第40話 「旅する少女と、丘の上の光」
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完結後もこうして多くの方に支えていただけていることが嬉しく、感謝の気持ちを込めて、番外編を更新させていただきます(*‘ω‘ *)/
少女には、名前があった。
でも、どこへ行っても、誰もそれを知らない。
問われれば答えた。答えれば忘れられた。次の町では、また新しい人が同じことを聞いた。
そのうち少女は、名前というものがどれほど軽いものかを知った。
だから、この話の中で少女の名前は出てこない。
必要がない。
どこへでも行ける少女の話に、名前は要らなかった。
◇
少女が旅に出たのは、春の初めのことだった。
理由は、単純だった。
息ができなかった。
大きな出来事があったわけではない。誰かに酷いことをされたわけでも、何かを失ったわけでもない。ただ、毎朝目が覚めると、また同じ天井があった。同じ朝があった。同じ顔が、同じ言葉で、同じことを言った。
「あなたは、ここにいればいい」
悪意のある言葉ではなかった。愛情から来ていることも、わかっていた。
でも、それがだんだん、息苦しくなっていった。
「ここ」の外に、何があるのか。
「ここ」の外に、自分がいられる場所があるのか。
誰も教えてくれなかった。
誰も、「ここ」の外へ連れて行ってくれなかった。
だから、一人で行くことにした。
◇
旅立つ前の夜、少女は町はずれの丘に登った。
町の人間が「見晴らし台」と呼んでいる、少し開けた場所だった。特別なものは何もない。ただ、木が途切れて、空が広く見える。それだけの場所。
少女はそこに立って、ゆっくりと遠くを眺めた。
西に、山の稜線が続いていた。
東に、川が光を反射して細く輝いていた。
北に、森が広がっていた。南には、夕暮れの雲が低く流れていた。
今まで何度も来た場所だった。でも今日は、違って見えた。
(……あの山の向こうに、何があるんだろう)
少女は目を細めた。
稜線の向こうは、見えなかった。でも、何かがある。それだけは、確かだった。
風が吹いた。草が揺れた。夕暮れの光が、足元まで長く伸びていた。
少女はその光景を、ゆっくりと目に焼き付けた。
いつか、帰ってきたとき。
この丘から同じ景色を見るとき、自分はどんな顔をしているだろう。
そう思いながら、目を閉じた。
それから、目を開けて、丘を降りた。
◇
翌朝、荷物をまとめた。
大きな荷物は持たなかった。着替えと、少しのお金と、何も書いていない小さなノートだけ。地図は持たなかった。地図があれば、行き先を決めなければならなくなる。
少女は行き先を決めていなかった。決めたくなかった。
門の前で立ち止まった。
後ろを振り返ったら、戻りたくなるかもしれないと思った。
だから、振り返らなかった。
前を向いて、歩き出した。
◇
最初の町は、二日歩いた先にあった。
名前も知らない小さな町だった。石畳が古くて、石に苔が生えていた。井戸のそばで老人が日向ぼっこをしていた。
「どこから来たんだい」
老人が聞いた。
「南の方から」
「どこへ行くんだい」
「わかりません……」
老人が少し笑った。
「それはいい旅だ」
少女は、その言葉の意味がよくわからなかった。でも、悪い気分ではなかった。
その夜、宿屋の主人が夕食を出してくれた。
煮込んだ豆と、固いパンと、ハーブの香りのするスープ。
慣れない味だった。でも、おいしかった。
生まれた町と、違う味がした。
その「違う」が、少し温かかった。
◇
春の間、少女はいくつかの町を歩いた。
ある町では、花市が開かれていた。色とりどりの花が並んで、見たことのない種類がたくさんあった。花屋の娘が「これは山の北側でしか咲かない花なの」と教えてくれた。北の山には、自分の知らない花がある。それだけのことが、なぜか胸に刺さった。
別の町では、子供たちが水路で遊んでいた。
少女も引っ張られて、一緒に入った。冷たかった。笑い声が出た。
誰も、少女がどこから来たかを聞かなかった。ただ、一緒に笑った。
そういう時間が、少女には新鮮だった。
(……名前を聞かれなくても、いられる場所がある)
誰かの娘でも、誰かの婚約者でもなく、ただそこにいるだけで、受け入れてもらえる場所。
生まれた町にも、きっとそういう場所はあったはず。
でも少女には、見つけることはできなかった。
◇
夏になった。
道が険しくなった。太陽が強くなった。荷物が重く感じた。
山を越えようとした日、道に迷った。
森の中で日が暮れかけて、少し焦った。
そのとき、逆方向から歩いてきた行商人に声をかけた。
「この山を越えたいんですが……」
「今日は無理だ」
行商人は断言した。
「日が暮れる。今夜は麓の小屋で休め。明日の朝、案内してやろう」
少女は少し迷った。見知らぬ人についていくことへの、子供の頃から叩き込まれた警戒心があった。
