7.交易都市ヴェーラ
その後、二人は森林街道まで戻り、ヴェーラの街まで馬を走らせた。こんな夜に、おまけに新月の日に馬を走らせたことなど当然ありはしない。暗闇の中を走るのは恐怖を感じたが、先を行くレグルスのランタンの灯のおかげで、なんとかヴェーラまで事故なくたどり着くことができた。
ヴェーラは人の出入りの多い街だ。この時間に街に来る人間も少なくない。そのため、特に怪しまれることもなく、王都の関所よりもすんなり通ることができた。新婚の旅商人という設定が必要だったかは、甚だ疑問だったが。
レグルスはフードもマスクもしていない。往来に溶け込むには、下手に隠さない方が目立たないということだろう。ステラは国民中に顔を知られているため、もちろんフードを目深に被っている。
街に着いてまず向かったのは宿屋だ。レグルスは馬を二頭引きながら迷いなくヴェーラの通りを進むと、一件の宿屋の前で止まった。大通りから少し外れた場所に位置するこの宿は、大きすぎず小さすぎず、古すぎず新しすぎず、木の温もりを感じる二階建ての建物だ。馬小屋もあり、すでに多くの馬が繋がれ休んでいる。
「あれ、レイモンドの兄貴、こんばんは。誰かとご一緒だなんて珍しい」
宿の前にいた従業員らしき若い男が、レグルスに話しかけてきた。レイモンドという名も彼の偽名だろう。どうやらここは、レグルスの馴染みの宿らしい。
「こんばんは、チャーリー。実は最近結婚してさ。今日は愛する奥さんと一緒ってわけ」
「ええっ!? ご結婚なさったんですか!? おめでとうございます! 一体いつ? どこの誰と?」
「ありがとう。でも、そういう話はまた今度な。今日は奥さんのエスコートに忙しいからさ」
「それもそうですね。馬二頭、お預かりでよろしいですか?」
「ああ、ありがとう。頼むよ。この後、少し街をぶらっとするから、部屋だけ抑えておいてくれると助かる」
「承知しました! 宿代は、まけときますんで!」
「いいよ、いいよ。勝手なことすると、親父さんに怒られるぞ?」
「大丈夫です。これは俺からのお祝いってことで」
「ハハッ! ありがとう。じゃあ、断るのも悪いし、遠慮なく受け取っておくよ」
何やら楽しそうに会話をしているが、よくもまあそんなにスラスラと嘘が出てくるものだ。聞いていてもはや清々しいくらいである。
ステラは呆れと感心の両方を抱きながら、二人の様子を見守っていた。程なくして会話が終わると、レグルスは宿に入ることはせず、ステラを連れて街の中を歩きだした。「少し街をぶらっと」するのだろう。
「宿代を安くしてくれたチャーリー君に申し訳なさがいっぱいだわ」
ステラがレグルスを見上げて非難の視線を向けると、彼は楽しそうに笑った。
「ハハッ! 彼はとてもいい子でね。大丈夫。あの宿にはこれまでに散々金を落としてきたから、バチは当たらないさ」
「ああ、そう。それで、どこに行くつもりなの?」
「この街を出たら、しばらくは買い物ができない。必要なものはここでしっかり揃えよう」
レグルスは宣言通り、最初に大きめのリュックサックを買った後、寝袋や毛布や衣類、食料や飲料、そして包帯や薬草類などを買いそろえていった。ステラもヴェーラの街には何度も来たことがあるが、彼のように迷わず最適な買い物をできる自信はない。レグルスがこの国に潜入したのは今回が初めてではなく、何度も経験があることがよくよく理解できた。
その上、レグルスはあまり物の値段を気にしていない様子だった。合計するとそれなりの金額になるはずで、この調子で買い物をしては今後の逃亡生活の資金が足りなくなるのではと尋ねたのだが、彼は「これっぽっちの買い物で困るほど貧乏じゃないから安心して」と笑っていた。隣国の王城に忍び込むという危険な仕事を請け負っているなら、かなりの報酬をもらっているのかもしれない。
「お嬢さんは、何か買うものある?」
「便箋とペンが欲しいわ。弟に手紙を出したいの」
「わかった。じゃあ、最後に文具屋に寄ってから宿に戻ろう」
