3.王都脱出劇(1)
ステラはレグルスに導かれ、再びバルコニーへ出た。彼は素早く階下の裏庭を確認していたが、暗すぎてステラには何も見えなかった。
レグルスは一度ステラの手を離すと、どこからともなく取り出した鉤付きのロープをバルコニーの手すりに引っ掛ける。何度か引っ張り強度を確認すると、ステラにずいと顔を近づけ、耳元で小さくささやく。
「今から下に降りるけど、絶対に声を出さないでね。できる?」
急な接近に驚き、ステラは思わず一歩身を引いた。男性にこれほどまで近づかれたのは初めてだ。
三年前、十五歳で婚約したイーサンとも、特に男女の触れ合いはなかった。いずれ国を支える王女として日々勉学に励む必要があったことに加え、二年前からは国政の代行で忙しく、そんな暇はありはしなかったのだ。
ステラがこくこくと頷くとレグルスは苦笑した。そして再びステラに近づき、その細い腰に右腕を回す。
「じゃあ、行くよ。しっかりつかまってて」
その瞬間、体がふわりと宙に浮き、ステラは慌ててレグルスにしがみついた。腰に回された彼の腕に力が入り、より一層体が密着する。真っ暗で下は見えないものの、ステラは恐怖でぎゅっと目を閉じた。
レグルスはステラを抱えたまま軽々とバルコニーの手すりを乗り越え、慣れた様子でロープを伝い、下に降りていく。
ほどなくして地面に足が着いた時、ステラはようやく息を吐いた。呼吸を止めていたことにすら気づかなかったほど、緊張していたらしい。
出会ったばかりの、しかも他国の人間に命を預けている自分が、なんとも愚かしく、情けなく、滑稽に思えた。
レグルスはステラの腰から腕を外すと、また耳元で囁いてくる。
「ここからのあてはある? 特にないなら、俺に任せてくれて大丈夫」
「まずは厩舎に行きましょう。移動用に馬が欲しいわ」
王都を出るには足がいる。徒歩で王都を出るには流石に時間がかかりすぎてしまうため、馬がいいだろうと考えていた。馬の世話係である馬丁に事情を説明して、二頭ほど借りればいい。
「大賛成。俺もそうしたいと思ってた。お嬢さんとは気が合うね」
レグルスは目を眇めてそう言うと、ステラの手をしっかりと握り、歩き出す。本当に軽い男だ。
暗闇の中でもレグルスの足取りは迷いがない。よほど夜目が利くようだ。それに、この城の構造を本当によく理解している。
結局、衛兵に一人も会うことなく、厩舎まですんなりたどり着くことができた。
明かりの灯された厩舎には、馬丁が数人。すぐ隣にある馬車庫には、御者が一人いた。この時間だと人も少ない。
ステラが馬丁に馬を貸してくれと頼みに行こうとした時、レグルスに止められた。
「ちょっとだけ、隠れてて」
レグルスはステラを生垣の陰に隠すと、瞬く間に厩舎の中に入っていった。馬丁たちは揃って驚いた様子を見せたが、声を上げる前に、レグルスによってあっという間に倒されてしまった。
(何をやっているの……!)
ステラが思わず生垣から飛び出した時には、レグルスは馬車庫に移っており、御者を気絶させたところだった。
ステラは慌てて馬車庫に入る。
「ちょっと、何やってるの!?」
「大丈夫。顔は見られてないよ」
レグルスは答えながら素早く御者の服を剥ぎ取り、着替えていく。
「まさか、あなた……御者になるつもり?」
「そ。お嬢さんがこんな時間に馬に乗って城の外に出るなんて、流石に門兵に止められるでしょ?」
「それはそうかもしれないけれど……」
何も気絶させなくても、とステラが言った時には、レグルスは御者台に乗り、馬を操って馬車を引き出していた。
「馬と馬車が繋がっていたのは運がいい。すぐに出よう」
厩舎の前まで馬車を出したレグルスは、一度御者台から降りた。そして馬車の扉を開け、ステラを手招きする。
ステラは倒れている馬丁や御者に心の中で謝罪しながら、背に腹は代えられないと馬車の元まで駆けていく。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
恭しく手を差し出すレグルスは御者そのものであり、全く違和感がなかった。元々身に着けていた衣服を今着ている御者の服の下に丸めて隠したようで、体格が一回り大きくなっている。違和感はなく、むしろとても自然に見えた。彼は変装も得意らしい。
ステラが乗り込むと、馬車はすぐに発車した。懐中時計を見ると、十八時二十五分だった。近衛兵たちがステラの部屋に乗り込んでくるまで、あと五分。厩舎から正門まで十分はかかる。
(もし敷地内で捕まってしまったら……)
暗く冷たい地下牢に閉じ込められた記憶が、鮮明に脳裏に蘇る。あの日を思い出すたび、あれはやはり夢ではなかったのだろうと思えてくる。
ステラは無事逃げ切れるようにと祈りながら馬車に揺られた。胸に手を当てると、心臓がドクドクと早鐘を打っているのがわかる。それを無理やり抑えるように、ステラは深呼吸を繰り返した。しかし、時計の針が刻々と進む様を見ていると、落ち着くものも落ち着かなかった。
やがて、長針は六を超え、七に差し掛かろうとしていた。もうすぐ正門だ。
馬車のカーテンは閉め切っているので、外の様子がわからない。しかし、カーテンを開けて顔をのぞかせるわけにはいかなかった。いくら新月とはいえ、顔を見られてはたまらない。
「止まれ」
男の声と共に、馬車が止まった。この声は門兵だ。
「こんな時間に珍しいな。そして、見ない顔だ。所属は?」