でも、行商人の顔を見た。疲れた顔だったが、悪い顔ではなかった。
「……お願いします」
小屋に泊めてもらった。
行商人の持っていた燻製の肉と、少女の持っていたパンを分け合って食べた。火を囲みながら、行商人は静かに話した。
「長いこと旅をしているが、一番いいのは、知らない道を行くことだ。
怖いけどな。でも、知らない道にしか、知らないものはない」
少女は炎を見ながら、その言葉を聞いていた。
翌朝、行商人は約束通り山を案内してくれた。山頂の手前で、行商人は南の方角へ曲がった。
「お前さんは、まっすぐ行け。そうすれば次の町がある」
「ありがとうございました」
「気をつけてな」
それだけだった。名前も聞かなかった。聞かれなかった。
でも、少女の足取りは、昨日より少しだけ軽かった。
◇
山を越えると、また違う景色があった。
南側と、北側では、植物が全然違った。木の形が違う。花の色が違う。空気の匂いが違う。同じ山の、反対側なのに。
(……山一つ越えただけで、こんなに変わる)
少女はそれを不思議に思った。
生まれた町だけで生きていたら、一生知らなかったことだった。
ノートを出した。
何も書いていなかったノートに、初めて何かを書いた。
「山の北側と南側では、花の色が違う」
メモと簡単な絵だけ書いて、ノートを閉じた。
旅の記録というほどのものではなかった。でも、誰かに伝えたくなった。誰かに見せたくなった。
そのとき、少女は初めて思った。
(……一人で見ている景色が、少しだけ、もったいない気がする)
すぐにその考えを横に置いた。一人で旅に出たのだから、当然のことだった。
でも、その「もったいない」は、ずっと消えなかった。
◇
秋になった。
葉が色づいていた。赤と黄と、まだ少し緑が混じった森を、少女は歩いた。
旅を始めて半年以上が経っていた。
最初の頃は、毎日が新鮮だった。歩くたびに発見があって、出会いがあって、それだけで一日が満ちた。でも今は、少し違った。
新鮮さに慣れ始めていた。
それは悪いことではなかった。慣れたからこそ、見えてくるものがある。最初の頃は気づかなかった細部が、今は目に入る。空の色の変わり方。道端の草の名前。宿屋の主人の顔の疲れ方。
旅の目が、少しずつ育っていた。
ある日、街道で一人の老婆と並んで歩くことになった。老婆は重い荷物を背負っていた。少女が「少し持ちます」と申し出ると、老婆は最初断って、それから素直に渡してくれた。
「お嬢さんは、一人旅かい」
「ええ」
「どこまで行くんだい」
「わかりません……」
老婆は少し間を置いた。
「わからないままで、怖くないかい」
少女は少し考えた。
「最初は怖かったです。でも今は、わからないままで歩いていると、わかるものが増えていく気がして」
老婆がまた間を置いた。それから、ゆっくり言った。
「それが旅だね」
短い言葉だった。でも、少女の中に、すとんと落ちた。
それが旅だ。
わからないから、歩く。歩くから、わかる。歩くほどに、わかることが増えていく。
次の分かれ道で、老婆と別れた。
名前も知らない人だった。
でも、その「それが旅だね」という一言は、ずっと残った。
◇
冬になった。
道が凍り始めた。風が強くなった。宿の炉端が、どこへ行っても一番温かい場所になった。
旅に出て、初めての冬だった。
寒い、と思った。
単純に、体が冷えた。防寒の準備が足りなかった。膝が痛くなった。足の指が、夜になるとじんじんした。
ある夜、宿屋のベッドの中で、少女は天井を見た。
(……帰ろうか)
そう思った。
驚いた。旅に出てから、一度も帰りたいと思わなかった。でも今、この冬の夜に、初めてそう思った。
あの町が、遠かった。丘の向こうで、今夜どんな空が出ているか。炉端に誰が座っているか。夕食に何が出ているか。
(……あそこには、私の場所がある)
でも。
(……本当に、そうだったか)
少女は目を閉じた。
帰れば、また「ここにいればいい」という言葉が待っている。それが悪意でないことも、愛情からであることも、わかっている。でも、それだけでは足りなかった。だから出てきた。
帰る場所と、いられる場所は、違う。
帰る場所は、ある。
でも、いられる場所は、まだ見つかっていない。
(……もう少し、歩こう)
少女は目を開けた。
もう少し。もう少しだけ歩いたら、何かが見えるかもしれない。そう思った。確証はなかった。でも、その「かもしれない」だけが、今の少女の足を動かしていた。
◇
冬を越えた。
また春が来た。
旅に出てから、二度目の春だった。
最初の春とは、少し違って見えた。花の名前を知っていた。土の匂いが何を意味するかを知っていた。山の手前で止まらず、越え方を知っていた。
ノートにも色々な記録が付いていた。
少女は変わっていた。自分ではよくわからなかったが、変わっていた。
ある朝、川沿いの道を歩いていると、川のそばに一人で釣りをしている人がいた。
視線が合った。
