8.男に生まれていたら
ステラが声をかけると、レグルスはその場で立ち止まり、手を離した。
「ごめん、手、痛かったよね」
振り返った彼の顔には、また笑顔が戻ってきていたが、どこかぎこちなかった。まだ怒りが収まらないのだろう。
これほどまでに腹を立てている人間が隣にいると、自分の怒りなどどこかへ行ってしまう。
「男に生まれていたらって、これまでに何度も思ったわ」
「あんな戯言、お嬢さんが気にする必要ないよ」
レグルスは、どこか悔しそうに眉根を寄せた。彼の慰めの言葉をありがたく思いつつ、ステラは首を横に振る。
「国民のほとんどが思っていることよ。男に生まれていたら、私は今頃、絶対に王位についていた。お兄様を城から追い出すこともできたでしょうし、キャロライナ様に後れを取ることもなかった」
ステラが男であれば、国王が残した書状には間違いなく別の言葉が書かれていただろう。エドウィンの代わりにステラを王太子とする、と。しかし、現実はそうはならない。
ステラはまっすぐにレグルスの双眸を見据えた。
「でもね、これらは全て、私が『女だから仕方ない』と諦めてきた結果なの。だから私は、私自身に何よりも腹が立つ。私自身を、何よりも責めなければならないの」
女王になるための策を、諦めずに考え続けるべきだった。国王が国政の場から去る前に、何か策を巡らすべきだったのだ。それを怠ったのは、まぎれもないステラ自身の落ち度である。
「お嬢さんがお嬢さん自身を責め続けるなら、俺はお嬢さんのことをかばい続けるよ」
この男は、本当に思いがけない言葉をかけてくるなと、ステラは思った。
深紅の瞳は、まっすぐにステラに向けられている。まるですべてを見透かすかのように、じっと見つめてくるレグルスに、ステラは返す言葉を見失った。
しばらく見つめ合うだけの沈黙が流れ、ステラが気まずさを感じ始めた時――。レグルスがハッと顔を上げた。そしてすぐにステラを壁沿いに立たせると、彼は覆いかぶさるように腕を壁につく。ステラはレグルスにすっぽりと覆われ、視界一面が彼に支配された。
「ちょっと、急になに?」
「しっ。衛兵が来る。夜警だ。お嬢さんは何もしゃべらないで」
耳元でそうささやかれ、ステラの心臓は跳ね上がった。あのまま会話を続けていたら、間違いなく衛兵に聞かれ、そして自分の正体が王女だとバレていただろう。周囲に誰もいないからと迂闊だった。
男二人の話し声が後ろから段々と近づいてきたかと思えば、案の定、声をかけられた。
「おい、そこで何してる?」
こんな時間の路地裏に、男女が一組。女はフードを被り、男は女に覆いかぶさっている。はたから見たら、男が女に乱暴しようとしているようにしか見えないだろう。そんな怪しい光景を目の当たりにして声をかけない衛兵がいたら、そいつはクビにした方がいい。
顔を見せるよう求められたら終わりだ。ステラは正体を明かすことも覚悟したが、レグルスは飄々としていた。
「おや、旦那。新婚なんだ。見逃してくれないかい?」
レグルスは茶目っ気たっぷりにそう言ってのけた。新婚だからといって、夜に街中でむつみ合うことなどしないだろうと、ステラは頭を抱えたくなったが、衛兵たちの反応は違った。
「ハハッ! お熱いねえ。だが、そういうのは家に帰ってやんな」
「そうだぞ。あんまり遅くまで嫁さんを連れまわすもんじゃねえ」
衛兵たちはレグルスの言葉を疑うことなく、むしろ微笑ましいと言わんばかりだ。この様子ならこのまま誤魔化せそうだと、ステラはホッと息を吐いた。
「わかったよ、旦那。じゃあ、行こうか、愛しい人」
レグルスはステラの肩を抱くと、自然な速度で路地裏を歩き始めた。肩に触れる彼の手の温もりのせいか、ステラの心臓は早鐘を打っている。
周囲を誤魔化すためであったり、純粋に逃げるためであったり、仕方ないことだとはわかっていても、やはりこの男は距離が近すぎると思ってしまう。男性に免疫がないステラには、彼との適切な距離の保ち方がわからなかった。
路地裏を抜けると、すぐに宿屋に着いた。
出迎えてくれたチャーリーは、しきりにステラの顔を見たそうにしていたが、レグルスに止められ渋々引き下がっていた。
部屋は思った以上に広く、ふかふかの寝台に、ソファセットやデスクもある。その上、小さいながら浴室も付いていた。
城を出てまだ数時間しか経っていないが、ステラは随分と久しぶりに落ち着けた気がした。
「お嬢さん、疲れたでしょ。先に湯あみに行っておいで」
「ええ、そうするわ。レグルスも、自分の部屋でゆっくりしてきて」
「え? 一部屋しか取ってないけど」
「どうして!?」
ステラが声を上げると、レグルスはあっけらかんと言う。
「一応新婚って設定だし。そもそも別部屋じゃ、何かあった時、お嬢さんを守れない」
「それは……」
ステラは言い返そうとするも、言葉が続かなかった。非難の気持ちはすぐに消え去り、代わりに罪悪感が顔をのぞかせる。
「……ごめんなさい。守られている立場なのに、贅沢なことを言ったわ」
