第39話 「旅する少女と、その後」
卒業から、数年が経った。
王城の廊下は長い。
石畳の床に、自分の足音が響く。燭台の光が両側から照らして、廊下の先まで続いている。
最初にここを歩いたとき、足が震えた。
右に曲がるのか左に曲がるのか。どこで頭を下げるのか。誰に対してどの言葉を使うのか。わからないことだらけで、一歩踏み出すたびに頭の中で確認していた。
今は、足が自然に動く。
変わったんだ、と思う。少しずつ、確かに。
◇
王城に入ることが決まったとき、最初に感じたのは緊張ではなく、覚悟だった。
平民が王家に関わる。前代未聞だということは、自分が一番わかっていた。だから、絶対に恥ずかしいことはできないと思った。
毎朝、侍女たちより早く起きた。礼儀の書物を読んだ。王家の歴史を覚えた。各貴族家の関係を頭に入れた。言葉の選び方、立ち居振る舞い、場の読み方。
教えてもらえることは全部吸収した。教えてもらえないことは、見て覚えた。
最初は、王城の侍女たちも戸惑っていた。
「あの方は、平民なのでしょ……」
廊下の向こうで、そういう声が聞こえたこともあった。聞こえていないふりをして、歩き続けた。
証明するしかない、と思っていた。
言葉ではなく、毎日の積み重ねで。
半年が経つ頃には、侍女の何人かが自然に話しかけてくれるようになった。一年が経つ頃には、以前は距離を置いていた貴族の令嬢たちも、少しずつ声をかけてくれるようになった。
じわじわと、周囲が変わっていった。
劇的なことは何もなかった。ただ、一日一日を丁寧に積み重ねた。それだけだった。
◇
ある日の午後、執務室にクロードから呼ばれた。
「座ってくれ」
私は椅子に座った。クロードが向かいに座った。窓から王都が見えた。午後の光の中で、街並みが広がっていた。
「父上から、正式な話があった」
私は少し間を置いた。
「……なんでしょうか」
「ようやくだ」
クロードが、私を真っ直ぐに見た。
「正式に、リナを婚約者として認める、と。王家として発表する準備が整ったと言っていた」
念願の話だった。この数年間、そこに向かって動いていた。でも、正式に言葉にされると、また違う重さがあった。
「……本当によかったんですか。私でも」
「何度同じことを聞くんだ」
「大事なことなので」
「私が選んだ。リナにしか務まらない」
クロードが、少し間を置いた。
「それに、誠実に動いてきたことは、周りが一番よく見ている。リナ自身が、ここに立つだけのものを積み上げてきた。それが全てだ」
私は少し俯いた。
一学期のあの大広間で、全部が暴かれた夜のことを思い出した。あそこから、ここまで来た。
(遠かった。でも、ようやく来られた)
――そう思った瞬間、胸の奥が、少しだけ揺れた。
「……っ」
声が、うまく出なかった。
「リナ?」
「いえ、その……」
言葉を整えようとして、できなかった。
ずっと、平気な顔をしてきた。
何を言われても、聞こえないふりをしてきた。
間違えないように、正しい振舞いをするために、ずっと気を張っていた。
「……怖かったんです」
気づけば、口から出ていた。
「少しでも、間違えたら終わりだと思って」
顔を上げられなかった。
「次は、失敗できないって……ずっと思ってました」
少しだけ、指先が震えた。
「だから……ちゃんとできてるのか、ずっと……」
言葉が途切れた。
少しの沈黙のあと、クロードが静かに言った。
「できている」
短く、はっきりと。
「やってきたことは、全部見ている」
一拍、間があった。
「だから、リナはこの場にいる」
私は俯き、目を閉じた。
張っていたものが、ほんの少しだけほどけた気がした。
「……お受けします。これからもっと精進しなければいけませんね」
「それだけか?もう少し、喜んでもいいんだが」
「ええ、でも」
少しだけ、息を整えてから、クロードを見た。
「……ちゃんと、受け取っています」
私は笑みを浮かべた。
けれど、頬を伝うものまでは止められなかった。
「そうか」
クロードも、微笑んだ。
◇
発表の日、王都は騒然とした。
平民出身の娘が、王太子の婚約者に。前代未聞の話だった。
朝、城の廊下を歩いていると、外の声が聞こえてきた。窓から見下ろすと、王都の街に人が集まっていた。称賛の声が、波のように広がっていた。
反対の声は、ほとんどなかった。
この数年間、私がどのように振る舞ってきたかを、多くの人が見ていた。誰に対しても誠実で、努力を惜しまず、嘘をつかなかった。それが伝わっていた。
