2.軽薄な男
「さすがはステラ王女殿下。頭が切れる。よく俺がヴァルデアの密偵だとわかったね」
そこは嘘でも否定するところだろうとステラは思ったが、話を横道に逸らしたくはなかったので、黙っておく。
「王女様の話、承知したよ。で、城から出た後はどうする?」
男はステラの上から体をどけ、手を差し出してくる。ステラはその手を取り、立ち上がった。
「受けてくれるの? 随分あっさりね。普通は警戒するところでしょう」
ステラが訝しげに片眉を上げると、男はニヤリと目を眇める。
「報酬をもらえるなら、ね」
「ああ、そういうことなら安心して。もちろん報酬は用意するわ。時間がないから今すぐには無理だけれど、私がこの城に帰れた時に、必ず」
男が金目当てとわかり、ステラはホッとした。無償でと言われる方がずっと恐ろしい。こういう相手は、金でつながる方がよほど安心できる。
もしかしたら彼は、ヴァルデア王国お抱えの密偵ではないのかもしれない。金のためならどんな仕事でも受けるフリーの諜報員なのだろうか。
「仕事を受けてくれてありがとう。まずは王都を出ようと思うわ。身の安全を確保してから、この城の内情を確認したいの」
「了解。そういうことなら、一度国外に――ヴァルデア王国に逃げた方がいい。こっちの国の法律で守れる」
なるほど、とステラは頷く。他国にいる人間をこの国の者が好き勝手することはできない。彼の言う通り、身の安全だけを考えるのなら、ヴァルデア王国まで逃げるのが得策だ。だが――。
「それだと内情を探るまでに、随分と時間がかかってしまうわ」
「安心して。王女様を逃がしつつ、並行して仲間に探らせるよ」
この男には仲間がいるらしい。今の言い方だと、彼がリーダーなのだろうか。
すると、男は徐ろにフードを取り、マスクを外した。柔らかそうな黒髪と、端正な顔立ちがあらわになる。
彫りの深い整った容貌だが、その瞳の奥には、まるでいたずらを企む少年のような光が見え隠れしている。耳には瞳の色と同じ深紅の宝石が小さく輝いていた。
年齢は二十歳くらいだろうか。すらりとした体躯は、細身ながらもよく鍛えられていることが見て取れる。
男はステラの前で跪き、彼女の手を取った。そして、目を眇めて笑う。
「改めてよろしく、王女様。何があっても、君を守ると誓うよ」
随分と軽い男だ、とステラは思った。この容姿の良さなら、多くの女性の心を奪い、泣かせてきたのだろう。
「こちらこそよろしく頼むわ。私はステラ・グレイヴ。この国の第一王女よ」
「ハハッ。知ってるよ」
「あなたの名前は?」
「俺は――」
男は一瞬視線をさまよわせた。そしてフッと笑い、立ち上がる。
「俺はレグルス。レグルスって呼んで」
間違いなく偽名だろう。でなければ、答えに詰まることなどない。しかし、彼の本名など些細なことだったので、ステラは追及せず流した。
「王女様って呼ぶと周囲にバレるから、国を脱出するまでは、お嬢さんって呼ばせてもらうよ」
「わかったわ。荷物の準備はできているから、早くこの部屋から脱出しましょう」
「荷物の中身は?」
「最低限の着替えと、宝石類と、護身用の短剣と……あとは国政に関わるものよ」
玉璽と書状のことはあえてぼかした。今は友好国とはいえ、ヴァルデアの人間に情報を与えすぎるのは避けたい。
「宝石の中に、特別思い入れのあるものは? 誰かからの贈り物、とか」
「?」
ステラはレグルスの質問の意図が読めず、首を傾げた。
婚約者であるイーサンからの贈り物が含まれてはいるが、兄嫁に寝返っていた男の贈り物など、気持ち悪くて身につけたくもない。
「贈り物は入っているけれど、別に思い入れがあるものではないわ。道中で売ってお金にしようと思っていたくらいだもの。あいにく、この部屋には現金がなくてね」
ステラが素直に答えると、レグルスは目を細め、なぜか嬉しそうに笑った。
「そっか、よかった。そういうことなら、宝石類は全部置いて行こう」
「どうして? 路銀は必要でしょう?」
「金のことは俺に任せてくれて大丈夫。宝石よりも、動きやすい服はある? 乗馬服とか」
「え、ええ。あるけど……」
ステラは言われるがまま、クローゼットの奥底に眠る乗馬服を引っ張り出した。二年前に国政を任されてから、忙しくて一度も着用していない。
ステラは乗馬服を袋に詰め、代わりに宝石類を取り出した。レグルスが「荷物、持つよ」と言ってくれたが、中には玉璽が入っているので、丁重にお断りした。
「お嬢さん、目立つところに書き置きを残しておこう。敵にお嬢さんは城の中にいると思わせたい」
「わかったわ」
ステラは執務机にあった紙とペンを適当に取り、「調べ物があるので、少し部屋を空けます。すぐ戻ります」とだけ書き記した。この文章であれば、城内の図書室に行ったのか、はたまた書類倉庫に行ったのかわからない。少しは捜索をかく乱できるだろう。
「準備できたわ」
「最後にやっておくことはない?」
レグルスはそう言いながらフードを被り、マスクを付け直した。
いよいよ出発だ。この部屋を出れば、一ヶ月は帰って来られないだろう。いや、もっとかもしれない。
本当は弟のノエルに手紙を残したかったが、書いているほどの時間はなかった。ノエルはまだ王位を継げる年齢でなく、キャロライナから政敵として認定されていない。ノエルはステラが信頼を置く宰相の庇護下にあるため、何かあればきっと彼が守ってくれるだろう。
他に懸念があるとすれば、母のことだ。
「母を残していくことが気がかりなのだけれど……時間がないわね……」
時が巻き戻りステラが生き返ったのだとしたら、母もまた生きているはずだ。
あの夢が夢でないなら、母はこの後、地下牢に囚われてしまうだろうか。しかし、ここで母を探しに行けば同じことの繰り返しになる。それは避けなければならない。
そもそもキャロライナの狙いはステラだ。国政の代行を担うステラが死なない限り、エドウィンが王太子の座に返り咲くことはない。母を狙っても意味がないだろう。
ステラの懸念を聞いたレグルスは、わずかに目を見開いたあと、言いにくそうに口を開く。
「きっと大丈夫だよ。守ってくれる人がいるだろうから」
「……そうね」
ステラはローブのフードを被り、レグルスの双眸を見据える。
「覚悟ができたわ。行きましょう」
「了解。じゃあ、お嬢さん、お手を」
差し出された手を、ステラは意を決して取った。この城に、必ず帰ってくると誓って。