「ううん、こっちこそ、配慮が足りなくてごめん。でも安心して。レディの入浴シーンを覗くほど、俺は悪趣味じゃないから。なんなら廊下に出ておくよ」
「それこそ新婚設定なのに怪しまれるでしょう。大丈夫。あなたを信じるわ」
幸い浴室の前には脱衣所がある。ステラは覚悟を決めると、宿が用意していた寝衣を手に浴室へと向かった。
ローブを取り、乗馬服を脱いでいく。扉を一枚挟んだところに知り合ったばかりの男がいるというのは、なんとも心臓に悪かった。ステラは湯あみの最中もそわそわとしてしまい、最低限の汚れを落とすに止め、早々に上がった。
寝衣に着替え、そっと脱衣所の扉を開けると、レグルスは真剣な表情でデスクに向かっていた。先ほど購入した便箋を使って、何やら書いているらしい。
「あなたも誰かに手紙を書いているの?」
「手紙というより、指示書かな」
レグルスはあえてステラのことを見ないようにしているのか、視線を便箋に落としたままだった。ちょうど書き終わったところのようで、便箋を二つに折り、封筒に詰めている。指示書ということは、この後来てくれる「仲間」に渡すのだろう。
今度はレグルスが浴室に行き、ステラが手紙を書いた。弟のノエル宛だ。何をどこまで書くか非常に悩ましかったが、万が一キャロライナ側に手紙が渡ったとしても、差しさわりない内容に仕上げた。
レグルスが湯あみを終えて程なくして、部屋の窓にこつんと何かが当たる音がした。
「来たか」
レグルスは音の方へ向かい、窓を大きく開けた。すると途端に黒い影が入り込んでくる。ステラが驚いて身構えると、その影がヌッと立ち上がった。そして、丁寧に一礼をする。
「初めまして、お嬢様。僕はレオナルドと申します」
赤茶の髪に、深紅の瞳。背はレグルスよりも低く、目はくりくりと大きい。可愛らしい見た目の青年だ。
「紹介するよ、お嬢さん。こいつは俺の弟のレオナルドだ」
「弟さん……!?」
ステラは驚いて二人を見比べた。顔立ちはさほど似ていないが、確かに瞳の色が同じだ。
「事情は兄より伺っています。大変な思いをされましたね」
レオナルドの丁寧な言葉遣いと態度に、ステラは改めて二人を見比べる。
「兄より弟の方がしっかりしているのね……」
「ハハッ! ひどいなあ、お嬢さん」
ステラが思わず心の声を漏らすと、レグルスは愉快そうに笑っていた。そんな調子の兄に、レオナルドはやれやれと肩をすくめている。
どうやらレグルスとレオナルドは久しぶりに再会したようで、少しばかり立ち話をしていた。近況報告のようだが、内容は全くわからなかった。
そして、レオナルドに手紙を渡しながら、レグルスが言う。
「悪いな、レオナルド。負担をかけて」
「僕は別に構わないですが、姉さまはきっとカンカンですよ。家に帰ったらしっかり謝っておいてください」
「ハハ……覚悟してるよ」
レグルスの顔がわずかに引きつる。よほど怖い姉がいるらしい。他国の王女を自国に逃がそうとしているのだ。家族がそんなことに首を突っ込んでいると知ったら、怒りたくもなる。
「お姉さんがいるのね」
「いいや、俺から見ると妹に当たる。俺が二十歳で、妹が十八、レオナルドが十七」
そんな会話を終え、レオナルドがとうとう出立することになった。彼は最後に、ステラの前に跪いた。
「この手紙は、ノエル王子殿下に必ず届けますので、ご安心ください」
「ありがとう。よろしく頼むわね」
「道中のご無事をお祈りしております」
そう言い残し、レオナルドは窓から出て行った。
時刻は既に二十三時を過ぎている。レオナルドはこれから王都に向かうつもりなのだろうかと、少し心配になった。城の様子も気になるが、今は内情の知りようがない。
「さて、そろそろ寝よう」
「え、ええ……」
レグルスの一言で、ステラの思考は一気に「これから起こること」に支配された。自然と寝台に目がいく。一台の広い寝台には、枕が二つ。
「どうしたの、お嬢さん。具合でも悪い?」
レグルスに顔を覗き込まれ、ステラは慌てて目を逸らした。
「いえ、そうではなくて……。その、一緒の寝台で寝る……のよね?」
ステラは恐る恐る尋ねた。恥ずかしさでレグルスと目を合わせられない。
逃亡生活の身で贅沢なことは言えないが、同じ寝台で婚約者でもない男性と眠るのは、さすがに抵抗があった。レグルスへの忌避感というより、罪悪感や後ろめたさが強い。
ステラが顔を赤くして視線を逸らしていると、レグルスがこらえられなくなったように噴き出した。
「ふ……ハハッ! 大丈夫、大丈夫。安心して。俺はソファで寝るから」
「そ、それは悪いわよ。ソファじゃ休まらないじゃない」
「この街を出たら、しばらく野宿になる。だから、今日はしっかり寝ておいて」
レグルスは優しく微笑むと、「おやすみ」と言ってさっさとソファで横になってしまった。
ステラは話しかけに行こうか迷ったが、寝台を一緒に使って構わないと言う勇気もなく、そのまま大人しく寝台に潜るのだった。




