1.二度目の人生
時計の針が時を刻む音。落ち着いた花の香り。重厚感のある執務机に、山盛りの書類。
「え……?」
ステラが意識を取り戻した時、目の前には見慣れた光景が広がっていた。ここは自分の部屋で、今は執務机に向かって座っている。
書類に目を落とすと、四日前の日付が書かれていた。内容も見たことがあるものだ。近衛兵に捕らえられる前、まさにこの書類を片付けていた。
「巻き戻ってる……? いや、あれは夢だったの……?」
ステラは混乱した。
この世に魔法など存在しない。しかし、あれは夢というにはあまりにリアルすぎた。今でも地下牢のかび臭い匂いと、鉄格子の冷たさを鮮明に思い出せる。
懐中時計を見ると、十八時を指していた。近衛兵が来る、ちょうど三十分前だ。
ステラは懐中時計を見たまま固まった。心臓が嫌に早く鳴っている。
「時間が巻き戻るだなんて、馬鹿げてる……。でも、もし本当にそうだったら……」
その時、ステラはふと、母の言葉を思い出した。
『生きて、あなたがこの国を救うのです』
ステラはハッとした。
このまま近衛兵が来なければ杞憂で済む。ただの夢だったと、一蹴すればいい。だがもし、もし本当に、同じことが繰り返されたら――。
「あと三十分しかない」
そこからの行動は早かった。
ステラは最低限の着替えと、金になりそうな宝石類、そして護身用の短剣を袋に詰めた。それから、国王が残した書状と、玉璽も入れる。最後に、姿を隠せるよう、フード付きのローブをドレスの上から羽織った。
「問題は、ここからどうやって脱出するか、ね」
ステラはまず、敵の巣から逃げ出そうと考えた。もしあの夢が夢でなく現実に起こることなのだとしたら、近衛兵に捕まったら最後、地下牢に入れられて同じ末路を辿るだろう。一度城を出て様子を見て、問題がないことが確認できたら戻ってくればよい。
「城内を歩くのは……危険よね」
廊下に出れば、近衛兵たちに見つかる可能性が高まる。誰かに助けを求めることも考えたが、そもそも誰が味方かわからない。婚約者のイーサンでさえ、敵側だったのだ。
ステラは仕方なく、バルコニーから脱出することにした。窓辺に行くと、外には真っ暗な闇が広がっている。
「今日が新月で助かったわ。建物の外へ出さえすれば、なんとかなりそう。うん、きっとそう」
ステラは自分を勇気づけるために、あえて声に出した。そうしないと、震えて身動きが取れなくなりそうだった。
「ここは二階だけれど、カーテンをバルコニーの手すりに結んで伝っていけば、降りられるかしら」
ステラは高さを確認しようと、一度バルコニーに出た。曇り空で星も見えず、建物から漏れる明かりしかないため、すぐ先は真っ暗闇だ。
一、二歩進んだところで、ステラは暗闇の中に赤い光を見た。
深紅に輝く、まるで宝石のような、二つの光。
それが誰かの瞳だと理解した時には、ステラは明るい部屋の中に戻っていた。視界には、天井とナイフ。そして、自分の上には闇を切り取ったような男が馬乗りになっていた。ステラの口は男の手によって塞がれている。
どうやら一瞬のうちに、この男に部屋に連れ込まれ押し倒されたようだが、不思議と痛みも衝撃も感じなかった。
(……誰!? キャロライナ様側の刺客? いや、それならとっくに首を斬られているはず。そうでないなら……)
男は黒いローブをまとっており、フードの隙間から少し癖のある黒髪が覗いている。口元から鼻の上までは黒い布で覆われており、唯一、深紅の瞳だけが現れていた。切れ長の目は若々しく、その形のよさから、きっと端正な顔立ちなのだろうと推察できる。
男は苦笑を漏らした。
「まさか王女様に見られるなんて、ツイてない。ちょっと静かにしててね。大丈夫、君を傷つけたりはしないから。眠っててもらうだけ」
さわやかな声からも、男の若々しさが感じられた。
男は一度ステラの目の前からナイフをどけると、代わりに小瓶を服から取り出し手に取った。中には液体が入っている。先ほどの発言からして、眠り薬だろう。
ステラは一瞬の隙をついて、口をふさぐ男の手を思いっきり噛んだ。男は声も出さず驚き、一瞬手を引っ込めたが、すぐにまた口をふさごうとしてくる。
ステラはすかさず物凄い剣幕で訴えた。
「私をこの城から逃がしなさい!」
男の手が空中でピタリと止まる。彼の目が大きく見開かれ、その深紅の瞳がよく見えた。
「……は?」
「あなた、ヴァルデア王国からの密偵ね? であれば、私を助けることにメリットはあるはずよ。あと十五分もすれば、私を捕らえにキャロライナ様側の人間が来る。そうなれば、私は無実の罪で殺され、間違いなく兄のエドウィンが国王になるわ。どういうことか、わかるわね?」
ヴァルデア王国は、数十年前までこの国と戦争をしていた西の隣国だ。
今は和平が結ばれ、表面上は平和が保たれているが、相手国の動向を探るためにこうして密偵が送り込まれることがある。もちろんグレイヴ王国もヴァルデアに密偵を送っているので、この男を取り立てて責めることはできない。城に侵入されたことは恥じねばならないが。
ヴァルデア王国が関心を寄せているのは、グレイヴ王国の次の王が誰になるのか、ということ。
エドウィンが国王になってしまえば最後、間違いなく二国の友好関係が崩れてしまう。エドウィンは酒で判断力が鈍りまともな判断などできないだろうし、彼の妻であるキャロライナの後ろには、財務大臣のジェイルズ侯爵が控えている。ジェイルズ侯爵は、好戦派として有名だった。
グレイヴ王国の大半と、またヴァルデア王国もステラを女王にと望んでいるが、あいにく、女が国王になれるという法律はこの国に存在しない。だからステラは、「国王の代行者」というもどかしい立場にいるのだ。
そんな状況だからこそ、自国の王城内の人間よりも、ヴァルデア王国側に助けを求めた方が、よほど安全なはず。ステラはなりふり構っている場合ではなかった。
ステラの言葉に、男は満足そうに笑う。




