第41話 「旅する少女と、はじまりの景色」
帰り道というものは、不思議なものだった。
来た道を戻るわけではない。でも、同じ景色が続いているのに、何かが違う。
行くときは、知らないものへ向かっていた。
帰るときは、知っているものへ向かっている。
その違いだけで、風の感じ方まで変わるのだから、不思議だと思った。
少女は道を歩きながら、隣を歩く彼を少し見た。
変わっていない。旅の最初に会ったときと、同じ顔をしている。
でも少女には、この人のことが前よりずっとよくわかっていた。
疲れているときの歩き方。黙っているときの考え事の種類。
何かに気づいたときの、わずかな目の動き。
名前だけ知っていても、わからないことがある。
名前を知らなくても、わかることがある。
長い旅が、少女にそれを教えた。
◇
帰り道も、寄り道をした。
彼の生まれた場所は、少女の町とは反対の方角にあった。
でも、約束通り、一緒に来てくれていた。
「遠回りになっているのに、いいんですか」
少女が聞くと、彼は短く言った。
「いいと言った」
「でも」
「一度言ったことは変えない」
少女はその横顔を少し見た。
(……この人は、本当に変わらない)
最初に会ったときから、ずっとそうだった。言ったことは守る。決めたことは曲げない。感情で揺れない。
最初は少し、取っつきにくいと思っていた。でも今は、その「変わらなさ」が一番信頼できる部分だとわかっていた。
「……ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言いたいから言っています」
彼が少しだけ、間を置いた。
「……そうか」
それだけだった。でも、肩の辺りが少し柔らかくなった気がした。
◇
途中、小さな港町に寄った。
二人とも海を見たことがなかった。遠くに行くなら、見ておきたかった。
海は、思っていたより広かった。
水平線というものを、初めて見た。どこまでも続いていた。
果てがどこにあるのか、見ても見ても、わからなかった。
「……広い」
少女がそう言うと、彼も同じように、水平線を見ていた。
「終わりが、見えない」
「ええ」
「向こうに、何があるんだろうな」
少女は少し笑った。
「あなたも、そう思うんですか」
「そうでなければ、旅に出ていない」
二人で、しばらく海を見ていた。波が来て、返して、また来た。
風が吹いた。潮の匂いがした。
少女はノートを出した。
「海は、終わりが見えない。でも、怖くなかった」
そう書いた。それから、少し考えて、一行付け加えた。
「隣に人がいたから、かもしれない」
ノートを閉じた。
◇
また歩き始めた。
春が来た。旅に出て、三度目の春だった。
最初の春は、とにかく遠くへ行きたかった。
二度目の春は、隣に人がいることを知った。
三度目の春は、帰り道の春だった。
花の名前を知っていた。土の匂いが何を意味するかを知っていた。
道の先に何があるかを、少しだけ予想できるようになっていた。
でも、知っているからといって、感動しなくなったわけではなかった。
道端に、見たことのない色の花が咲いていた。
「これ、なんていう花だろう」
少女が立ち止まると、彼も立ち止まった。
「知らないな」
「三年も旅をしていて、まだ知らない花がある」
「世界は広い」
「そうですね」
少女はその花をしばらく見た。
まだ知らないことがある。それが、少し嬉しかった。
知り尽くしてしまったら、また息苦しくなるかもしれない。
知らないことが残っていることが、次に進む理由になる。
(……旅は、終わっても終わらない)
少女はそう思った。
帰っても、それは続く。帰った場所から、また知らないことを見つけていける。
それがわかったのは、旅に出たからだった。
◇
町が近づいてきた。
見覚えのある山の稜線が、遠くに見えた。
少女は足を止めた。
三年前、この稜線を見て「向こうに何があるんだろう」と思った。
今は、向こうに何があるかを知っている。
山を越えると、花の色が変わる。道が険しくなる。でも、越えられる。
知らなかった景色が、知っている景色になった。
それが、少し寂しいかもしれないと思っていた。
でも、違った。
知っているからこそ、その山が懐かしかった。向こうに行商人のおじさんがいた場所がある。野宿をした夜がある。川を渡って二人とも濡れた日がある。
知っていることが、重なって、温かくなっていた。
「戻ってきたな」
彼が静かに言った。
「……ええ」
「どんな気分だ」
少女は少し考えた。
「まだ、わかりません。でも」
町の方向を見た。
「今度は、自分で帰ってきた気がします」
彼が少しだけ、少女を見た。
「出るときと、違うか」
「……ええ。出るときは、逃げていたと思う。でも今は」
少女は稜線を見た。
「ここへ帰ることを、自分で選んでいる」
彼は何も言わなかった。でも、また歩き始めるときに、歩調が少しだけ少女に合わせてくれた気がした。
「それでいい」
短い一言だった。
でも、その一言が、今の少女にはいちばん必要な言葉だった。
◇
町の手前で、少女は立ち止まった。
「少しだけ、寄り道してもいいですか」
「どこへ」
「すぐそこです」
少女は道を外れて、丘の方へ歩いた。彼もついてきた。
草を踏みながら、少し登った。
見晴らし台に着いた。
◇
三年前と、同じ場所だった。
石畳も、木の切れ目も、空の広がり方も、何も変わっていなかった。