相手が少し頷いた。
少女も頷き返した。
それだけだった。
でも、少し進んで振り返ると、相手もこちらを見ていた。
(……変な人だ)
少女はそう思った。悪い意味ではなかった。ただ、不思議な人だと思った。
振り返らずに歩こうとした。でも、もう一度だけ振り返った。
相手は、まだこちらを見ていた。
そして、また少し歩いたとき、後ろから声がかかった。
「……あの道、知っているか」
少女は立ち止まった。
振り返ると、相手が立ち上がっていた。
「どの道ですか」
「川沿いをまっすぐ行くと、崖で行き止まりになる。でも、途中に一か所だけ、渡れるところがある」
「……どこですか」
「案内しようか」
少女は、少しの間、相手を見た。
見知らぬ人だった。
でも、悪い顔をしていない。山の行商人と同じ顔だった。嘘をついている顔ではなかった。
「……お願いします」
それが、二人が初めて並んで歩いた瞬間だった。
川沿いの道を、二人で歩いた。渡れる場所を、教えてもらった。
その日、少女は、ノートに彼のことを書いた。
「川沿いの道を教えてくれた人。変わっているが、悪い人じゃない。不思議な人」
それだけ書いた。
翌日も、その人に会った。
そしてまた翌日も。
気づいたら、一緒に歩いていた。
◇
一緒に旅をするようになった。
その人も、行き先を決めていなかった。理由も似ていた。生まれた場所が、ただ息苦しかっただけだと言った。
二人で歩くと、景色が変わった。
一人のときは見えなかったものが、見えた。
川の上流に、小さな滝があった。一人なら気づかないまま通り過ぎたかもしれない場所だった。でも、彼が「何か音がする」と立ち止まったから、見つけられた。
「見てください」
「おお」
「一人だったら、気づきませんでした」
「そうかもしれないな」
それだけだった。長い言葉は、なかった。でも、一緒に同じ滝を見た。
そのとき少女は、前に思ったことを思い出した。
(一人で見ている景色が、少しだけもったいない気がする)
今は、もったいくなかった。
同じ景色を、同じ瞬間に、隣で見ている人がいた。
◇
夏と、秋を、二人で歩いた。
色んな場所に行った。
色んな人に会った。
色んな失敗をした。
道を間違えて遠回りをした。宿を見つけられなかった夜に、野宿をした。川を渡ろうとして、二人とも濡れた。
そのたびに笑った。
少女は、自分がこんなに笑える人間だとは思っていなかった。
一人のときは、笑えなかったわけではなかった。花市で笑った。水路で子供たちと笑った。でも今は、もっと笑えた。
相手と一緒にいると、笑う理由が増えた。
「旅をしてみてよかった……」
ある夜、焚き火の前でそう言ったら、隣が少しだけ静かになった。
「俺もだ」
短かった。でも、その一言で十分だった。
少女は炎を見ながら、思った。
(……まだ、しばらく旅していたいな)
最初の冬に、帰ろうかと思った。あの夜から、ずいぶん変わった。
今は、帰りたくない。でも。
(……いつかは、帰らなければならない)
なぜそう思ったのかは、うまく言えなかった。ただ、そう感じていた。
出てきた場所がある。置いてきた人たちがいる。
今の自分には、帰る場所があるというだけで嬉しかった。
最初に出てきたときは、帰る場所があることが、ただ重かった。でも今は、違った。帰れる場所があることが、温かかった。
「……ねえ」
少女は隣に言った。
「あなたには、帰る場所がありますか」
彼は少しの間、炎を見ていた。
「ある」
「帰りたいですか」
「……今はまだ」
「私も」
二人で炎を見た。
風が吹いた。木の葉が揺れた。
「でも、いつかは帰らなければならないと思っています」
「ああ」
「そのとき、あなたはどうしますか」
相手が、少しの間、黙った。
それから、静かに言った。
「お前が帰るなら、一緒に行く」
少女は相手を見た。
炎の光が、横顔を照らしていた。
何でもないことのように言った。でも、その一言の重さが、少女にはわかった。
「……帰る場所が、同じじゃないのに」
「遠回りになっても、一緒に行く」
少女はしばらく、その横顔を見ていた。
(……この人は、こういう人だ)
言ったことは守る人だと、旅をしながら知っていた。
少女は炎に視線を戻した。
胸の中が、静かに温かかった。
「……帰り方がわかった気がする」
少女は小さく言った。
彼は何も言わなかった。でも、焚き火の前で、少しだけ肩の力が抜けたのがわかった。
炎が、ゆっくりと燃えていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!
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明日の更新で番外編完結となります!
また次回でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)/




