間だった。


 川沿いの道を、二人で歩いた。渡れる場所を、教えてもらった。


 その日、少女は、ノートに彼のことを書いた。


 「川沿いの道を教えてくれた人。変わっているが、悪い人じゃない。不思議な人」


 それだけ書いた。


 翌日も、その人に会った。


 そしてまた翌日も。


 気づいたら、一緒に歩いていた。



        ◇



 一緒に旅をするようになった。


 その人も、行き先を決めていなかった。理由も似ていた。生まれた場所が、ただ息苦しかっただけだと言った。


 二人で歩くと、景色が変わった。


 一人のときは見えなかったものが、見えた。


 川の上流に、小さな滝があった。一人なら気づかないまま通り過ぎたかもしれない場所だった。でも、彼が「何か音がする」と立ち止まったから、見つけられた。


「見てください」


「おお」


「一人だったら、気づきませんでした」


「そうかもしれないな」


 それだけだった。長い言葉は、なかった。でも、一緒に同じ滝を見た。


 そのとき少女は、前に思ったことを思い出した。


 (一人で見ている景色が、少しだけもったいない気がする)


 今は、もったいくなかった。


 同じ景色を、同じ瞬間に、隣で見ている人がいた。



        ◇



 夏と、秋を、二人で歩いた。


 色んな場所に行った。

 色んな人に会った。

 色んな失敗をした。


 道を間違えて遠回りをした。宿を見つけられなかった夜に、野宿をした。川を渡ろうとして、二人とも濡れた。


 そのたびに笑った。


 少女は、自分がこんなに笑える人間だとは思っていなかった。


 一人のときは、笑えなかったわけではなかった。花市で笑った。水路で子供たちと笑った。でも今は、もっと笑えた。


 相手と一緒にいると、笑う理由が増えた。


 「旅をしてみてよかった……」


 ある夜、焚き火の前でそう言ったら、隣が少しだけ静かになった。


「俺もだ」


 短かった。でも、その一言で十分だった。


 少女は炎を見ながら、思った。


 (……まだ、しばらく旅していたいな)


 最初の冬に、帰ろうかと思った。あの夜から、ずいぶん変わった。


 今は、帰りたくない。でも。


 (……いつかは、帰らなければならない)


 なぜそう思ったのかは、うまく言えなかった。ただ、そう感じていた。


 出てきた場所がある。置いてきた人たちがいる。


 今の自分には、帰る場所があるというだけで嬉しかった。


 最初に出てきたときは、帰る場所があることが、ただ重かった。でも今は、違った。帰れる場所があることが、温かかった。


「……ねえ」


 少女は隣に言った。


「あなたには、帰る場所がありますか」


 彼は少しの間、炎を見ていた。


「ある」


「帰りたいですか」


「……今はまだ」


「私も」


 二人で炎を見た。


 風が吹いた。木の葉が揺れた。


「でも、いつかは帰らなければならないと思っています」


「ああ」


「そのとき、あなたはどうしますか」


 相手が、少しの間、黙った。


 それから、静かに言った。


「お前が帰るなら、一緒に行く」


 少女は相手を見た。


 炎の光が、横顔を照らしていた。


 何でもないことのように言った。でも、その一言の重さが、少女にはわかった。


「……帰る場所が、同じじゃないのに」


「遠回りになっても、一緒に行く」


 少女はしばらく、その横顔を見ていた。


 (……この人は、こういう人だ)


 言ったことは守る人だと、旅をしながら知っていた。


 少女は炎に視線を戻した。


 胸の中が、静かに温かかった。


 「……帰り方がわかった気がする」


 少女は小さく言った。


 彼は何も言わなかった。でも、焚き火の前で、少しだけ肩の力が抜けたのがわかった。


 炎が、ゆっくりと燃えていた。



ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!


評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!


明日の更新で番外編完結となります!

また次回でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