平民から王太子妃へ。この国に生きる多くの人間にとって、それは希望のような話になっていた。
私はその声を聞きながら、窓の縁に手を置いた。
(……ここまで来たんだ)
卒業パーティーの夜、一人で立ちながら決意したことを思い出した。
あのとき思い描いていたより、ずっと遠いところまで来ていた。
でも、まだ始まりだと思っていた。
私は机に向かった。
書くべき手紙が、一通あった。
◇
ヴァイセンベルク家の庭に、午後の光が差し込んでいた。
エリーゼは庭の椅子に座って、手紙を読んでいた。
封を開けた瞬間から、読み終えるまで、何度か息が止まりそうになった。
リナからの手紙だった。
正式な婚約者として発表されたこと。王都が騒然としていること。でも、批判の声はほとんどないこと。クロードが支えてくれていること。
最後に、一行だけ添えてあった。
「あなたが話しかけてくれたあの夜がなければ、今日はなかったと思います」
エリーゼはしばらく、手紙を膝の上に置いていた。
「やはり、私よりもよほど向いているわね」
自然に、口から出た。
令嬢としての振る舞いも、人を動かす力も、逆境からの這い上がり方も、全部リナの方が上だった。あの夜、話しかけたのは正しかったと、改めて思った。
「外で手紙を読むとは、それほど大切な手紙だったのか」
声がした。
ルーカスが、屋敷から出てきたところだった。
「ええ。大切な友人からの手紙ですもの」
「そうか」
ルーカスが隣の椅子に座った。
「リナ殿か」
「うん。正式に婚約者として発表されたって」
「そうか。よかった」
エリーゼは手紙をもう一度、少しだけ見た。
(……よかった)
本当に、よかった。
◇
「ママ、それ、だいじ?」
ルーカスの隣から、たどたどしい声がした。
小さな女の子が、よちよちと歩いてきた。二歳くらいだった。銀色の髪が、午後の光に照らされていた。
「大事よ。とっても」
エリーゼが答えた。
「だいじ」
「そう、大事なの」
女の子がエリーゼのそばに来た。エリーゼが手紙をそっとしまって、両腕で抱き上げた。
「ふぇ」
「重くなったわね」
「おもくないもん」
ルーカスが少し笑った。
「パパ、わらった」
「笑っていない」
「わらった」
「俺が、重くなったか確かめよう」
ルーカスが女の子の方に手を伸ばした。女の子を抱き上げて、膝に乗せた。
「まだ、軽いな。ここからもっと成長する」
「そうね……」
しばらく、三人で庭にいた。
風が吹いた。木の葉が揺れた。午後の光が、庭に長く差し込んでいた。
エリーゼはその光景を、少しの間、ただ見ていた。
「……この子には」
自然に、口から出た。
「あの本の……旅する少女みたいに、自由に生きてほしいわ」
「たび?」
女の子が見上げた。
「ええ。好きなところへ、好きなように」
「いっしょに?」
エリーゼは少し笑った。
「一緒に行けるところは、一緒に行くわ」
「ママもパパも?」
「私もルーカスも」
「やった」
女の子が、ルーカスの方を向いた。ルーカスが少し頷いた。
エリーゼは、また庭を見た。
あれから数年経った。
今は誰かの都合のいいキャラではない、エリーゼとして、ここにいる。
もうあの頃のような、疲れはない。
(この人と、この子との――穏やかな時間を、これからも大切にしていこう)
中庭に、心地の良い風が吹いた。
(完)
最終話までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
連載版からの方はもちろん、短編の頃から長く見守ってくださった方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。皆様の応援があったからこそ、無事にこの物語を書き切ることができました( ;∀;)
本作は「人それぞれの思いや苦しみ」をテーマに据えて執筆しました。
誰かの期待に応えようと自分を偽り続けることは、時に心を摩耗させてしまいます。
もし今、何かに耐えて無理をしている方がいたら、この物語が「本当の自分」を取り戻すための、小さなきっかけや癒やしになれば……という願いを込めています。
もし「面白かった!」「完結おめでとう!」と少しでも思っていただけましたら、
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また別の物語でも、皆様とお会いできることを心より楽しみにしております。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました(*‘ω‘ *)/