もうすぐ二十一時だというのに、往来はまだ賑わいを失っていない。むしろ、夜はこれからだというように、陽気な旅人たちが酒場へと吸い込まれていく。
「こんな時間に出歩くのは初めてだわ」
街の輝きを見て、ステラの胸は自然と高鳴った。
幼いころから王女教育に励んできたステラには、遊ぶ時間というものがなかった。決してつらい日々だったわけではなかったが、人並みと違う人生を歩んでいることは理解していた。
「自由が欲しい?」
レグルスに問われ、ステラはすぐに首を横に振った。
「いいえ。民の笑顔を見るときが、私にとっては一番の幸せなのよ」
今見ている街の輝きも、民の笑顔も、決して失わせてはならないと、己の使命の重さを改めて自覚する。エドウィンを王にしてはならない。キャロライナに政権を握らせてはならない。
「俺は、お嬢さんのそういうところ、本当に素敵だと思う」
思いがけない言葉に驚いて隣を見上げると、深紅の瞳が優しく向けられていた。出会ったばかりだというのに、まるで昔から知っているような口ぶりだ。この男は、誰彼構わずこういうことを言うのだろうか。
その時、正面から歩いてきた男の肩がレグルスの肩とぶつかった。思い切りぶつかられたようで、ステラは心配になり思わず声をかける。
「レグルス、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
レグルスはなんてことないように答えたが、何かに気づいたようにハッと目を開き、すぐに苦笑する。
「ああ、ごめんごめん、説明が足りなかった。今のは俺の仲間ね。ぶつかった時に、あとで宿まで来てくれって伝えたんだ。その時に、弟君への手紙を託そう」
あの一瞬で、そんなやり取りをしていたのかと、ステラは目を丸くした。話しているそぶりはなかったので、何か紙切れでも渡したのかもしれない。
「あなたは、国に仕えているの? それとも、ただ国に雇われているだけ?」
「ううん……前者に近いけど、完全にそうというわけでもない」
なんとも曖昧な返事に、ステラは首を傾げた。しかし、レグルスは笑うだけでこれ以上話そうとしないので、ステラも追及はしなかった。
無事、文具屋で便箋とペンを購入したあと、二人は宿屋へ向かった。街を出歩いている間、ステラは自分の正体がバレないかと終始ひやひやしていたのだが、全くの杞憂だった。皆、自分が楽しむのに忙しいようで、思ったより他人に関心がないのだ。夜の賑わいに紛れられたのも幸いしたのかもしれない。
宿屋まであと五分ほどというところで、大きな酒場の前を通った。店外の席もあり、店の前では顔を赤くした旅人たちが楽しそうに騒いでいる。
「なあ、兄ちゃんもそう思うだろう!?」
突然、酔っ払いの一人がレグルスに絡んできた。店外の席に座っている男たちは、「やめとけよ」と言いつつ揃って笑っている。この男の仲間だろう。
肩を組まれたレグルスは、男の息に顔をしかめた。
「うわっ、酒臭いな、おっさん。なんだって?」
「この国の次期国王は誰かって話だ! 俺はステラ王女に国王になってほしいんだが、残念ながら女だろ? だから俺は、次期国王はエドウィン王子だと思ってる! だとしたらこの国はおしまいだから、次はどこの国で商売しようかって、皆で話してたんだ!」
「……悪い、おっさん。全然笑えねえ」
レグルスの表情は氷のように冷たくなっていた。先ほどまで機嫌よくにこにこと笑っていたのに、あの笑顔は見る影もない。
レグルスは肩に回された腕をどかし、男の体を強めに押しのけた。足元がおぼつかない男は、よろけて尻もちをつき、怒った顔で何やら文句を言っている。しかしレグルスは男に見向きもせず、ステラの手を取って歩き出した。
「お嬢さん、近道しよう」
レグルスはそう言うと、ステラを連れて路地裏へと入っていく。明かりの入らない細い通りに人影はなく、喧騒がどんどん遠ざかっていった。街から漏れ出る光に照らされ、レグルスの背中がぼんやりと浮かび上がっている。
「ありがとう。私の代わりに怒ってくれて」




