39.最後の夜
その日の夜、ステラは明日の出立の準備を終えた後、部屋でひとり、そわそわと落ち着かなかった。
ようやく国に帰れるという待ち切れない気持ちと共に、今夜を逃せば二度とレグルスと話せなくなるかもしれないという焦燥が、ステラの胸を覆っていた。
ここ数日、レグルスは毎晩決まった時間にステラを訪ねてきた。眠る前に彼と他愛もない話をするのが、ステラにとっても日課となっていたのだ。しかし今日は、いつもの時間を過ぎてもレグルスが訪ねてこなかった。
本音を言うと、すぐにでもレグルスの部屋を訪ね、時間が許す限り彼と話したかった。明日にはもう、お別れなのだ。グレイヴ王国に帰って国王となれば、彼と直接会う機会はほぼなくなると言っていいだろう。かといって、自分から夜分に男性の部屋を訪ねるのはなんとも気が引けた。
そういうわけで、ステラはしばらくの間、続き扉の前を右往左往しているのだ。時計の針は無情にも刻々と進み、それがステラの焦りを余計に募らせた。
ついにしびれを切らしたステラは、もうどうにでもなれと、思い切って続き部屋への扉を叩いた。コンコンという音を聞いて、ステラはやってしまったと強い後悔に襲われたが、もちろん取り消すことなどできない。扉はすぐに開かれた。
「どうかした?」
扉の隙間から顔を覗かせたレグルスは、優しく微笑んでいた。それを見ただけで、抱えていた焦りや後悔がストンと消え去る。それと同時に、彼への愛と離れがたい思いに胸を締め付けられる。
ステラは少し話したいと彼に伝えようとしたが、隙間から目に入った彼の部屋の中の光景に、ひやりとしたものを感じた。
レグルスの部屋の床には、やや乱雑に物が散らばっている。衣服に加え、武器や保存食。明日ステラを国境沿いに送るには、過剰な荷物だ。まるで、旅に出かけるかのような――。
「……どこかに行くの?」
ステラは思わずそう問いかけていた。レグルスはどこかバツが悪そうだ。
「ああ、ちょっと、次の仕事があってね。朝早くに出ないといけないんだ。明日はレティシアが付き添うから安心して」
「そう……なのね……」
てっきりレグルスが見送ってくれるとばかり思っていたステラは、深く落胆した。好意を抱いてくれているなら、別れのその時まで、そばにいてくれると思っていたのに。それは驕りだったと、心の中で自嘲する。
わずかに俯くステラに、レグルスは優しく声をかけた。
「散らかってるけど、入る? 最後に少し話さない? 別れがつらくなるからと思って、今夜は会わないでおこうと思ったんだけど、ステラの顔を見たら無理になった」
顔を上げると、レグルスは寂しさを押し殺したような、そんな表情をしていた。
「私も、話したかったの。あなたと」
ステラの答えを聞いて、レグルスは嬉しそうに笑った。
それから二人は、レグルスの部屋のソファに並んで座り、語り合った。旅の思い出話から、互いの昔話まで、別れの日にしなくてもいいような他愛もない話ばかり。まるで二人とも、現実から目を背けているかのようだった。
しかし、ずっとそうしているわけにもいかなかった。時計の針は、着実に零時に近づいている。
「レグルスは明日の朝、早いんだったわね……」
ステラは時計を見てポツリとこぼすと、レグルスに向き直った。
「ねえ、改めてちゃんと御礼をしたいから、何がいいか考えておいてね。私が正式に国王になったら、褒美を受け取りに来て」
レグルスともう一度会いたいばかりに約束を取り付けるなんて浅ましいと、ステラは自分自身に呆れた。だが、浅ましくとも、彼に再び会いたい気持ちは止められなかった。
しかし、レグルスにステラの意図は伝わらなかった。
「口づけをもらったから、それで十分だよ」
「あ、あなたはそれでいいのかもしれないけれど……レティシアさんやレオナルド君にもたくさんお世話になったし……」
「わかった、考えておくよ」
ステラの胸の中に、小さな希望の光が灯る。
これから国に戻れば、ジェイルズ侯爵家の断罪劇にイーサンとの婚約破棄、滞っていた国政の推進など、いくつもの苦難が横たわっている。だが、彼との再会を思えば、頑張れる。
「そろそろ戻らないと、ね」
「俺との別れが寂しい?」
ステラが名残惜しそうに言うと、レグルスがステラの手を握った。彼は相手の心を暴くかのように、ステラの瞳を覗き込む。
彼には誤魔化せないなと、ステラは苦笑する。
「……寂しくないと言えば、嘘になるわ。だって、一か月以上、毎日一緒にいたんだもの」
「俺も寂しい。すごく」
レグルスはステラを引き寄せ、優しく抱きしめた。そして、耳元で囁く。
「俺はずっと、ステラのことを見守ってるから。それだけは、忘れないで」
「……ありがとう、レグルス」
ステラは抱きしめ返し、しばらく彼の胸の中で、じっと心音を聞いた。彼の温もりを感じられるのは、これで最後だろう。
ステラは目を閉じ、未来に思いを馳せた。
(私はグレイヴの王となる。そして、国のため、民のためにこの身を捧げる)
レグルスとの思い出を、胸の中に仕舞う。ステラは覚悟を決め、彼から離れ、立ち上がった。
「最後だから、言うわ」
レグルスの真紅の瞳を、ステラは自分の目に焼き付ける。
「私ね、あなたに惚れているの。自分が王女の立場でなければ、あなたと一緒にいたかった。この先、ずっと」
レグルスは驚いたように目を丸くしつつも、ただ黙ってステラの言葉を聞いていた。彼の瞳がよく見えてたことに満足し、ステラはフッと笑みをこぼした。
「それだけ。じゃあ、おやすみ」
ステラは部屋に戻ろうと、続き扉に向かった。
次に会えるのは、一年後か、十年後か、はたまたもっと先か。この先の人生の中で、もう一度くらい彼に会えたら幸運だ。そんな思いを抱き、ステラはドアノブに手をかける。
――と、との時、突然腕を掴まれた。言わずもがな、レグルスだ。
引き留められると思っていなかったステラは驚き、振り返る。
「今夜は、今夜だけは、王女であることを忘れて、俺と過ごしてほしい」
想い人に熱を帯びた目を向けられ、ステラはその手を振りほどけなかった。――振りほどけるはずがなかった。