でも少女の目に映る景色は、全然違った。
西の山の稜線が見えた。
三年前は「向こうに何があるんだろう」と思った山。
今は、向こうに何があるかを知っている。
東の川が光っていた。あの川に、二人で入った日があった。
北の森が広がっていた。あの森の中に、小さな滝があった。一人なら気づかなかった滝。
南に、夕暮れの雲が流れていた。
同じ景色だった。
でも、全部に記憶があった。
一人で見たこの景色に、今は隣に彼がいる。
同じ丘で、同じ方向を向いて、並んで立っている。
(……全然、違う)
少女は思った。
景色が変わったわけではなかった。でも、見え方が変わっていた。
旅の前は、この景色が「ここの外」を指していた。
今は、この景色が「ここまで来た道」を指していた。
同じ場所から見ているのに、景色の意味が変わっていた。
それは、少女が変わったからだった。
ここを出るときは、息ができなかった。
今は、深く息ができる。
ここへ帰ることを、怖いと思っていた。
今は、帰ることを、自分で決めた。
旅が、そうしてくれた。
ここにいた少女が、ここを出て、色んなものを見て、色んな人に会って、転んで、笑って、また歩いて。
そして今日、また同じ丘の上に立っている。
(……帰ってきた)
逃げ帰ったのではなかった。追い返されたのでもなかった。
自分の足で、自分の意志で、帰ってきた。
それだけのことが、こんなに違うとは思わなかった。
少し風が吹いた。草が揺れた。
夕暮れの光が、足元に長く伸びていた。
三年前と同じ、その光の中に、今日は二つの影があった。
「綺麗だな」
彼が言った。
「……ええ」
「前も、こんな景色だったのか」
「同じです。でも」
少女は少しの間、景色を見た。
「今日の方が、ずっと綺麗に見えます」
彼は何も言わなかった。
少女も何も言わなかった。
ただ、二人で、夕暮れの景色を見ていた。
光が、少しずつ傾いていった。
橙色が、少しずつ深くなった。
町の灯りが、一つ、また一つ、遠くに灯り始めた。
少女は目を細めた。
(……自由というのは、遠くへ行くことではなかった)
旅に出る前は、そう思っていた。「ここの外」に行けば、息ができると思っていた。
でも違った。
自分で選ぶことが、自由だった。
どこへ行くかではなく、どこへ行くかを自分で決めること。
帰るかどうかではなく、帰ることを自分で選ぶこと。
それが、ずっと欲しかったものだった。
今の少女の足元には、それがあった。
「さあ」
少女は彼を見た。
「降りましょう」
「ああ」
二人で丘を降り始めた。
草を踏みながら、道へ戻った。
町の方へ向かって歩き始めた。
足音が、二つ分、道に響いていた。
~END~
本の最後のページをめくったとき、少女の声がした。
「ねえ、ソフィー。それ、何読んでるの?」
向こうから、友人の声がした。
ソフィーは顔を上げた。
中庭だった。
石畳に囲まれた小さな庭に、午後の光が差し込んでいた。
花壇には春の花が咲き始めていて、木の枝にはまだ若い葉が出たばかりだった。
「これ?」
ソフィーは、手の中の本を少し持ち上げた。
表紙に、旅をしている少女の絵が描いてあった。少し古い本だった。表紙の端が少し擦れていて、背表紙の色が少し褪せていた。でも、大切にされてきた本の顔をしていた。
「お母様からいただいたの」
「エリーゼ様から?」
「ええ。学園に入学したお祝いにって」
友人がそばに来た。表紙を覗き込んだ。
「面白そうね。どんな話?」
ソフィーは少しだけ考えた。
「旅をする少女の話。行き先が決まっていなくて。でも、どこへでも行ける」
「どこへでも行ける、か。いいなあ」
「うん。私も、そう思う」
友人がもう少し覗き込んだ。
「それ、借りてもいい?」
「もう一周したらね」
「ちぇっ。じゃあ、早く読んでよね!」
「わかった」
「先に帰るね。また明日ね!」
「うん、また明日」
友人が先に歩いていった。
ソフィーはまた本に目を落とした。
最後のページを、もう一度読んだ。
二つの影が並んで、丘を降りていくところで、物語は終わっていた。
どこへ向かったのか、これからどうなったのか、何も書かれていなかった。
でも、それでいい気がした。
続きは、きっとある。ただ、書かれていないだけで。
ソフィーは本を閉じた。
表紙の少女を、しばらく見た。
お母様も、昔この本を読んでいたのだという。
子どもの頃に読みかけて、続きが気になったまま、ずいぶん長い時間が経ってから読み終えたのだと、話してくれた。
「この本に出てくる少女みたいに、どこへでも行けるの。覚えておいてね、ソフィー」
そう言って、渡してくれた。
お母様の顔が、浮かんだ。
いつも穏やかで、どこか軽やかで、笑うとき、少し目の端が細くなる。あの顔。
(……お母様も、旅をしたことがあるのかな)
聞いてみたいと思った。
今度帰ったとき、聞いてみよう。
ソフィーは本を、鞄の中に大切にしまった。
桜が風に揺れていた。花びらが一枚、二枚、空に舞い上がった。
春だった。
どこへでも行けそうな、春だった。
番外編まで読んでくださり、本当にありがとうございました!
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また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




